大名のわがまま
北ノ庄城を落とした武田昌龍軍の本陣は、朝倉氏最後の拠点である敦賀城を完全に包囲していた。日本海から吹き寄せる冷たく湿った風が、武田の二つ割り菱の旗印をひたひたと揺らし、鉛色の空の下、数万の兵士たちが息を殺して次の指令を待っていた。本陣の幕が風に揺れる中、昌龍は新たに配下となった鷲津三厳と対峙していた。三次はかつて朝倉家に仕え、その剛勇と義侠心で名を馳せたが、主家の衰退と昌龍の器量を見込まれ、厚遇をもって迎え入れられた男である。彼の顔には、かつての主への未練と、新たな主君への忠誠心が複雑に交錯していた。
昌龍は温かい酒を一口含み、ゆっくりと杯を置くと、鋭い眼光を三次に向けた。
「三次よ。城の気配はどうじゃ?朝倉義景は、この敦賀城に籠り、最後の一花を咲かせようという覚悟か?」
荒鷲の三次は深々と頭を垂れ、力強い声で答えた。
「はいっ、昌龍様。城兵の士気は最早風前の灯でございます。兵糧も底をつき、最早籠城して時を稼ぐしか能はございません。しかし…」
昌龍は微動だにせず、三次の言葉を待った。
「しかし、何だ?遠慮せずに言え。お前の心中、察するのは難くない」
三次は唇を噛みしめ、覚悟を決めて言葉を続けた。
「…はい。僭越ながら、申し上げます!かつての主君、義景公に対し、どうか…どうか最後の情けをかけていただけませぬか?開城すれば、その命ばかりは…どうかお助けくださいますよう!」
昌龍は三次の訴えを聞き終えると、静かに立ち上がった。そして、腰にぶら下げた巨大な鉞をざくりと床の板に立てた。鈍い金属音が帳内に響き渡り、その音に、周囲に控える山本勘助や他の副官たちがはっと息を飲んだ。空気が一瞬で張り詰める。
「ふん」
昌龍の低い声が、緊張した空気を切り裂いた。
「情けだと?三次、お前は義に厚い、良い男だ。その心根はわしも買っておる。だがな、戦国というものはな、一度敗れた者に情けをかけていては、いつまでも戦いは終わらぬ。この乱世を終わらせるためには、枯れ果てた木は容赦なく切り倒さねばならん。義景の首は、わしが京に上がり、天下静謐を成し遂げる『証』じゃ。どうしても必要なものだ」
三次の肩ががっくりと落ちた。しかし、昌龍の言葉はまだ終わっていなかった。
「しかし…お前の願いも、聞かぬではあるまい。城兵の命は助ける。妻子に至るまで、一切咎めはせぬ。わしの旗下に入る者は受け入れ、帰農を望む者はそれを許す。ただし、義景の首だけは、どうしても貰い受ける。それでよいか?」
三次は顔を上げ、目の隅に涙を光らせながら、深く頭を垂れた。
「…かたじけない!それで十分にございます!城兵たちの命が助かるとあれば、義景公もきっと…。この三次、命の限り、御恩に報いまする!」
昌龍は満足そうにうなずき、幕の外に広がる敦賀城を指差した。
「よし。では、次のことを考えよう。若狭武田の者どもは、わしが朝倉を討ち果たした後、どう動くと思う?昌治」
昌治が進み出る。彼の目は常に先を見据えていた。
「昌龍様。若狭武田氏の武田元明様は、既に密かに使者を寄越しております。朝倉という重石が滅びれば、我らに臣従する用意があるとのこと。元明様は若年ではございますが、家臣団は現状をよく理解しておるようで」
「ほう…流石は勘助、情報は早いのう。ちょうど良い。朝倉が滅びれば、若狭は我らの眼前に転がってくる。ならば一度、わしの力量を思い知らせてやるか。三次、お前には大事な役目を申し付ける。朝倉旧臣のまとめ役として、この敦賀郡の監視と統治を命ずる。お前の義侠心は、敗残の兵や領民の心を鎮めるのに最も適しておろう。異論はあるか?」
「ございません!この三条、いや、鷲津三次、この命、昌龍様のために捧げます!」
