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あなたと叶えたいこと

作者: 帆高更咲

「汝、病める時も健やかなる時も…」

 花の香りのように甘く柔らかな声が響き渡る。

 天気は雲一つない快晴。ステンドグラスから差し込む光はこの上なく眩しく綺麗だが、この地上で最も愛する人に降りそそぐものとしては少々物足りない。

 今日のために纏っている眩すぎる程の純白のドレスも、陶器のような肌に施された落ちつきがありつつも艶っぽい化粧も、それらを隠しまるで自分だけに見られるのを心待ちにしているかのようなヴェールのカーテンも、その下から覗く期待に満ちた表情も全て、この世で一番美しいと思う。

「…愛し、守り、慈しみ、支え合うことを誓いますか」

「はい…!」

 そして、お揃いの銀の輪っかを互いの薬指に通す。

 ふと、くすりと笑みが溢れた様子を見ると、自然と頬が緩み口角が上がる。

 ゆっくりと彼女を隠していた薄いヴェールを上げると、花の蕾がほろっと綻ぶように、頬を桜色に染めてじぃっと彼の瞳を見つめる。

 金剛石と見間違えてしまう程透き通った美しい目に自分が映ったのを見て、そっと艶やかな深紅の唇に目を移す。

 たった数十センチしかない距離を、まるで何十秒も掛かったかのように長い時間を経て二人の差が0センチになった時、二人は今までで一番甘く優しく陽だまりのような暖かい口付けを交わした。

 沢山の拍手と幸せの言葉が舞い飛ぶ中を歩き、ゆっくりと扉を開けると降りかかる甘い花々。学生時代の友人達や家族は皆笑顔で、白い太陽までも微笑んでいるようで、でもやっぱり隣で破顔する彼女は、花よりも可憐で華麗だった。

 初めて出会った日、初めて意識した日、初めて告白した日、初めて一緒に出掛けた日、初めて二人で祝った誕生日、初めて迎えた二人きりの翌日、初めて言った言葉に約束した日、そして全てが結ばれた今日。

 これは、不器用な青年・白沖夕凪とその初恋相手にして今日から妻となる細波暦、いや白沖暦の甘く穏やかな日々の始まりーー

 ーーの筈だった。ほんの一週間前までは……


 耳を突き刺して抜けない音。無我夢中で駆け抜ける激しい自分の足音と今にも爆発しそうな程うるさい心音。苦しい息よりも、さっき聞こえた知らない声が木霊する。真っ白な壁、静かな廊下にまるで似合わない今の自分。

 手に掛けた扉を思い切り開いて目に飛び込んだのは、冷淡すぎる白色。あの日のような眩しい表情はどこにも無く、美しい瞳さえ閉じられている。

 こんな姿、絶対に見たくなかった。想像すらしたくなかったのに。

「暦…!!」

 もう何度も発してきたその名前を叫ぶ。叫んだ筈なのに、耳に届いた声は錆びて掠れたオルゴールの音よりもずっと小さかった。

 それでも、必死な願いに応えるように、ゆっくりと白色の瞳が覗かせられるとすっと細められ、悲しみを堪えているようにも子供を安心させるかのように微笑んでいるようにも見える顔をして優しく彼を見つめる。

「夕凪…」

 左手が優しく頬に添えられる。ひんやりと冷たい、そう感じた直後、何か水のような感触をした温かいものを感じた。

 それが自分の目から流れ落ちていると理解した時には、既に真下に幾つもの水滴が落ちており、流れは止まることを知らないかのように流れ続け、視界も段々歪んでくる。それでも、彼女が真っ直ぐ自分を見ていることだけは歪な世界の中でもはっきりと分かった。

 やや乱暴に目を擦って視界を晴れさせると、いつにもなく穏やかな顔をした彼女が映り、微かに口を開く。

愛してる。

 そう言っているような気がした。今にも泣きそうで、謝りたそうな瞳とは真逆の言葉。それは彼女なりの気遣いか、それとも自分の勝手な夢か。

 小さな唇が閉じられると、それに連動するかのように瞳がゆっくりと閉じられ少し笑ったかのように細められる。そして、頬に触れられていた左手がゆっくりと下されていった時、薬指に通された銀色の輪が小さく煌めいたような気がした。まるで、最期の挨拶のように。

 ピーと電子音が鳴ると、彼女が再び綺麗な瞳を見せて微笑むことは無かった。それは、永遠に。


 一週間前に着たものとは真逆の、真っ黒な服。一週間前は笑顔で祝福してくれた友人達。一週間前の、心から嬉しそうな写真(かお)の彼女。何もかもが真逆すぎて、気持ち悪さから倒れそうになった。

