恋と上司とタラント
良い香りのシャンプーや石鹸が好きだった。だから、香料メーカーの営業事務になれた時は嬉しかった。職場には香料はもちろん、シャンプーや石鹸の新製品もたくさんあり、隣の研究室では調香師たちが新しい香料を開発していた。
まあ、服や髪に香料の匂いがついてしまったり、一日中デスクワークで腰が痛くなるという欠点はあるが。
そんな仕事をしつつ、趣味はネット小説を読む事だった。
「香水とかがテーマのネット小説ないかなー」
私は自宅のベッドの上で寝っ転がりながら、小説投稿アプリを見ていた。いわゆるネット小説で人気の異世界転生ものも好きだが、自分の好きな良い匂いの化粧品をテーマにしている小説も気になった。そう言った小説は異世界が舞台ではない限りランキング上位に出てこないので、検索する必要があった。
「『恋する調香師の謎めく日常』か。おもしろそう」
一つ気になる小説を検索して見つけ、読んでみる事にした。しかし、読み進めていくうちに違和感を持ち始めた。専門的な香料原材料の説明、極め付けは主人公のキャラがある上司とそっくりだ。
上司の鹿沼晴哉。隣の研究室で日々開発に明け暮れている調香師だ。ペンネームも鹿沼とある。これはどう考えても上司本人。
確かアラサーぐらいの男で、ややヲタクっぽい男だったが、まさかネット小説を書いていたとは。時々資材注文などでやり取りしていた男だったが、小説を書いてるとは想像にもしなかった。
作品そのものは面白く、香りの描写は見事だった。文字なのに読んでいると嗅覚を刺激され、楽しい。
この作品に「いいね!」と「ブックマーク」を押し、投げ銭も送った。このアプリでは百円〜五百円を作家に課金し、応援する事ができた。まさか本人は会社の部下から投げ銭を送られてきたとは思っていないだろうが、この小説の更新が楽しみだ。
それからというもの鹿沼さんは気になって仕方ない。見た目は大人しそうな男だが、寡黙、知的、繊細に見えてしまった。白衣もよく似合う。よく見たらイケメン?
これは恋なのか。単に作品が好きなだけなのか。わからないがドキドキはする。
そんなフワフワと落ち着かない日々の中、ついに彼と二人きりで話すチャンスがきてしまった。彼は一人、休憩所でコーヒーを啜っており、どことなく落ち込んでいた。
さりげなく聞き出すと、案の定小説を書いている事を告白してきた。私の父は牧師で、カウンセリングのような事もしている。父から聞いたカウンセリングテクニックを駆使し、鹿沼さんの悩みも引き出す。私が作品のファンだったと告白するとものすごい勢いで食いついてきた。
どうも他のネット作家と比べて才能が無いと落ち込んでいるようだった。
「大丈夫です。鹿沼さんにもタラントがありますよ」
「タラント?」
「タラントというのは聖書の才能の例え話しです。せっかく神様が与えた才能を使わずに土に埋めてしまった人は怒られて、持っていたものも全部奪われるという話です。逆にちゃんと才能を使った人は結果を問わずに祝福されるんです。元々タラントはお金の単位なんですが」
「うわ、何それ?」
「つまり、行動して失敗するよりも神様視点では何もしない方が罪なんです。結果よりも過程です。クリスチャン的には神様への忠誠を表す話ですが、鹿沼さんは作品を書いてるんですから、与えられたタラントを使ってるんですよ。それだけでも良いんじゃないですか?」
鹿沼さんは最初は納得していなかったが、聖書のタラントの例え話を読み、励まされたようだ。「自分には一タラントはもらっているはずだから、土に埋めないで使うぞ。創作者はタラントの例え話を読むべし」とやる気を出していた。
そんな鹿沼さんだったが、家庭の事情で退職する事になってしまった。
せっかく仲良くなれたのに。小説や聖書の話題で会話ができたのに。小説投稿アプリで投げ銭していた事もまだ言っていない。
恋心もタラントみたいに土に埋めたらダメ?
そんな気がした。
鹿沼さんが退職する日は、炎天下の夏の日だったが、去っていく彼を追いかけていた。
「せめてLINEだけでも交換しましょー!」
全速力で走ってくる私に彼は引いていたが、とりあえず連絡先は交換できた。
頬は真っ赤、全身汗だく。かなりみっともなかったけど、全く後悔はない。
恋心も土に埋めたくなかった。




