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婚約破棄の日、私たちは同じ嘘をついた

作者: みき
掲載日:2026/09/21

「私はもう、あなたを愛しておりません」


 そう言った時、自分の声が思っていたより落ち着いていたので、リディアは少し安心した。


 手は震えている。


 だから膝の上で重ねた。


 目の前には、七年間婚約してきたユリウス・アーヴェントが座っている。


 二十五歳。


 次期アーヴェント公爵。


 王宮でも将来を期待されている青年で、誰から見ても立派な婚約者だった。


 そして、リディアが十六歳のころからずっと好きだった人でもある。


「別に、好きな方ができました」


 二つ目の嘘は、一つ目より少しだけ言いやすかった。


「ですから、婚約を解消していただきたいのです」


 言い終わった。


 これでいい。


 あとは怒られればいい。


 軽蔑されてもいい。


 場合によっては、二度と顔も見たくないと言われるかもしれない。


 その方がいい。


 そうなれば、ユリウスは自分を気にせず次へ進める。


 きっと、もっと立派な家の令嬢と結婚する。


 公爵になる。


 王宮で働く。


 子どもも生まれるだろう。


 自分がそこにいないだけで、彼の未来は何も変わらない。


「そうか」


 ユリウスは、それだけ言った。


 リディアは顔を上げた。


 もっと驚かれると思っていた。


 少しくらい理由を聞かれるとも思っていた。


 けれど彼は、いつもと変わらない顔でリディアを見ている。


「お怒りにならないのですか?」


「怒る理由がない」


「七年も婚約していたのですよ」


「だからといって、気持ちまで縛れるわけではないだろう」


 ユリウスは一度だけ目を伏せた。


 それから、小さく笑った。


「むしろ、ちょうどよかった」


「……ちょうど?」


「ああ」


 そして彼は言った。


「私も君を愛していなかった」


 胸の奥で、何かが落ちた。


 音はしなかった。


 ただ、そこにあったものが急になくなったような気がした。


「そう、なのですね」


「ああ」


「では……よかったです」


 笑えた。


 たぶん。


 少なくとも、泣かなかった。


「お互い、無理をしていたということですね」


「そうかもしれない」


「七年も」


「長かったな」


 リディアは笑った。


「本当に」


 それ以上、話すことはなかった。


 持参金については両家で話し合う。


 婚約解消の正式な書類も後日整える。


 そんな事務的な話だけをして、二人は立ち上がった。


「それでは」


 リディアが頭を下げる。


「長い間、お世話になりました」


「こちらこそ」


 ユリウスも頭を下げる。


 七年間婚約していた男女とは思えないほど、きれいな別れだった。


 扉を開ける。


「リディア」


 背後から呼ばれた。


 足が止まる。


「何でしょう」


「……いや」


 少し長い間があった。


「幸せに」


 リディアは振り返らなかった。


「ユリウス様も」


 そう言って、部屋を出た。


     


 屋敷へ戻った途端、リディアは泣いた。


 玄関を抜け、自室まで我慢した。


 侍女のミアが扉を閉めた瞬間、床へ座り込んだ。


「お嬢様!」


「大丈夫」


「まったく大丈夫には見えません!」


「でも、終わったわ」


 涙で顔がぐしゃぐしゃになる。


 ミアが急いでハンカチを差し出した。


「婚約は、解消してくださるそうよ」


「本当に?」


「ええ」


「ユリウス様は、何と?」


 聞かれたくなかった。


 けれど、答えない方が余計に心配させる。


「自分も、私を愛していなかったって」


 ミアが固まった。


「……ユリウス様が?」


「そう」


「そんな馬鹿な」


 リディアは泣きながら笑った。


「本人が言ったのよ」


「でも、毎年お嬢様のお誕生日には一番に贈り物を届けていましたし、お嬢様が熱を出した時は三日続けて手紙を――」


「婚約者だったからでしょう」


「でも」


「もういいの」


 言って、また涙をぬぐった。


「むしろ、その方がよかったのよ。私のことを愛していたら、かわいそうでしょう」


 ミアは何も言わなかった。


「これで、ユリウス様は自由よ」


「……お嬢様は?」


「私?」


 考えた。


 自分はこれからどうなるのだろう。


「私も、自由になるわ」


 言ってみた。


 あまり自由には聞こえなかった。


     


