七年ぶりに帰ったら離婚されそうになった騎士の周章狼狽
『敬愛するジークハルト様。
長年のお務め、まことにご苦労さまでございました。
離縁してください』
「離縁してください?」
わずか三行目で堅苦しい挨拶に飽きて突然本題に入ったばかりかそこで唐突に文章が終わった余白だらけの置き手紙。
書き場所に迷ってか余白の中央にどーんと記された名前は「クラリス」。ジークハルトが約七年前、出征直前に結婚した花嫁だ。
何度読み返しても──読み返すほどの量もないが──この置き手紙が離婚を要求するものであることは間違いない。封筒を破る勢いで広げてみれば案の定、そこには手続きに必要な書類がぎっしり。
「執事! メイド長! 料理長! 庭師! あと何だ! とりあえず全員集合しろ!!」
などと言ってしまったせいで屋敷のエントランスは人で溢れかえったが、何なら厩舎から誰かが馬まで連れてきたが、ジークハルトは気にせず置き手紙を掲げて彼らに尋ねる。
「クラリスはどこに行った!?」
皆がざわざわと顔を見合わせた。女主人の不在に誰も気が付かなかったのかとジークハルトが怒りをあらわにしたのも束の間、「旦那様」と歩み出たのはメイド長だった。
「まずは長きに渡る戦を耐え抜き、こうして生きてお帰りになられたこと、心よりお喜び申し上げます。して、奥様のことでごさいますが……」
「ああ。何か心当たりは」
「旦那様が原因かと」
「え」
ジークハルトは力強く掲げていた手紙を下ろす。
「どういうことだ」
戦場帰りで気が立っていた自覚はあったので、一度深呼吸を挟みつつ努めて冷静にそう尋ねた。
すると。
「──ご多忙とは言え、この七年間一通も文を寄越さないばかりか他所で愛人をこしらえた殿方に、愛想を尽かすのは当然でございます!」
メイド長が涙ながらに叫んだ。
わっと顔を覆って泣いてしまった彼女に続き、執事や料理長や庭師までもが「そうだそうだ」と非難の声を上げる。
「旦那様のご活躍ぶりはあちこちでお耳にしましたのに、終戦間際になっても音沙汰がないなんて! この爺やも見損ないましたぞ!」
「奥様は旦那様のことを案じて日に日にお痩せになって! 俺が作ったクッキーを美味しいと笑うお姿があんまりにも哀れで……!」
「お前さんがまさかこれほどの畜生とは思っておらんかったわ! うっかり庭で毒草を育て始めてしまったぞわしゃあ!」
「ヒヒィーン!」
「待て、みな落ち着け! 馬も!」
罵倒に慟哭に荒ぶる馬。こんなに一斉に集めるんじゃなかったと後悔しつつ、ジークハルトは泣き崩れるメイド長を立たせつつ問う。
「どういうことだ? 俺は──何通も手紙を送っていたぞ。それこそクラリスだけじゃなくて、お前たちにも」
「えっ?」
そう、ジークハルトは畜生になった覚えはない。
戦場に駆り出されてゆっくり文を書く余裕がなかったのは事実だが、それでも自身の無事を知らせるため、またクラリスと屋敷の様子を知るために短いながらも手紙を送っていた。
何せ当時は結婚直後。成人したばかりの十六歳だったクラリスに屋敷の留守を任せるのが忍びなかったし、心配だった。
体は壊していないかとか、知人を名乗る怪しい人間が屋敷に来ても取り合うなとか、使用人たちと上手くやっているかとか、無理はしないようにとか。そういうことを手紙で定期的に尋ねていた。
──が、そういえば返事は届かなかったなと、ジークハルトが剣呑な眼差しで虚空を見つめたときだ。
「じゃ、じゃあ愛人は……?」
「愛人? そうだ愛人とは何の話だ」
おっかなびっくり口を開いたのは、そばかすが特徴的な若いメイドだった。
「あ、愛人を自称する女性が、たびたび屋敷にいらっしゃったのです。お帰りくださいと申し上げても、自分こそが本当の子爵夫人だと主張して譲らず……奥様にも『あなたなんて子供にしか思われてない』だの『骨と皮しかない』だの酷い言葉を浴びせて……!」