「事故ですって。可哀想…」

「結婚したばかりなのにねぇ…」

 こっそり話しているであろうに、マイクで喋っているかのように聞こえてしまう周りの声。

 最愛の妻は死んだ。原因は、不慮の交通事故。人通りの多い交差点で大型トラックに撥ねられた。運転手を今すぐ呪いたくても、そいつももうこの世に居ないのなら呪いようが無い。

『夕凪!』

 そう自分の名前を呼んでくれた人は、もう二度とその声を聴かせてくれない。写真の向こうの、眩しい笑顔も二度と見られない。これからの未来を一緒に夢見ていたあの日々も、いつか来ることを願っていた甘い希望も、隣にいるというほんのささやかな望みさえ、もう永遠に手に入れることは出来無い。

 気付けば冷たい壺を抱え、気付けばすすり泣く人々は少しずつ去って行った。

「夕凪」

 ふと声がする方へ振り向くと、つい先日まで笑みを向けていた友人の一人が居心地悪そうに立っていた。学生時代からの友人である彼は、恋路を応援してくれた恩人の一人でもある。だからだろうか、先程よりかは耳への意識が向いている気がする。

「その…お前はちゃんと生きろよ」

「……うん…」

 自分でもあまり聞こえなかった声は、ちゃんと彼に届いていただろうか。そう思ったのも束の間、外に出ると真っ青な空が目に飛び込んで来た。殆ど覚えていない今日一日の中で、その眩しさだけは鮮明に覚えていた。

「…ただいま」

 無音の空間にはよく響く声。しかし返事は返ってこない。

 靴箱の上には、つい先日飾ったばかりの写真と花束。花束に収められた花々はまだ美しく、近付くと香りもある。それが、花よりも早く散った二人と残酷なまでに対比されていた。


 深夜零時。体は疲れている筈なのに、全く眠気は訪れなかった。

 いつか新しい家族が出来た時に、と二人で買った家は一人だとやけに広く感じられる。

 隣を見ると、空のベッドと枕元に置かれたぬいぐるみ。そっと触れると、柔らかな毛並みが指の間を撫で、その心地良さに少し心がほぐされる。

 ぎゅっと抱き締めると胸に温もりが伝わり、思わず目を閉じると、まるでプツッと電池が切れたように倒れ込んだ。

「夕凪!」

 懐かしいと呼ぶにはまだ早い、今一番聴きたい声が耳をくすぐる。

「暦…⁈」

「何ボーッとしてるの?早くしないと置いてっちゃうよ〜」

 パシャパシャと音を立てて砂浜を走る。白波が足にかかる度、彼女は振り向いた。どんな宝石よりも美しい瞳を向けて。

「待って…!!」

 小走りで駆けていく彼女に追いつこうと必死で足を動かす。そしてぐっと伸ばした右手が彼女の左腕を掴もうとした時。

 ピピピピッという音で目が覚めた。彼女がいつも設定していた目覚まし時計だ。目を開くと、自分の右手は何も無い空間へ伸ばされていた。

「暦…」

 蘇るのは、あの眩しい笑顔と弾むような声。

 いくら願っても戻って来ることの無い、水沫のように淡い夢。

 行き場を失くした右手をじぃっと見ていると、ぽたん、と手の平に雫が落ちた。何粒も、何粒も落ちてきた。

 昨日は全く流れなかった水滴。なのに、今は昨日の分までと言わんばかりに大量に目から溢れている。言葉にならない声が喉から溢れる。

「暦…!」

 呼んでも名前の主は現れない。それが余計に心を抉っていく。

 いくら叫んでも返されない言葉を言う度に布団に染みが落とされる。

 枕元に転がったぬいぐるみだけが、叫び続ける彼を静かに見つめていた。


『お前はちゃんと生きろよ』

 いつだったか友人に言われた言葉を支えに毎日を過ごしていた。

 しかし目に映る光景は色が無くどこか殺風景で、一人向き合う食卓で食べるご飯は味がしない上食べたという感じも湧かない。最近はアルバムを見るのも辛く、玄関に飾ってある花束はすっかり散っているのに片付けようとは思わない。一人で住むことを想定していない家は全てが広く、まるで監獄のように冷たく孤独だった。

 ふとカレンダーを見ると、本来ならば今日は結婚してから丁度二週間だった。

 もっと未来のこと、例えば新婚旅行の行き先とか子供のこととか。そういうことを沢山話していたかもしれない、そんな叶わぬ夢を妄想していると、突然ピンポーンと音が鳴った。何気に初めての来客に思わず気が逸れる。