 リディアの父、ベルナール伯爵が亡くなったのは二か月前だった。


 急な病だった。


 そして葬儀を終えたあと、家令から渡されたのが大量の借用書だった。


 父は領地の不作を補うため、何年も前から金を借りていた。


 さらに商会への投資にも失敗していた。


 借金は、屋敷を売っても足りないほど残っていた。


 爵位を継ぐ弟はまだ十四歳。


 このままでは、伯爵家そのものが危ない。


 そんな時、親族の一人が言った。


『アーヴェント公爵家と婚姻すれば何とかなる』


 確かにそうだった。


 リディアがユリウスと結婚すれば、公爵家が助けてくれる可能性は高い。


 だが、それを聞いた瞬間。


 リディアは婚約を終わらせようと思った。


 ユリウスは優しい。


 頼めば助けるだろう。


 だからこそ、頼みたくなかった。


 自分の家の借金を背負わせたくない。


 父の失敗まで彼に押しつけたくない。


 そして何より。


 借金だらけの伯爵家と婚姻したことで、ユリウス自身の将来に傷がつくかもしれない。


 彼は近いうちに王宮で重要な役につく予定だった。


 次期公爵として、順調に歩いている。


 その道に、自分が泥を持ち込みたくなかった。


「でも、お嬢様」


 事情を知ったミアは言った。


「ユリウス様に相談してもよかったのではありませんか?」


「相談したら、助けると言うでしょう」


「言いそうですね」


「だから駄目なの」


「でも、お嬢様が一人で決めるのも……」


「私の家の問題よ」


「ですが」


「ミア」


 リディアは少し笑った。


「好きな人には、幸せになってほしいでしょう?」


 ミアはしばらく何も言わなかった。


「そういうものですか」


「そういうものよ」


「私は、好きな人には自分と一緒に幸せになってほしいです」


 リディアは黙った。


「……あなた、時々ものすごく正しいことを言うわね」


「ありがとうございます」


「今は褒めていないわ」


     


 婚約解消から三日後。


 リディアの屋敷には買い手がついた。


 家具も、多くを手放すことになった。


 母は数年前に亡くなっている。


 弟は母方の伯父のもとへ預けることになった。


 そしてリディア自身は、遠い親戚が営む地方の学校で働くことが決まった。


 貴族令嬢として教師になる者は多くない。


 だが、読み書きも計算もできる。


 礼儀作法も教えられる。


 何より、住む場所が用意される。


「本当にお一人で行かれるのですか?」


 荷造りをしながら、ミアが聞いた。


「あなたまで連れていけないわ。お給金も払えないもの」


「しばらくなくても」


「駄目」


「でも」


「新しい奉公先は決まったのでしょう?」


「……はい」


「なら、そこで頑張って」


 ミアは不満そうだった。


「お嬢様は、本当に何でも自分で決めてしまいます」


「そう?」


「そうです。ユリウス様とのことも」


 リディアの手が止まる。


「それはもう終わったでしょう」


「はい」


「それに、あの人だって私を愛していなかったのよ」


「まだ信じられません」


「私は信じるしかないわ」


 少しだけ笑った。


「本人が言ったもの」


     


