水葬猫
ある日、僕はバケツで溺れたんだ。もちろん僕は小人でもなければ子猫でもないよ。
じゃあ僕がなぜあんな小さな水たまりで溺れているのか。答えは簡単だよ。
クラスメイトに頭を上から押さえつけられて、顔を水から出すことができないから。
僕は転校生だった。転校生ってのはいつの時代も話題をさらっていく者だからね。
とりわけ、自分で言うのもなんだけど僕は運動もできたし顔もいい。あっという間にクラスの人気者になった。
特別、僕は水泳が得意だった。プールに入った僕はまさに水を得た魚。これまた学校中の話題になった。今僕がこんな目に遭っているのもそれが原因だろう。
しばらくしてから僕は同じクラスの何人かに呼び出されたんだ。普段から僕に熱烈な視線を送ってくる連中だよ。
もちろん悪い意味でだけど。
なんてことはない。妬みや嫉みから生まれるいじめに遭ったんだ。
気持ちを分からなくもない。ぽっと現れた奴にクラスでの人気を全部持ってかれたんだ。
僕だって同じ立場になったら多少なりとも羨ましいと感じるだろう。
だからってその原因になった人間を傷つけていいはずはないと思うけど。
初めの頃は陰口を叩かれたり、物を隠されたりする程度だった。こういう輩は気に止めないのが一番の対処法。でも相手からすれば、そんな『我関せず』みたいな態度も気に入らない。いじめをヒートアップさせるきっかけになりかねない。そして僕が最も得意とすることに関連づけたことを思いついたらしい。
転校してから日も浅く、問題を起こしたくないと思っていた。でも流石に限界が近かった。
こんな日々が続けば誰だって『あいつら消えないかな』なんてドス黒い感情が頭をよぎる。
「なにかお困りごとかな?」
待っていましたと言わんばかりのタイミングで声をかけられた。
振り返るとそこにいたのは一匹の猫だった。全身真っ黒で僕を見つめる瞳だけが
煌々と紅い光を放っている。
「お前さん、何か叶えたいことがあるようだな。」
僕を見透かしたような瞳に魅せられて思わず頷いてしまった。
「やっぱりな。話してみろよ。誰かに話すってだけでも変わるかも知れないぜ」
僕は自分に起こっている事の顛末を猫に話した。
この時点で猫と会話しているという疑問は僕の頭の中から消えていた。
「なるほどな・・・」
それを聞いた黒猫はチシャ猫のような胡散臭い笑顔で
「そいつらを消したら俺のささやかな願いを聞いてくれないか?」
と一言つぶやいた。
お願いと聞いた時、魂でも取られるんじゃないかと思った。でもそれは杞憂だった。
「一度でいいから人間の体っていうのを経験してみたいんだ。願いを叶え終わったら一日だけでいいから体を貸してくれ」ってね。
少し迷ったけど一日だけなら大丈夫かと思って僕は承諾した。
次の日、新聞を見てみると『男子学生三名、用水路にて溺死』と言う記事が一面を飾っていた。朝のニュースにもなっていた。被害者の背中にはいずれも爪で引っ掻かれたような傷跡があったこと。まるで何かに押さえつけられているようだとも報道された。気づけば僕は家から飛び出して、昨日猫と会った場所に駆け出していた。
あの黒猫は普段からその場にいたみたいに招き猫のようにちょこんと草むらに座っていた。
「じゃあ約束だ。目を瞑ってくれ」
そう言われてグッと目を瞑り、開けた時には僕が僕を見上げていた。自分自身を鏡なしで見るのは初めての経験だった。もちろん猫になったこともね。
「ありがとよ。一日だけでも戻れるぜ」
そういうと僕の体を借りた黒猫は身体をクルリと翻し走り去って行った。
そんな姿を見送った一方で初めて動かすであろう猫の身体に戸惑って上手く動けなかった。おまけにその日は暑くて真っ黒で毛だらけの僕の体は熱をよく蓄えた。どうにかして高いところに登り、体を冷やせる場所を探し回った。そうして子猫一匹ぐらいが楽に浸かれそうぐらいの水が入ったバケツを見つけた。この発見が仇になったと思うな。早速飛び込もうと両手(前足・後ろ足)をいっぱいに広げてバケツの中に飛び込んだ。ザブンと激しい水飛沫を散らし、体いっぱいに清涼感が駆け巡った。でも僕は気づいていなかった。今の体は水をよく吸い込むことに。モフモフとした体は乾いたタオルのように水を吸い上げ僕の体を重くする。水泳が得意だからって猫と人間の体では勝手が違う。あっという間に僕の小さな体が強張り、折れ曲がり、小さなバケツの中に収まっていく。
その日、僕はバケツで溺れた。今度は比喩なんかない。文字通り。
だって僕は猫になったんだから。
こうしてこの街から一人の人間と一匹の猫が消えた。
ということで僕の話はここで終わり。
神頼みなんかするもんじゃないね。いや猫頼みか。
そういえばあの黒猫は猫の癖にやけに人間の体に慣れている様子だったな。
僕は慣れてないからあんな目にあったのに。
ところでさ叶えたい願い事とか持っているお友達とかいないかな?
もし、いるんだったら僕のところまで連れてきて欲しいんだけど?
いやね、僕も人間の体が恋しくて。もちろんすぐに返すよ。
そう言い終わると一匹の紅い瞳を持つ真っ黒な猫の水飲み場にピトンと水滴が落ちた。