マヤになる! 13
カッターが、わたし達に向かって振り下ろされそうになった。エフェメラさんが、わたしを頭上まで持ち上げた。わたしだけでも助けようというつもりなのだろう。
「エフェメラさん!」
黒い左手は、突然向きを変えた。右手を加勢しようと、マヤに向かっていったのだ。そのまま襲い掛かれば、エフェメラさんの足を切れた筈だ。
「どういう事なの?」
気にはなったが、ピンチのマヤを救うほうが先だった。両手に傘を持ったマヤは、二本の黒い手となんとか互角に渡り合っていたが。先の丸い折り畳み傘では、叩かれても突かれても黒い手は痛くも痒くもない。
「ああっ! お茶を忘れて来た!」
マヤには、今が大変な時だという自覚がないようだった。飲み物の心配をしている場合ではないだろうに。
前後に挟まれないように巧みなステップで何とかしのいでいるが、一度でも足を切られて床に倒れれば容赦なくカッターで切り刻まれるだろう。
「早く下ろして!」
とにかくマヤを助けたい。そう思って今もわたしを持ち上げているエフェメラさんに言ったが、彼女は全く下ろす気はないようだった。
何か、エフェメラさんが納得出来る理由を言わないと。こういう時、マヤなら何と言うだろう? そうだ、マヤの言葉だ。
「エフェメラさん、マヤが今朝言っていたんだけど……」
わたしが小声で耳打ちすると、すぐにエフェメラさんはわたしを下ろして走り出した。
「五秒間だけ、持ちこたえろ」
わたしは、エフェメラさんが使わなかった傘を拾いに、シートの所まで走り出した。黒い手の片方が、わたしに気付いて滑り出した。
一秒。
マヤは、一対一になった黒い手を右手の傘で殴ろうとするが、黒い手は振り下ろされた傘を余裕でかわした。
黒い手の滑る速さは、わたしの全速力を上回っていた。わたしが拾おうとした傘は、黒い手によって弾き飛ばされてしまった。
二秒。
左手の傘で、マヤは黒い手の持つカッターをひっぱたいた。鋭利なカッターの刃先が、傘を貫通して突き出た。
傘を弾き飛ばした黒い手は、無防備な手の甲側をわたしにさらけ出していた。わたしは、迷わず黒い手に蹴りを入れた。
三秒。
マヤは、カッターで貫かれた傘を捻りながら振り回した。古い刃を折って切れ味を保つように出来ているカッターは、普通のナイフよりも折れやすかった。
黒い手を蹴ったわたしは、反転して金網のフェンスに向かって走り出した。フェンスに向かって走るわたしを、黒い手が追いかける。
四秒。
カッターをマヤに折られた手は、一旦下がりながら新しい刃をグリップ部分から押し出そうとする。
もし、カッターをこっちに投げられていたらかなりヤバかったが、マヤに刃を折られていた事で、武器を失うリスクを恐れたからか、ただ追い回すだけだった。
お陰でわたしは、フェンスに跳んでへばりつく事が出来た。新校舎とは逆向きのフェンスだから、多分他の人には見られていないだろう。
遂に、約束の五秒になった。
わたしとマヤが黒い手の注意を引いている間に、エフェメラさんは屋上の入り口に達していた。
わたしがエフェメラさんに言ったのは、黒い手は透視が出来ないというマヤの指摘だった。しかも、新校舎からは見えない場所でお昼を食べていて、入り口はマヤが開けたのだから先回りはしていない。
つまり、黒い手そのものが独立した生き物で無い限り、屋上の入り口の辺りにわたし達を監視している存在がいる筈だった。
「きゃあ!」
入り口からエフェメラさんが飛び込むと、聞き覚えのある悲鳴がした。エフェメラさんの声ではない。
黒い手が、吸い込まれるように床に潜って消えてしまった。危険が無いのを確認して、わたしは恐る恐るフェンスから降りた。