 一方。


 リディアが婚約破棄を告げた、同じ日の朝。


 ユリウスは父の執務室に呼ばれていた。


「ベルナール家との婚約を解消しろ」


 アーヴェント公爵は、朝一番にそう言った。


 ユリウスは黙って父を見た。


「理由を伺っても?」


「分かっているだろう。あの家は終わりだ」


「伯爵が亡くなったことは知っています」


「借金の額もか?」


「ある程度は」


「なら話は早い。あの家と婚姻すれば、こちらが借金の処理に巻き込まれる。それだけではない。お前の王宮での立場にも影響が出る」


「それで?」


 父の眉が動いた。


「それで、とは?」


「婚約を解消する理由にはなりません」


「十分だ」


「私には足りません」


 公爵は大きく息を吐いた。


「ユリウス。お前は次の公爵だ。好き嫌いだけで妻を選べる立場ではない」


「七年前、その理屈でリディアを婚約者に選んだのは父上です」


「状況が変わった」


「彼女は変わっていません」


 父は黙った。


「借金を作ったのはリディアではない。父親です」


「それでも家は家だ」


「では、私が家を出ます」


 今度こそ、公爵は言葉を失った。


「何だと?」


「リディアと結婚することで私が後継者として不適格になるのであれば、後継者を辞退します」


「馬鹿を言うな」


「本気です」


「公爵家を捨てるのか?」


「リディアを捨てるよりは」


 言ってから、少し恥ずかしかった。


 だが取り消さなかった。


 父はしばらく息子を見ていた。


「……いつからそんなに惚れていた」


「自分でもよく分かりません」


「七年も婚約していて?」


「七年前は別に」


「本人には言うなよ」


「言いません」


「いや、そこではなく」


 公爵は額を押さえた。


「お前は時々、妙なところで正直だな」


「父上に似たのだと思います」


「私はもっと器用だ」


「母上はそうは言っていませんでした」


「今それを出すな」


 父はしばらく黙っていた。


 そして机の引き出しから一枚の紙を出す。


「本当に後継者を降りるなら、署名しろ」


 ユリウスは紙を見た。


 脅しではない。


 正式な辞退届だった。


「後悔するぞ」


「するかもしれません」


「公爵にはなれない」


「はい」


「王宮で予定されていた役も難しくなる」


「承知しています」


「領地の収入もない」


「働きます」


「何ができる」


「それを今から考えます」


 父は頭を抱えた。


「お前、本当に公爵家の跡取りとして育てられたのか?」


「父上が育てたのでしょう」


「私の責任か」


「たぶん」


 父は長いこと何も言わなかった。


 最後に、大きなため息をつく。


「……好きにしろ」


「ありがとうございます」


「感謝されるような気分ではない」


 ユリウスは署名した。


 その日の午後。


 リディアに会う予定だった。


 指輪も用意していた。


 婚約指輪はすでにある。


 だからこれは、新しい指輪だった。


 家が決めた婚約ではなく。


 公爵家の跡取りでもなくなった自分から、改めて渡すためのもの。


『公爵にはなれなくなった』


『それでも、私と結婚してほしい』


 そう言うつもりだった。


 馬車の中で、何度も言葉を考えた。


 少し格好をつけすぎか。


 もっと簡単でいいか。


『家を捨てた』


 これは重い。


『君を選んだ』


 これも重い。


 結局。


 何もまとまらないまま、リディアの前へ座った。