「誰だその無礼な女は!! クソッ、そういう輩を屋敷に入れるなと手紙に書いたのに!!」
状況を大雑把に理解したジークハルトは頭をぐしゃぐしゃに掻き乱すと、今もなお荒ぶる馬に飛び乗り、嘶きと共に屋敷を出て行ったのだった。
◇
馬を走らせながら思ったことと言えば。
──今のクラリスを見て、ひと目で彼女だと分かるのか? ということ。
侯爵家の次男として生を受け、早々に家を出ては騎士の道へと進み、賊討伐やトーナメントで功績を挙げていくうちに子爵位を授かったジークハルト。
彼の働きを見ていた上官が「姪っ子と結婚しないか」と勧めてきたことをきっかけに縁談がまとまり、四つ年下の伯爵令嬢クラリスと出会った。
『はじめまして、ジークハルトさま。クラリスと申します』
真っ直ぐに伸びた美しい黒髪に、新芽のような淡い翠色の瞳。初めて顔を合わせたのは彼女が十四歳の頃だったが、そのとき既に淑女としての振る舞いは完璧に己のものとしていた。
同年代の少女たちより頭ひとつ身長が高く、まるで騎士のように凛とした空気を放つ一方、ジークハルトを前にして緊張する姿は年相応に愛らしくもあり。
『そう硬くならないでくれ。結婚自体は二年先だからな、それまでにゆっくり互いを知っていこう』
『は、はい。……ですが、此度の縁談は叔父が強引に決めてしまわれたのでは……』
『貴女に会うと決めたのは私で、婚約に応じたのも私だ。むしろ成人前に婚約者が決まって、クラリス嬢が嫌がっていないか心配だな』
『嫌がってなどおりません!』
はっと頬を赤らめて黙り込むクラリスに、ジークハルトは笑った。
『なら良かった』
過去の自分、十八のくせに大人だな──と、先程あまりの衝撃に慌てふためいて使用人を大集合させて大声を上げてしまったジークハルトは眉間を押さえる。
だが、ここまで取り乱したのはクラリスのことを大事に思っているがゆえだった。
クラリスは身内に騎士が多いため、軍人であるジークハルトの職務に関しても理解があり、またその支え方も心得ていた。十四歳とは思えぬほどしっかり者であったことも、上官が縁談を勧めてきた理由の一つかもしれない。
そしてそんなクラリスを、高飛車な令嬢たちに辟易していたジークハルトが気に入ることも想定済みだったのだろう。
恋愛感情はなくとも、この二人なら夫婦として家族として上手くやっていける──両家の思惑はそんなところだ。政略的要素はおまけ程度で、皆が真面目で愛らしいクラリスの幸福を願っていたし、ジークハルトもそれを実現させる心積もりがあった。
──だが、クラリスが成人を迎えて、ようやく結婚式を挙げた日に、異民族による侵攻が始まってしまった。
国境の戦場へ発つことになったジークハルトを、クラリスは不安を押し殺した表情で毅然と見送った。
しかし当初すぐに決着がつくはずだった争いは皆の予想を大きく裏切り、事態の終息に七年もの歳月を要したのである。
「な、七年か……」
長かったようであっという間だった……などと屋敷に帰るまでは悠長に考えていたが、やはり改めて振り返ると七年は長い。だいぶ長い。
十六歳だったクラリスは今年で二十三歳。すっかり大人の女性になっていることだろう。それこそジークハルトの知らない女性に。
『ジーク、嫁さんに文は出しておけよ。新婚だろ?』
戦場で同僚から掛けられた言葉が頭をよぎる。
『ああ、心配させてしまうから出すつもりだったが』
『隊長、過去に二年ぐらい家を空けて手紙も送らなかったせいで離婚したからな。帰ったら知らない男と子供がいたらしいぞ』
『え……』
『恋人も然りだ。例え生涯の伴侶でも、健気に待ってくれてるとは限らんってことよ。そういうわけだから文は必ず出しとけ』
彼とのやり取りが馬の蹄によって搔き消された後、ジークハルトは天を仰ぐ。
──出したはずなんだがなぁ!!
