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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

隠されたもの

作者: 早瀬悠斗

久しぶりにクトゥルフ神話風の短編を書いてみました。よかったらご覧ください。

 

 今、私の家には三つの死体がある。中年の女の死体が一つと、子供の死体が二つだ。

 いや考えようによっては四つかもしれない。女の膨らんだ腹は、彼女が妊娠していたことを示しているからだ。死体はいずれも刃物で滅多突きにされたもので、強烈な血の匂いが漂っている。  


 子供のうちの一人はまだ微かに動いていて、その胸が上下してるが、もうじき完全な死を迎えるだろう。その横で縄を結んでいる私は、もうすぐこの家の四つ目の死体になる。


 私は無感動にその様子を見つめていた。人間とは結構簡単に死ぬものだ。彼らはただ、私が振り下ろした包丁の下で息絶えていった。まるで屠殺される家畜のように。「彼」もそう思っていたのかもしれない。それさえどうでもいい。

 罪悪感がないわけではない。とても信じられないという顔をした三人の死に顔を見ていると、私は何ということをしてしまったのかと感じる。だが後悔はない。結局のところ、この三人はこの世に生きていてはならなかったのだ。




 そうだ。認めよう。私は確かに妻子を殺した。まずは二人の子供を殺し、それを止めようとした身重の妻も同様に殺害したのだ。我が子たちと私のDNA検査結果、親子であるかの検査の結果を見た結果である。

 

 こう言うと普通の人間はこう思うだろう。子供が自分の子でないことを知った夫が、嫉妬に狂って妻子を殺害したのだと。

 実際警察はそう判断し、マスコミでもそのように報道されるだろう。それが起こる時には私はこの世にいないだろうが、その程度のことは予測できる。

 


 だがそうではない。そうではないのだ。私が妻子を殺したのはそんな陳腐な理由からではない。もっと深刻な、妻の浮気などより遥かに悍ましい理由からなのだ。


 




 今年の正月、数週間後に自分がこのような凶行に手を染めるとは夢にも思っていなかったあの時に、私は実家に帰省していた。妊娠中の妻は今年の正月は彼女のほうの実家に帰省していたので、私一人でだ。

 私の実家は農村の旧家であり、かつてはそれなりの豪農だったらしい。今ではかなり零落しているが、それでも周りの家よりは格段に豊かだった。

 




 久しぶりに訪れた実家の村は相変わらず陰気な土地柄だった。冬場の田舎特有の荒涼とした風景、全てが茶褐色に染まった景色の中にぽつぽつとみずぼらしい家が立ち並んでいる。そのうちの幾つかはもはや人が住んでおらず、解体費用さえ惜しんだ所有者に放置されているのだった。

 道端にはおそらく私が家を出る前からある看板が寒風にさらされながら朽ちていて、隣にあるやけに真新しいサラ金の看板とそこに止まったカラスの群れが、物悲しい景色に華を添えている。

 

 一日に三本しかないバスを降りた私は、頂上に雪をたたえた山から下りてくる冷気に震えながら実家を目指した。豪農だったころの名残でやけに大きく、遠目では立派に見える家なのですぐに分かる。もっともこの家に住む者は私の父が最後であることを考えると、それもまた虚しいことだが。

 


 無意味に大きい扉の横にあるインターフォンを押すと、父が出迎えてくれた。父は事情があって妻、すなわち私の母と離別しているので、今この家に住んでいるのは父だけだ。

 久しぶりに会った父は前より老け込んでいたが、もうじき70歳になることを考えれば元気なほうだろう。私は「ただいま」と小声で言い、父は無言で頷いた。

 


 家の中は外よりはましとは言え、かなりの寒さであることに変わりはなかった。百年以上前に建てられた家なので、隙間だらけなのだ。私は以前リフォームを提案したが、父は拒否していた。そのためには新築と同じ費用がかかると、業者に宣告されたと言うのだ。

 あと十数年たてば、父はこの家を出て老人ホームで生涯を終えることになる。十数年のために、そのような費用をかけるのは馬鹿らしいと父は判断したのだろう。父がそれでいいなら、私もそれ以上口を挟むつもりは無かった。

 



 一応の暖房が聞いた居間で、私は父に家政婦はどうしたのかと尋ねた。離婚して以来父は家政婦を雇っているはずだが、家の中にその姿が見当たらないのだ。父は、「家政婦は数日前にやめた。代わりはあと何日かすれば来るはずだ」と答えた。

 