 すると彼女が先に言った。


「私はもう、あなたを愛しておりません」


 頭が真っ白になった。


 けれど。


 顔には出さなかった。


 たぶん。


「別に、好きな方ができました」


 そうか。


 好きな男ができたのか。


 七年。


 自分が何も言わずにいた間に。


 当然だと思った。


 婚約しているから、リディアは自分と結婚する。


 ずっと、そう思っていた。


 彼女が自分を好きかどうか、まともに聞いたことさえない。


「ですから、婚約を解消していただきたいのです」


 ポケットの中に指輪がある。


 手に取ることはできなかった。


 ここで、


『私は君を愛している』


 と言えばどうなる。


 困らせるだけだ。


 好きな男がいる女に、自分のために公爵家を捨てたなどと言えば。


 まるで恩を着せるようではないか。


「そうか」


 それしか言えなかった。


「お怒りにならないのですか?」


「怒る理由がない」


 嘘だった。


 ものすごく怒りたかった。


 相手の男は誰だ。


 いつからだ。


 自分の何が駄目だった。


 なぜ気づかなかった。


 聞きたいことはいくらでもあった。


 でも、それを聞く権利がもう自分にはない。


「七年も婚約していたのですよ」


「だからといって、気持ちまで縛れるわけではないだろう」


 それだけは本心だった。


 そして。


 言ってしまった。


「むしろ、ちょうどよかった」


 リディアの顔が少し変わった。


「ああ。私も君を愛していなかった」


 一番言いたくない言葉だった。


 でも、言った。


 彼女が罪悪感を持たないように。


 自分を捨てたと思わないように。


 彼女が選んだ男のところへ、迷わず行けるように。


「そう、なのですね」


「ああ」


「では……よかったです」


 リディアが笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 ユリウスは心の中で思った。


 良いわけがない。


 何が良いものか。


 でも。


 口には出さなかった。


     


 リディアが部屋を出たあと。


 ユリウスはしばらく動けなかった。


 執事が入ってくる。


「旦那様?」


「その呼び方はやめろ」


「では、ユリウス様」


「ああ」


「リディア様は?」


「帰った」


「指輪は?」


 ユリウスはポケットへ手を入れた。


 小さな箱を出す。


「渡さなかった」


「なぜです?」


「好きな男がいるらしい」


 執事が目を丸くした。


「リディア様に?」


「ああ」


「誰です?」


「知らない」


「聞かなかったのですか?」


「ああ」


「なぜ?」


「聞いてどうする」


「気になるでしょう」


「ものすごく気になる」


「なら聞けばよかったのでは?」


 ユリウスは執事を見た。


「今、かなり傷ついている。少し優しくできないのか」


「申し訳ございません」


 まったく申し訳なさそうではなかった。


「それで、これからどうなさいます?」


「家は出る」


「婚約はなくなりましたが」


「署名した」


「……」


 執事が黙った。


「何だ」


「本日一日で、婚約者と爵位継承権を同時に失った方を初めて見ました」


「私も初めてだ」


「おめでとうございます、と申し上げるべきでしょうか」


「言ったら解雇する」


「もう私を雇えないのでは?」


「……そうだった」


 ユリウスは机に額をつけた。


     