メイド長には「何通も」と濁したが実のところ結構な頻度で手紙を送っていた。用事が思い浮かばなくなっても天気やら路傍の花やら虫刺されについてやら、心底どうでもいいような内容を書いて。
今思えばあれらは別に読まれなくて良かったかもしれない。多分疲れていた。体も頭も。
しかしその行為自体に希望を見出していたのも事実で、手紙を書くことでクラリスの元に生きて帰るのだと己を鼓舞していたのだ。
それぐらい、いつの間にかクラリスは大事な存在になっていた。
二年の婚約期間で打ち解けたとは言え、まだ彼女のことを殆ど知ることが出来ていない。いや、共に過ごすはずだった七年もの時間を失ってしまったから、また振り出しに戻ったようなものだ。
しばらくはゆっくり休んで、クラリスとたくさん話がしたい。彼女の七年が知りたい。互いが抱えた恐怖や不安を分かち合いたい。そして、これからのことも。
……そんなことを感傷的に考えていた時期があった。ついさっきのことだが。
「ああ、もう、何なんだ……ようやく帰ってこれたのに……」
ひとまず今はクラリスに会わねば。七年も一人にしてしまったことを謝罪して、手紙が届いていなかった件については早急に係の者に確認しなければならない。
いや、実を言えば既におおよその見当はついているのだが……。
「ああっ、ジークさま、ジークさまだわ! わたくしを迎えに来てくださったのね!」
馬で街道を爆走していたら何だか聞き覚えのある声が耳を掠め、ジークハルトは手綱を引いた。
振り返ってみると予想通り、一人の女が喜色満面にそこに立っている。
長い金髪をほっかむりで隠した女は、地味な色合いのスカートをいそいそと払い、優雅に礼をして見せた。
「お久し振りですジークさま。あなたのリリエナでございます」
リリエナ。
そうだ、そんな名前だったなと、ジークハルトは切れそうな血管を何とか宥めながら微笑を返す。
「おや、何故こちらに? リリエナ嬢」
「何故だなんて……わたくしはあなたの妻なのですから、夫を迎えに行くのは当然でしょう? ふふ、本当は迎えに来てほしかったけど、わたくし我が儘は言いたくなくて」
妻はこれまでもこれからもクラリス一人なのだが、彼女の中ではどうやらジークハルトとリリエナが夫婦関係になっているようだ。
──ちっとも治っていないじゃないか!
ジークハルトは心の中で嘆いた。
この怪しい女リリエナは、十年ほど前までれっきとした公爵令嬢だったのだが、今はその身分を失い修道院に入っている……はずだ。
何故高貴な身のリリエナが修道院に入れられたのかというと、それはジークハルトに対する度重なる嫌がらせ──もとい付きまとい行為が原因だった。
『ジークさま、騎士団のお休みの日はいつでしょうか? 今度、一緒に教会へ参りましょうね』
『はっ……? 教会?』
『ええ、結婚の証を立てなくちゃならないから』
驚くべきことに、これがリリエナとの初めての会話である。
ジークハルトがポカンとしている間にも彼女はぺらぺらと訳のわからないことを喋り続け、ウェディングドレスの話に移った辺りで公爵が慌ただしく娘を回収していった。
きっと人違いだったのだろう。そう考えてジークハルトは忘れることにしたのだが、リリエナはその日から頻繁に彼の元へやって来ては「早くわたくしを子爵家に住まわせて」と言うので、下手な怪談話よりも恐怖を感じたものである。
あまりにしつこいし不気味だし、何より騎士団所属の女騎士に「ジークさまに色目を使うな」「実家を潰すぞ」などと脅迫行為まで始めたので、さすがに公爵家に抗議文を送ったところ。
『──ジークさま、お父様がわたくしたちの結婚を認めてくださらないの!』
王宮へ現れたリリエナがナイフを自分の首に押し当て、「認めてくれないなら死んでやる」と大騒ぎ。
もちろんジークハルトは騎士として騒動を鎮圧せねばならなかったので、その場でリリエナを容赦なく取り押さえたのだった。
……当然そんな騒ぎを起こした娘をどこかに嫁がせるわけにも行かず、公爵はリリエナを修道院に送ったというわけだ。
──何故か脱走してるけどな。
ジークハルトは目の前でもじもじと髪をいじるリリエナを見下ろし、かろうじて溜め息を飲み込んだ。