(ふん、三次のような義に厚い男を使うには、ちょうど良い役目だ。彼が真心をもって接すれば、朝倉の旧臣たちも次第に心を開く。武力でねじ伏せるだけが能ではない。人心こそが、天下への礎となる。若狭武田…幼い主君を戴く小勢力め。こちらから手を伸べる前に臣従の意を示すとは、なかなか察しが良い。しかし、油断はならん。いつ牙をむくかわからぬからな)
朝倉義景が自刃し、一乗谷が武田の手に落ちると、その報せは畿内に衝撃を与えた。北陸の雄朝倉家の滅亡は、隣接する諸勢力に大きな脅威とともに、新たな選択を迫った。ほどなくして、若狭守護武田元明の重臣らが、昌龍の本陣にひれ伏した。使者の代表は、若狭武田家の重鎮である栗屋勝久であった。
栗屋勝久は恭順の意を表すために深く頭を床に擦り付けるようにして言った。
「昌龍様のお力、まばゆく存じます。我ら若狭武田家は、朝倉の圧迫に長らく苦しんで参りました。まるで大きな岩に押し潰されんとする小草のごとくでございました。どうか、昌龍様を我らが真の盟主としてお迎えし、武田の御威光の下、若狭の安泰を図りたい。ここに、武田元明公に代わり、臣従をお願い申し上げます」
昌龍は高笑いをあげた。それは、勝利の自信に満ちた笑いであった。
「はははは!良いだろう!元明よ、お前は若狭国主としてこれまで通り国を治めよ。わしはお前の力を認める。ただし、軍事と外交はわしが采配する。他国の者と勝手に盟約を結ぶような真似は許さぬ。異論はないな?」
若狭守護武田元明はまだ幼く、後見の重臣である栗屋勝久が代わりに答える。
「まったくもってごもっともでございます。これより若狭武田家は、昌龍様の御旗印の下、忠節を尽くすことを誓います」
(ふん、若狭を手中に収めれば、京へのはじめの一歩は完了だ。海の道も押さえられる。浅井、六角…次の相手はどちらにしようかのう。浅井長政は若いがなかなかの器量よし。六角義賢は古い権威にすがる老獪な狐。どちらも簡単にはいかぬが、今はまず、浅井に手を伸ばすとしよう。六角は将軍家に近い。下手に刺激すれば、足利義輝の機嫌を損ねる。しばらくは静観だ。浅井と六角が争えば、こちらの出番はまた後でよい)
昌龍はすぐさま浅井長政の下に能ある使者を送った。使者は昌龍の意図を明確に伝える。
「浅井長政様に申し上げます。我が主、武田昌龍は、近江には手を出さぬおつもりです。我々の敵は、あくまで天下を乱す者ども。浅井家とは友好関係を築きたい。ただし、こちらに敵意なき限りにおいて。どうか、中立をお約束いただきたい」
小谷城でこの報せを受けた浅井長政は、深く悩んだ。隣国江北の雄である彼は、武田昌龍という新興勢力の急速な台頭を危惧していた。
浅井長政は重臣の磯野員昌らを前に、低声で呟く。
「…武田昌龍か。その力は計り知れぬ。朝倉をあれほどの速さで滅ぼしたとは…。今、この勢力を敵に回すのは得策ではない。我らは江北の守りを固めねばならぬ。六角との確執も続いている。いずれ、六角との戦いでは、この昌龍という男の力を借りる必要が出てくるかもしれぬ…」
熟慮の末、長政は決断した。
「承知した。武田昌龍様との約束、堅く守ろう。我ら浅井家は、武田家との友好を望む」
同じく六角義賢の下にも使者が向かったが、昌龍はあえて曖昧な態度を取らせた。臣従を促すのでもなく、敵対を宣言するのでもない、微妙なバランスを保つ言葉を選ばせたのである。
(六角めは京に近い。下手に刺激すれば将軍家への煙たがられる。今はまだ、将軍・足利義輝の機嫌を損ねる時ではない。むしろ、この『天下静謐』の大義名分を利用させてもらおう。しばらくは静観だ。細川晴元や三好家の動向も気になるところじゃ。京は複雑だ。油断ならぬ)
京の街は、武田、尼子、三好、そして将軍家直轄の兵ら総勢十五万という前所未有の大行進に沸き立っていた。沿道には群衆が溢れ、彼らは道端にひざまずき、その威容に歓声と畏怖の念を交えて見上げる。陽光の下、鎧や旗指物がきらめき、馬蹄の音と甲冑の触れ合う音が街中に鳴り響いた。
