マヤと行く! 9
五階に到着すると、エフェメラさんがわたし達を追い抜いてドアの前に立った。
「ベランダにいるフライデイからの映像では、ドアの前には誰もいない。室内を調べさせたいが、レーザーで透明なガラスを溶かすのは時間がかかる」
青い鉄製のドアには新聞受けもないので、フライデイを入れられない。ここで少し待つしかないようだ。
「あたしは、あと二軒も調べなきゃいけないかもしれないのに、悠長に待っていられないわよ」
ペットボトルを取り出したマヤが、ドアノブを掴んだ。水を操る能力で、一体何をするつもりなのだろうか?
「ていっ!」
ペットボトルを振り回して、マヤはノブを思い切りひっぱたいた。ドアの中から鈍い音が聞こえたかと思ったら、マヤがドアノブを左右に揺すりながら回転させてドアを簡単に開けてしまった。
「それ、別にペットボトルを使う意味がないじゃないの」
何か新しい能力を見せるのかと思ったのに、期待して損した。
「あれ? 切れてる?」
マヤの言う通り、ドアのチェーンが途中で亡くなっていて切れた鎖が足元に落ちていた。
「まずは、フライデイを室内に飛ばすべきだ」
「大丈夫、その必要はないわ」
エフェメラさんの言葉に振り向かずに返事をして、マヤはさっさと部屋に上がりこんだ。
「どうして大丈夫だと言えるのだ?」
「だって、血が流れてなかったじゃない」
マヤの指摘に、わたしとエフェメラさんははっとして顔を見合わせた。確かに部屋は散らかっていたが、血だけは床にも壁にも見えなかった。
「ま、何があっても死にはしないんじゃないの」
マヤは何も警戒せずに玄関の照明をつけた。
「待ちたまえ。フライデイの熱センサーが、ダイニングキッチンに人間程度の大きさの何かがいると伝えてきた。うずくまっているのか、形状はよくわからない。用心するんだ」
マヤはうなずきながら、ペットボトルを何本もリュックから取り出して、次々とボトルのフタを緩めた。
「コップや花ビンが割れているから、靴は履いたままがいいわよ」
先を進むマヤが言った通り、彼女の足元からはパキパキとかジャリジャリといった普通の室内ではありえない音が歩くたびにしていた。
「ねえ、エフェメラさん。保護者の息子が毎日欠席届を学校に届けているのよね」
「ああ、そうだ。場合によっては、彼からも話を聞かないと」
わたし達に気付いていない筈はないのに、ダイニングキッチンにいる何かは沈黙を守っていた。向け位階に足を踏み入れるのは、どう考えても危険だ。
「そういえば、壁にあった傷って、ライオンか何かみたいだったよね」
さっきからわたしが不安に思っていた事を口にすると、エフェメラさんが大きな猫科の動物が映っているタブレットPCを見せた。
「爪あとのサイズから検索してみたが、ライオンや虎ほど大きくはないな。子供なら話は別だが、やはりヒョウやチーターの方がサイズとしては近いな」
いつの間に検索したのかと思ったが、きっとエフェメラさんは指先でタブレットPCを操作する必要がないに違いない。正体を隠してる時だけ、指で操作していたのだ。そういえば、さっきフライデイの映像を見せてくれた時も、画面はいじっていなかった。
右腕でペットボトルの束を抱えているマヤが、キッチンの入り口から、口に左手をあてて中に向かって話しかけた。
「せんぱーい、そこにいるんですかー? いたら、返事して下さーい」
しかし、何の返事も無かった。
「返事が無いけど、誰かいるわよね。勝手にやらせて貰うわよ」
ペットボトルのフタを口で開けたマヤが、三つ数えてボトルをキッチンに放り投げた。
「いや、手榴弾じゃないから」
ダイニングキッチンに水蒸気が充満しているところは、むしろ煙幕に近かった。
