第4話:風の賢者は自由奔放。空飛ぶデートは密着禁止!?
氷が溶ければ水になり、水が溢れれば湿気となる。そして、湿りすぎた部屋にはカビが生える。
これが自然の摂理であり、『七彩の魔導塔』における「お世話係」の絶望のサイクルだ。
「……よし、これで三階東側の除湿と床拭きは完了。次は西側の……」
俺、アルトは、腰を叩きながら掃除用具の入ったバケツを持ち上げた。
昨日の「火と氷の衝突」と、その後の「水の賢者アクア様による大浸水」の結果、この塔の数フロアは一時的に熱帯雨林のような気候になっていた。
普通の魔導師なら、賢者たちの残留魔力で気分を悪くして寝込むレベルの汚染だが、あいにく俺の体は魔力を素通りさせる「無効化」体質。
おかげで、世界最強の魔法使いが暴れた後の片付けを、世界で唯一、文句も言わずに(心の中では言っているが)完遂できる。
「ったく、あの人たち……もう少し後のことを考えて魔法を使ってくれないかな……。俺の腰は魔力耐性がないんだぞ……」
ボヤきながら廊下を歩いていた、その時だった。
――ヒュオッ。
背筋に走る、奇妙な風の震え。
俺が気づいた時には、開けてもいない廊下の窓から、一条の突風が鋭く室内へ滑り込んできた。
「みーっけ! お疲れ様、アルト!」
聞き慣れた、鈴を転がしたような快活な声。
視界がぐるりと回る。
気づけば俺の体は床を離れ、誰かの腕の中に抱え上げられていた。
「わっ……!? ウェ、ウェンディ様!?」
そこにいたのは、風の賢者ウェンディ様だ。
短く切り揃えられたエメラルドグリーンの髪。少年のような快活な笑みを浮かべた美少女が、あろうことか俺を「お姫様抱っこ」の形で軽々と持ち上げている。
「あはは! 何その顔、面白い! そんなに掃除ばかりしてちゃ、心までカビが生えちゃうよ? ほら、ボクが最高の『乾燥』をプレゼントしてあげる!」
「え、ちょっと待って、掃除がまだ……あ、バケツが!」
「そんなの、後で風が片付けてくれるよ! 行くよ、アルト! 掴まってて!」
返事を聞くより早く、彼女の周囲に爆発的な上昇気流が発生した。
ウェンディ様は俺を抱えたまま、窓から外――つまり、地上数百メートルという死の世界へ向かって、迷いなくダイブした。
「うわあああああああああああ!?」
俺の絶叫が、王都の青空に吸い込まれていく。
重力から解放される浮遊感。凄まじい風圧が頬を叩く。
だが、その恐怖は数秒で「驚き」へと変わった。
俺たちを包むように、目に見えない空気の膜が形成されていた。
風圧は心地よいそよ風に変わり、ウェンディ様はまるで透明な階段を駆け上がるように、軽やかに、そして恐ろしい速度で空を舞い始めた。
「ほら、見てよアルト! 王都があんなに小さい!」
「……っ、ちょ、ウェンディ様! 怖い、怖いですから! 落ちる! 絶対落ちる!」
「大丈夫だってば! ボクがアルトを落とすわけないでしょ? ほら、そんなに怖いなら……もっと強く、ボクの首に手を回しなよ」
ウェンディ様がニシシ、といたずらっぽく笑う。
彼女は俺の顔を自分の方へ引き寄せた。
至近距離で合う、輝くような緑の瞳。
ボーイッシュな服装のせいか、普段はあまり意識しないようにしていたけれど、こうして密着すると彼女もまた、驚くほど柔らかくて、いい匂いのする女の子なのだという事実が、否応なしに脳に突き刺さる。
「……あ、アルト。顔、赤いよ? 高いところがそんなに恥ずかしい?」
「……高さのせいだけじゃないですよ、もう!」
俺は必死に彼女の肩にしがみついた。
ウェンディ様は満足げに鼻歌を歌いながら、雲を突き抜け、さらに高度を上げていく。
やがて辿り着いたのは、王都の遥か上空に浮かぶ、古代の遺構と思わしき小さな「浮島」だった。
そこは、騒がしい下界の音が一切届かない、静寂の世界だった。
風だけが優しく吹き抜ける、白い石畳の広場。
「ふぅ、着いたー! ここ、ボクのお気に入りの場所なんだ。誰にも邪魔されない、ボクだけの秘密基地」
ウェンディ様は俺を地面に降ろすと、大きく伸びをした。
空気が薄いはずなのに、彼女の周囲だけは常に新鮮な酸素が循環している。
「……驚きました。こんな場所があったなんて。でも、連れてくるならせめて一言言ってください。心臓がいくつあっても足りません」
「あはは、ごめんごめん。でも、アルトを驚かせるのが一番楽しいんだもん」
彼女はそう言って笑ったが、その直後、ふらりと体が揺れた。
「……ウェンディ様?」
「……あれ、おかしいな。ちょっと、風を使いすぎたかな……」
彼女の足元の石畳が、不規則な風の渦に削られ始める。
ウェンディ様の肩が激しく上下し、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
俺はすぐに察した。
ここ数日のドタバタ、そして今の超高速飛行。
自由奔放に見えるウェンディ様だが、彼女もまた他の賢者同様、内側に抱える巨大な魔力を制御し続けることに疲弊していたのだ。
