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あの夏で困ってる

 夕日が沈み、少したった頃だった。


「ふにゃ~~~~~~~!?」

「っ!?」


 家中へ響く悲鳴。

 無視できない叫びに飛び起きたのは、端正な顔立ちの青年である。


 清潔そうな黒髪とすっきりとした目鼻。中背だが引き締まった肉体は薄青のワイシャツとタイトなパンツに飾られ、モデルと言われれば大抵の人間は信じてしまうだろう。


「な、なんだ?」


 彼――伊達一護は読みかけの小説を放り投げ、慌てて立ち上がった。ベッドのスプリングが軋んだ音で抗議してくるが、無視して階段までダッシュする。


(何があった?)


 先ほどの悲鳴は妹のものだった。

 優秀でよく気がつく娘だが、線が細く体も弱い。仮に暴漢でも押し入ってくれば、大して抵抗も出来ないだろう。


「雪音、どこだっ!」


 何事もなければそれでいい。

 だが可愛い妹に何かあれば、下手人は八つ裂きにしてやる――それほどの決意と覚悟を秘めて一階に下りた一護だったが、しかし結果から言えば、それはまったくの杞憂だった。


「うう……お兄ちゃあん……」


 涙声で姿を見せた妹――伊達雪音。


 とりあえず無事ではある。

 いや、あの姿を無事と表現していいのだろうか。少なくとも一護は唖然としてしまったのだが。


「……お前、それ……」


 一言でいえば、大洪水である。

 完全にびしょ濡れ、これぞ濡れ鼠ってくらいの有様だった。


 陽光を照り返す細やかな茶髪も、アイドル顔負けの容姿も、可愛らしいフリルのついたキャミソールも、雪音にしては珍しい活動的なショートパンツも――体から服まで、彼女を構成するあらゆる部分が水に濡れている。


「……うう。お風呂入れようとしたら、いきなり……」

「風呂? うわ、なんだこりゃ!?」


 何の気なしに風呂場を覗き込むと、蛇口が完全にバカになり、四方八方に水が溢れていた。まさに暴発、雪音はあの直撃を食らったのだろう。


 そりゃ濡れ鼠にもなるわ。


「……ちょっと着替えて来い。その間にアレは止めとくから。いくら夏でも風邪引くぞ」


 精神衛生上もよろしくないしな。

 水色の下着が透けているぞ、マイシスター。


「うう……ごめんね、お兄ちゃん……」

「気にするな」


 涙目の雪音が着替えに行ったのを見届け、一護は上着を脱いで風呂場へ入った。濡れないのは無理にしろ、出来るだけ被害は減らさなくてはならない。


「うっわ冷て!」


 蛇口だけでなく給湯器まで壊れたのか、嫌がらせのような冷たさだった。

 ばっしゃばっしゃ放たれる水弾機関銃(ウォーターマシンガン)は、人類への反逆なのか――滝行のように全身ずぶ濡れになってようやく、蛇口を捻ることに成功する。


 水圧はかなりのものだったが、蛇口は思ったよりも緩かった。それでもしばらくは出続けていた水もやがて力尽き、ようやっと風呂場へと平穏が戻る。


「……くっそ、すげー濡れたな」


 とはいえ、盛大に水を被ってしまった。

 風呂上りと言われても納得してしまうレベル。違いは下だけとはいえ服を着ていることと、浴びたのがお湯じゃないことくらい。


「トランクスまで濡れてるよ……こりゃ着替えなきゃダメだな」


 雪音に忠告しておいて、自分が風邪引いたのでは笑い話だ。

 幸いにして寝巻きのジャージは脱衣所にあるし、さっさと着替えてしまおう――。


「よっこらせっと」


 ズボンを脱ぐ。

 がらりと扉が開く。

 ひょっこりと雪音が顔を出す。


「おにいちゃ~ん。お風呂ど……う……?」


 妹がトランクス一丁の兄貴と対面する。←今ここ


「にゃーーーーー!?」


 反応は劇的だった。

 まさしく瞬間沸騰。猫を思わせる悲鳴と共に、雪音がちょっと心配になるくらい赤くなる。


「ご、ごごごごごごめんなさいお兄ちゃん!」

「いや、そんな謝ることでも……」

「わ、私のも見ていいから! 許して!」


 動揺がピークに達した雪音が大胆にTシャツを捲り上げ、先ほどとは違う色の下着と、意外なほど豊かな胸が露わになった。細身のくせに出るところは出てるとか反則過ぎるだろう。


