マヤになる! 7
気が付くとわたしは、三階の美術部室の前まで来ていた。
「あれ? どうしてここにきているの?」
「何を言ってるんだ。ここに行くつもりだった私にずっと付き合って話しを聞いていたんだから、当然の結果だろう」
エフェメラさんは当たり前のように言っているが、新校舎の一階にある教室からここに行くには途中で階段を上る必要がある。それでも今まで気付かなかった程に、わたしはマヤの話に夢中になって聞いていたというのか?
既に上級生達が来ていたので、部室の鍵は開いていた。ドアをノックしながら、エフェメラさんがわたしに尋ねてきた。
「八尾さんは、どうするんだ?」
「はい?」
一瞬何を言っているのか判らなかったが、どうやら部室に入るのか聞いているらしい。マヤの包みについては大体事情が判ったので用は無い筈だし、もう帰るべきだろうか。
「立ち止まってないで、さっさと入ってよ」
間違えようも無い声が、背後から聞こえて来た。
「あ、あれ……」
振り返ると、そこには包みを抱えたマヤが立っていた。彼女も美術部に用があるのだから当然なのだが、そうすると彼女に気付かずにわたしはマヤの話をしていたのだろうか。
恥かしくなって立ち竦んでいたわたしは、エフェメラさんに腕を掴まれた。
「八尾さんも、入るんだ」
「え? ちょっと待っ……」
わたしの返事も聞かずに、エフェメラさんはドアを開けてわたしを部室に引き入れた。マヤも、わたし達に続いて部室に入る。
スケッチを見せ合っていた美術部の先輩達は、わたし達を見て意外そうな顔をした。
先輩達の中から部長と思われる人が、わたしの前に近付いて来た。
「美術部に何か用なの? もしかして入部希望者なのかしら?」
「え、ええと……」
「今日の所は、体験入部だけです」
返答に困っていたわたしに代わり、エフェメラさんが答えてくれた。
「まあ、そうなの。よろしくね」
そう言って部長さんは、わたしの手を掴んで握手してきた。
良く見ると、四人の先輩たちのうち三人の胸には三年生を意味する緑色の校章が刺繍されていた。正規部員の中で青い刺繍の二年生と小豆色の一年生は一人ずつなのだから、来年度に四人を切る可能性は高そうだった。校内の規則に従えば、部費がゼロになって活動停止という事になる。
部員を増やしたいから、マヤにも寛容だったり、わたしを積極的に入部させたかったりするのだろうか。もしかして、わたしはエフェメラさんにまんまと誘導されてた? そう考えると、やけに詳しく事情を話してくれた事にも合点がいく。
マヤはというと、窓際でイーゼルを広げていた。絵の続きを画くつもりなのだろうか。
「先生はまだ来てないけど、何か画いてみる?」
そう言って、部長は棚から新しいスケッチブックを取り出した。
「それなら、私の画材を使うといい。今日のモデル役は、ちょうど私だからな」
そこまでされると、何か断りづらくなってしまう。今日はゼミもないので、午前中だけならいいかなとも思ってしまった。
「よし、出来た!」
マヤが、部室全体に響き渡る声をいきなり上げた。
「まずは、一枚目の絵が完成したわよ」
そう言ってマヤがイーゼルに掛けた絵を見て、わたしは息を飲んだ。
「どうして、あの場所が?」
そう、キャンバスに描かれていたのは、あの祭壇だったのだ。
三年生の一人が、マヤに詰め寄った。
「それは一体、何の絵よ? あなたは今まで、窓から見ていた景色を画いてたんじゃないの!?」
三年生に問い詰められても、マヤは平気な顔をしていた。
「窓から見ていた景色よ、勿論」
得意げな顔をしながら、マヤは次々と窓を開けた。そこから見えたのは、信じられない物だった。
「ひいっ」
それを見て、わたしは腰を抜かしてしまった。
窓を開けた、ガラスのない側の景色は普通の外の風景だった。しかし、ガラスのある側に映っていたのは暗闇に輝くサッカーボール並みに大きい一つの目だった。
いや、良く見るとそこは暗闇ではなかった、黒い身体だったのだ。目も一つだけというよりは、顔の横に目があるために片方しかこっちには見えないだけにも見えた。何かに例えるなら、そこにいるのはまるで宙に浮いたクジラのようだ。
しかも、マヤが窓を開けたから見えた筈なのに、その巨大生物はガラスの方に映っているという怪奇。この光景が、あの祭壇と何の関係があるのだろうか?