将軍足利義輝は御所の高殿からこの行進を見下ろし、感動とともに一抹の不安を覚えていた。
「す、素晴らしい…これが当代の精鋭たちか。武田、尼子、三好…まさに戦国の雄たちぞ」
側近の細川藤孝が低声で答える。
「将軍様、ご安心を。これは天下が平定される吉兆でございます。彼らが将軍家の御威光の下に結集した証。武田昌龍殿の働きかけが実を結んだのでございます」
義輝はうなずいたが、内心では複雑だった。
(武田昌龍…その力は確かに頼もしい。しかし、この力がいつ牙をむくか…。今は、この力を以てして、三好や細川の勢力を抑え込まねばならぬ。)
行進の後、天王山の麓に設えられた特設の場で、将軍御前による「試合」が行われることとなった。これは単なる武力誇示ではなく、三家の和親と、将軍家への忠誠を確認する儀式的な意味合いが強かった。しかし、そこで繰り広げられるのは、真剣勝負に等しい激闘であることは誰の目にも明らかだった。
三好家の代表として名乗りを上げたのは、剛勇で名高い十河一存であった。彼は三好家随一の猛将として知られ、その武勇は畿内に轟いていた。
十河一存は場の中央に進み出ると、将軍義輝に向かって一礼し、続いて武田昌龍を睨みつけるようにして宣言した。
「三好家十河一存、御前試合をお願い申し上げます!武田昌龍様!是非とも、かの『修羅』と称されるお方と、手合わせを願いたい!」
昌龍はニヤリと笑い、ゆっくりと立ち上がった。その巨体が立ち上がると、周囲の空気が重くなったような錯覚を覚える。
「ほぅ?鬼十河か。良い度胸じゃ。わしの鉞が血で渇いておるのを、よくも察しておるな。将軍御前ではあるが、手加減はせぬぞ」
傍らにいた尼子政久が昌龍に小声で囁く。
「昌龍殿、存保は三好随一の強者ぞ。手加減は無用とは言うが、将軍御前だ。死人を出すような事態だけは避けねばならぬ。三好長慶の面目も立たせてやらねばな。」
「安心せい、政久。わしもそのつもりじゃ。存保よ、来い!存分に戦おうぞ!」
両者の武器が激突する。存保の長巻は風を切り、昌龍の鉞は地響きを立てる。一騎討ちとは思えぬ轟音が場内に響き渡り、見物する将兵や公家たちからどよめきが起こる。
「はああっ!これが『修羅』の力か!想像以上だ!」
「存保!その剣筋、良い!速い!しかし、わしの鉞はな、戦国の乱世を斬り裂くためにあるのじゃ!甘く見るなよ!」
互いの鎧に火花が散り、斬り結ぶこと数百合。太陽が傾き始めるほどの長時間に及んだ。昌龍は内心、存保の力量に感心していた。
(存保、なかなかの強者じゃ。三好にもまだ捨てたもんじゃない人材がおるのう。ここで無様に負かせれば、三好長慶の面目も立たぬ。かといって、わしが負けるわけにはいかん。将軍や諸将の前での敗北は、わしの威信に関わる。うまく勝負をつけねばならぬ)
昌龍はわざと脇腹に存保の斬撃を受け流すふりをした。鋭い斬撃が鎧に浅く跡を残す。その隙に、昌龍は鉞の峰で存保の兜の脇を強く打ち付けた。鈍い音が響き、存保は大きく体勢を崩し、地面に膝をつく。
「ぐっ…!この一撃…!」
「勝負あり!」
場内は一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声に包まれた。勝負は昌龍の勝利であった。
昌龍は手を差し出し、存保を立ち上がらせた。
「存保、良い戦いじゃった。わしも久しぶりに汗をかいたぞ。お前の武勇、天下一品じゃ」
十河存保は悔しさを滲ませながらも、昌龍の手を借りて立ち上がると、深く頭を下げた。
「昌龍様、ご手柔らかに…ありがとうございます。この十河存保、貴殿の武勇、心から敬服いたしました。将軍家のため、今後は力を合わせて参りましょう」
