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翌朝。
自然と目が覚め時刻を確認すると午前八時頃。
体を起こすと喉の渇きと軽い頭痛が現れる。
とりあえず、いつものようにスマホを点けると、いつもの広告メールとは違うものが一通届いていることに気づく。
届いた時間は昨夜。
寝惚け眼で確認すると、仕事用に公開していたメールアドレスに届いたものだった。
件名は会って話がしたいと要領を得ず、差出人の名は黒羽怜と見知らぬ人物の名前。
詐欺メールにしては変わった名前だと内容を確認すると一気に目が醒める。
俺に会いたいという簡潔な内容、そこに記された日時と場所。
日時は本日の十一時、場所は、ここから近所にある小さな公園。
これは俺の居場所を知らなければ出来ない芸当であり、あまりにも唐突。
気味の悪さを拭うよう、そのメールを放置し浴室へとシャワーを浴びに立ち上がった。
*
執筆する気も労働する気も起きず、外出する。
足は自然とパチンコ店へ。
金を対価に何も考えず時間を潰せる手段が、それ以外にない。
パチンコ店の近くに住んだことが運の尽き、貯金を擦り減らす一因となり、将来に訪れる負債を貯め込むのだ。
少し歩くと、繁華街から少し離れた場所に構える巨大な建造物が現れる。
開店前、未来に何も残せなかった高齢者と程度の低い人生を送る大人や若者が列を作っている。
俺も、その幽鬼のような死に損ないの列に並び呆ける。
その姿を嘲笑うように道を歩く人々。
家族連れ、カップル、身なりの整ったサラリーマン、目に希望がある学生ら。
そして、若い女。
下半身に従い生きる気違い共に食い散らかされた後の糞共が、その臭いを隠すように精一杯のお洒落に身を包んでいる。
どれだけ取り繕おうと、行き着く先は同じだというのに。
同じ、同じだ。
ガワが違うだけで、皆同じ。
空洞なのだ。
監視社会で世間体を気にするあまり、個人を尊重するなどの美辞麗句で飾り付けられた多様性という盾を手にした放任主義が蔓延した結果、無気力で中身が詰まらず外部から得た情報でしか生きられない人間たちが蔓延している。
俺もその一人だ。
痛みや苦しみを伴っても、親や教師に矯正され型にはめるべき部分が歪んでしまったのだ。
中学生の頃には既に、この世に救いのヒーローがいないことに気づいていた。
何より、俺は救われるに値する容姿や頭脳を持ち合わせていなかった。
だから、この世界は全て自分次第で変わると、自分の足で立って生きていかなければならないと思い込んでしまった。
間違いだったのだ。
普通に生きるのなら、欠けた部分を他人で埋めようとする能力が必要だった。
孤独を吐き出すことも必須だった。
しかし、それらを達成できずに、ここまで辿り着いてしまった。
中途半端に自立した大人になってしまった。
そして、この年齢で独りを嘆くには、あまりにも情けなさ過ぎる。
何者かになりたいと願いながら妥協を選び続けた人生。
だから、ここで終わりなのだ。
自決しない限り、このまま幽鬼のように生きていくしかない。
物思いに耽っていると開店の知らせが訪れる。
このままで、いいのか。
結局、金を消費し後悔を溜め込むだけの行為となるのは間違いないというのに。
うんざりした俺は遂に列を外れ当てもなく歩き出す。
何処へ行けば満たされるのだろうか。
*
生活の匂い。
洗濯物の匂い、料理の匂い。
人同士が織りなす生活が鼻腔に入っては消えていく。
ふと、新築の住宅が建ち並ぶ住宅街に流れる用水路から異臭が漂う。
そうだ、人間とはこういうものだ。
都会で着飾った人々が歩く中、そこら中から漂う下水の臭いと同じ。
どれだけ取り繕おうと、これが本質。
