02 婚約誓約書へのサイン
式場の席に貴族達が座る。最前列は王族が占めている。
席は左右に分けられて中央には絨毯が敷かれ、主役の為の道とされていた。
そして壇上には、王太子とその父親である国王が座り、大神官長とその補佐をする副神官長が立ち、マルと侯爵を待っていた。
この大聖堂の誓いの間では今日、二つの式が行われる。
一つは王太子とマルの婚約式。もう一つはマルの聖女判定式。
マルが聖女見習いの内に王太子と婚約し、それから聖女に認定されると言う流れは、昔からの単なる風習だ。聖女だから王族に迎えたのではなく、素晴らしい女性だから王族に迎える事にしたら実は聖女であった、と言う大昔の言い訳をただ引き摺っているだけである。あるいは聖女となってから王族に迎えるのでは、教会の影響力が強くなると警戒したからとも取れた。
誓いの間の扉の前で待機する二人の神官には、廊下の先がいつもより明るい様に思えた。
高窓から入る外の明るさが白壁に反射する事で、普段から廊下には厳かな雰囲気が演出されている。扉から見て片側の廊下は、その通りの普段の様相だった。
しかし反対側の、侯爵とマルが歩いて来る方の廊下はいつもと違い、高い位置より低い位置の方が明るい様に見える事で、神官二人には違和感を抱かせていた。
誓いの間の扉の前に、侯爵にエスコートされたマルが着くと、周囲が明るくなった事に戸惑いながらも、片方の神官がその場で待つ様にと二人に指示をする。
そしてもう一方の神官は隠し窓から誓いの間に、マルが到着した事を伝えた。
誓いの間の入り口を塞ぐ左右2枚の大きな扉。その片側には教会の信仰の対象である愛と美と豊穣を司る女神が、もう片側にはその女神に祈りを捧げる人々の姿が彫られ、美しく色付けがなされている。
その扉の正面の中央に、侯爵が立つ。扉が開いた時に、誰が式の中心人物か、参列者に分からせる為だ。
いよいよ始まりだ。
マルの正面に当たるその扉の女神の像が、少しずつ白けて行った。しかし白けているのは女神の像の全体ではなく、マルの正面の部分であり、女神の像で言うと膝から下に当たる部分だ。
そして淡く光りながら、扉は徐々に窪んでいく。その窪みが扉の厚さに達すると、向こう側が透けた。
白ける部分と淡く光る部分が広がるのを追って、消えて向こう側が見える部分も広がる様は、紙に炎が燃え広がる様子に良く似ていた。
白けた女神の像の下半身は、何が彫られていたのか分からなくなっており、腿があった辺りから下は既に消えてなくなっている。
侯爵も扉に控えていた神官達も、目を見開いて唇も緩め、その変化をただ眺めていた。
扉が光っているのは式場内からも見る事が出来た。
それに気付いた人は、やはりその様子を目を見開いて見ていた。そしてその視線に気付いた人々も扉を見て、同じ様に言葉もなく、光りながら消えていく扉をただ見詰めた。
マルもその様子をただ呆然と見ていたけれど、ハッと思考を取り戻す。扉が消えて行くけれど、こう言うものかとマルは納得した。
そして消えた部分が充分に大きくなっている事に気付いて、マルは小さく一歩踏み出す。しかし侯爵は動かない。
仕方がないのでマルは侯爵の腕を手放して、一人で扉の消えた部分を通り抜ける。
侯爵はマルの背に向けて手を伸ばし掛けるけれど、言葉は出ず、足も前に出なかった。
式場内の視線は、全てマルに注がれた。
主役の為に誓いの間に敷かれた絨毯の上をマルが進むと、マルを中心に誓いの間が色を失い白けていく。そしてその範囲は広がっていく。
マルが誓いの間の中心にまで来ると、誓いの間の壁から天井までも白け出した。
壁や天井に装飾された、愛と美と豊穣を司る女神を讃える彫刻も絵も色を失い、白く輝いている様に見える。
その光景をこの場の皆が、言葉もなく見詰めていた。
手順に則って、マルは壇上に上がる。
本当は壇上まで侯爵がエスコートをする筈だったのだけれど、マルは裾を上手く捌いて、壇上に上がる為の階段をひとの手を借りずに独りで上った。
壇上では、国王も王太子も、大神官長も副神官長も、一言も発せず、やはりただ目を見開いて唇を緩めて、マルを見ているだけだ。
しばらく待っても誰も動かない。
このままでは式を始められないので、手順にはなかったけれど、マルは自分から名乗る事にした。
「マレニリア、参上致しました」
頭を下げずに真っ直ぐに進行役の大神官長を見て、洗礼で付けられた名を名乗り、マルは一人で堂々と立つ。
貴族の礼儀作法が付け焼き刃のマルにとっては、これで合っているのか分からなかったけれど、堂々としていれば大抵の失敗は誤魔化せる事をマルは学んでいたので、マルにとってはこれが正解だった。
マルの声にハッとして、目を見開いたまま皆が動きを取り戻す。
扉で控えていた片側の神官は扉を開けようとしたけれど、女神の描かれている扉はドアハンドルはもちろんの事、神官の手が届かない高さの位置まで光になって消えてしまっていたので、職務を全う出来なかった。
もう一人の神官によって残されたもう一方の、女神に祈りを捧げる人々が描かれた扉だけが開かれる。
侯爵は背を丸めて、恐る恐る扉を潜り抜けた。
侯爵が背伸びをしても、下部が消えた扉には届かないけれど、扉の残った部分がまだ光りながら消え続けている最中なので、間違っても触れない様に侯爵はしたかった。
そして誓いの間に足を踏み入れた侯爵は、足早に壇上を目指す。
大神官長は式の開始の為に、始めに言うべき言葉があったのだけれど、それが頭から飛んでしまっていた。
取り敢えず動作は体が覚えていたので、誓約書を台に載せる。
副神官長は大神官長が動いたのに釣られて、台に載っているインク壺の蓋を開けた。
国王は椅子から立ち上がり、ペンを取る。
国王も本当は、ペンを取る前に言う筈の言葉を用意していた。しかしそのまま無言で国王は、誓約書にサインをした。
侯爵が遅れて壇上に上がると直ぐに、国王から無言でペンを渡され、侯爵も無言でそれを受け取る。
そしてやはり侯爵は無言のままで誓約書にサインをして、ペンをそのまま無言で王太子に向けて差し出した。
王太子はペンを差し出されて始めて我に返った。
ここで本来は、嫌味の一つもマルに言う積もりだった。
しかし、先程からペンを使う音がする時以外は、しんと静まった誓いの間で、王太子は言うべき嫌味を思い付かない。ブスとかバカとかの悪口なら頭に浮かぶけれど、さすがにその様な子供染みた言葉を口にする気には、王太子でもなれなかった。
それなので、王太子も無言で立ち上がり、無言でペンを受け取り、無言で誓約書にサインをした。
マルが王太子からペンを受け取ると、今度はペンに彫られていた女神を表す紋様が白ける。それに気付いて王太子は、慌てて手を引っ込めた。