将軍足利義輝は興奮して立ち上がり、拍手を送った。
「見事じゃ!まさに天下無双の技!武田昌龍、その忠義と武勇、ここに賞す!これぞまさに、天下静謐の礎なるぞ!」
この試合により、昌龍の名は京中に轟き、三家の結束は強固なものに見えた。しかし、その陰では、細川晴元のような勢力の焦りと嫉妬が、暗躍を始めようとしていた。
天王山の試合から数日後、昌龍は京の宿所でくつろいでいた。夕餉を終え、今後の畿内経営について山本勘助と語り合っている時だった。そこに、服部半蔵率いる加賀忍軍の頭領・霧隠才蔵が血相を変えて飛び込んでくる。彼は通常は冷静沈着な男だが、今は明らかに動揺している。
「昌龍様!急ぎお知らせせねばなりません!」
昌龍は杯を置き、鋭い目を忍びに向ける。
「落ち着け。どうした?顔色が悪いぞ。まさか、敵の襲撃か?」
「はっ!実は、細川晴元めが、昌龍様の暗殺を企てておりまする!」
昌治が眉をひそめる。「細川晴元…。管領代の座に未練があるのでございますな」
昌龍は冷ややかに笑った。
「ほぅ…細川晴元か。わしら三家の和と、将軍家からの寵愛が面白くないらしいのう。で、その手口は?」
「明日、昌龍様が二条城へ登城される際、道中で刺客を放ち、混乱に乗じて…というものでございます。刺客は、晴元が密かに養う『闇しのび』の者共で、数は十名程。しかし、一味皆、変装や毒術に長けた厄介者ばかりでございます」
昌龍は嘲るように鼻を鳴らした。
「たった十名か?晴元め、わしをナメておるのう。半蔵、お前はどう思う?」
影から服部半蔵が静かに現れる。その姿はまるで幽鬼のようであった。
「昌龍様、油断は禁物でございます。『闇しのび』は、かつて三好家をも苦しめた集団。数は少なくとも、その手口は卑劣極まりない。毒や変装を用い、市民に紛れての奇襲を仕掛けてまいります。一般の市民を巻き添えにする可能性もございます」
昌龍の目が一瞬で鋭く光った。
「…市民を巻き添えに?ふむ…それではならぬな。ならば、こちらから仕掛けてやろう。才蔵、半蔵、奴らを生きて捕えよ。証拠を将軍家に見せつけてやる。晴元めの立場も、これで決着じゃ。だが、くれぐれも一般の者に害が及ばぬようにな」
「畏まりました。『闇しのび』など、我らが相手には不足でございます」
「お任せください!必ずや、生け捕りにしてご覧に入れます!」
翌日、昌龍の行列が二条城に向かう途中、予定通りに刺客が現れた。しかし、それは昌龍と忍軍にとっては罠にかかった小動物のようなものだった。加賀忍軍は事前に刺客全員を特定し、その動きを完全に掌握していた。刺客たちが変装を解いて襲いかかろうとした瞬間、民衆に紛れていた忍びの者たちが一斉に動き、たちまちのうちに刺客たちを縛り上げた。市民に混乱が生じることはほとんどなかった。
昌龍は捕らえられた刺客の頭領の前に立つ。その男は悔しさと屈辱で歯噛みをしていた。
「細川晴元に仕える者か?愚か者也。将軍家が認めたわしを暗殺しようとは、なかなかの度胸じゃ。しかし、その命運、ここまでじゃ。お前たちは、将軍家への証人として生きてもらう」
昌龍はすぐさま、捕らえた刺客と証拠の品を引き連れて二条城に赴いた。将軍・足利義輝の面前で、事の次第を詳しく説明する。
「昌龍、これは如何なる事だ?この者たちは?」
昌龍:「義輝様、細川晴元めが、我ら三家の和と将軍家のご威光を妬み、わしの暗殺を企てました。しかし、ご覧の通り、未遂に終わっております。これが刺客の自白書、そして晴元との密書でございます」
証拠を手に取った義輝の顔色が一気に曇り、怒りで震えだした。
「晴元…まさかここまでとは。もはや看過できぬ!これで過去の功績も帳消しじゃ!即刻、討伐を命ずる!」
昌龍は静かに首を横に振った。
