入れ替わり
何も起こらない。
つまりそれはここから逃げられないという事実を明確に彼らに提示していた。
「う、嘘だろ……」
そう言いながら、彼はまた二、三度試してそして、やっと諦めた。
彼は手の震えが止まらない。
帰れないかもしれない。
その事実は人間にとってはあまりにも重い。
体はそこにあるはずなのに、意識はそこにはもうない。
VR技術を完成させるために使われている技術は企業秘密とされており、強制的に外してしまって大丈夫なのかどうかもわからない。
「ふざけんな、ふざけんなよ!!!この世界が俺の依り代じゃないか……。なのに、どうして……」
彼は地面しか見られなくなっていた。
そして、肩は震え、顔はどうなっているのか自分でも把握できない。
そもそも、そこまでの表情をアバターで描ききれているのか、それすらも曖昧だ。
「シュウキくん……」
ミミは心配そうな顔で、彼の顔を覗き込む。
「……どうして、俺は帰りたいだなんて思ってるんだよ……!ちくしょう、ちくしょう!!!」
そんな時だった。
大きな声が聞こえた。
「あぁ、そうだよな、さすがに助けはくるよな……」
そういうと、彼は光源に吸い寄せられる虫のように、音源へと足を進めていった。
それは、聞き覚えのある声だった。ずっと慣れ親しんだような声だった。
だから、それだけで、なぜか全てが解決するように錯覚していた。
「シュ、シュウキ君!ちょっと、待って!変だよ!!!絶対おかしいよ!あの声、私たちの味方だなんて思えないよ!」
ミミは顔色を変えて、シュウキに訴えていた。
「うるさいな、ミミちゃん……。君も一緒に来るんだ。僕たちはここで助かるんだよ……」
だが、彼女の説得もパニックで判断力の落ちた彼には無意味だった。
「シュウキくん!!!」
ミミは彼を追って駆け出した。
少しでも違和感のあるものから彼を遠ざけるために。
だが、現実は残酷だった。
「ぁ…………」
シュウキは、見てしまった。
その正体を。
異形だった。
それは自分だった。
ちょうど三頭身くらいになるように頭が肥大化していて、唇が顔の半分以上を占めていて、目はどろりと片方が溶けている、ということをのぞけば、現実世界できていた服も姿勢も声も全て自分だった。
「よう、シュウキくん。いや、向田秋樹くん。ずっと、ずっとこの時を待ってたんだよ。このチャンスを心待ちにしてた。これでようやく終わると思うと嬉しくて仕方がないよ」
異形は大きな唇から、シュウキと寸分違わない声で話す。
それがどれほどに彼の精神を揺さぶるのか想像もできない。シュウキは自分は世界にただ一人だという理論が根底から覆され、自分の中の確固たる何かが確実に揺らいでいた。
「ひひひ。いい顔してるなぁ。まぁ、自分をここまで歪められちゃ、正気じゃいられないよなぁ」
ゆらり、ゆらりと。
異形が近づく。
「まて、やめろ」
「どうして?君は今まで僕を散々こき使ってきたじゃないか?」
金縛りにあったように、体が動かない。
「やめてくれ!!!やめろ!!!やめろ!!!!!」
異形の顔が目と鼻の先まで近づく。
気持ちの悪い唇が、耐え難い匂いを彼に吹きかける。
「僕がやめろと言っても、止めなかったじゃないか」
ギラリと彼は笑った。
ギロチンのようなその歯が大きく開かれる。
真っ暗な中で、彼は一人だった。
一人だった。
「えっ……?」
いない。
いないのだ。
ミミが居なくなっているのだ。
「え……」
わけがわからない。
今まで隣にいたはずの少女が消えている。
そして、彼は異形とともに世界に取り残された。
大きな口は、彼の首を断とうと迫る。
あぁ、ダメだ。
彼は全てを諦めた。
「君の全てを、イタダキマース」
その声で決定的に、終わった。
そのはずだった。
「ぐ、ぐぐっ……。まて、ちょっと待て……」
異形は急に歪んだ顔をさらに苦痛で歪ませ始めた。
「…………?」
「どうして、どうしてだよ!??存在が、霞んで、やめろ、ふざけるな、お前、俺……!?向田秋樹ぃぃぃぃぃ!!!???」
ついに、彼を縛っていた理解不能の力が解けた。
訳が分からなかった。
だが、自分を模した誰かはなぜか消えた。
そして、そこには彼以外誰もいなくなった。
「…………、何、が……?」
彼は理解不能が理解不能のうちに理解不能に消えたその状況を掴みきれないでいた。
だが、世界は戻る。
不可解だけを残して、真っ暗な世界は見慣れた神殿のフィールドへと戻された。
「シュウキくん?どうしたの?」
ミミがそこにいた。
何事もなかったかのように首をかしげる、彼女が。
「え?ミミ、ちゃん?」
「そうだよー。シュウキくんお疲れ様ー。結構遅くなかった?そんな苦戦する相手だったかな?」
お疲れ、様……?
苦戦……?
「えっ、どういうこと、ミミ、ちゃん?」
「なぁんだ」
その言葉にミミは振り向くと、可愛らしい顔を君の悪いほど人間らしく不快に歪めるとこう言った。
「まだホンモノか……」
VRの限界などとうの昔に忘れてしまったかのようなミミの顔がシュウキの心臓に恐怖を捻りこんだ。