「成る程、確かにおかしいな」
タブレットPCを、エフェメラさんが取り出していた。画面を地面に垂直に持ち、裏面にあるカメラをマヤに向けていたのだ。そこには、何の異変も無い窓とマヤが写っていた。
わたしも、ケータイを取り出してマヤを撮影した。別にケータイごしで見る景色を確認するだけでいいのに、わたしはマヤの笑顔を見た瞬間にシャッターを無意識に押していたのだ。
わたし達の顔を見回して、満足したような顔でマヤは窓を閉めた。すると今まで映っていた大きな目は消えて、只の風景しか窓からは見えなくなった。
校庭では、ラクロス部の掛け声が聞こえている。窓の外では何の事件も起きていないのは、明らかだ。
「どう? これで判ったでしょ」
判るどころか、ますますわたしの頭は混乱してしまった。
「一体何なのよ? 只、窓を開け閉めしただけじゃないのよ」
マヤを問い詰めていた先輩の言葉に、わたしは驚いた。わたしやエフェメラさんが見ていた景色を、先輩は見ていないのだ。このケータイの画像のように、普通の窓にしか目に写らなかったという事だろうか。
「いや、それでいいのよ。これ以上は聞かない方がいいわ」
部長が、先輩に問い質すのをやめさせた。もしかすると、部長にもあれが見えていたのだろうか。
他の二人の先輩はどうなのかと思って見回すと、一人は首をかしげているだけだが二年生の先輩の方は唖然としていた。
どうやら、この四人しかマヤの見せた景色を認識出来なかったようだ。
「銀墨さん。これは一体、どういう事なの?」
声のした方を振り返ると、遅れて部室に来たミツル先生が、ドアを開いた状態で首を傾げていた。やはり先生も、何があったのか判らないようだった。
先生に尋ねられて、マヤはにこにこしながら答えた。
「別に、大した問題じゃないわ。ただ、ちょっと見方を変えただけよ。むしろ、あたししか今まで気付かなかったのに、今だけで五人も認識したって事の方が興味深いわ」
五人? 一瞬マヤは数え間違いをしたのかと思ったが、よく考えたらマヤ自身を数に入れるのをわたしが忘れていただけだった。
そう言ってマヤは、キャンバスの上の隅に何かを書き足した。
『∀入∀W』
意味の判らない落書きをしたマヤは、いつの間に帰り支度を済ませていたのか、学生カバンを持ってスタスタと部室を出ようとした。
「また、絵を画きに来るからね」
そうだ、あの絵について聞かないと。わたしはマヤに、夢に出て来た祭壇について尋ねようとした。
「あ、あの、銀墨さん」
まだドアの前に居た先生をよけて部室を出ようとしたマヤは、呼び止めたわたしに振り返って笑顔を見せた。
「マヤでいいわよ、和美」
振り向きざまに名前を呼ばれて、わたしはドキリとしてしまった。どうしてだか、わたしはマヤが華々しく見えたのだ。それどころか、彼女が色とりどりの花に囲まれているかのように見える。入学してから何ヶ月も同じ教室にいた彼女が、突然別人のように見えたのだ。
わたしにとってマヤに名前を呼ばれる事は、そんなに重大だったのだろうか。自分の気持ちを落ち着かせようとしている間に、マヤは去ってしまった。
「マヤッ!」
今更呼んでも、マヤはもう戻ってこなかった。いや、呼ぶためではない。わたしは只『マヤ』と言ってみたかっただけなんだと思う。今までは、心の中でしかマヤと呼んでいなかったのが、堂々と言えるようになって開放的な気分になったのだろう。
エフェメラさんもマヤを呼び捨てにしていたという事は、同じ事を言われたのだろう。だから、これはわたしだけが特別というんじゃない。いや、それよりも大事な意味が含まれている。
わたしよりも先に、マヤにそう言われた人がいる! もう、この順番は変えられない!
