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愛を贈る日

 バレンタイン――聖ウァレンティヌスに由来する記念日。

 一般的な祝日ではないが、クリスマス同様に広く認知されているイベントデーだ。


 男性が女性への贈り物をする国もあれば、宗教的な理由で禁止されている国もある。

 しかし、その本質はひとえに“愛を誓う”こと――極めて恋愛色が強く、男女悲喜こもごものイベントといえるだろう。


 特に日本においてはその傾向が顕著だった。


 意中の相手に感謝と真心をこめてチョコレートを送り、愛を伝える。

 逆に言えば、この日に何もなければ、恋が実らない可能性は高いわけで。

 長々と語ってきたわけだが、そんなことは改めて説明されるまでもないことで。


「……あう。どうしよう……」


 それは充分すぎるほどに彼女も解っていた。


 細やかで美しい茶髪、白磁のように透き通った綺麗な肌。麗しい桜色の唇と愛嬌のある大きな瞳。そんじょそこらのアイドルでは太刀打ちできない可憐な少女、伊達雪音は――今、かつてないほどに悩んでいた。


「ううううう…………」


 悩みの種は、目の前に散乱するお菓子の山。

 ケーキにクッキー、アイスにクレープ。種類様々だったが、キッチンにうず高く積まれたそれは、雪音の手によって姿を変えられたチョコレートの成れの果てだった。


「……あむ」


 出来上がった作品をつまんでみる。


 口の中で優しく広がった甘みと深みは外見と同様、高級品といわれても差し支えのないレベルだった。仮に女の子が食べれば美味しさに顔を綻ばせ、どこで売っている物か聞いてくるに違いない。


 しかし――。


「これも……だめ、かぁ……」


 それほどの出来であるにも関わらず、雪音はしょんぼりと肩を落とした。

 今しがた味見を終えたブラウニーを“風見ちゃん行き”と書かれたプレートの上へと移し、さらに高くなった山へため息をつく。


 お昼前から始めた作業は既に五時間近い。出来上がった作品も、アレンジまで含めれば十種類以上にのぼっていた。学生としては驚異的な集中力と料理の腕を持つ雪音だったが、流石に疲労が色濃く出ている。


「次……どうしようかな……」


 しかし休むつもりは毛頭なかった。特製のレシピ本を指先でなぞりながら、続いて試すべきお菓子をチョイスする。その瞳は真剣そのものであり、いっそ鬼気迫るものがあった。


(これは一昨年のだし、こっちはあんまり甘くないから好みに合わないし……)


 だがそれも当然だろう。

 なにせ、バレンタインデーまで一週間足らずしかない。


 料理の腕があっても何を作るか決まっておらず、試作品に納得もいっていないとなれば必死になるのも当たり前だ。大好きな相手に食べてもらう料理は全力で、しかもこれ以上ないほど美味しく作り上げるというのが雪音の哲学である。


 ましてバレンタインの贈り物ともなれば、愛情に見合ったものでなければ意味がない。


 昨日より今日の方が好きになっている。

 今日よりきっと、明日の方が好きになっているというのに、妥協したチョコレートで気持ちを示すなんて出来るはずもなかった。


「……うん、これにしよう」


 己の使命と一緒に愛しの笑顔を思い出し、元気充電。

 選んだジャーマンケーキはあまり作ったことがないけど、そういう方が喜ばれるかもしれない。


 まずはチャレンジ。味見をして駄目だったら、また次を考えよう。


「えーっと……チョコチョコ、と」


 今度こそはと気合をこめて、雪音はチョコレートの入った袋へ手を伸ばし――。


「ほぇ?」


 何も掴めなかった事実に首をかしげた。きょとんと中を覗き込んでみれば、ものの見事に空っぽである。お店で大量に買い込んできた素材用チョコレートは、華麗にお菓子へと転生を遂げていた。


「……あぅぅ」


 ショックを隠せない。今回は難航すると解っていたので、チョコレートは結構な金額をつぎ込んで大目に買い込んだ。これだけあれば、納得のいくものも出来ると見込んだ量だったのに、現実は容易く雪音の想像を凌駕したのである。