一皮剥けば誰だって、この臭いを放つ。
皆、それが存在しないものだと素知らぬ顔をしているが、その欺瞞が嫌悪感に拍車をかけている。
俺はいつの間にか、あの場所へ向かっていた。
ふらふらと歩き辿り着いたのは、住宅街の中に現れた例の公園。
指定された時間まで余裕がある。
木陰のベンチに腰を下ろし呆ける。
ここで遊ぶ子供らの姿も見えず何とも穏やかな場所。
晴天に映える緑を揺らす春風が吹き、惨めな俺の神経を逆撫でするようで苛立つ。
この景色を見るだけで、この世界に生まれ生きる価値があると思えることが出来れば、どれだけ良かっただろうか。
人間はとうに自然と切り離されてしまった。
自然の一部ではなくなってしまった。
人は何処から生まれ何処へ向かうのか、人の行き着く先は何処にあるのか。
砂利を踏む音が聞こえると共に甘い香水の匂いが漂い始める。
音の方向に顔を向けると、そこには黒い女がいた。
長い黒髪、レザージャケットに赤いシャツ、レザーパンツと異様な格好をした女。
その黒から覗く白い肌、その中心に真紅の唇。
本来なら忌避すべきその姿、それでも素直に綺麗だと思ってしまう。
だが、このような男と金の匂いを纏わせた女には関わってはいけないと腰を上げる前に彼女は隣に座る。
「あなた、灰野先生?」
その言葉は俺を戦慄させるに十分な威力を持っていた。
灰野煙、それが俺のペンネームだからだ。
「なぜ、それを」
「なぜって、私のメールを見てくれたんでしょ?」
まさか、こんな女が送信者だとは思わなかった。
詐欺かイタズラか、それで終われば、さっさと諦め帰宅したのに。
「どうして、俺がこの辺りにいることがわかった?」
「ここ、先生の生活圏でしょ?何度か見かけたから、ファンとして連絡したの」
「理解できない」
「他意はないわ。本当に、ただ会って話がしたかっただけ。まぁ、私も、あんなメールで来てくれるなんて思っていなかったけど」
わからない。
「俺の小説なんて、つまらないだろ」
「先生の作品には期待しているの。伝えたいことばかりが先行して物語としては成立してなかったけど、話題が先行した薄っぺらい流行りの小説よりは味がした」
何が言いたいのだろう。
「それなのに、どうして新刊を出さないの?」
こんなこと、今まで聞かれたこともなかった。
心の奥底で湧き上がってしまう嬉しさの感情により、素直に口を開いてしまう。
「意味がないから」
「まぁ、売れ行きは全く良くないようだけど、あなたは何作もの駄作から傑作を産み出すタイプでしょ。大器晩成となる可能性だって十分ある。それなのに、もう諦めるの?」
ファンと名乗る割には説教くさい物言い。
「あんたに何がわかる?用件があるならさっさと話してくれ」
「つれないの。実は、先生に手伝ってもらいたいことがあって。私、今、世の中を変えるために活動しているの」
ああ、そういうやつか。
「ちゃんと話を聞いてよ。私、人間を滅ぼすつもりなの」
早々に彼女と距離を置くべきなのに、思わず疑問が口を突いて出る。
「なぜ」
「人間に生きる価値がないと思っている以上に、私が死んだ後もこの世界が続いて幸せを謳うことが許せないだけ。もし、今、目の前に私だけが死ぬボタンと私を含め全人類が無になるボタンがあれば、迷いなく後者を押すから」
「警察に捕まって終わりだ」
「上手いやり方があるの」
期待をして損した。
この出会いで何かが変わるかもしれないという一抹の希望は消え去った。
精神衰弱の女の話に付き合うのは時間の無駄だ、切り上げよう。
だが、俺の口から思わず溢れた言葉は意に反したものだった。
「羨ましいな」
「え?」
「理想の世界があって、それが希望になっているんだろ」
「そうかもね。心のどこかで期待してもいる。私が人を滅ぼす過程で現れる痛みによって、何かが変わる、なんて」
