朝日
夜が明け、朝日が昇る。
それは今日の始まりであり、昨日の終わりでもある。
これは自然の摂理だ。天地はひっくり返りでもしない限り、無くなる事は無いだろう。
何があろうと、朝日は昇る。
あまりにも無慈悲に。人の悲しみを知らずに。
瞭はいつものように仕事を終え、家に帰ってきた。
いつもの「おかえり」を告げる甘い鳴き声が聞こえない。重苦しい静寂と、それを誤魔化すかのような環境音が代わりに耳に届いた。
ワンルームの床に置かれたキャットタワー。その下には、丸まったまま動かない愛猫のタマがいた。
いつもなら鍵の音を聞きつけた瞬間に駆け寄ってくるはずだが、ピクリともしない。
瞭の額から冷や汗が滴る。
「タマ......?」
震える手で背中に触れる。
陽だまりのように暖かく柔らかい身体は、石のように冷たく、硬かった。
振り返ってみれば、予兆はいくらでもあった。
一週間前、タマはいつも完食するはずのキャットフードを半分残した。
瞭は「夏バテかな?」と軽く考えるだけだった。
三日前、大好きなはずのおもちゃに見向きもせず、壁の隅でじっとしていた。
「大人しくなったな」と瞭は勝手に「成熟」というたった二文字で愛猫の苦痛を片付けた。
前日の夜、タマは一度だけ、瞭の足元で小さく、脆く、絞り出すような声で「にゃぁ」と鳴いた。
が、翌日のプレゼンテーションの為に資料を作っていた瞭にとって、それは雑音に過ぎなかった。
動物病院へ連れて行くという選択肢は、常に頭の片隅にはあった。しかし、そのたびに瞭は自分を納得させる理由を探してしまった。
「明日は大事な会議がある」
「猫はもともと体調を隠す生き物だから、これくらい大丈夫だろう」
「今度の土日に、まだ様子がおかしければ行こう」
理由はいくらでもあった。瞭は安心してしまった。
その「今度の土日」がタマに訪れることはなかった。
瞭はタマを動物病院に連れて行った。
冷や汗が体中から吹き出ていた。
既に事切れていた。
「慢性腎不全の急激な悪化でしょう。もっと早く……せめて数日前に連れてきていただければ、点滴や投薬で、まだ一緒にいられたはずです。」
獣医師はそう言いながら、静かに首を横に振った。
「もっと早く」
その言葉が、瞭の中で、何度も、何度も繰り返された。
鋭い言葉の刃が瞭の心を抉った。
獣医師は瞭を責めるような口調では無かったが、それが瞭の無知と怠慢を際立たせた。
タマは言葉を持たない。だからこそ、全力でサインを送っていた。
食べるのをやめ、遊びをやめ、隅でじっとしていることで、「苦しい」と伝えていた。それを、仕事や自分の疲れを理由に無視し続けたのは、他ならぬ瞭だ。
「自分がハナを殺した。手を下したわけではない。けれど、救えるはずの手を差し伸べなかった。それは、積極的に命を奪うことと、一体何が違うのだろうか。」
そう思っているうちに、瞭の頬から、汗では無い何かが零れた。
ハナがいなくなってから、部屋は広すぎるほどに静まり返った。
ふとした瞬間に、カーテンの裏やソファの陰に、彼女の気配を探してしまう。足首に触れる柔らかな毛の感触を思い出した。
タマの写真を投稿していたSNSのアカウントを削除した。
それは、瞭が「タマはもういない」と理解した事と同義だった。
キッチンに残された、開封されたままのキャットフード。
洗面所に置かれた、もう誰も使わない水飲み器。
辺りに広がる全てが明人の罪悪感を煽った。
明人はハナが最後に鳴いた場所で、彼女の視線の高さまで腰を落としてみた。そこから見える景色は、思っていたよりも低く、心細いものだった。
あの時、ハナはこの場所から、どんな思いで自分の背中を見上げていたのか。どんなに苦しく、どんなに助けてほしかったのか。
それを想像するたびに、呼吸が浅くなった。
瞭は夜が明けるまで泣いた。
それは家の壁を越えて外の人々が聞くのに十分な大きさだった。
それでも瞭に手を差し伸べる者はいなかった。
至極全うなことだ。
80億分の1が悲しんだとして、社会は振り向いてくれない。
自然すらもそうだった。
何があろうと、朝日は昇る。
あまりにも無慈悲に。人の悲しみを知らずに。




