守る
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふむふむ、「封建制度」。
土地を仲立ちとした主従関係で、将軍は御家人に「御恩」として土地を与え、御家人はそれに報いるため「奉公」をする、と。
よしよし、今回の社会のテストはだいぶいけそうだ。ただ欲をいえば、この前も、そのひとつ前も、8割越えしなかったしね。どうにかここで9割の大台に……。
――え? そのぶん、他の科目をやっていないだろうって?
ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ。そいつはいわんお約束ぜよ〜。
いいじゃんか。ゼネラリストより、スペシャリスト。時代に逆行する職人魂こそ、なくしちゃいけないものだって。
自分の信じるもののみを信じて生きていく。それこそ歯車も主従関係もない、あこがれの生き方ってもんでしょ。
――従わないということは、守られないということだと分かっているのか?
こーちゃん、今日はやけに辛らつだね……。
そりゃ、想像はつくさ。自分の尻は自分で拭うよりないし、社会全体のルールを乱すレベルじゃ粛清されるだろう。
道路標識ひとつだって、守らないと罰せられる恐れがあるんだから、気をつけないと。
ふわー、考えたら疲れてきちゃった。ちょっと休もっと。
こーちゃんも少し息入れようよ。勉強ばっかりが勉強会の楽しみじゃないっしょ?
お菓子でも食べながら……よし、怪談話でも聞かせ合おうか。
今回は僕が先手をもらうよ。
さっきも話した標識の話だけど、こーちゃんも歩行者専用道路の標識にまつわるウワサ、聞いたことがあるっしょ? あの標識の大人と子供は、誘拐犯が子供をさらっている最中の写真をモチーフにしてしまったものだ、とね。
ちょっと調べると、もともとあの標識は日本で生まれたものじゃないらしい。ヨーロッパにおいて開かれた、国連道路交通会議で決まったのだとか。日本もこれに準じたまでのこと。
誘拐犯うんぬんは、ドイツのハイネマン大統領が「件の標識は誘拐犯を連想させる」と発言してデザインを変更させたらしく、ウワサの元ネタと見られているそうだ。
けれど海を越えたこの日本で、ここまでまことしやかにささやかれるのって、他にもわけがあるんじゃないか?
そう考え出していた僕に、お母さんが話してくれたのが、次のようなものだ。
まだお母さんが、小学校に通っていたころのこと。
朝にクラスメートの子のひとりが、棒つきキャンディをしゃぶりながら、教室へ入ってきた。
「お菓子食べながら、学校へ来るの、いけないんだ〜」と、目ざとい子たちが注意すると、「家から持ってきたものじゃないもん。だからセーフ」と反論してくる。
どこか駄菓子屋にでも寄ったのか、と尋ねるとこれも否定。なんでも登校途中に、前の方でガチンと固いものがぶつかるような音がして、それを気にしないまま、追い抜こうとしたスーツ姿の男の人が、いきなり手を握ってきたのだとか。
「ごめん。ちょっとの間だけ一緒に歩いてくれないか?」
ほとんど禿げあがった頭の中年男性、それも面識のない人に声をかけられ、クラスメートはとっさに反応できなかった。
目をぱちくりさせて歩いたのは、ほんの十数秒。距離にしたところで、100メートルにも満たない長さだった。けれど短さに反して、その握る力はとても強いものだったらしい。
歩き終えると、そのおじさんはクラスメートにお礼をいいながら、この飴を握らせて、その場を立ち去っていった……とのことだった。
ちょっと考えれば、いろいろとアブナイ内容だ。だけどお母さんたちにとっては、もらえる飴の魅力が何よりも勝った。
自分も、自分もと話す子は見る間に増え、その子がおじさんに出会ったという歩道へ、我先にと集まっていく。お母さんも、そのうちのひとりだった。
周囲に大人たちの姿はなく、みんなは待ち伏せて、誰かが手をつないでいるのを待ったらしい。まるっきり、親鳥から与えられる餌を待つひな鳥だ。
お母さんはその様子を見て、ちょっと気が引けてしまう。自分が当事者ならいいけれど、はたから見ると、格好や気味の悪さが丸出しだ。
――あれの仲間になるのは、ちょっとなあ。
きびすを返しかけたお母さんのつま先に、思わず突っかかってきたものがある。
それは地面からかすかに飛び出す、標識の刺さっていたと思しき、小さな穴だった。
よくお店の前に、旗を立てるための筒が埋められていることがあるけれど、それよりひと回り大きい。
地上から数センチほど頭を出したその穴のふちは、熱であぶったか、力でねじ切ったのか。もとの円とはほど遠く、乱れてゆがんでいたのだとか。
それから数日後。
お母さんは友達に誘われた外遊びから、ひとり帰るところだった。
当時のお母さんのトレンドは、車の影を跳び越すこと。近年、車通りが多くなってきた県道沿いを歩き、向かってくる車の影に触らないようジャンプをしていくんだ。
ガードレールもあるし、車そのものが突っ込んでくる危険は、お母さんには考えづらかったらしい。その日は跳び越せないほどの大型車に出くわすことなく、パーフェクトな成績のまま、家に通じる路地の角を曲がったんだ。
ガチンと、固いものがすぐ近くでぶつかる音がした。うつむいたお母さんの視界に、勢いよく転がった砂利が、いくつも飛び込んでくる。
顔をあげた。自分の行く手、ほんの数十センチ先に、柱を震わせている交通標識があったんだ。
揺れながら柱の先に取り付けられている標識は、大人が子供の手を引いているもの。青い背景に白く抜かれたその姿は、歩行者専用を示すものだ。
けれどお母さんは違和感でいっぱいだった。
この道に、この標識があったか? いや、それにこの標識はひし形をしていたか?