「来るわよ!」
わたしには見えない蒸気の向こう側が、マヤには見えるようだった。以前マヤは、水面下の景色が見えるとも言っていた。水を操れるマヤには、水が障害にならないのだろう。
「ググルルルル」
野獣のうなり声らしきものが聞こえたかと思った瞬間、白い塊みたいなものが蒸気の中から出現した。蒸気が保護色みたいになってわたしには良く見えなかったが、それは何かの獣のようだった。
「グワァッ!」
白い獣がマヤに飛び掛かろうとした瞬間、マヤがペットボトルから水の弾丸を発射した。顔面に水の弾が命中した獣は、マヤの脇を通り過ぎて壁に激突した。そこで、やっとわたしにも獣の正体が判った。それは、白い毛並みのヒョウだった。図鑑に載っているような茶色い毛並みとは全然色が違うが、間違いない。
「グルルルル」
床に倒れたヒョウは、うなりながら立ち上がった。
「ちょっと見込みが甘かったかしら
新しいペットボトルを取り出しながら、マヤが立ち上がった。
「フライデイ!」
エフェメラさんの髪の下から、銀色の棒が何本も飛び出してヒョウを囲んだ。その瞬間、ヒョウが姿を消した。天上から何かがぶつかる音がしたかと思ったら、つづいてリビングの方から激しく何かが壊れるような音が聞こえた。
「フライデイが追いつけない?」
今の一連の音は、信じられないことに全部ヒョウが走ったり跳躍したりして立てた音だったのだ。素早すぎるヒョウの姿が、わたしには全く見えなかった。マンションの室内だというのに、まるで野原に解き放たれたかのようにヒョウは機敏に動き回っていた。
もう、どうしてヒョウがマンションの部屋にいたのかとか、先輩はどうしたのかとか、考えている余裕は全く無かった。
「えいっ! えいっ! えいっ!」
リビングに飛び込んだマヤが、何発も水の弾丸を発射し、エフェメラさんがフライデイを飛ばして追い回したが、ヒョウには最初の出会い頭でのマヤの一発しか命中させられなかった。不幸中の幸いは、ヒョウの方もマヤを噛むことが出来ずに、攻めあぐねている所だろう。
いや、本当にそうなのだろうか? ほんの一瞬だけ、直接戦いに関わっていないわたしには、考える暇が出来た。ヒョウには、戦う意思が元々ないのではないかと思えたのだ。
そう思うと、他の事にも思いを巡らす余裕が出て来た。最初にマヤに突っ込んで来たのも、ただの水煙とは知らないで慌てて飛び出した出会い頭と考えられなくもない。
今のヒョウの機敏な動きも、部屋の内装を熟知していればこそ実現可能なものなのではないか? それに、ヒョウはどこから入って来たのか?
そんな様々な疑問から、一つの答えがわたしの頭に浮かび上がってきた。それは、あまりにも非常識でバカバカしい結論だったが、わたしはもうそんな非常識を普通に受け入れられるようになっていた。
何か確かめる方法は無いかと周囲を見回すと、キッチンにコードレス電話が落ちていた。わたしがそれを手に取っている間も、マヤ達は戦っていた。
マヤの水の弾丸は、壁をえぐり家具を粉砕しながら濡らしていた。元々荒らされていたとはいえ、エフェメラさんのフライデイも、天上や床に焦げ目を作っていた。どうやら、隣の部屋まで貫通しないように、レーザーの出力を弱めているみたいだ。壊れている壁の断面を見ると、防音にはなっているらしく、今の所この戦いは隣近所にも気付かれていないでいる。
「野生の直感というのは、侮れないものだな」
エフェメラさんが、ヒョウに完璧にレーザーをかわされて舌を巻いている。相手の動きを計算して先手を打っているはずなのに、ことごとくその裏をかかれていたのだ。黒い手にとどめを刺したエフェメラさんが弱いはずはないが、どうも相性が悪い感じだった。