「……リリエナ嬢。この七年の間に……私の屋敷を訪れましたか?」
「ええ。ちょっと見ないうちに誰だか知らないけれど貧乏臭い小娘が居候していたから、わたくしがガツンと言ってやりましたわ! 安心してくださいねジークさま、あなたに寄ってくる羽虫はわたくしが全部追い払っ」
「リリエナ嬢」
事実確認をしようと思ったら向こうが勝手に全て話してくれたので、ジークハルトはにこやかに会話を中断させた。
恋する乙女、いや恋の中で生きる乙女リリエナは、空想上の夫から優しく声を掛けられて頬を赤らめる。はい、と恍惚とした笑顔で返事をした彼女に、ジークハルトはスッと地面を指差した。
「すぐに戻りますので、この場でお待ちいただけますか?」
「え?」
「この場で。一歩も動かずに。私が戻るまで。待っていてください。迎えに来ますから」
その言葉を白馬の王子様が迎えに来るアレだと勘違いしたリリエナは、それはもう人生のゴールをくぐったかのような笑みで大きく頷く。
実際は「後でとっ捕まえて修道院に送り返すからな」という意味なのだが、彼女がそれを知るのはもう少し後のことだ。
◇
街道のど真ん中にリリエナを留まらせ、ジークハルトは再び馬を走らせた。
クラリスが離婚を決意してしまった元凶は早々に判明したので、あとは彼女を呼び戻すだけだ。ああいや、呼び戻して離婚を思いとどまるよう説得もしなくては。何なら開戦で台無しになってしまった結婚式のやり直しだって……。
などと考えていたときのこと。
「──ですから、必要ありません」
「そう言うなよ。女の一人歩きは危険だぜ? 俺たちの馬に乗っていけよ」
「遠慮すんなってぇ、金なんか要求しねぇからさぁ」
「俺らとちょっと遊んでくれりゃ良いよ」
「……。聞かなかったことにします。早く立ち去りなさい」
「んだよ澄ましやがって!」
不穏なやり取りを捉えて視線を巡らせれば、進行方向に三人の男が見えた。如何にも柄の悪い、流れの傭兵とおぼしき出で立ちの彼らが取り囲むのは、上等なローブを身に纏った貴婦人だった。
こちらに背を向けているため顔は分からないが、真っ直ぐに伸びた背筋からは見覚えのある気品が漂う。
まさか、と思うより先にジークハルトは剣を引き抜いていた。
「調子乗んなよ、この、アマ……?」
手を上げようとした男が猛然と迫る蹄の音に気付き、ひくりと頬を引き攣らせる。
それも仕方のないことだ。何せジークハルトは馬に跨ったまま剣を振りかぶっており、今から避ける姿勢に入っても間に合わない。
「え、ちょっ、ぶぇッ!!」
とんでもない速度とジークハルトの腕力を乗せた剣が、男の顔面を打つ。勢いよく転がっていった男を他の者達が見送る暇もなく、馬から飛び降りたジークハルトは近くにいたもう一人の腹を蹴飛ばした。
「おい何すんだ!!」
そうして残る一人が慌てながらも短剣を抜き、ジークハルトの背後から斬り掛かろうとしたが。
「お、おやめなさい!」
呆気に取られていた貴婦人が、何とその男の襟首を引っ掴み、華麗な背負い投げを決めた。男の両足がぐるんと宙に半円を描き、びたんと地面に叩き伏せられる。
顔面から着地する羽目になった男が沈黙すると、貴婦人は溜息をついた。
「はぁ……ありがとうございます、助かりました。今は手持ちがありませんが、このお礼は必ず」
彼女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。大股に近付いたジークハルトが、無言で彼女をがばりと抱き締めたからだ。
背負い投げの拍子に外れたフードからは、艷やかな黒髪が露わになっていた。まんまるに見開かれた瞳は、春の訪れを告げる淡い翠色。
七年前よりもぐっと大人びた顔立ちをしているが、ジークハルトは一目で確信した。
「クラリス。会いたかっ」
安堵や喜び、それから切実さを帯びた声で名を呼んだジークハルトの視界が、ぐるんと回って、地面に叩きつけられた。
「──も、申し訳ございません! ジークハルトさまだとは露にも思わずっ、驚いて投げてしまいました……!!」
不埒な輩と勘違いして背負い投げされてしまったジークハルトの目の前には、顔を真っ青にして謝るクラリスがいた。