「じゃなくて、脱ぐなバカ!」


 慌てて妹の両腕を掴み、Tシャツごと強引に下ろさせる。


 やばかった。

 色んな意味で。


「で、でもお兄ちゃんの見ちゃったんだから、私のくらい……」

「私のくらい、とかいうな」


 破壊力抜群だったぞ。


「で、でもお兄ちゃんは、は、はは裸だよ!?」

「裸じゃない、半裸だ。間違えるな雪音。それじゃ俺、ただの変態だろ」


 いや、まぁパンツ一丁で雪音の両腕を掴んでいる時点で、充分変態に見えるかもしれないけども。


「男はトランクス履いてれば、別に恥ずかしくない。だから気にするな」


 世の男子諸君は別な意見があるかもしれないが、少なくとも一護はそうだった。水着と変わらんし、まるで問題ない。


「とりあえず落ち着け。いいな?」

「う、うん……がんばる……」

「出来れば結果で出してくれ」


 不安な口ぶりだったが、このままでは何も始まらない。雪音の手を離し、一護はそそくさとジャージを履いた。トランクスのせいで若干湿っていたが、このくらいなら許容範囲だろう。


「一応、水は止まったぞ。蛇口捻ればまた同じ状態になるだろうし、給湯器も壊れたっぽいから、要修理だけどな」

「うん。明日業者さんに電話するけど……給湯器も?」

「蛇口はお湯が捻ってあって、出てたのは水。まぁお湯が出てたら全身火傷だったから、不幸中の幸いだけど」

「そっか……ごめんね、お兄ちゃん。私の不注意で」

「別にお前は悪くないだろ。事故だから気にするな」

「……うん。ありがとう」

「礼を言われることでもないっての」

「んぅ」


 頭をぐしぐしと撫でてやる。湿っているせいか、いつもと違う感触が新鮮だった。


「さて、今日の風呂のこと考えないとな……入りたいだろ?」

「う、うん……汗かいちゃってるし……」

「夏だからな。そりゃ仕方ないさ……あいつらに頼むか」


 こういう時こそ幼馴染の出番である。

 徒歩十秒という好立地、最大限利用させてもらおう。着信履歴から呼び出すこと、暫し。


『もしもし~?』


 電話口から間延びした声が聞こえてきた。


 幼馴染その一、八重葉風見である。


「もしもし。風呂壊れちまってな。今日だけ貸してくれないか?」


 挨拶もそこそこに一護は用件を切り出した。こと幼馴染相手では遠慮なんていらない。相手もそれは同様で、いきなりの話に面食らうこともなく、あっさりと返答があった。


『お風呂~? うん、手伝ってくれるならいいよ~?』

「手伝うって……おばさんのか?」


 しかし、脳裏へ走る嫌な予感。

 思い出されるのは封印した記憶。何年か前、夏冬二回開催される(らしい)超ビックイベント用の薄い本を、徹夜でひたすらカリカリ手伝わされた――。


『そ~。今、ちょうど作業中なんだ~。ちなみに〆切が明日の朝で、後十六ページ――』


 一護は即座に電話を切った。

 一時的に風見の携帯を着拒設定し、額の汗を拭う。


「お、お兄ちゃん?」

「風見はダメだ。カモネギになる」

「ふぇ?」

「お前は知らんでいい。鷹は……………………ダメか」


 二人目は電話にすら出なかった。

 よくあることだ。今回も電話を携帯していないのだろう。それ携帯電話ちゃう。


「っつーと、葵だな……さて、出るかね」


 最後の幼馴染へプッシュ。これでダメだったら銭湯かと思ったが、その心配は杞憂に終わった。


『はいはーい』


 風見とは正反対の、快活で気安い声。

 紛れもなく幼馴染その二(電話は三番目)、神楽葵の声だった。


『どったの兄貴? ゆっきに手ぇ出しちゃって匿って欲しいのかにゃー?』

「誰がだふざけんなよコノヤロウ」


 注記、性格に難あり。


『にはは、冗談だってば。兄貴はYes妹、Noタッチだもんねー?』

「そんなスローガン掲げた覚えはねぇよ」

『え? じゃあお触りアリなの? うっわ、予想外だょ……』

「……なんで俺、お前に電話かけちゃったんだろうな……」


 本気で後悔しているんだが、葵は電話の向こうでケラケラ笑っていた。どうにか伝える方法はないものだろうか。急募するから、誰か教えてくれ。


『で、何の用?』

「うちの風呂が壊れたんだよ。お前ン家で入らせてくれないか?」


 ……しかし、本題に入れば話は進むもので。


『兄貴とゆっきっしょ? いいょー。今日は一人で留守番だし、適当に来てくれれば』

「おう。ンじゃ飯食ったら行くわ」

『あいあーい』


 わずか数秒で予定が決まった。この辺の呼吸は我ながらちょっとしたものである。


「聞こえてたか? 雪音」

「うん。葵ちゃんのところで入るんだよね?」

「そそ。ちょっと早めに飯食ってくか」

「はーい」

「うむ、いい返事だ」

「えへへ♪」


 再びなでなで。

 ちょっと落ち込み気味だったし、暫くこうしててやりますか。


◆◇◆◇◆


 それから暫し。


「来たぞー」

「こんばんわー」


 少し早めの夕飯を終えた伊達兄妹は、着替え持参で葵の家へやってきた。

 挨拶への返答はなかったが、葵一人だけならいつものことである。勝手知ったるなんとやら、さっさとお邪魔してリビングへと顔を出した。


「来たぞ、葵」

「お邪魔しまーす」

「いらっしゃーい」


 鮮やかな青のショートヘアに、きらきら輝く紺碧の目。適度な日焼けをした肌はスポーツ少女の証明、幼馴染一気安い少女――神楽葵はしかし、入ってきた二人を見向きもしない。