 私はまたかと思った。給料が平均より低いわけではないし、父も特に気難しい男ではないにも関わらず、この家の家政婦は長続きしなかった。私は年に一回か二回帰省するのだが、前と同じ家政婦がいるのを見たことが一度もない。

 この家自体のせいと言うより、まともな娯楽も交通手段もない周囲の土地柄のせいなのだろうが。

 




 私が途中のスーパーで買ってきたおせち料理を食べながら、父は私の仕事や家庭生活についてぽつぽつと質問した。私は手短にそれに答えつつ、昔の思い出話などをした。子供のころによく遊んだ近所の友人、全校生徒集めても数十人しかいなかった小学校、隣町にあってバスで通学した中学校。微かな痛みを伴った遠い思い出たち。

 あの頃に帰りたいとは思わなかった。ただ懐かしくはあった。そうだ。あの頃にはあと二人、この家にいたのだ。

 


 やがて僅かな酒で酔った父は早々と寝てしまい、家の中には私一人が残された。古ぼけた時計、床に放置された旧式のラジオ、私が少年時代に読んでいた漫画雑誌、周りと不釣り合いな最新型の液晶テレビ。それらが蛍光灯の薄暗い光の中に浮かび上がっている。部屋の壁はもとは白かったのだが、今ではよく分からない染みに覆われて見る影もない。

 

 それらを眺めながら、私はしばらく回想にふけった。二十数年前、この家には4人の人間がいた。それが今では、この家に出入りする者は家政婦を除けば私と父だけで、常にいるのは老年期に入った父だけ。

 年を取るのは人間だけではない。おそらくこの家自体が晩年を迎えているのだ。いや、家だけではなく村全体が老衰死の過程にある。それを示すように周囲からは何の音も聞こえない。辺りに家はいくつかあるが、人が住んでいるのはこの家だけなのだ。

 





 そんなことを考えつつ、静寂の中でぼんやりとしていた私は、突然聞こえてきた音に驚愕した。何かを思い切り叩きつけるような音、壁をひっかくような音、そして濁った悲鳴のような声。そんな騒音が唐突に静寂を破ったのだ。

 家の中に何かがいる。今隣の部屋で眠っている父以外の何かが。音は続いている。それは明らかに生き物で、何らかの意図をもって動いているのだ。

 


 私は慌てて父がいる部屋に向かった。「それ」が父に危害を加えないかと心配だったのだ。だがそれは杞憂だった。父は何事もなく寝ている。とりあえず安心はしたが、音の正体は分からなかった。ネズミなどではない。明らかにもっと大きな動物が立てるであろう音だ。

 私は震えながら、台所から包丁を取り出して構えた。「それ」が部屋に入ってきたら応戦できるようにだ。音はどうやら床下から聞こえてくるらしい。だが床下に入れる程度の大きさの動物が立てているにしては、異様に大きい音だった。


 嫌な想像が頭に浮かんだ。今床下にいるのは動物ではなく人間なのではないか。人間なら床下に潜り込んで、あのような大きな音を立てることができる。そんなことをする意味は不明だが、意味不明な行動をとる人間などいくらでもいる。



 私は震える手で包丁を構えながら、戸締りを確認した。相手が人間だか動物だかは不明だが、入ってこられたら危険だという点では同じだ。




 だが結局、音は十数分後には止み、何事も起こらなかった。私はその後もしばらく警戒していたが、結局もう一度戸締りを確認して眠りについた。明日になったら、床下を確認してみるつもりだった。


 




 翌日の朝、私は父に昨日動物が床下を引っ掻いているような妙な物音がしたと伝えた。すると父はイタチだろうと答えた。軒下のネズミを追って、よくイタチが入ってくると言うのだ。

 イタチ程度の大きさの動物にしては音が大きすぎたと言うと、周りが静かなせいで大きな音に聞こえたのだろうという答えが返ってきた。一応の理屈は通っているが、どうも納得できなかった。

 


 「調べてみなければ」、私はそう思った。父はただの小動物のせいにしているが、あれはもっと厄介なもの、大型動物や狂人が発てた音のように感じられたのだ。下手をすれば父の身に危険が及ぶかもしれない。

 だが大して時間は無い。とりあえず仕事の都合上、明日にはこの家を出ることになる。それまでに昨日の音の正体を突き止めなければならない。取りあえず私は父が買い物に出かけた後、懐中電灯を持って床下に潜ってみることにした。

 



 床下にはおそらく昨年のものであろう蜘蛛の巣が大量にあった。動物の鳴き声がしたので一瞬身をすくめたが、ただのネズミらしかった。父が言う通り音の正体がイタチだとしたら糞などの痕跡があるだろうと思って、辺りを見回したが何もない。いやそもそも、動物が頻繁に出入りするなら蜘蛛の巣はできないはずだ。