「夕凪君、突然ごめんね」

「お義父さん…?」

 現れたのは亡き妻の父親、つまり義父に当たる人物であった。

 挨拶もそこそこに家へ上げ、広いリビングへ通す。二人でもまだまだ広いが、一人よりは幾分か良かった。

「今日はこれを渡したくてね」

 淹れたてのお茶にほぅと一息吐いて、鞄の中から濃紺色の箱を取り出す。

 そっと手に取ると、開けてみて、と言われたので指輪の箱より一回り程大きなそれを丁寧に開く。

 中に入っていたのは、金剛石のような瞳を連想させる美しいダイヤモンドのネックレスだった。彼女の輝き具合には多少劣るものの、今まで見てきた宝石の中でもかなり美しいものであった。

「それはね、暦の遺灰から作ったんだよ」

「えっ…」

 所謂、遺灰ダイヤモンドと言う物か。本当ならば、今すぐ欲しい。だってそれは、彼女の一部であるから。

「良ければ貰ってくれないかな。暦も夕凪君と居る方が幸せだろうし」

 ネックレスを通すと、久しぶりに世界の彩りが見えた気がする。

 首元に光る宝石をそっと撫でて目を閉じると、ふと彼女の存在を傍に感じた。


 ネックレスのお陰で、少しは前を向いて生きていこうと思えた。

 しかしネックレスはあくまで遺灰から作られた、本質的には無機物である。それを悟ってしまってからは、再び毎日から色が失われた。

 以前と同じ、いや以前よりも暗い景色の中を歩く。光の一切無い道を、降りしきる大雨の中を一人で進んでいた。

 描ける筈だった夢は孤独な夢として止まり、創れる筈だった未来は闇から伸びた魔の手に無惨に潰され、残ったのは一人で住むには広すぎる家と行き場の無い寂寥感。

 今の彼に、生きる希望は殆ど無かった。否、妻を亡くしたあの日から、生きる意味など無いに等しかった。

「俺は…」

 その先の言葉は続かなかった。言ったところで、誰も返してはくれないのだから。

 気付けば結婚式から五週間、妻が死んでから一ヶ月が経っていた。

 深夜二時。体は眠気を迎えるどころか逆に覚醒していた。

「……」

 ふと体を起こし、何か思い立ったかのように上着と鞄を引っ張り出し、机から適当にノートを一冊、ペンを一本そしてライトを一つ取り出して鞄に入れる。

「死ぬか」

 このまま生きていても、彼女が戻って来ることは無い。ならば、自分がいっぺん死んで再び彼女と生まれ変わりたい。そう考えてしまう程夜の時刻はとっくに遅く、彼の心は限界に近かった。

 近所で一番高い建物である廃ビルに入るのは容易かった。

 遺書でも書こうと持ってきたノートをライトで照らし、パラっと表紙をめくる。

「⁈」

 真っ白な筈のノートには、一番上に『夕凪とやりたいこと』と書かれその下には箇条書きで沢山のことが記されていた。間違いない、彼女ーー暦の字である。

『夕凪とやりたいこと』

・結婚したい!

・海が綺麗であったかいとこに新婚旅行に行きたい!

・高校の文化祭とかにOBとして行きたい!(先生達絶対驚くし!)

・お父さんとお母さんも一緒に、美味しいお店でご飯食べたい!

・サプライズで誕生日パーティー仕掛けたい!

「っ…!」

 最初の少しを読んでいるだけで、急に視界に沢山の色が入り歪んでぼんやりとしてきた。

 結婚したい、から始まっているので、きっと結婚前から書いていたものなのだろう。パラパラとめくっていくと、実にノート全体の半分以上びっしりと願いが書き留められていた。

「ははっ…強欲なこった」

 なんとも無邪気な、彼女らしい願いに全て目を通し終わると鞄からペンを取り出しキャップを開ける。

「こんなの、叶えるしかないじゃん…」

 静かなコンクリートにペンを走らせる音だけが響き渡る。書いたのは、『これ全部やる』

 消えかけていた心に小さな火が灯ったような気がした。廃ビルを降り、真っ直ぐ家へ帰る。

 再びノートをめくり、弾むような字とよく現れた心情に微かに笑みが溢れる。

「まずは海かな」

 小さな独り言は虚空に溶けたが、心についた気持ちは消えなかった。

 そっとぬいぐるみを撫でて布団を被り、ゆっくり目を閉じると久しぶりに暖かな眠気を感じる。

『夕凪!』

 不思議な浮遊感に包まれながら、ふと彼女の声が聞こえたような気がした。

『楽しみにしてる!!』

 肌身離さずつけている胸元の宝石を優しく触りそうっと小さく息を溢す。

「うん。待ってて」

 彼女の願いを全て叶えるまでは死なない。

 久しぶりに心からの安らげることが出来た気がする夜だった。

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