「義輝様、どうかご深慮を。晴元めを急ぎ討つ必要はございません。今、事を荒立てれば、京の治安が乱れ、市民が怯えます。わしは、ただ将軍家のご平安と、京の静謐を願うのみでございます。晴元めは、ご威光によって静かにお取り潰しくだされば結構なこと」
この昌龍の態度私怨よりも公儀を重んじる態度に、義輝は深く感銘を受けた。
「昌龍…その深慮と忠節、痛み入る。我はお前のような忠臣を持って、幸せというものじゃ。よし、我は恩賞として、この刀を授けよう」
そう言って義輝が差し出したのは、源頼光の愛刀として名高い「童子切安綱」であった。国宝とも言うべき名刀である。
昌龍は目を見開いた。
「こ、これは…童子切安綱ではござらぬか!」
「そうじゃ。この名刀が、汝の手にふさわしい。受け取れ。これからも、将軍家、ひいては天下のため、力を貸してくれよ」
昌龍は跪いて、謹んで刀を受け取った。
「義輝様…この御恩、生涯忘れませぬ。必ずや、平和な世を築いてご覧に入れます。この武田昌龍、命に代えても御恩に報います!」
(細川晴元…お前の陰謀が、逆にわしの将軍家への地位を盤石にするのに一役買ったわ。感謝してやろう、地獄でな。童子切安綱…まさか、この名刀を手に入れるとは。これも天下への道筋が間違っていない証じゃろう。義輝よ、感謝しておる。しかし、お前もいつま将軍の座に安泰ではおられぬぞ。この乱世を終わらせるのは、わしの手でして見せる)
駿河にいた昌龍の下に、雷鳴のような報せが飛び込んできた。使者は馬から転げ落ちんばかりに駆け込み、息も絶え絶えに叫んだ。
「あ、あかりません!尾張の織田信長が、今川義元様の本陣を桶狭間で急襲!義元様、ご討死と聞いております!今川の大軍は総崩れでございます!」
昌龍の側近たちが一斉に動揺し、ざわめきが広がる中、昌龍だけは微動だにせず、じっと報せを聞いていた。彼の顔には、驚きよりも、ある種の「来るべきことが起きた」という表情が浮かんでいた。
「ふん…ついにやったか、信長という男は。海道一の弓取りと謳われた義元も、油断したのう。だが、これで風向きが変わった。東海道の地図が、一気に塗り替えられる時が来たのじゃ」
龍重が進み出る。
「昌龍様、これは我らにとってまたとない好機でございます。今川家は当主を失い、混乱必至。しかも、松平元康が独立を宣言し、岡崎城に入ったとの報せも入っております。」
「うむ。氏真に父義元の器量はない。今川家はもはや、かつての勢いはない。わしは動く」
今川家の本拠地・駿府は、当主を失ったことで大混乱に陥っていた。今川氏真は父の仇討ちを叫ぶが、家臣団の統制は乱れ、誰も彼の言葉を真に受けてはいないようだった。そこへ、松平元康(後の徳川家康)が独立を宣言し、岡崎城に入ったという報せがさらに追い打ちをかける。
昌龍は息子よ武田義昌を呼び寄せる。
「義昌、見たか。今川家はもはや、かつての勢いはない。わしは動く。お前も来い」
「父上、どうするおつもりですか?今川家に攻め込むのですか?」
「いや、表面上は今川家を『支援』すると称して、遠江に兵を進める。氏真は傀儡同然。今川家の実権を握り、駿河、遠江を我がものとする好機じゃ。織田や松平に対抗するためにも、この地を押さえねばならぬ」
昌龍は隙を見て動ける兵を率い、今川家臣の一部の懐柔もあり、あっさりと浜松城に入城した。今川家臣の中には、氏真に見切りをつけ、強大な武田氏にすがりたい者も少なくなかった。
「昌龍様のご入城、誠に頼もしい限りでございます!どうか、弱体化した今川家をお助けください!織田や松平の狼藉を防ぎ、この遠江をお守りください!」
「任せおけ。わしがいる限り、織田も松平も怖くはない。しかし、今川家再興のためには、氏真公だけでは心もとない。わしの息子義昌を、今川家の後見として送り込もう。これで安心じゃ」