今もなお地べたに倒れたままのジークハルトは、くらくらとする頭を摩りながら「いや……」と力なく手を振る。
「いきなり抱き締めた俺も悪かった。奴らと同類だと思われても仕方ない……しかし驚いた。いつの間に護身術を?」
「あ、その……屋敷に残った騎士から教わりました。戦時中ゆえ治安が悪化する中、自分の身ぐらいは守らねばと思いまして、メイドたちも誘って稽古を」
「なるほど……」
先程の三人はあっという間に逃亡していた。ジークハルトを恐れて、というよりは大の男を立て続けに二回も投げたクラリスの体術を目の当たりにして、だが。
受け身を取る暇もなかったので背中や後頭部が痛むが、ジークハルトはひとまず体を起こした。
「クラリス」
「は……い」
「……クラリス」
「はい」
噛み締めるように繰り返せば、クラリスが戸惑いながらもその都度応じてくれる。
ジークハルトは大きな溜息と共に項垂れた。
「ああ……クラリスだ」
七年ぶりに聞く、落ち着いた声。想像よりも遥かに美しく立派な淑女となったクラリスを、生きて拝むことが出来た。
彼はこの時になってようやく、戦の本当の終わりを実感した気分だった。
そんな姿を見て、クラリスも彼の安堵が伝染したように息を呑み、ぽろりと涙をこぼした。
「……お帰りなさいませ、ジークハルトさま」
震えた声でそう告げては、座り込んだまま深く頭を下げる。
ジークハルトは目頭を押さえつつ「ああ」と短く応じたが、やがて我に返っては苦笑した。
「こんな道端で座り込んで泣くとは。子供のとき以来だ」
彼が肩を揺らして笑ってしまえば、目を瞬かせていたクラリスも釣られるようにして小さく吹き出す。
二人はこの珍妙な状況に暫し笑っていたが、いつまでもこうして座り込んでいるわけにもいかない。眦に滲む涙を拭い、一足先にジークハルトは立ち上がった。
クラリスの手を引いて彼女のことも立たせては、気を利かせてか随分と離れたところでこちらを見る馬を呼び寄せようとした。
「あ……の、ジークハルトさま」
「うん?」
「お手紙を読まれて、追いかけていらっしゃったのですか……?」
「ハッそうだった!! クラリス、離縁は考え直してくれ!!」
大変気まずそうに切り出したクラリスはしかし、想像とは全く違うジークハルトの必死の形相にポカンとしてしまっていた。
そんな彼女の隙を逃すことなく、ジークハルトは届かなかった大量の手紙やリリエナの激しい思い込み癖について早口で捲し立てた。
「──だからつまり、リリエナ嬢は俺の愛人ではない。というか愛人など一人も作っていない! 俺はクラリスの元へ帰ることを目標に、この七年を耐え抜いたんだ。……頼む、どうか信じてくれ」
弁解を連ねる間、もはや息継ぎすら忘れていた。ジークハルトがぜぇはぁ言いながら最後に懇願の言葉を添えると、じっと動きのなかったクラリスが動揺を色濃く表しながら俯く。
「……お手紙を、送ってくださっていたのですか」
「ああ。届かなかったが」
「戦場で、心身ともに、お疲れだったでしょうに」
「クラリスのことを考える時間が、唯一の休息だった」
「このような、愛らしさとは程遠い妻をですか?」
リリエナから一体どんな酷い暴言を吐かれたのか。気後れした面持ちでぼそぼそと尋ねたクラリスを、ジークハルトは堪らず抱き寄せた。
途端に緊張を滲ませて硬直する彼女の、夜空のような色をした髪を撫で下ろす。
「何を言っている。君は出会ったときからずっと愛らしい」
「っそ、そんなはずは……私、背だけ高くて、他のご令嬢みたくふわふわした雰囲気はないし、顔は昔から怖いし、男の人だって投げてしまったし」
「そうだな最後の件については非常に驚いたが……そこも含めて、俺はクラリスという人間が好きだし、君が伴侶で良かったと思っているよ」
宥めるように頭を撫でて、乱れた髪をそっと除けたときだ。形のよい耳が真っ赤に染まっているのを見たジークハルトは、「ほら」と穏やかに笑う。
「相変わらず、すぐ赤くなるところも愛らしい」
「ジ、ジークハルトさま、意地悪をおっしゃらないで……」
「ああ、それと先ほど顔が怖いと言ったか? 奇遇だな、俺も戦場にいたせいか顔つきが鋭くなってしまったらしいんだが、どう思う? クラリス」