 窮屈な姿勢で上の床板を見たが、引っ掻いたような跡はついていなかった。私は当惑しながら、さらに奥に進んだ。

 



 苦労しながら家の中心部まで進んだ私は、懐中電灯のか細い光の先に照らし出されたものを見て息を呑んだ。古ぼけた巨大な木製の柱。いや柱にしては大きすぎるし、一本の木ではなく合板でできている。これはおそらく地下に続く通路の壁だ。この家に地下室などないはずなのに。

 

 私がそれに近づくと、微かな物音が中から聞こえてきた。私は怯えながらも、その壁に耳を押し当てた。聞こえてきたのは何かが歩き回る音と、奇怪な鳴き声だった。昨日のあの生き物が中にいるのだ。

 だが、どういうことだ。父はこのことを知っているのか。存在するはずがない地下室のことと、中にいる奇妙な生き物のことを。私は震えながらも、どうにかその場を離れて軒下から出た。


 



 帰ってきた父に私はこの家に地下室があるかと尋ねたが、そんなものはないという返事だった。もちろんその中に何かがいるという話も一笑に付された。

 だが軒下に潜ってみた結果、地下室に続く通路を発見したというと、父は一瞬沈黙した。嘘だと思うなら一緒に確認しようと言ったが、父はバカバカしいと言って拒否した。その様子は、何かを隠しているようにしか見えなかった。

 


 それから何度も質問したが、父は徹底した沈黙でそれに応えた。やむなく私は別の話題を持ち出した。父の元妻、つまり私の母のことだ。母は彼女の次男、私の弟だった少年が交通事故で死んだ結果、一時的におかしくなって精神病院に入院。その間に離婚が成立していた。

 

 そうだ、あの時は本当に大変だった。当時一人暮らしだった私は、中学生の弟が事故死したという話を聞いてすぐに駆け付けた。交通事故は最もありふれた死に方の一つだが、大して車も通らないような村でそれが起きたことに本当に驚いたものだ。

 私は弟の死体を確認しようとしたが、あまりにもひどい状態なので見せられないということだった。母はショックのため何もできない状態になっており、私と父だけで葬儀にかかわる全てを手配した。あの頃は村にも葬儀屋があり、結構親身になってくれたものだ。

 

 私はあの頃の話をしながら、父に母とよりを戻す気はないのかと尋ねた。一時的におかしくなっていたのは確かだが、今の母は普通に生活している。だが父は、こんな嫌な思い出がある場所に戻ってくるはずがないだろうと言った。それもそうかと思い、私はこの話を打ち切った。

 



 昼頃、またあの音が聞こえてきた。何かが叩きつけられるような鈍い音と、何か硬いもので木の板をひっかいているような鋭い音、そして胸が悪くなるような声。どう考えても、イタチやタヌキ程度の動物が立てられる音ではなかった。

 

 「ほら、あの音ですよ。あれがイタチですか?」

 

 私は父に詰問するように聞いたが、父はイタチか、さもなければハクビシンだと繰り返すだけだった。私は念のため庭に降りて懐中電灯で軒下を照らしたが、そこには動物などいなかった。

 もちろん照らしきれなかった場所に隠れている可能性もあるが、その可能性は薄い。そもそも野生動物が昼間に人がいる家に入ってくるとは思えないのだ。

 


 私はとりあえず家の中に戻ると、この音はどのくらい前から聞こえるのかと父に聞いた。父は何年も前から聞こえていると言った。そう言えば前に帰省した時も、動物が動くような音を何度か聞いた気はする。

 ただあの時は今聞こえているような騒音、そう、まるでその動物が中から出ようとしているような音ではなかっただけだ。

 



 「飢えているのかな」

 

 父は唐突に呟いた。何のことかと聞くと、軒下で今騒いでいるイタチのことだと言った。私は床の下にいる生き物が騒いでいるのは、飢えているからかもしれないという部分のみ納得できた。

 あれは軒下でイタチが騒いでいるのではない。地下室でもっと巨大な生き物が騒いでいるのだ。私は地下室の入り口を探す決意を固めた。

 



 


 だが入口らしきものはどこにも見当たらなかった。考えてみれば、私は十数年間この家に住んでいたはずなのに、地下室の存在には気づかなかったのだ。

 家の中を歩き回る私を不審に思ったらしい父が何度か話しかけてきたが、前に帰省してきたときに置き忘れたものを探しているのだと言って誤魔化した。あの通路は、おそらく家の中央付近から伸びているはずなのだ。