特に彼女の「風」は、常に流動していなければならず、一度乱れれば嵐となって周囲を破壊し、自身の精神を摩耗させる。
「ウェンディ様、魔力調整を。……今の貴女、風が荒れすぎています」
「……えー、いいよ、これくらい。ボク、強いし……」
「ダメです。主人を健やかに保つのもお世話係の仕事ですから。……お座りください」
俺が少し厳しめの声を出すと、ウェンディ様は
「……アルトがそこまで言うなら、仕方ないな」と呟き、石畳の上にちょこんと座り込んだ。
俺は彼女の前に膝をつき、その小さな、けれどしなやかな両手を握りしめる。
「……あ」
ウェンディ様が、微かな声を漏らした。
俺の手が彼女に触れた瞬間、彼女の身体から溢れ出していた不規則な突風が、嘘のように凪いでいく。
俺の体は、荒れ狂う風を受け流す避雷針のようなものだ。
「……アルトの手、あったかいね」
「貴女が冷えすぎなんです。……じっとしていてください。今、乱れた魔力を引き抜きますから」
俺は彼女の手を握ったまま、少しずつ指先を滑らせ、手首、そして肘のあたりへと触れていく。
風の魔力調整は、他の属性よりも「流れ」を意識しなければならない。
俺は彼女の腕に指を添え、滞っている魔力の澱みを、自分の体へと誘導した。
「っ…………ふ、あ……」
ウェンディ様の喉から、艶っぽい吐息が漏れた。
彼女の大きな瞳が潤み、視線が定まらなくなる。
「……ねえ、アルト。ボクの風って……速すぎて、誰もついてこれないんだ」
「……そうでしょうね。さっきの飛行も、普通の人なら気絶しています」
「……うん。みんな、ボクを凄いって言うけど……本当は、寂しかったんだ。ボクがどれだけ速く飛んでも、隣には誰もいない。……でも、アルトだけは、ボクがどんなに暴走しても……こうして、捕まえてくれる」
ウェンディ様は、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
その力は意外なほど強く、そして、どこか震えていた。
「……お世話係として、当然のことをしているだけです」
「ボクは、当然じゃ……嫌なんだよ。……ねえ、アルト」
ウェンディ様が、俺の胸元に顔を寄せてくる。
彼女の髪から、草原を吹き抜ける風のような、爽やかで少しだけ甘い香りがした。
「ボクのこと、もっと、強く……繋ぎ止めて。……風になっちゃわないように。……アルトだけの、ボクにして……」
いつもの「ボクっ娘」らしい快活さはどこへやら。
そこには、一人の無防備な少女としての「ウェンディ」がいた。
彼女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
閉ざされた瞼。
触れ合う直前の、静止した時間。
だが、その至高の瞬間を打ち砕いたのは、下界から響いてきた、地鳴りのような重低音だった。
『……ウェンディ。……アルトの誘拐は、重罪。……直ちに、彼を、解放しなさい』
浮島全体が、激しい地震に見舞われたかのように揺動した。
驚いて俺たちが離れると、石畳を突き破って、巨大な「土の拳」が隆起してきた。
「えっ、ガイア様!?」
「あっちゃー……見つかるの早いよ、ガイアの姉貴!」
空中に、巨大な土のゴーレムが姿を現した。
その肩に乗っているのは、長い茶髪を無造作に垂らし、眠たげな、しかし絶対的な威圧感を放つ瞳をした女性――土の賢者ガイア様だった。
『……アルト。……夕食の、献立相談。……私の部屋で、待っていた。……なのに、風が、さらっていった』
「いや、ガイア様、これはウェンディ様が強引に……」
『……ウェンディ。……不敬。……沈みなさい』
ガイア様が指先を動かすと、浮島の周囲の重力が一気に数倍に跳ね上がった。
「わわわ! 重いっ! ちょ、ガイア、ここはボクの聖域だってば!」
「ウェンディ様、ガイア様! 喧嘩しないでください! 浮島が、島が落ちますっ!」
上空では、ウェンディ様が巻き起こす竜巻と、ガイア様が放つ巨大な岩弾が衝突し始めた。
俺はといえば、強力な重力魔法で床に這いつくばらされ、さらにウェンディ様の突風で空中に舞い上げられそうになるという、まさに「もみくちゃ」の状態だ。
「……もう、嫌だぁぁぁ! お前ら、少しは落ち着けえええ!」
俺の絶叫は、空を裂く魔法の音にかき消されていった。
一時間後。
ボロボロになった俺を抱えて、ガイア様のゴーレムがゆっくりと魔導塔へ帰還した。
ウェンディ様は「また今度ね、アルト!」と懲りずにウィンクをして雲の彼方へ消え、ガイア様は俺をゴーレムから降ろすと、無言で俺の背中を、まるで愛犬を撫でるような手つきでポンポンと叩いた。
「……アルト。……今日の晩御飯、ハンバーグ、がいい」
「……はいはい。作りますよ。だから、もう俺を空中で引っ張りだこにするのはやめてくださいね……」
夕日に染まる塔を見上げながら、俺は深いため息をついた。
掃除は終わっていない。腰は痛い。そして、夜にはまた別の賢者たちが俺を待ち構えているだろう。