昌龍は浜松城から、松平元康の拠点・岡崎城を牽制する。一方で、今川家臣の中には、氏真を見限り、昌龍の実弟・義昌を新たな今川家当主に擁立しようとする動きも出始めた。昌龍は、その動きを静かに後押しする。
(ふふふ…義元の死は、わしにとっては天の恵みじゃ。駿河・遠河を手中に収め、東海道へと勢力を伸ばす。これで、甲斐、信濃、駿河、遠河…わしの領国は盤石じゃ。織田信長…面白い男よのう。いずれ、京へ上る途中で、必ずやぶつかる運命にあるわ。楽しみにしておけ。松平元康…これもただ者ではなさそうだ。三河の小勢力とはいえ、油断はならぬな)
川中島。海津城の本丸御殿には、湿り気を含んだ夜風が吹き込み、松明の炎がゆらめいていた。壁には武将たちの巨大な影が揺れ、不気味な雰囲気を醸し出している。中央に座する武田晴信は、じっと軍配を見つめ、沈黙を守っていた。床几の前では、山本勘助が声を絞り出すように作戦を説く。
「…かくして、本隊は八幡原に陣を敷き、別働隊が妻女山の長尾軍を夜明けとともに背後より急襲する。これぞ『啄木鳥戦法』にございます。木の中の虫を啄木鳥が啄ばむ如く、挟撃にて殲滅いたしまする。これにて、長尾景虎の首は必ずや…」
重臣たちは唸る。飯富虎昌、馬場信春、高坂昌信ら歴戦の将たちも、この奇策に一定の評価を与えていた。しかし、その時だ。
扉が音もなく開いた。誰も気づかないうちに、闇から現れたのは、黒漆の南蛮胴具足に身を包み、無言の圧倒的な気配を放つ武田昌龍であった。その異様な気配に、飯富虎昌が無意識に刀の柄に手を掛ける。場の空気が一瞬で凍り付いた。
「…昌龍様」
武田義信が驚いて立ち上がる。
「昌龍兄者…この軍議の席に、お招きしてはおりませぬが…」
昌龍は義信を一瞥し、冷笑した。
「ふん、義信よ。お前のような青二才がいるなら尚更、ワシの力が必要だろうが。この大きな戦いを、お前たちだけに任せておけるか」
昌龍は嘲るように笑い、勘助の机の上の作戦図を覗き込む。小山田昌幸ら若手は緊張して息を呑み、重臣たちも複雑な表情を浮かべる。彼は武田家の一員でありながら、その存在は常に別格であった。
山本勘助は冷静に問う。
「昌龍様、ご高説を承りたく。」
昌龍は作戦図から顔を上げ、晴信を直視した。
「…つまらん。わしには見えている。政虎という男は、そうやすやすと啄木鳥にやられるような男ではない。あの男は、むしろこちらの裏をかいてくる。わしはな、本隊八幡原につかせてもらう。せっかくの大軍勢、正面からぶつかってみたいのう。政虎の刃という刃を、この身で叩き折ってみせよう」
武田晴信が深く息を吸い、初めて口を開く。
「兄者…そのお力、頼もしい限りだ。では、本隊の指揮の一端を…」
「いや、晴信。総大将はお前だ。わしはわしのやり方で戦う。ただし…」
昌龍は軍議の席を見渡し、強い口調で言い放つ。
「信繁、虎定、お前たちはわしの直属とする。いいな?お前たちの力が、この戦いの趨勢を決めるかもしれん。」
「はっ!」
「承知いたしました!」
そう言い終えると、昌龍は軍議の席を蹴り出すように去って行った。後に残されたのは、緊張と不安、そして一抹の期待が入り混じった空気であった。
山本勘助は心の中で呟く。
(昌龍様…あの方には、我々の知らぬ何かが見えているのか。はたして、この『啄木鳥』は成功するのか…。いや、成功させねばならぬ。)
濃霧が川中島一帯を覆っていた。視界は数メートル先もおぼつかない。昌龍は自らの持ち場を副将昌治に任せると、側近の龍重とわずかな手勢「黒修羅」のみを率い、霧の中に消えた。彼の目的は一つ、長尾景虎本隊との直接対決である。
(政虎…長尾景虎、待っておれ。このわしが、直接その刃を斬らせてもらう。お前という男の力を、この身で確かめてみたいのじゃ)
昌龍の鉞が閃く。霧の中から突然現れた黒い鎧の集団は、獣のような咆哮をあげて長尾軍の兵士をなぎ倒しながら、まっすぐに本陣を目指した。その突進は凄まじく、長尾軍の前線はたちまち混乱に陥る。