 



 地下室への入り口を探し始めてから二時間ほどが経過したころ、三度目の音が聞こえ始めた。私は音が聞こえてくる方向に慎重に近づいて行った。やはり中央付近らしい。やがてもっとも音が大きく聞こえる場所にたどり着いた私は呆然とした。そこは何もない壁だったからだ。

 

 それを見た私は一瞬、この音が霊的な現象ではないかと疑った。出入り口も何もない場所から聞こえてくる音。考えてみれば軒下のあれが通路だと思ったのは推測に過ぎない。実はあの異様に太い柱のようなものの中には死体が収められていて、今騒いでいるのはその霊ではないのか。

 床下に眠る死者、それがこの怪奇現象を起こしているのではないか。そのような突飛な想像が、頭から離れなくなった。いや、本当にそうなのか。

 



 今回の音はすぐに止まったが、私は怯えながらも壁の周囲を観察し続けた。やがて私はあることに気づいた。あるいは気づいてしまった。周りに積み上げられた箪笥やがらくたによって誤魔化されているが、その壁が異様に分厚いことに。そして壁にもたれかけるように設置された箪笥にはほとんど衣類が入っておらず、非力な人間、例えば今の父であっても軽々と動かせることに。

 私は箪笥を慎重に動かした。すると予想通り、壁の表面の板が蝶番のように開き、中の空間が現れた。

 



 その空間自体は空っぽだったが、床を見た私は目を見張った。下へと続く戸のようなものがあり、そこには何本ものかんぬきが嵌っていたのだ。まるで、下にいるものを出すまいとしているかのように。私はここが、地下室の入り口であると確信した。

 

 私は急いで箪笥をもとに戻すと、父がいる居間にひとまず戻った。父はこのことを知らないのか? いや知っているはずだ。あんな音が何年も前からしているのだ。それがどこから聞こえてくるかは、しばらくすれば分かるはずだ。

 なのに何故、あの音がただの野生動物によるものだと言い張るのか。私の疑念は膨らむばかりだった。

 



 「父さん。家で面白いものを見つけました」

 

 意を決した私は父にそう話しかけると、父をあの壁の前に連れて行った。父は心なしか、蒼白な顔をしているように見えた。私が箪笥を動かすと、壁の表面の板はゆっくりと開いて、中の空間を露にした。もちろん、地下へと続くであろう出入り口も。


 


 「気づいてしまったようだね」

 

 父は悲しそうな表情でそう言った。その顔は真実を伝えたいという思いと、絶対に伝えたくないという思いがせめぎあっているように見えた。

 

 「どういうことですか?」

 「知っての通り、この家は旧家でね。家の恥を他人の目に晒すことを嫌った」

 「家の恥?」

 「精神病患者のことだ。我々の家系は昔から精神病の発症率が高い」

 

 確かに精神病を家の恥とみなす傾向は昔はどこでもあった。そのような感覚がなくなったのは最近、いや現在でもなくなっていないかもしれない。父はさらに話をつづけた。

 

 「例えばだ。爺さんのことを覚えているか?」

 「少しは覚えていますが」 

 

 父が言っている爺さんとは、私の父型の祖父、つまり父のそのまた父のことだろう。この人は私が5歳の時に死んでいる。

 

 「爺さんの死因を知っているか?」

 「急な病気で死んだとしか聞いていませんが」

 「急な病気と言えばそうだが、肉体的な病気ではない。精神病を発症して首を吊ったんだよ。小さかったお前にはそのことは伏せられたがな。うちはそういう家系なんだ」

 

 ショックを受けなかったと言えば嘘になる。自分が精神病が多発する家系の血を継いでいるというのだから。だが、そんなことより今は目の前の地下室とそこから聞こえてくる音の正体を聞くことのほうが大事だ。

 

 「それで、そのことと下の地下室に何の関係があるんですか?」

 

 うすうす感づいてはいたが、私はあえてそう質問した。

 

 「座敷牢だよ。この下にある地下室は、発症した家族を世間の目から隔離しておくために使われた。地下室の存在自体が外から隠されているのはそのせいだ」

 

 座敷牢。大体予想はついていたとはいえ私は言葉を失った。二十年近く暮らしてきたこの家に、そんな忌まわしいものが存在したとは。

 

 


 「じゃあ、今も中に閉じ込められている人がいるんですか?」

 

 私はぞっとしながら父に尋ねた。江戸時代ならともかく、今は21世紀なのだ。そんなことが許されていいはずがない。地下の座敷牢に精神病患者がいるなら、即刻助け出して病院でまともな治療を受けさせなければ。

 

 「いや、今は中に人はいないよ」

 

 父は言った。確かにそうだ。私の父型の祖父母は既に他界している。母は一時的に気がふれたことはあるが、今は正常に生活している。弟は数年前に事故で死んだ。今この家には、座敷牢に閉じ込めるような精神病患者などいないはずなのだ。

 

「じゃあ、あの音は何なんですか?」


 私は父に尋ねた。中に人がいないとしたら、あれは何の音なのか?