「買いに行かなきゃ……」


 単純なミスに落ち込む暇もないのだ。傍目から見れば間違いなく凹んでいるだろうが、雪音は気丈に立ち上がる。多分、月末になると食費が逼迫すると思うが、手間と味付けで何とかしよう。


 ――と主婦丸出しの考えで雪音が立ち上がった、まさにその瞬間。


「ただいまー」


 聞きなれた声が玄関から響いてきた。

 心にしみる綺麗な音。間違えようのない、愛しい人の声だ。


「うにゃ!?」


 しかし普段なら喜ぶばかりのその声も、今日に限っては別である。

 いや、嬉しいと思う気持ちも当然あるのだが、今日はそれ以上にやらなければならないことがあった。


「ん? 誰もいないのかー?」

「あ、う、いるよ~! ちょ、ちょっと待ってて!」

「……何で待つ必要があるんだ? 俺」


 疑問を感じながらもとりあえず受け入れてくれたらしい。


 雪音はわたわたと慌てながら、しかし熟練した手捌きで片付けを開始。ボウルやお鍋、お玉などを洗い場へと突っ込み、テーブルいっぱいに広がったお菓子は死角になる部分へまとめる。計量器や銀紙は見栄えを壊さない程度に、一箇所に押し込んでおいた。


 本当は全部綺麗にしてしまいたかったが、想い人を長い時間待たせるというのは、雪音にとって我慢できない蛮行なのである。


「お、お待たせしました!」


 十秒足らずで最低限の処理だけを済ませ、雪音は玄関まで駆け抜けた。

 目的地でぼんやりと突っ立っていた青年を見て、今度こそ感情のまま彼女の顔が綻ぶ。


「ん。早かったな」


 一言で表現するなら、好青年だ。


 野暮ったくならない長さの黒髪、意思の強そうな瞳、綺麗に通った鼻筋。口元こそマフラーで隠れてはいたが、それでも整った顔立ちは少しも隠せていなかった。中肉中背だが姿勢が良いから身長も高く見えるし、タートルネックにダッフルコートという気の抜けた格好であっても、恐ろしいほどに似合っている。


(か、かっこいい……♪)


 相変わらず完璧だった。

 少なくとも雪音にとっては、彼以上の姿形など想像もつかない。ついでに、雪音お手製のマフラーと手袋もつけてくれているのもポイントが高かった。


「何かやってたのか?」

「あ、う、うん。ちょっと台所が汚かったから、お掃除してたの。お兄ちゃん」


 慣れた様子で――当然だが――家にあがる彼の名は伊達一護。

 れっきとした雪音の兄であり、そして彼女が恋焦がれている相手でもあった。


「そっか。ご苦労さん。良ければ、俺も片付け手伝うけど」

「にゃ!? だ、大丈夫。もう終わるから」

「そうか?」


 会話しながらもリビングへ歩を進める一護。彼の邪魔にならないよう気をつけながら、雪音も横へ並んだ。蒸し返されないよう(台所を見られないよう)に注意を払い、話題を強引に変更する。


「で、でもお兄ちゃん。急にどうしたの? 確か今日はお出かけだったよね?」


 昨日の夕食時にそう言っていたはずだ。

 だからこそ昼間からチョコ作りが出来たわけだが、まさか当人がやってくるとは想定の範囲外である。


「ああ。そのつもりだったんだけど、さっき親父から電話があってな……今日は出かけるから、すぐに戻って来いって。まぁぶらつくだけの予定だったし、別に今度でいいかと思って」

「そ、そうなんだ……」


 ひくりと口元が動く。

 知らず知らずの内に、雪音は天井を通して二階へと恨みがましい視線を送っていた。


(お父さん……!)