 五日後。


 リディアは小さな旅行かばんを持ち、王都の乗合馬車の発着場にいた。


 荷物はそれだけだった。


 七年間暮らした屋敷から持ち出せた物は、思ったより少ない。


 服。


 本。


 母の形見。


 ミアから渡された大量の焼き菓子。


 最後のものだけは予定外だった。


『道中でお腹が空きますから!』


 と言って、かばんの半分を占領された。


「絶対に多いわよ……」


 かばんを持ち直す。


「何が多いんだ?」


 聞き慣れた声がした。


 リディアは固まった。


 ゆっくり振り返る。


「……ユリウス様?」


 そこにいた。


 いつもの立派な公爵家の馬車はない。


 従者もいない。


 彼も自分で旅行かばんを持っていた。


「どうしてこちらに?」


「馬車に乗るためだが」


「それは見れば分かります」


「なら、なぜ聞いた」


「公爵家の方が乗合馬車を使うとは思わないでしょう」


「もう公爵家の跡取りではない」


 リディアは笑いかけて。


 止まった。


「……何と?」


「後継者を辞退した」


「どうして?」


「父と意見が合わなかった」


「何について?」


 ユリウスは少し黙った。


「君との婚約について」


 リディアは瞬きをした。


「待ってください」


「ああ」


「いつです?」


「婚約破棄された日の朝だ」


「私が?」


「ああ」


「あなたに?」


「そうだ」


 頭が追いつかない。


「お父様は、何と?」


「ベルナール家との婚約を解消しろと」


「だから……」


「断った」


「なぜ?」


 ユリウスの眉が寄った。


「なぜ?」


「だって、あなたは私を愛していなかったのでしょう?」


 今度はユリウスが固まった。


 二人の間を、荷物を抱えた老人が通り過ぎる。


「すみませんよ」


「あ、申し訳ありません」


 二人そろって道を空けた。


 老人が行ってから、また向き合う。


「リディア」


「はい」


「私が君を愛していないと思っているのか?」


「あなたがそうおっしゃったのでしょう!」


「君が先に言ったんだ!」


「私は嘘です!」


 言ってから。


 リディアは両手で口を押さえた。


 ユリウスが動かない。


「……今、何と?」


「いえ」


「嘘?」


「忘れてください」


「無理だ」


 逃げようとした。


 腕をつかまれる。


「リディア」


「離してください」


「好きな男は?」


「……」


「いるんだろう」


「いません」


「いない?」


「最初から」


「……」


「……」


 今度は二人とも黙った。


 少し離れたところで、馬車の御者が、


「西方面、あと十分で出ますよー!」


 と叫んでいる。


 誰も気にしなかった。


「では」


 ユリウスが低い声で言う。


「なぜ婚約破棄を?」


「家の借金です」


「それは知っている」


「知っていたのですか?」


「知っていた」


「なら分かるでしょう。あなたまで巻き込みたくなかったのです」


「だから、私の気持ちは聞かずに?」


「聞いたら助けると言ったでしょう!」


「当たり前だ!」


「だから聞かなかったのです!」


「それを勝手だと言っている!」


「あなたにだけは言われたくありません!」


「なぜ!」


「私のために公爵家まで捨てておいて、何も言わなかったでしょう!」


「君に好きな男がいると思ったからだ!」


「いません!」


「今知った!」


 声が大きくなっていた。


 周囲の人が見ている。


 でも、もう気にしていられない。


「あなたこそ!」


 リディアはユリウスを指さした。


「私を愛していないと言ったではありませんか!」


「君が他の男を好きだと言うからだ!」


「それは嘘です!」


「私のも嘘だ!」


 また沈黙した。


 何人かの通行人まで足を止めている。


 近くにいた老婆が隣の人へ、


「何の話かね」


「たぶん恋人げんかです」


 と答えた。


 リディアは恥ずかしくなった。


 でも。


 ユリウスを見る。


「……私のも?」


「ああ」


「では、本当は?」


「言わせるのか?」


「ここまで来たのですから言ってください」


 ユリウスは周囲を見る。


「ここで?」


「あなたが大声を出したので、もう今さらでしょう」


「君も出しただろう」


「早く」


 彼はしばらく黙っていた。


 そして、深く息を吐いた。


「愛している」


 今度は。


 ちゃんと聞こえた。


「七年前からではない。最初は家が決めた婚約者だった。でも、いつの間にか君と結婚したいと思うようになった」


 リディアの目から涙が出た。


「遅いです」


「ああ」


「七年ですよ」


「ああ」


「私、あなたに愛されていなかったと思って、五日間ずっと泣いていたのですよ」


「私は好きな男に捨てられたと思って五日間寝ていない」


「それは……」


「どちらがひどい?」


「同じくらいです」


「そうだな」


 ユリウスが笑った。


 リディアも、泣きながら笑った。


「私たち、何をしているのでしょう」


「分からない」


「あなたは爵位を失って」


「君は屋敷を売って」


「婚約もなくなって」


「五日間無駄に傷ついた」


「全部、自分たちで?」


「ああ」


「馬鹿ですね」


「かなり」


 二人で笑った。


 笑いながら。


 少しだけ泣いた。


     