 

「私にも分からない」

 

 父は答えた。

 

 「一度地下室に降りてみたが、何もなかった。おそらく霊的な何かなんだろう。一生をこの下の真っ暗な空間で過ごした人々の怨念が引き起こした」

 

 その言葉に私はさらなる寒気を覚えた。この扉の下に存在する空間、窓もない暗黒の地下室に閉じ込められた人々、彼らは必死に部屋の壁やドアをたたき続けたのだろう。何年も、あるいは何十年も。その怨念がこの家に染みつき、あのような音を出している。

 


 私には一瞬、彼らの姿が目に浮かんだ。異臭を放つぼろぼろの着衣を着た人々が、伸びっぱなしの髪を振り乱しながら、目の前の戸に怒りをぶつけている。だが彼らが伸ばした腕は戸にいくつも嵌っているかんぬきに遮られ、その声は家の外まで届くことはない。

 やがて彼らは諦めて地下室に座り込み、静かに死を、あるいは少なくとも完全な発狂を待つ。だが彼らが残した思いの残滓は、この家を震わせ続ける。この家の最期、おそらく十数年後に訪れるであろう父の死まで。

 


 そして私は、さっきあの音が霊的な現象だと思ったのは、結局間違いではなかったのかと思った。確かに地下室は存在したが、今その中にいるのは生者ではなく死者なのだ。それなら、父が音はイタチのせいだと言って誤魔化そうとしたのも納得できる。誰も好き好んでそんな話はしたくないだろう。

 


 今考えると、本当にそうであったらどれだけよかったかと思う。それから私が経験した出来事、地下室で出会ったあれに比べれば、死者の霊など全くもって無害でかわいらしい存在に過ぎない。

 だがとにかくあの時の私は、それが心霊現象だと思って怯えていた。これから自分が何を目撃するかも知らずに。






 その晩、父と私は大量の酒を飲み、特に父は前後不覚になるまで酔いつぶれた。この家の恥部を私に伝えてしまったことについて、自分でも気持ちの整理がつかないのだろうと私は思っていた。一方の私は秘密を聞かされたことで動転していたが、酒を喉に流し込むにつれて気が大きくなっていた。

 

 そして一部だけが妙に冴えた頭の中に疑問が湧いてきた。さっきは思わず納得してしまったが、あれが心霊現象だとすれば、何故今頃になって発生したのか? 精神病患者があの部屋に閉じ込められていたのは、数十年以上前のことだろうに。

 少なくとも私は今回の帰省まで、あそこまで大きな音は聞いていなかった。

 


 「まさかとは思うが」

 

 私は独り言を言った。あの地下室には今も精神病患者がいるのではないか。この家の人間ということはないだろうが、地下室のない他の家に頼まれて、その家の精神病患者を監禁しているのではないだろうか。普通ならこの現代にまさかと思うところだが、この村なら起こり得る気がする。

 

 私が知る父は精神病患者の監禁などということを行う人間ではないが、ほかの村人に強要されてということはあり得るのだ。この村の連中と来たらやたらに迷信深く、あらゆる出来事を神の恩寵や罰として捉え、合理的な思考を嫌悪する傾向がある。

 連中なら精神病を治療可能な病気ではなく、人知では対抗できない災いと捉え、臭いものに蓋をするかのように患者を監禁しかねない。

 



 そして父はあの音を聞いて確かにこう言ったのだ。「飢えているのかな」と。音が霊によるものだとしたら、あんなことは言わないだろう。地下室に何か、あるいは誰かがいるのではないか。

 意を決した私は地下室に降りてみることにした。精神病患者が中にいるなら助け出さなくてはならない。誰もいなければ、心霊現象だという父の説明が正しかったということだ。

 とにかく、あの音に関する事実を確かめてみる必要がある。父が忌まわしい行為にかかわっているかもしれないという疑いを晴らすためにも。

 