 ソファーに座ってテレビを見ながらアイスを食べるリラックスぶりだ。一護達は家族と同じと思っているのだろうか。少なくとも客ではない。


「あ、葵ちゃん。凄い格好だね……」

「んー? 暑いんだょ」


 雪音が若干引く葵の服装はというと、黒のブラトップにデニムのホットパンツだった。活動的な元気娘に似合ってはいるのだが、色々なところが必要最低限しか隠れていない。


「今日はヒッキーの日だったし、まぁいっかって……兄貴、興奮する?」

「アホ」


 ようやくこっちを向いたかと思えば、にやつきながらの流し目である。


 正直、胸の谷間やら健康的な生足やら、目のやり場に困ってるけど、死んでも言わねぇ。


「まー、大事なトコは隠してるし。問題ないょ」

「……うう。お兄ちゃん、あんまり見ちゃダメだよ?」

「無茶言うな。そっぽ向いてろっていうんかい」

「う~」

「拗ねるなっつーの」

「で、兄貴。お風呂だけど、どうする? すぐ入る?」


 埒が明かないと思ったのか、葵が話を進めた。

 とりあえず拗ねた雪音は頭を撫でて応急処置。ちょっとだけ機嫌が良くなったのを確認し、一人用のソファーへと腰掛ける。


「どうすっかな。お前は入ったのか?」

「……よいしょ(ぽふ」

「まだだょ。このテレビ終わってから入ろうと思ってたし」

「そうか。ンじゃ、その後に入るかね。流石に一番風呂は気が引けるし」

「……(すりすり」

「別にいいけどにゃー」

「借りるだけでもありがたい。それ以上は俺の気持ちの問題――」

「えへへ♪」

「……雪音。何してんだお前は」

「んぅ?」


 限界だった。

 一護が占領したソファーの肘置きに腰掛けたのはまだいい。行儀は悪いが、それくらいならあえて突っ込まなかった。


「何で俺の頭を抱っこした挙句、頬ずりしてんだよ」

「だ、だって……お兄ちゃんの髪の毛が気持ちよかったんだもん……」

「どんな理由だ……」


 仮にも人の家で甘えん坊にも程があるだろう。

 いや怪我の功名というべきか、不機嫌は完全に直ったみたいだけど。


「いちゃいちゃすんなら家でやってょ。うっとうしいなぁ、まったく」


 逆に葵が頬を膨らませて、解りやすく不機嫌になった。すまんすまんと何故か一護が謝りながら、丁寧に雪音を引き剥がす。


「む~」


 流石の甘えん坊も、家主に注意されてはどうしようもなかった。不満そうに声はあげたものの、大人しく別の椅子へと腰掛ける。


「で、そのテレビ何時までなんだ?」

「十一時」

「遅くね!?」

「五時間の特番だから仕方ないょ。なに、兄貴、前言撤回とかしちゃうの?」

「……ハメやがったなこいつ……」