 見えないが、そこは父親の部屋である。

 きっと根を詰めすぎだとか、そういうことを言いたいのだと思うが――いくらなんでも一護を呼ぶのはデリカシーがなさすぎだ。乙女の怒りは夕飯のメニューに影響します。


「そういや親父は? まだ出かけてないのか?」

「んぅ? 多分……私、ずっと台所にいたから解らないけど……」

「そっか。そういえば、甘い匂いがするな……掃除ついでに、何か作ったのか?」

「ふに!? か、風見ちゃんに頼まれて、おやつ作ったの!」


 咄嗟に口からでまかせが出た。いや、今日作った物の大半が風見のお腹に消えることを考えれば、まったくのデタラメというわけではないが。


「……あの食欲魔人は、まったく。雪音。嫌なら断れよ? 何なら俺が言ってもいいし」

「う、うん。大丈夫だよ。今回はその、私から頼んだことの御礼みたいなものだし……」

「ならいいけど……っと、流石に中は暑いな。飲み物は――」

「わ、私が取ってくるね! お兄ちゃん、コーヒーでいい?」

「ん? ああ、悪い。頼んだ」

「は~い」


 さりげなく一護をソファへ座らせて、雪音はキッチンへと向かう。


 危なかった。冷蔵庫の位置からだとお菓子の山が見えてしまう。

 鈍感な一護のことだし一つ二つなら気づかないかもしれないが、チョコレート菓子ばかりが広がっていれば流石に察するだろう。


「よいしょ……っと」


 まぁそれはそれとして、コーヒーを淹れる雪音の声は弾んでいた。


 どんな些細なことも一護の世話なら楽しいし、このコーヒーはきっと気に入ってくれる珠玉の出来だ。どうせならバレンタインもこれくらい上手に出来ればいいと思うくらいに。


(……そうだ。どうせなら、試してみよう)


 風見用と銘打ったお菓子の中から、クッキーだけを大皿へ移す。

 これならチョコレートだって意識しないだろうし、バレンタインには足りなくとも、日常的なお菓子作りでは満足できるレベルだ。


 カモフラージュとして市販品の茶請けも用意して、準備は万全。


(よし)


 一つ頷くと、雪音はリビングへ戻った。


「はい、お兄ちゃん。ごめんね、待たせちゃって」

「別に待ってないから気にするなって……ん? 茶菓子もか?」


 一護の目が大皿へ移る。

 内心の動揺を悟られないように気をつけながら、雪音は冷静に言葉を紡いだ。


「う、うん。本当は夕飯の後にでもって思ってたんだけど……戻ってきてくれたし、ちょうどいいかなって。一緒に食べよ?」

「風見の分は?」

「大丈夫。ちゃんと確保してるよ」


 クッキーじゃないけど。


「ならいいか。いただきます」


 律儀に手を合わせ、一護の手がクッキーへ伸びる。スローモーションのようにコマ送りとなる風景、いくら料理を振舞っても慣れることのない一瞬。


「うん。美味い」


 その感想に、雪音の口から安堵が漏れた。満足そうに二枚三枚と続けて頬張る兄の姿へ緊張が解けてゆくのを感じる。


「……えへへ。良かった」

「いつもだが、この味で何を心配するのかが解らん。自信持てっつーに」

「食べてもらわないと、本当に安心できないんだもん」


 雪音も小さくクッキーを齧った。一護と食べると味見の時よりも遥かに美味しい。戒めておかないと、うっかりクッキーをバレンタインに渡してしまうくらいに。


「そんなもんか……しかし本当に美味いな、これ。うん。コーヒーも美味いし、言うことなしだ。褒めて遣わす」

「ふに~♪」


 褒美代わりに、ぽんぽんと軽く頭を撫でられた。

 一護の手から優しさが染み込んでくるようで、表情が幸せに緩んでいく。ご機嫌メーターがあれば振り切れそうなくらいだ。


「しかし、お前のクッキー久々に食べた気がするな」

「んぅ? そうかなぁ?」

「ああ。最近、レパートリーが増えたからって凝ったのが多かっただろ? たまにはこういうのもいいよな」


 まぁ、毎日じゃ飽きるけど――と冗談交じりに続ける一護だったが、その表情は紛れもない笑顔。大好きなその顔に、雪音は思わず固まった。


(……そっか)