 地下に続く隠し戸、その前に立った私はさすがに逡巡した。精神病患者が中にいた場合、下手をするといきなり襲われるということも考えられる。もとは凶暴性のない患者であっても、意に反してこんな地下室に監禁されれば危険人物に早変わりだろう。

 

 だが私は結局、戸にはまった閂を抜いてしまった。あの音は夕方からは聞こえていない。たとえ音の正体が監禁された患者だったとしても、今は寝ているのではないだろうか。

 酔って気が大きくなった私は、そんな理屈を思いついていたし、正直少々英雄気取りでもあった。酒とともに、監禁されたかわいそうな人を助ける自分にも酔っていなかったと言えば嘘になる。地下室に実際にいるものが何なのか、あの時の私には想像も出来なかったのだ。

 






 戸を押し上げた瞬間、すさまじい悪臭がした。大小便の臭い。動物園の檻から漂う臭いを数百倍にしたような獣臭。生ごみを数か月間放置したような腐臭。地下室に閉じ込められていたその臭いが、一斉に放出されたのだ。

 私はあまりの臭気に咳き込みながら、少なくとも最近誰かがこの下に監禁されていたことは確かだと思った。数十年前から使われていない部屋から、こんな悪臭がするはずがない。

 私は用意してきた大型の懐中電灯を持つと、下の地下室に足を踏み入れていった。父が精神病患者の監禁に加担しているなら、やめさせなくてはならない。村の他の連中がどう考えているにせよ、前時代的な愚行を許すべきではないのだ。


 私は足音と足場の両方に気を付けながら慎重に進んだ。一応懐中電灯はあるが照らせる範囲は限られているし、階段は急だ。それに中にいる誰かを下手に刺激するとまずいだろう。悪臭は通路を下に進むにつれて強くなっていった。階段の板は相当古いものらしく、気を付けていても時々軋んだ。

 


 やがて私は地下室にたどり着いた。懐中電灯で隅々を照らし出してみると意外に広いが、長方形の箱のようなものが十数個も置いてあるせいで、実際に動ける空間は少ない。地下には他にも部屋があるらしく、その壁の一つには扉がついている。

 

 私は次に床を照らし出してみた。この部屋に漂う悪臭は尋常ではない。ひょっとして監禁されている人間の便所も、この部屋にあるのかもしれないと思ったのだ。だがそれらしきものは見えなかった。

 代わりに照らし出されたのは、床一面に何か黄色味を帯びた白っぽいものが散らばっている光景だった。私は恐る恐る、白い物体を懐中電灯で照らした。

 


 最初のうちはそれが何なのか分からなかった。湾曲した白い棒のようなものと、同じような色をした球形の物体が、懐中電灯の淡い光の中に浮かんでいる。手に取ってみると冷たく乾いた感触があり、悪臭が更に強く立ち上った。だんだんと闇に目が慣れ、その正確な形状を掴めるようになってくる。

 

 正体に気付いた私は「それ」を思わず取り落としてしまった。骨、しかも頭蓋骨の形状から判断するに、明らかに人間の骨だった。しかも部屋中に散らばるというより積み重なっていて、一体何十人分、あるいは何百人分あるのか見当もつかなかった。

 骨の中には朽ちかけているものもあれば、明らかに最近のものもあった。悪臭の少なくとも一部は、この骨の山からのものらしい。

 


 その骨の山が所々動いているのを見た私は心臓が止まりそうになったが、よく見ると骨の間に何匹ものネズミがいて、そいつらが骨を動かしているのだった。子細に見ると骨の間にはネズミだけではなく大量の虫がいて、その光景をまともに見ると吐きそうになった。

 



 私はしばらくの間絶句していた。この大量の人骨はいったいどういうことだ。普通に考えればここに閉じ込められてそのまま死んだ人間のものだろうが、それにしても数が多すぎないか。

 そして、骨の間に置かれている、ちょうど人一人を収容できるほどの大きさの箱。あの箱に収められているものは何なのだ。見た目の印象は棺桶だが、その中に収められるべき骨は部屋の中に放置されている。酒の勢い、あるいは病的な好奇心から、私は中に何があるのかを確かめようとした。

 



 私は震えながらも箱の近くにまで近寄った。人骨を踏み砕く感触が足元から伝わっていたはずだが、あの時の私は何も感じていなかった。

 そして箱の蓋を開けた私は、意外に拍子抜けした。そこにあったのは、やはり骨だったからだ。他の場所で発見していたら悲鳴を上げていただろうが、この異様な地下室では当たり前のものとしか思えなかった。

