第3話:氷の賢者は独り占めしたい。溶けることのない銀世界で
「……火遊びは、そこまでです」
氷の賢者シエル様の宣言と共に放たれた冷気は、つい数秒前までサウナ状態だったフレア様の部屋を一瞬で極寒の地へと変えた。
バキバキと音を立てて壁や床が凍りつき、舞い上がる火の粉がダイヤモンドダストのように白く光って消えていく。
「ちょ、ちょっとシエル! 何すんのよ! 今いいところだったじゃない!」
「……『いいところ』とは、どの口が言っているのですか。アルトの純潔を脅かす火種は、早急に消火しなければなりません。これは塔の公衆衛生上の問題です」
「公衆衛生って何よ! 私がアルトと何をしようが勝手でしょ!」
「勝手ではありません。アルトは全賢者の共有財産……いえ、今は私の占有権が優先される時間です。行きますよ、アルト」
シエル様は無表情のまま、俺の腕をがっしりと掴んだ。
ひんやりとした、というレベルではない。凍てつくような冷たさが、エプロンの袖越しに伝わってくる。だが、俺の体質はそれさえも「心地よい清涼感」程度に変換してしまうのだから、我ながら便利な体だと感心する。
「あ、ちょっと、フレア様、また後で片付けに来ますから!」
「あー! 待ちなさいよアルト! シエル、あんた後で絶対に焼いてやるんだからぁぁぁ!」
遠ざかるフレア様の絶叫を背に、俺はシエル様に引きずられるようにして廊下を進んだ。
彼女が歩くたびに、絨毯には白い霜が降り、窓ガラスは美しい氷結の紋様を描き出す。
『氷の女王』――その二つ名に相応しい、歩く天変地異。それが俺の主人の一人、シエル様だ。
「……シエル様、そんなに急がなくても逃げませんよ」
「……黙りなさい。逃げます。貴方はお人好しすぎて、隙を見せればすぐに火だるまの女や、あの露出狂の水の女に絡め取られるのです。私が物理的に隔離しなければ、貴方の身が持ちません」
シエル様は前を向いたまま、淡々と、しかしどこか早口で告げた。
彼女の耳の先が、寒さのせいではなく、微かに赤くなっているのを俺は見逃さなかった。
塔の最上階に近い一角。
そこがシエル様の私室――通称『氷結晶の聖域』だ。
扉を開けた瞬間、そこには幻想的な光景が広がっていた。
天井からは無数の氷のシャンデリアが吊るされ、壁は磨き上げられた水晶のような氷で覆われている。家具の一つ一つが芸術的な氷細工で、窓から差し込む午後の光が屈折し、虹色の輝きとなって部屋中を舞っている。
「……いつ見ても、綺麗な部屋ですね」
「……無駄な装飾はありません。私の魔力が安定している結果です。……さあ、座りなさい。アルト」
シエル様が指し示したのは、これまた氷でできたソファだった。
普通の人間が座れば一秒で尻が凍りつくだろうが、俺は平然と腰を下ろす。
「シエル様、今日は少し魔力の冷気が鋭い気がします。朝の食堂で、アクア様と競い合っていたからですか?」
「……アクア。あの女は不潔です。無闇に貴方に抱きつき、その湿った魔力で貴方の服を汚す。……私は、それが許せないのです」
シエル様はソファの俺のすぐ隣に座った。
いや、座ったというより、ぴったりと体を密着させてきた。
銀糸のような美しい髪が俺の肩にかかり、冷たいはずの彼女の吐息が、なぜか熱を持って俺の首筋に触れる。
「……アルト。私の魔力を、受け止めなさい。……今の私は、貴方がいないと、自分を凍らせてしまいそうなのです」
シエル様の魔力調整は、他の賢者たちとは少し意味合いが異なる。
彼女はあまりに純粋で強力な冷気を宿しているため、溜め込みすぎると自分自身の心臓さえも凍りつかせてしまう危険があるのだ。
俺の『無効化』は、彼女にとって、唯一体温を感じられる「逃げ場」だった。
「わかりました。……失礼しますね」
俺は彼女の細い腰に手を回し、そのまま正面から抱き寄せた。
シエル様の身体は、驚くほど華奢で、そして驚くほど冷たい。
まるで精巧に作られた氷像を抱いているような錯覚に陥るが、腕の中でトクトクと速い鼓動を刻む彼女の心臓が、彼女が生きている少女であることを教えてくれる。
「ぁ…………」
シエル様が、俺の胸に顔を埋め、小さく吐息を漏らした。
俺の体温が彼女の冷気を中和し、代わりに彼女の過剰な魔力が俺の体を通じて虚空へと消えていく。
「……アルトの……匂いがします。……石鹸と、お日様と……少しだけ、さっきの女の煙臭さ」