つまらない。
いっそ、刀のように鈍く鋭い狂気に満ちた狂人なら、見物する分には面白かっただろうに。
「気付かぬうちに無痛で目玉を抉られ牙を抜かれ、耳触りのいい言葉と金の匂いを頼りに生きる人々で埋め尽くされた社会で、痛み程度で新しいものが生まれるはずもない」
「でも、死に瀕すれば、変わらざるを得ない。死の恐怖が目の前に現れたら本気になる」
「なんだ、空想の話でもしたいのか?この平和な社会で、変わるために都合のいい死なんてあるはずもない」
なぜ俺は、こんな話に付き合っている。
学生時代に戻ったようで、楽しいと思っているのか。
「皆の、日本人の人生と地続きの死なんて、探せば何処にでもある。人間が大好きな正義という名の免罪符が溢れているんだもの。そして、それを手にするために誰もが躍起になっている。他人の命を奪ってでも、ね」
内容が頭に入ってこない。
「その気になれば、人は他者を殺せる。あなたと私は違うから、あなたを殺してもいい。あなたと私は違うから、どんな目に遭わせても私の心は傷まない。誰かを敵と認めれば、他者と認めれば、拷問しても強姦しても構わない。それが人間の本質。例え平和な社会でもヒエラルキーを形成し自分より下の人間を見つけねば我慢ならない、度し難い生き物。だから、先生には、言葉で人を煽る手伝いをしてほしい。出版の経験があるなら少しは箔もつくだろうし」
「……もう、うんざりだ。人間はこういう生き物だなんて、そんな決めつけがなければ、ヒトは空も飛べたはずなんだ、何処にでも行けたはずなんだ」
「そんな言葉で、誰が救われるの?皆、目の前の生活を送るのに精一杯なのに、人間とは何ぞや、なんて言葉は誰に届くの?」
わからない。
それが理解できれば、俺は今、ここにはいない。
「それなら、皆が必要としているものは何なんだ」
「男は英雄に、女はヒロインになりたい。それだけ。閉じたコミュニティで見栄を張るのも平和な社会で宗教に傾倒するのも、自分が主役でありたいから、何か大きなものの一部でありたいから」
「そんなちっぽけな自尊心のために他者を傷つけるのか?」
「朝、目覚めておはようと言って、ご飯を食べて美味しいねと言って、自分たちが生きる分だけ働き、夜になれば星を眺めて綺麗だと呟く。本当なら、それだけでよかった。この宇宙で生まれた奇跡を噛み締め生きるだけで十分だった。でも、無知のまま死ぬまで生きていけた豊かな時代とは違う。物に囲まれ貧しくならざるを得ない世界で、ただ片隅で生きているだけでも、あらゆる手段で自分より優れた人生を見せつけられる。そして、誰も見ていない舞台で狂った踊りを踊りながら堕ちていく。もう、誰もが自分の人生が惨めで耐えられなくなっている。先生も、そうでしょ?」
よくもまあ矢継ぎ早に、これだけの台詞を吐けるものだ。
「だから、もうどうしようもないのなら、隣人を殺せばいい。そうすれば、私の願いも叶う」
「……それを否定することが人間の価値だろ。そうでなければ、人間の誇れるところなんて何一つなくなってしまう」
「本当に、価値なんてあると思う?」
「いや、そうだな。でも、あまりにも悲観的じゃないか。ただ、滅びに向かうためだけに生きるなんて」
彼女はこちらをじっと見つめる。
「それなら、先生。私に、新しい明日を見せてくれる?」
その言葉は、俺の心にチクリと刺さり痛みを与える。
俺にそんな力があるのなら、どれだけ力強く生きていけたのだろうか。
「まぁ、いいや。また、連絡するから」
沈黙から返す言葉もないと悟ったのだろう、ベンチから立ち上がった彼女は去り際に一言。
「先生、私を、見捨てないでね」
俺は情けなさのあまり、その場から動けずにいた。