あっ、と後ろで男の声がしたのは、その直後だ。
お母さんは振り返るより先に、その手を取られて前へ駆けだしていた。
スーツ姿の太ったおじさんだ。自分の手をすっぽり包んでしまう彼の大きな手は、ぬらぬらと脂ぎっている。
更にはそれぞれの指の付け根からは、筆の穂先を思わせる毛並みがぼうぼうと……。
それは小学生の女子にとって、ショックが大きかったことだろう。
お母さんは反射的に、その腕をもぎ離そうとした。
手の主たるスーツ姿のおじさんは、なお離すまいと、ぎゅっと力を込めてくるも、それがあだとなる。
手のひらににじんだ脂が、かえってお母さんの手でぬめり、ずるりと外へ滑り出させてしまったんだ。
二人の手が、完全に離れる。とたん、前を進んでいたおじさんの身体が、急激に浮き上がり始めたんだ。まるで風船のように。
宙に浮き始めたおじさんの顔は、一気に青ざめる。
「つかんでくれ! お願いだから、つかんでくれ! 助けてくれ!」
もう地面に足がつかなくなってしまったおじさんは、泣きそうな声をあげながら、身体を大きく曲げる。
足を天に向ける格好になりつつも頭を、腕を、地上にいるお母さんへ届かせようと、必死に伸ばしていた。
――いけないことしちゃった!
過ちに気づいたお母さんは、改めて手を伸ばすけれど、その手と顔へ不意に、いくつも降り注いでくるものがある。
飴だ。あの日、クラスメートがなめていたのと同じものたちだ。
ひっくり返ったおじさんのポケットから、いくつもこぼれ落ちていくそれは、地上のお母さんにとって弾丸以外の何物でもない。
高さに勢いづいて、伸ばした手や顔へ次々とぶつかってくる痛みに、お母さんはひるんでしまう。
クリーンヒットした顔を思わず覆おうとして、自分がつい手を引っ込めたことに気づいたときにはもう、おじさんはお母さんの届かないところまで、浮き上がってしまっていたんだ。
助けを求めていたおじさんの声は、もう罵りに変わっていた。
小学生が受け止めるに、その言葉はもうあまりに痛くて、鋭くて、思い出したくもないくらいだとか。
おじさんはみるみる小さくなり、やがて声も聞こえなくなって、お母さんの目からは涙があふれだした。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
座り込み、空を見上げて泣きながら謝り続けるお母さん。
その地べたには、確かにおじさんがここにいた証である飴が、盛大に散らばっていた。
その様子を道行く人に見とがめられだして、その場から逃げ出そうと立ち上がったとき、お母さんは気づく。
先ほどまで刺さっていた標識が、穴を残してすっかり消え去ってしまっていることに。
そのときから、お母さんは歩行者専用の標識があるところを避け続けたらしい。
だけど僕が生まれてから、もろもろの事情で標識をかわせない時には、手をぎゅっと強く握ってくれたんだよ。
あの時は、お母さんが僕を守ろうとしてくれていると思えた。
でも、本当はお母さん自身が備えるためであり、あのとき握ってあげられなかったおじさんへの罪滅ぼしのためでもあったんじゃないかと、いまは考えちゃうんだ。