頬に触れ、顔を上げるよう促せば、涙で潤んだ瞳がおずおずと持ち上がる。
きらきらと光を湛えた翠の双眸に見詰められ、ジークハルトがうっかり吸い寄せられそうになった体を何とか律していると、クラリスが小さくかぶりを振った。
「怖くなど……以前と同じ、お優しい顔をしています」
「それは良かった。君も──いや、君は以前より更に美しくなったな」
本心をそのまま告げれば、一瞬の沈黙の後、クラリスの頬がじわりと紅潮する。
恥ずかしそうな、それでいて恨めしそうな眼差しを向けられたジークハルトは、だらしなく頬が緩むのを自覚しながら、再び彼女を抱きすくめた。
「だったら」
腕の中から、意を決したような声が上がる。
「もう、口付けをしてくださいますか」
「え!?」
突然の願ってもない言葉についつい素っ頓狂な声を返してしまえば、クラリスがどこかヤケクソ気味に続けた。
「七年前の挙式のとき、私とても期待していたのに! やっと大人になれたから、ずっと憧れていたジークハルトさまに口付けを貰えるんじゃないかって、期待していたんです!」
「え、そ、そうだったのか」
「そうです!!」
ポカポカと肩を殴られながら、ついでにクラリスからの可愛すぎる告白に頭を混乱させながら、ジークハルトは七年前の結婚式を思い返す。
誓いの言葉を述べた後、それを確かなものとするために新郎新婦は口付けを交わすのだが──当時のジークハルトは彼女の唇ではなく、頬にキスをしたのだ。
それは決して、断じてクラリスを愛していないからとかそういう話ではなく、クラリス自身の気持ちを尊重したがゆえの判断だった。
「く、クラリスにとって俺は兄のようなものかと……思っていてだな……」
「縁談を頂いたときから、私はジークハルトさまを一人の殿方として見ておりました! 寧ろ、私の方こそいつまで経っても妹のようにしか思われていなくて、だからっ……リリエナさまのお言葉も、捨て置くことができなくて……」
今にも泣き出しそうな声で詰るクラリスの肩を掴み、ジークハルトは額をこつりと突き合わせる。はらはらとこぼれ落ちる透明な雫が、陽射しを反射して煌めいた。
「……悪かった。何も伝えもせず、聞こうともせずにクラリスの気持ちを決めつけた俺のせいだ」
「……っいいえ……私だって」
「クラリス、目を閉じて」
動揺と緊張、それから多大な期待をその瞳に宿したクラリスが、きゅっと瞼を閉じる。彼女の頭と背中を包み込むようにして支えたジークハルトは、小さな唇に触れるだけのキスを贈った。
少しの間を経て、惜しむように唇を離した彼は、クラリスがその端整な顔をくしゃくしゃにしているのを見て笑ってしまう。
「何だ、期待外れだったか」
「ちが、違います、これが夢だったら悲しくて死んでしまいそうで」
「現実だ。……はは、七年前も痩せ我慢せずにキスしておけば良かったな。そしたらもう少し早く帰ってこれたかもしれない」
「……これから、たくさんしてください」
「クラリス、そんなこと言うと君が嫌がるぐらいしてしまうぞ。まぁそのときはまた投げてくれ、受け身は取るから」
「も、もう投げません!」
そんなやり取りをしながら、ジークハルトとクラリスは馬に乗って街道を引き返した。
大切な妻と仲直りできて浮かれていた彼は、馬を飛ばしすぎて途中でリリエナを拾うことを忘れてしまったのだが、後ほどしっかり騎士を向かわせて拘束した。
そして王国史上最も難しかったであろう取り調べの結果、修道院を脱走したリリエナが王都への配達係を篭絡し、ジークハルトの手紙を根こそぎ横取りしていたことが明らかとなり──彼女は海に囲まれた孤島の修道院へと送られた。もう脱走は容易にできないだろう。
「……ジークハルトさま、この虫刺されのお手紙は何の比喩ですか?」
「何の比喩でもない。ただ虫に刺されて痒かったという手紙だな。それもう読むのやめてくれ」
「嫌です。ちゃんと全て目を通したいですわ」
後日、きっちり全て返還された大量の手紙に屋敷の使用人たちがドン引きし、「これは私に宛てたものですよね?」と無邪気に喜ぶクラリスによって何の中身もない手紙を朗読される日々がしばし続いたのだった。