 


 だが私はすぐに、それが普通の骨ではないことに気づいた。基本的には人間の骨に似ているのだが、腕の骨が異様に長く、その先端にカギ爪のようなものがついている。頭蓋骨の形も微妙に異なっていて、その口から飛び出している犬歯は肉食獣のそれのように鋭く、大きい。  


 これは人間の骨ではない。だが一体何の骨なのだ。そして何故こんなものが、私の家の地下にあるのだ。しかも大事そうに箱にしまわれた状態で。

 



 その骨はある意味、周りに転がっている人骨以上に忌まわしく感じられた。人骨は悍ましいにせよ、現実世界に普通に存在するものではある。対してこの異様な骨は明らかに人間のものではないが、私が知るいかなる動物にも似ていない。

 動物の骨と言うには全体の印象があまりに人間に近く、人間の骨と言うにはあまりに異様だ。この骨の持ち主が生きて動いていた時の姿を想像すること自体が冒涜的であるような代物だった。

 私は震えながら蓋を閉めると、床に敷き詰められた人骨をかき分けながら次の部屋に続く戸に向かった。何故あの時そうしたのかは自分でも分からない。そうすべきだったかすら、今でも分からないのだ。


 





 その戸には鍵がかかっておらず、簡単に開いた。部屋はさっきの部屋よりさらに広かった。とりあえず懐中電灯で部屋の入り口付近を照らしてみた私は目を見張った。そこにあったのはやはり人骨、ただし前の部屋とは異なり、一人分だ。

 いや、今更人骨に驚いたわけではない。私が驚いたのはその骨が異様に新しく見えたことだ。

 


 前の部屋にあった骨の山が若干黄色味を帯びていたのに対し、その骨は異様なまでに白かった。頭部には長い髪のようなものが残っているので、女性の骨のようだ。

 そして近寄ってみると、その骨には赤い肉片がこびりつき、周囲には乾いた大量の血がこびりついていた。よく見ると首の骨は砕けており、足の骨が一本無くなっていた。

 


「いったい何だ?」


 私は呟いた。この骨がおそらくここで死んだ人間のものだということは分かった。だがそれにしても異様だ。普通白骨と言えば死体の肉が長い間に腐って、骨だけが残されたものを意味する。


 だがその死体は、こびりついた肉や周りの血の状態から見ると、死んでから大して時間が経っていなかった。それなのに白骨化していたのだ。まるで死体の骨から肉が無理やり剥ぎ取られたか、あるいは… 余りにも忌まわしく冒涜的な想像だが… 死体が何かに食われた結果としか思えなかった。

 


 真新しい骨を見ながら呆然としていた私の耳に、何かが動く音が聞こえた。おそらくこの部屋の奥にそれはいるらしい。私は一瞬ためらった後、その方向に懐中電灯を向けた。

 




 そこにいたものを正確に表現するのは、人界の語彙では不可能だろう。とにかくそれは半ば人間の姿をしており、それでいて明らかに人間とは異なる名状しがたい生き物だった。  

 全身は筋肉質でたくましく、その体型は人間と言うよりある種の類人猿を連想させる。顔は人間のそれを悪意を持って歪めたとしか思えない有様で、そこを除く全身が薄汚れた白い毛皮に覆われている。腕は異様に長く、その先にあるカギ爪で掴んでいるのは半ば肉をはぎ取られた人間の脚らしきもの。そして長い二対の牙が伸びた口元は、しきりに何かを咀嚼するように動いていた。

 

 怪物が何を食べているのか、そして何故さっきの部屋が白骨で埋まっていて、この部屋にも真新しい骨があるかは明らかだった。そして、棺桶のような箱に入っていた骨の正体も。だがこいつは何なのだ。何故こんなものが、私の家の地下室にいるのだ。

 



 怪物は突然、私のほうに向きなおった。その赤い目がはっきりとこちらを向いている。類人猿じみた姿にもかかわらず、怪物は二本の足で歩くようだ。私は半ば意識を失いそうになりながら、それを見ていた。

 


 怪物が近づいてくる。その長い腕が私のほうに伸ばされ、カギ爪がついた手が大きく開かれる。「飢えているのかもしれない」、父のあの言葉が頭に浮かんだ。この部屋の死体はほとんどが食べつくされていた。だからこの怪物は昨日から、狂乱したように暴れていたのだ。その音が上にいる私にも聞こえるほどに。

 

 