そんな事を思いながら、わたしはエフェメラさんの方を振り向いた。
「この落書き、もしかするとサインじゃないか?」
エフェメラさんが、キャンバスに顔を近づけていた。わたしもキャンバスに近付いて、落書きを注視した。
「でもサインって、下の隅の方に書かない? マヤならセオリーを無視する事もあるんだろうけど」
わたしの言葉を聞いて、エフェメラさんはいきなりキャンバスを持ち上げた。
「だから、サインのある方が下の隅なんだ」
エフェメラさんが上下を逆にしたキャンバスをイーゼルに置くと、わたしはビックリした。それは、祭壇の絵ではなかったのだ。
「これって、体育館?」
わたしは、窓から見える体育館とマヤの作品を見比べた。
色調こそ実際より暗くなっているが、それは全体図が入りきらない程にアップなっている体育館の絵だった。
この学校の体育館は、カマボコみたいな形をしている他校のと違って屋根が平坦な直方体になっている。その屋根の部分が、ひっくり返すと祭壇の舞台に見えるのだ。今の状態だと体育館の角として出っ張って見える部分が、ひっくり返すと舞台の隅として引っ込んで見えた。屋根に大きく書かれていた『早宮』も、逆さにするとゴシック体のせいで何かの記号のように見えた。全ては目の錯覚なのだ。
キャンバスの下の隅を見てみると、確かに『MAYA』と書いてあった。謎の記号に見えたのも、単に逆さに書いただけだっのだ。
マヤの言う、ちょっと見方を変えただけという言葉の意味が、これで判った。でも、あの窓に映ったクジラは、なんだったのだろう? あれも錯覚だというの?
それを言ったら、振り向きざまのマヤの笑顔なんて、人間が光るわけはないのに輝いて見えた。その上、マヤの周囲に赤やピンクの花々が咲き誇っていたかのように見えた。そんな事は、絶対無いのに。あれは、錯覚ではなく幻視というべきだろう。
だからといってクジラが幻視だというなら、マヤに特別な感情を抱いていない人にも見えている事実に説明がつかない。
エフェメラさんに、窓のクジラをどう思っているのか聞いてみた。真っ先に、クジラがデジタルに写るか確認した彼女の判断力なら、何かに気付いているかもしれない。
「エフェメラさん、窓に映っていたクジラって何なんでしょうか?」
わたしの問いかけに対するエフェメラさんの反応は、意外なものだった。
「あれがクジラに見えたのか? 私には、船のように思えたが」
船ですって? あんなに大きい目があったのに?
「二人とも、何言っているの? あれは大きいけど蝶だったわ」
二年生の先輩が、話に割り込んできた。しばし考え込んでいたエフェメラさんは、部長にも何が見えたのか尋ねてみた。
「あれは、馬こそなかったけど馬車だったわ」
やはり、部長の見た物も違っていた。それを聞いたエフェメラさんは、天井を見上げながら何か考え込んでいた。
「同じものが見る人によって違って見えるといった、トリックアートのたぐいではないな。これは、完全にオカルトじみている。やはり、マヤでなければ判らないな」
聡明なエフェメラさんでも、最後はマヤに聞くしかないという当たり前の結論になってしまった。
「マヤに聞くとしたら、やっぱりエフェメラさん? 二人は、母国語で会話するほど親しいんだし。マヤって、一体どこで習ったのかしら」
「いや、マヤは初めから話せると言ってた。習っていないのに、この国の言葉を普通に使う時と変わらず頭の中から言葉が出てくるらしい」
わたしにはビックリする程無茶苦茶な事を、エフェメラさんは当然のように口にした。
「そんな事って、あるんですか?」
「これについては、本人が言っている事を信じるしかないだろう。嘘をつく必要があるとは思えないし、信じていいだろう」
いつでも合理的な思考をするエフェメラさんなのに、そんな理由であっさり信じられるものなんだろうか? どうやらエフェメラさんも、マヤには他の人達とは違う何かを感じているようだ。