 そういうことだったのだ。


 前言撤回。

 今日のお夕飯は、ちょっと豪華にしてあげよう。


「ん? どうかしたのか?」

「んーん。なんでもないよ」


 晴れやかな気持ちで微笑む。

 一護は少しだけきょとんとしたが、すぐに変なやつだなと笑ってくれた。


 あったかい気持ちが、笑顔が、雪音の心を存分に満たしてゆく。


「ねぇお兄ちゃん。膝枕してもらっていい?」

「……いきなりだな」

「だめ?」

「……いいよ。少しだけなら好きにしろ。クッキーの礼だ」

「うんっ♪」


 躊躇なく雪音は体を預けた。

 満面の笑みで一護を見上げながら、心の中で思う。


 方向性は見えた。あとは実際に作った結果になるけど――今日はもう作業が出来そうにないし、ならば存分に甘えてしまおう。


 一護への愛情を充分に感じるために。

 精一杯の贈り物が出来るよう、自分の想いを確かめるために。


◆◇◆◇◆


 そして月日は流れ――。


「はい、兄貴、でっかいの。チョコだよー」

「わたしも~」


 バレンタイン当日。

 一護は学校へ向かう道すがら、幼馴染の神楽葵と八重葉風見より、チョコレートを受け取っていた。


「おう。ありがとな」

「サンキュー」


 同じく幼馴染の月都鷹と共に礼を言う。

 毎年の恒例行事、義理チョコとはいえ貰えるのは素直に嬉しかった。


「にっしっし。ホワイトデー、よろしくね?」

「よろしく~! 期待してるYO~!」

「葵はともかく、チロルよこした奴のセリフじゃねぇな……」

「同感」


 一個十円のチョコレート、三倍返しでも三十円である。いい方に考えれば、風見はお財布には優しい女なのかもしれなかった。


「そういえば、今日ってゆっきーは?」

「日直だってさ。朝の準備してくれた後、急いで出てったぞ」

「珍しいね~?」

「だな」


 ここにいるメンバープラス雪音で構成されるのが、幼馴染軍団である。

 日直でも雪音は大抵、一護と一緒になって登校していた。スタート地点が同じだから、まず毎日といっていい。


(それに……今年はチョコもらえてないんだよな)


 胸中だけで呟く。


 毎年、雪音は欠かさず手作りチョコをくれていた。

 しかも夜十時には眠くなるお子様が、日付が変わった瞬間に。誰よりも一番先に渡されるチョコレートを見て、バレンタインが始まったのだと実感するのが毎年恒例だったのだが。


「で、今年の勝算はどうなの? 兄貴?」


 興味津々といった態で葵が覗き込んでくる。

 物思いを強制的に終了させられた一護は、半眼でぼやくように返答した。


「知るか。行かないと解らねぇよ、そんなの」

「鷹ちゃん、どのくらいかな~?」

「さぁな。去年と同じくらいじゃねぇの?」

「去年くらいっていうと三十……うっわー。セレブだ。ラブセレブだ」

「うんうん。あれは美味しかったよ……今年もちょっとちょうだいね?」

「……好き勝手いいやがって」


 確かに沢山貰ったが、あれはあれで大変だったのである。

 男子生徒から殺気を浴びるわ、それぞれ返答しなくてはならないわ、多すぎて食べきれないわ、雪音は拗ねるわ……一番大変なバレンタインだったのだから。


「ほら、さっさと行くぞ。浮かれてないで勉強しろ勉強」

「うわ、急に真面目ぶりだしたょ!」

「照れなくてもいいのにね~」

「ま、学校行けばハッキリするだろ」


 後ろから聞こえてくる楽しそうな声を、ひたすらに一護は黙殺した。

 この苦行は多分、今日一日続くんだろうなと諦めにも似た吐息をもらしながら。


◆◇◆◇◆


 で、どうなったかというと。


「……疲れた」


 ベッドに寝転んだ一護は、天井を見ながら呟いた。

 結論からいえば、一護の戦利品は、葵達の分も含めて十六個。内、(断ったが)告白つきが四個とアベレージは充分すぎるほど超えていた。


 というか貰いすぎである。

 我ながら、何でこんなに人気があるのかよく解らない。


「……結局、雪音のチョコはもらえなかったな」


 ただし、その中に妹からの贈り物はなかった。


 本人に訊くのは催促みたいで憚られるし、何より今日は朝以外に会ってすらいないのだ。

 雪音は何でもクラスで集まりがあるとかで、まだ帰宅していない。九時頃には帰ってくるだろうが、こんな時間になってもチョコレートをもらえていないことに、もやもやしてしまう。