「待て!」
「嫌あっ!」
エフェメラさんと誰かが争う声がした。どちらが優勢なのかは明らかなので、わたしは安心して床にへたりこんでいた。たったの五秒間だったのにわたしはとても疲れていた。
マヤの方は、息切れ一つしていなかった。シートに戻って、わたし達のお昼がまだ食べられる状態にあるのを確認している。
入り口から屋上に戻ってきたエフェメラさんは、見覚えのある生徒の腕を掴んでいた。彼女は、クラスメートの滝畑小春さんだったのだ。
「滝畑さん?」
エフェメラさんは不機嫌な顔をしていたし、滝畑さんは泣きそうな顔をしていた。いや、既に少し涙を流していた。誰が見ても、わたし達を襲ったのは彼女だと判る状況だった。
エフェメラさんにシートの所まで引きずられて正座させられた彼女は、俯いていた。髪の毛を半分近く持っていかれたマヤを、正視することが出来ないのだろう。そんな滝畑さんを見下ろすマヤの表情がみるみると変わって行き……笑顔になった。
「すごいわ小春! あなた、宇宙人だったのね!」
「はあ?」
マヤに責められると思っていた筈の滝畑さんは、キョトンとした顔をしていた。
「ね、ね、あなた、いつから地球にいるの? もしかして、本物をアブダクションして入れ替わってるの?」
「アブダクション……。最良の説明への推論? いや、誘拐という意味か」
エフェメラさんも、マヤの言葉に首をかしげていた。
「いえ、私は別に宇宙人じゃ……」
マヤに両手を取られて、滝畑さんは困った顔をしていた。
「その話は後にしろ、マヤ」
論点がズレているというか完全にコースアウトしているのをエフェメラさんが見かねて、二人に割って入った。
「まず聞くべきは、どうして滝畑さんが私達を襲ったのかだ」
「別に、エフェメラさんは襲っていないわよ。狙われたのは、わたしとマヤだけよ」
そうだ、わたしを守るために無防備になったエフェメラさんを、黒い手は攻撃しないでマヤに向かった。
「まさか、和美さんは知っているのか? 襲われた理由を」
エフェメラさんに尋ねられて、わたしは頷いた。
「滝畑さん、エフェメラさんの事が好きなんでしょ? だから、一緒にお昼を食べていたわたし達にヤキモチ焼いたのよね?」
「あ、う、うん」
わたしに指摘されて、滝畑さんはためらいながらも認めた。
それを聞いて、冷静なエフェメラさんが怒り出した。
「そんな自分勝手な理由で、襲ったのか!」
「あ、あああぁ、あーん!」
自分が好きだった人に怒られて、滝畑さんは泣き出した。わたしもマヤの髪を奪った彼女には色々言いたいことがあったのだが、どう声をかけたらいいのか判らなくなった。
「ちょっと、泣いてないで教えてよ。あの宇宙人は、どうなったのか」
マヤは、それでもマイペースだった。
「そんな話は、後にしろ。マヤだって、髪を切られたんだから怒っていいんだぞ」
「髪? ああ、無くなったんだよね。別にあたしは、そんな事には怒ってないから」
「何?」
エフェメラさんも、意外そうな顔をしている。
「ほら、これはあなたのでしょ。階段下に落ちてたわよ」
そう言ってマヤが取り出したのは、ピンクの風呂敷に包まれた弁当箱だった。泣き出した滝畑さんにわたし達が注目している間に、マヤは拾っていたのだ。
「宇宙人について、聞きましょう。お昼も終っていないし」
日傘がボロボロになったので、わたし達は階段の踊り場に移動してお昼を再会した。箱ごと落としたのが幸いして、サンドイッチも形が崩れただけで食べられる状態だった。
わたし達の中で一番背の高い滝畑さんが、今はとても小さく見えた。
滝畑さんが黒い手との関係を、弁当を食べながらポツリポツリと話し出した。