「うわあっ!な、なんだあの鬼は!黒い鎧の…!」
「防げん!手が足りぬ!あれは武田の修羅だ!」
昌龍は蹂躙しながら進む。鉞の一撃で盾もろとも兵士を吹き飛ばし、馬ごと敵将を真っ二つにする。しかし、流石に少数での突出は危険だった。側近の龍重が声を上げる。
「昌龍様!このままでは包囲されます!味方の本隊から離れすぎております!一旦、退きましょう!」
昌龍は周囲を見回し、舌打ちした。
「…わかっている。だが、引くのは癪だな。龍重、お前に五千の兵を与える。すぐに別働隊と合流し、妻女山から降りてくる敵を食い止めろ!こちらの挟撃が成功するか否かは、お前の働き次第じゃ!」
「では、昌龍様は?」
「わしは反転する。味方の苦戦している場所へ行く。あの騒動は…義信か?」
昌龍が反転した先には、飯富昌景が長尾軍の猛将小島弥太郎と、義信が景虎本体と死闘を繰り広げる場面があった。どちらも数的に劣勢で、危険な状況だった。
「…ふん。義信め、まだまだ未熟じゃ。あのままでは討ち取られてしまう。黒鬼衆よ!」
配下の精鋭「黒鬼衆」の頭領が跪く。
「はい!」
「あの二人を助けろ。義信と昌景に損傷があれば、お前たちの首も飛ぶと思え。急げ!」
「承知!」
黒い鎧の精鋭たちが戦場を駆け抜け、義信と昌景の危機を救う。彼らの統率の取れた動きは、長尾軍の攻勢を一時的に食い止めるのに成功した。
そして昌龍は、残る二百の「黒修羅」を率いて、長尾軍随一の猛将・柿崎景家の部隊に襲いかかった。景家は「鬼柿崎」の異名を取り、その剛勇は越後随一と言われていた。
「来い!武田の修羅め!我が柿崎和泉守景家が相手だ!かかって来い!」
「景家!その剛勇、噂には聞いておる!わしの鉞で、その力量を試させてもらう!」
鉞と太刀が激突し、火花が散る。景家の力も並大抵ではない。馬を駆り、渾身の力を込めた斬撃を繰り出す。しかし、昌龍の圧倒的な武力の前には、次第に分が悪くなっていく。昌龍の鉞は、景家の太刀を弾き、鎧に深い傷を刻みつける。
「はああっ!これがわしの力じゃ!景家!これでもまだ足りぬか!」
「ぐあっ!…く、くそ…この力は…まさに修羅…!人が持つ力ではない!」
昌龍の渾身の一撃が景家の太刀を弾き飛ばし、鎧の胸板を大きくえぐる。景家は大きくのけぞり、馬から転落した。昌龍は景家の首を取ろうと鉞を振りかぶったが、そこで止めた。
「景家!今回は助けてやる!その武勇、惜しいからのう。わしの力を、長尾政虎に伝えておけ!次の戦いでは、もっと楽しませてもらう!」
昌龍は景家の首を取らなかった。彼の戦いぶりは、周囲で見ていた武田軍諸将に戦慄と畏敬の念を抱かせた。
「あれは…もはや人ではない。まさに鬼神…。あの方にお会いできなければ、我らはもっと大きな損害を出していたであろう」
「武田にありながら、武田を超える者よ。この戦いの行方さえも、あの方の掌の上にあるかのようだ。恐ろしいほどのお方よ」
戦いは激闘の末、武田軍九万に対し長尾軍一万三千。武田軍は一万近い損害を出し、苦い勝利となった。啄木鳥戦法はある程度成功したが、長尾景虎の機転により、完全な殲滅には至らなかった。しかし、昌龍の活躍がなければ、さらに悲惨な結果になっていたかもしれない。
霧の晴れたいくつもの屍が累々と横たわる八幡原で、昌龍は血染めの鉞を肩に、遠く越後の山々を眺めていた。その目には、次の戦いへの確かな意志が燃えていた。
(政虎…また会う日まで生き延びよ。この戦いは、ただの前哨戦に過ぎぬ。わしが本当の目的を果たす時、必ずや再び刃を交えよう。その時まで、しっかりと地盤を固めておけ)
これに妻の阿久津は笑ってしまった。更に兵役を集めて畠山、長尾を相手に越中で睨みあった。