「あっはっは。冗談冗談、テレビは切りのいいところで止めるょ。せっかく兄貴達が来てるのに、遊ばないのもつまんないしねー……ってゆーか、お風呂入るだけじゃなくて泊まってこーょ。むしろ泊まれ。その方が楽しい」

「……お兄ちゃん、どうする?」

「寝れなくなるから却下」

「寝れなくなるまで……あたしに何をする気なのさ!」

「黙れアホ!」


 くねくねするな、胸を寄せるな。大股開くな!


 完全に遊ばれていると感じながら、一護は土産を投げつけた。結構な速度で飛んでいったペットボトルを、しかし葵は片手で悠々キャッチする。


「にっしっし。サンキュー」

「無駄にハイスペックだから手に負えねぇ……」

「あはは……」


 まだ数分のはずなのに、どっと疲れた。

 背もたれに思い切り体重を預け、天井を見上げる。


 魂まで出そうな勢いだったが、不意に葵が立ち上がって顔を覗かせた。


「さて、そんじゃ兄貴。テレビも一区切りしたし、お風呂入ろっか」

「は?」

「ほらほら、早く速く疾く。時間は有限、待ってなんかくれないょ!」

「え? お、おま、ちょ、ちょっと待て!?」


 手を引かれて立ち上がる。

 抗弁はしてみたものの、いきなりすぎて抵抗は弱々しかった。葵に導かれるままリビング、廊下、そして風呂場へと連行される。


「さ、そんじゃ入ろっか」

「ちょっと待てええええええええ!!!」

「うわ、ビックリした。何さ兄貴?」

「何じゃねぇよ! お前が何なんだよ!」


 ナチュラルに脱ごうとしてんじゃねぇ!


「え、でもほら。一緒に入ればその分、遊ぶ時間増えるじゃん?(ドヤァ」

「馬鹿だろ、お前実は物凄ぇ馬鹿だろ!」

「失礼な! 大体、ゆっきだってそこにいるじゃん!」

「はぁ!? 雪音がいるわけ……って本当にいるし!? お前まで何してんだよ雪音!?」

「だ、だって……葵ちゃんばっかりずるいよ……!」

「ずるいって何!?」


 初めて見るキャラだぞマイシスター!?


「あっはっは。そんじゃまー、三人で入る? あたし的にはゆっきは待っててくれていいけど?」

「あはは。私だけ仲間はずれなんて酷いなぁ、葵ちゃん。冗談きついよ?」

「いや、待て。少し待て。ちょっと空気がギスギスしてるとか、仲間はずれとかそういう問題じゃない。冗談でもない。お前らだけ一緒に――」

「どっせー!(ぽろん」

「……よいしょ(ぬぎっ」

「だ・か・ら・! 脱・ぐ・んじゃねぇええええええ!!!」


 絶叫が木霊する。

 誰もが思うだろうが、一護もまた思った。


 ああ、まったく。

 今日は長く――そして疲れる夜になりそうだ……!

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