「ところで」


 しばらくして、リディアが聞いた。


「これからどちらへ?」


「北西部だ。父の知り合いが管理する学校で、会計の仕事を紹介してもらった」


 リディアは目を丸くした。


「学校?」


「ああ」


「どこの?」


「ラウルという町だ」


「……私もです」


「何?」


「私も、その町の学校で教師として働きます」


 また二人で黙った。


「同じ学校?」


「たぶん」


「こんな偶然あるのか?」


「知りません」


「……」


「……」


 今度はユリウスが笑った。


「これで別の場所だったら格好がついたのに」


「神様も私たちが面倒になったのかもしれませんね」


「近くに置いておけば、もう少しまともに話すと思ったのか」


「効果はありそうです」


 御者の声が響く。


「ラウル方面、そろそろ出ますよ!」


 二人は同時に馬車を見る。


 そして。


 同時に一歩進んだ。


 でもリディアは途中で立ち止まった。


「ユリウス様」


「何だ?」


「一つだけ」


「ああ」


「婚約を元に戻すのですか?」


 彼も足を止めた。


 少し考える。


「いや」


 胸が沈みかける。


 でも彼は続けた。


「戻すのはやめよう」


「……なぜ?」


「七年前の婚約は、家が決めたものだった」


 ユリウスが旅行かばんを地面へ置く。


「私は、君が婚約者だから一緒にいた。君もそうだった。それで途中から好きになったのに、言わなくても結婚できるから何も言わなかった」


 苦笑する。


「その結果がこれだ」


「否定できません」


「だから今度は、最初から自分たちで決めたい」


 ユリウスがリディアの前へ立った。


「リディア・ベルナール」


「はい」


「私は今、公爵家の跡取りではない。屋敷も領地もない。今から学校の会計係になる予定の、ただの男だ」


「十分立派なお仕事です」


「ありがとう」


 少し笑う。


「そんな私でよければ」


 一度、言葉を切った。


「私と恋をしてくれないか」


 リディアは目を瞬いた。


「結婚ではなく?」


「まずはそこからだ」


「七年間婚約していたのに?」


「だからこそ」


「遠回りですね」


「今さらだろう」


 確かに。


 リディアは笑った。


「分かりました」


「ああ」


「では、最初からお願いします」


「最初?」


「はい」


 リディアは少しだけ姿勢を正した。


「まず、お名前から」


「そこまで戻るのか?」


「最初からとおっしゃったでしょう」


 ユリウスは困った顔をした。


 でもすぐに笑う。


「ユリウス・アーヴェント。二十五歳。今のところ無職だが、一時間後には学校の会計係になる予定だ」


「リディア・ベルナール、二十三歳です。こちらも一時間後から教師になる予定です」


「好きなものは?」


「甘い焼き菓子です」


「知っている」


「初対面でしょう?」


「……そうだったな」


 リディアは笑った。


「あなたは?」


「紅茶。それと」


 ユリウスが少しだけ迷う。


「今から恋をする予定の女性がいる」


「まあ」


「その人は?」


「私にもいます」


「どんな男だ?」


「とても面倒な人です」


「奇遇だな。私の好きな女性も相当面倒だ」


「失礼ですね」


「お互い様だろう」


 御者がとうとう叫んだ。


「乗らないなら置いていきますよ!」


 二人は慌てて荷物を持った。


「行きましょう」


「ああ」


 馬車へ乗る。


 並んで座った。


 もう婚約者ではない。


 公爵令息と伯爵令嬢でもない。


 ただ、これから同じ町へ向かう男と女だった。


 馬車が動き始める。


「リディア」


「はい?」


「さっき言い忘れた」


「何を?」


 ユリウスが少しだけ気まずそうに窓の外を見た。


「婚約破棄の日に言ったこと」


「はい」


「『愛していない』は、もう二度と言わない」


 リディアは少し考えた。


「私もです」


「それならいい」


「ただし」


「何だ?」


「言いたいことを勝手に飲み込むのも禁止にしましょう」


「……努力する」


「禁止です」


「分かった」


 リディアは笑った。


 王都の門が遠ざかっていく。


 七年間続いた婚約は、もうない。


 代わりに今日。


 二人の恋が、ずいぶん遅れて始まった。


 旅行かばんの中で、ミアが持たせた大量の焼き菓子がごとりと鳴った。


 リディアはそれを思い出して、ユリウスを見る。


「お腹は空いています?」


「少し」


「焼き菓子があります。二十個ほど」


「二十?」


「侍女が心配性なのです」


「二人でも多いな」


「では、学校の皆さんにも配りましょう」


「そうしよう」


 リディアはかばんを開いた。


 新しい町まで、まだ何時間もある。


 その間に話すことはたくさんあった。


 七年間も一緒にいたのに。


 まだ、聞いていないことばかりだった。


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