「…………」


 兄離れする決心がついたのかもしれない。

 可愛い妹の心境が読めず、一護はぼうっとそんなことを思った。雪音は自他共に認めるブラコンだが、何かの契機でそれを改める気になったのだろうか。


「…………まぁ、いい傾向なんだよな。きっと」


 心のわだかまりには知らん顔。確かな寂しさを紛らわせるように、一護は目を閉じる。夕飯も食べていないが、今日は本当に疲れた。余計なことを考えないためにも、とっとと寝てしまおう。


「……お兄ちゃん?」


 が、その判断は少しばかり遅かったらしい。

 いい感じにまどろみ始めた頃、耳をくすぐる吐息を感じた。


 ついで感じる微かな気配に目を開けると――。


「ん……何、してるんだ?」

「あ、起こしちゃった?」


 そこにはベッドに頬杖をついて、満面の笑みでこちらを眺める妹の姿が。寝起きで上手く働かない頭のままぼんやりと、一護は体を起こした。


「いや、元々うたた寝みたいなものだから、半分起きてたんだけどな……」


 時計を見ると九時少し前。どうやら三十分くらい落ちていたようだ。


「ああ、帰ってきたのか……思ったよりは早かったな」

「あ、う、うん……えっとね、お兄ちゃん……」

「ん?」


 何故か雪音は歯切れが悪かった。よく見ればどことなく顔も赤いし、目線も泳いでいる。二月とはいえまだ冬の範疇。ひょっとして体調でも崩してしまったのだろうか。


「雪音、風邪でもひいたか?」

「ふぇ?」

「こんな時間に夜道を来れば、体調崩すのも無理ないよな……お前は体が弱いし。ほら、おでこ出せおでこ」

「う、うん……」


 前髪をかきあげた雪音のおでこに、一護は手を当てる。

 発熱した感じではなかったが、雪音は元々体温が低い。それまで加味して考えれば、若干体温が上がっていた。


「んー。念のため、薬飲むか?」

「い、いいよ。別にお熱があるわけじゃないから……」

「そうか? ちょっと熱いけど」

「うん……それは自分でも解ってるけど……」

「???」


 一護にはよく解らなかったが、雪音はそうじゃないらしい。ならまぁ大丈夫と思うことにしよう。


「じゃあ、話を戻して……どうした?」

「……うん。お兄ちゃん。こ、これ……」

「ん?」


 真っ赤な顔で――さらにいえば少しだけ震えながら――雪音は小さな包みを差し出してきた。綺麗にラッピングされた、何やら今日一日で見慣れた感じの大きさの箱を。


(……あー、そうか)


 それでようやく、一護の脳は正常稼動を始めた。

 今日が何の日か、寝る前に何を考えていたかを鮮明に思い出して、思わず笑みが漏れてしまう。


「バレンタインデーだから……お兄ちゃんきっと、いっぱいもらってるだろうけど、その……私からも……」

「ああ。ありがたくいただくよ、雪音」


 恥ずかしそうにもじもじする姫君から、恭しく贈り物を頂戴する。

 困った事に今日一番嬉しい辺り、いい傾向だとか言いながら、結局は雪音のチョコが欲しかったんだと一護は再認識した。


「開けてもいいか?」

「う、うん」


 変わらず真っ赤なままの妹に了解を取り、丁寧に包装紙を剥がしていく。まるでお店でラッピングしたような出来栄えだけど――雪音のことだから包装も手製だろう。家事万能スキルは伊達じゃない。


(さて、今年は何かな……?)