「鼻がいいんですね。……でも、もう煙の匂いは消えたでしょう?」
「……まだです。……もっと、上書きしなければなりません。……私の氷で、貴方を真っ白に染め上げたい……」
シエル様の腕が、俺の背中に回される。
ぎゅっ、と、折れそうなほど強い力で抱きしめられる。
普段の彼女からは想像もつかない、切実で、執着に満ちた抱擁。
「シエル様……苦しいですよ」
「……死なない程度に我慢しなさい。……これは、お世話係としての責務です。……私に、一人であることを忘れさせなさい」
彼女の声が、微かに震えていた。 世界最強の賢者。人々から仰ぎ見られ、遠ざけられる孤独。 その氷の鎧の下で、彼女はずっと、誰かに触れても壊れない「温もり」を探していたのだ。 俺の魔法無効化は、彼女の魔法を壊す力ではない。 彼女を「賢者」から「ただの女の子」に戻してやれる、唯一の魔法なのだ。
「……シエル様は、寂しがり屋ですね」
「……馬鹿なことを。……私は、氷の賢者。……一人で完結している存在なのです」
「じゃあ、この震えている手は、誰の手ですか?」
俺は彼女の手を取り、優しく包み込んだ。
シエル様は一瞬だけ身を強張らせたが、すぐに力を抜き、俺の指に自分の指を絡ませてきた。
「……卑怯です。……そうやって、貴方はいつも私を甘やかす。……私が、貴方なしでは生きていけない身体だと分かっていて……」
「お世話係ですから。主人が一人で生きていけなくなったら、僕が一生面倒を見るだけですよ」
「……『一生』。……今、言いましたね。……契約成立です。……貴方は死ぬまで、私の専属の暖房器具であり、抱き枕であり……私の、アルトです」
シエル様が顔を上げ、じっと俺を見つめた。
その瞳には、氷の冷たさはもう微塵もなかった。
潤んだ青い瞳が、熱い熱を帯びて俺の唇を追いかける。
「アルト。……調整の仕上げを。……もっと、深い場所まで……」
彼女の顔が近づく。
静寂に包まれた氷の世界で、二人の鼓動だけが共鳴する。
触れ合う直前、シエル様の唇から漏れたのは、「好き」という言葉よりも重い、呪いのような愛の囁きだった。
――だが。
その甘い沈黙を、無情にも「水の流れる音」が切り裂いた。
「あらあら~。シエルちゃん、またそんなに冷やしちゃって。アルト君が風邪を引いちゃうじゃない」
ふにゃふにゃとした、間の抜けた、しかし絶対的な魔力を感じさせる声。
見れば、氷で閉ざされていたはずの壁が、不自然なほど綺麗な円形に「溶けて」いた。
そこに立っていたのは、水の賢者アクア様。
お風呂上がりなのか、ゆったりとしたローブを羽織り、手に桶とタオルを持った姿で、ニコニコと微笑んでいる。
「……アクア。貴女、何の真似ですか。ここは私の聖域だと、一億回は言ったはずですが」
「だってぇ、シエルちゃんの部屋、湿度が低くてお肌に悪いんですもの。少し潤いを与えてあげようと思って。ねえアルト君、お掃除頑張ったご褒美に、一緒にお風呂に入りましょう? 背中、流してあげるわよ?」
アクア様が、ゆるりとローブの肩をはだけさせ、豊満な胸元を強調しながらアルトに歩み寄る。
「……殺します。アクア、貴女を永久氷壁の中に封印して、深海の底に沈めてあげます」
「まあ怖い。でも、私の水は氷には負けないわよ? ほら、アルト君もこっちに来なさいな」
シエル様の手から氷の剣が生成され、アクア様の手からは巨大な水の奔流が渦を巻く。
狭い(といっても広いが)私室内で、氷と水の二大賢者が激突しようとしていた。
「……あの、お二人とも! 部屋の中で属性衝突を起こさないでください! 塔の維持費が! 予算がなくなりますから!」
俺の必死の制止も虚しく、部屋はみるみるうちに氷浸しと水浸しになっていく。
おまけに、この騒ぎを察知した風のウェンディ様が窓から突っ込み、土のガイア様が床を割って現れる気配がした。
「アルトは私の、私のものなのですぅぅぅ!」
「いいえ、みんなのアルト君よぉ!」
――結局、その日の俺の午後は、溶けた氷水の中で四人の賢者を引き剥がすという、お世話係の範疇を大幅に超えた重労働で終わった。
夜、疲れ果てて自分のベッドに潜り込んだ俺は、枕元に置かれた氷の薔薇(シエル様が置いていった「印」)を見つめながら、深くため息をついた。
「一生面倒を見る、なんて……本当に、言わなきゃよかったかな」
口ではそう言いつつも、俺は少しだけ口角を上げて、心地よい疲労感と共に眠りにつくのだった。