 そして怪物は今ようやく、新しい獲物を見つけた。不用意にこの地下室に侵入した私という獲物を。怪物はもう目の前だ。その体からはすさまじい悪臭がする。怪物のカギ爪が私の首めがけて伸びてくる。もう駄目だ。

 

 私は目を閉じたが、予想していた感覚、怪物の逞しい腕と巨大なカギ爪で首の骨を砕かれる激痛はいつまで経ってもやってこなかった。恐る恐る目を開けた。怪物は目の前にいる。だがその腕は下ろされており、代わりにこちらの顔をしげしげと見ている。

 


 「あ、ああ…」

 

 私は怪物の赤い目を見つめながら、意味をなさない言葉を呟いた。こいつは何故襲ってこないのだろう。何故私の顔をじっと見つめているだけなのだろう。

 するとその言葉に反応してのことかは分からないが、怪物は何か異様な声を出した。その鳴き声は暗い地下室に反響し続けている。まるで何かを伝えようとしているかのように。

 



 怪物の鳴き声をしばらく呆然としながら聞いていた私は、その意味するところに気づいて慄然とした。こいつは言葉を話そうとしてるが、発声器官の問題でそれが出来ないのではないか。

 …だとすれば。あまりにも忌まわしい想像が浮かんだ。この怪物、類人猿じみた人食いの生き物は、もともと人間だったのではないか。さっきの部屋にはこの怪物のものらしい骨があった。床に放置されていた人骨とは違い、ご丁寧に箱に収められた状態で。

 そうだ。まるで食われた人間よりも怪物のほうが、この家にとって近しい存在であったかのように。

 


 私は悍ましい想像に震えながら、懐中電灯の光に照らされた怪物の顔を凝視した。赤い目と鋭い牙、異様に発達した顎は人間のものとはかけ離れた顔に見える。いや、本当にそうなのか。

 そこだけ毛に覆われていない怪物の顔には、黒子らしきものが確認できた。その位置には何か見覚えがある。そう、私の弟の顔にも、ちょうどあんな位置に黒子があった。

 


 弟は交通事故で死んだはず。いや待て。私は弟の死体を確認していない。葬式の時棺は開けられなかったし、この村ではいまだに土葬が行われているので遺骨も拾っていない。つまるところ、私は弟が本当に死んだのかを知らないのだ。父型の祖父の時もそうだった。

 私は怪物の顔を見つめ続けた。怪物は相変わらず襲ってこない。まるで私が親しい存在であるかのように。




 私は絶叫して向きなおると地下室の出口に向かって走り去った。精神病患者が多発する家系だと、何たるお笑い草だ。その程度のことであればどれほど良かったことか。遥かに忌まわしい秘密が、私の家系には隠されていた。

 


 



 それからのことは余り覚えていない。寝ていた父を半狂乱になりながらたたき起こし、やめたと言っていた家政婦たちは本当はどこに行ったのかと聞いたことだけは覚えている。それに対して父が何と答えたかは記憶にないが、絶望と憐憫を含んだその目は忘れることができない。

 





 私は次の日始発電車で我が家に戻った。願わくばあの日見たものがただの悪夢であったことを祈りつつ。私はその日に母に電話し、弟が確かに10年ほど前に事故で死んだということを確かめようとした。母が弟の死体を確認していれば、少なくともあの地下室にいた生き物は私の弟ではなかったことになる。

 

 だがその期待は裏切られた。私が実家に弟の葬式のために呼び出されたあの時、弟は死んだのではなかった。ヒトでないものになっていたのだ。母ははっきりとは言わなかったが、地下室と言う言葉を私が出した瞬間絶句したので、真相は明らかだった。

 彼女が一時的におかしくなったのは、自分の子が目の前で怪物に変化するさまを目の当たりにしたからなのだろう。

 


 私は母から話を聞いた後、子供と自分のDNA鑑定を専門の会社に行ってもらった。妻には、うちの家系は癌で死んだ人間が多いから、そのための検査だと言って誤魔化した。そして今日、鑑定の結果が来た。その結果は私を絶望させた。

 



 もうお分かりだろう。私は自分と血がつながっていないという理由で、子供たちを殺したのではない。その逆だ。二人の子供は、そしておそらく妻の胎内にいた子も、確かに私の血を受け継いでいたのだ。

 私の血、地下室にいたあの怪物を生み出した家系の血を。


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― 新着の感想 ―
[一言] 父親の目を見ると遂にこの日が来たかと発狂した我が子に対する含みを感じます。地下室が有れば床下に潜った時点で気付きそうですし、地下室も怪物も全て主人公の幻覚っぽいです。 殺した子供と妻も人間だ…
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