 去年はガトーショコラ。

 一昨年は確かチョコレートアイスだったか。


 いずれも絶品で、甘い物好きな一護は三日足らずで完食してしまった。中身が何であれきっと今年も素晴らしい味に違いない。福袋にも似た高揚感を味わいながら、一護は箱を開いた。


「……お?」


 そこに入っていたのは、有り体にいえば“普通”のチョコレート。

 サイズは折り畳み式の携帯電話くらい。形は丸っこいハート型で、六つある全ての色が違って見えるのはきっと味付けがそれぞれ違うからだろう。


「あの、あのね」


 少しばかり予想を裏切られ、思わず見入ってしまった一護に不安を感じたのか、慌てたように雪音が声をあげた。


「すごく素っ気無いけど、とってもシンプルになっちゃったけど……でも、絶対に手抜きじゃないから! これが今、私に作れる精一杯だから!」


 素っ気無い。

 シンプル。

 そう言われれば、確かにそう見えなくもない。ここ数年のバレンタインは凝ったものが多かったし、見栄えという点では恐らく劣るだろう。


 しかし――それで手抜きと思うかといわれれば、ハッキリと否だった。


 きっちりと整えられたハート型。

 彩を与えるためか、散らされたカラフルなパウダー。

 ハートの上には、“Love”、“Dear”などちょっと恥ずかしい文字がホワイトチョコレートで描かれている。


「雪音」

「な、なに?」


 シンプルだが、それ故に誤魔化しのきかない全力がそこにはあって。


「すっげぇ嬉しい」


 ある意味、下手に凝った物を作るよりも余程の労力がかかっているのが見て取れた。


「ありがとうな。いや、実は今日疲れてたけど、これ食べれば元気になりそうだ。一つ、つまんでみていいか?」

「あ――う、うん! 食べてみて、お兄ちゃん!」


 ぱっと雪音の顔が輝く。

 ようやく笑顔を見せてくれた妹に一護もまた笑みを返しながら、少し赤みがかったチョコレートを一口齧った。


 咀嚼するごとに広がっていく甘み。

 赤みはどうやらイチゴの色だったらしく、程よい甘みと微かな酸味が濃厚なチョコレートの中で自己主張していた。そのバランスがまた絶妙で、口の中に桃源郷が広がったといっても過言ではない。


「……あ、ありえないほど美味いな……」


 想像を遥かに超える味に一護は呆然と呟いた。これは過去に食べてきた、どんなチョコレート菓子も及ばない。恐ろしいほど一護の味覚にマッチしていた。


「よ、よかったぁ……」

「っと」

「ふにっ!?」


 へにゃっと崩れかけた雪音を受け止める。

 期せずして一護の胸へ顔を埋めるような体勢になり、彼女から猫のような声が漏れた。


「何してるんだよ。雪音。やっぱお前、体調悪いんじゃないか?」

「あ、あうぅ……そんなことないよぉ……ちょっと、気が抜けちゃっただけで……」

「気が抜けたって……どんだけ緊張してたんだ。お前」

「うぅ。今年は凄い勇気が必要だったんだもん……」


 拗ねた顔を見られたくなかったのか、少しばかり雪音の抱きつき方が強くなる。

 片手をチョコに占領された一護は振り払うことも引き剥がすこともできず、とりあえず苦笑した。


「どうした。甘えん坊」

「あーうー……良かったなって……」

「ん?」

「美味しいって言ってもらえて良かった……迷ったけど、どうしようか悩んだけど、間違ってなくてよかった……」

「そっか。俺も、貰えて良かった。今年は貰えないかと思ったからな」

「えへへ……私がお兄ちゃんにチョコあげないなんて、あるわけないよぉ……♪」


 嬉しいことを言ってくれる。

 兄離れの出来ない妹の発言に、妹離れの出来ない兄は微笑んだ。撫でるように髪の毛を梳いてやると、ごろごろとご機嫌な音が聞こえてくる。


「……大好きだよ。お兄ちゃん」


 聞き漏らしそうなほど、小さな声。

 今日一日で囁かれたどんな言葉よりも甘美な想いに三度、一護は苦笑した。


 折角の告白に応えてやることも出来ぬまま、愛を誓う日は過ぎてゆくが――。

 今日もまた、伊達家は平穏だった。

読んでいただきありがとうございます。本年最後の投稿ですね。皆様、よいお年を。

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