02-15 龍を知る者
「まずは事の前後を正さねばなるまいな」
夕刻。崔宏の部屋に差し込む夕日も、もうだいぶ赤ェ。
王鎮悪が崔宏、寄奴、それぞれに茶を注ぐ。
灯りを卓上に据えると、小さく頭を垂れ、退出しようとする。
「鎮悪。此度はこのままに」
そう言って崔宏が、手前の後ろに置いてある椅子を示した。
「――あぁ」
見当がついた、とばかりの笑みは、なんつうか、崔宏そっくりだった。
「あの話ですね、分かりました」
どの話だよ、たァあえて聞かねェ。
「否定は、しねえんだな」
「せぬともさ。むしろ気付かれねばどうしたものか、と気を揉んでいた」
詰まるとこ、寄奴ァ孫泰を消すための手引きに載せられた、ってことになる。張士道や、姚盛。奴らに下ったお裁きだって、それほど厳しいもんでもなかった。五斗米道そのものを取り潰されたわけでもなく、しかもご丁寧なことに、新たな大師父にゃ孫恩が据えられるって言う、実にお見事な大団円。
何よりも決定的なのが、張士道が巻いてたはちまきだった。そこにゃ、まさしく崔宏が巻物に著してた文字が躍っていやがった。
「先に野暮用、と申したであろう。元々五斗米道との件が先なのだ。そこに臧嬢の件が紛れ込んだため、多少筋を書き換えた」
「あいつらとつるんで、何をしようってんだ?」
「答えると思うかね?」
返す刀に間髪がねェ。言葉に詰まる。
崔宏の後ろで、王鎮悪が吹き出す。
「意地悪ですよ、先生。隠す気ないくせに」
寄奴が王鎮悪をにらみ付ける。すると奴ァわざとらしく首をすくめた――大の大人だって震え上がるひとにらみだってのにな。
「鎮悪」
軽くとがめ立てるように、崔宏が呼びかける。
それから、崔宏がため息をついた。
「しかし、我も戯れが過ぎたな。過日申し伝えたとおり、我らは貴公と約を結びたく望んでいる。なので腹蔵なく申し上げよう。五斗米道に望むは、この広陵にとどまらぬ、晋国そのものの擾乱」
「なんだと?」
崔宏の顔からは、いつもの笑みが消えてた。冗談、戯言をほざいてるわけじゃねェ。だからこそ、余計に意味が分からねェ。
「己ァ、晋の兵だぞ」
「弁えておる」
崔宏が、懐から短刀を取り出した。柄を寄奴に向け、差し出す。気に食わなかったら、いつでも斬れ、って事だ。
しばらく短刀を眺めてから、寄奴ァそいつを脇にどける。
そんで、ぐいと身を乗り出す。
「で?」
「淝水の大敗後、天王苻堅は、羌族ヤオ・チャンの手にかかり、殺された。頭を喪った秦は瓦解、今や中原は群雄割拠の再来となった」
「そうか。じゃ手前らをぶったたく絶好の機会だな」
「どうかな。我らよりも先に、貴公らの前にはムロン・チュイが立ちはだかる。彼奴めもまた、驍勇よ」
ムロン・チュイ。淝水の追撃戦で、苻堅の隣にいた、あの老将。
元々あの桓温将軍をこてんぱんに蹴散らした相手って事で、奴の名前は国内でもちょくちょく聞いちゃいた。だがそいつァ、言ってみりゃわがまま放題ふるまうガキンチョを脅し付けるためのネタみてェな扱いだった。「悪いことしたら、ムロン・チュイが来るぞ!」ってなもんだ。
そこに、己づてたァ言え本人を目の当たりにし、しかも改めて崔宏の口から、その名前を聞く。
「ゆえに、五斗米道なのだ。彼の者らは晋国内の他、チュイの勢力圏内にも多く信徒を抱く。我らにとっても、やはりチュイは大いなる憂い。しかも我らはチュイにのみかかずらう訳にも行かぬ。北にはユウェン、ダン、ロラン。西にはガオシェ、ルゥ・ゴァン。南西にヤオ・チャン。チュイこそが険敵であることは間違いない。なればこそ、今彼奴めに動かれれば、他の勢力も連動してこよう。さすれば、我らが陣営の苦境は免れ得ぬ。故に、五斗米道には足止め役になって貰わねばならぬのだ」
「ふざけんな――って言いてえとこだが、どうせ手前のことだ、もう仕込みは済んでんだよな」
「無論」
寄奴が頭を掻く。
「だよな。ならもう、なるようにしかならねえってことだ。踊らされてやるさ」
「痛み入る」
崔宏と、王鎮悪がわざとらしく拱手してきた。軽く鼻を鳴らすと、椅子の背もたれに寄りかかり、腕組みする。
「だがな、どうしても解せねえ事がある。何でそこに、わざわざ己を巻き込む必要があったんだ」
「そうさな、そちらが本題よ。お答えいたそう、なれど、その前に一つ。この広陵には、天王より賜りし宝剣を持ち込んでおられぬようだが?」
「あ? あんな豪勢なモン、おいそれと持ち歩――」
そこまで言って、一気に血の気が引く。
掛けられたカマのデカさは、並じゃなかった。
崔宏が顔を上げ、冷たい笑みを浮かべた。
「――ほう? あの剣は、丁旿殿が受け取った筈だが?」
ここまでは、それでも堪えて来てた。
だが、駄目だ。遂に、驚きを思いっきり表に出しちまった。
知られるわけにゃ行かねェはずの「龍」の存在。
そいつを、よりにもよって。
「なるほどな」
崔宏がうなずく。
「丁旿殿が矢庭に白髪と化したこと。主上と貴公とが通詞無しにて言葉を交わし合ったこと。丁旿殿が天王の前で、貴公の名を敢えて挙げたこと。そして、今。――鎮悪、仮説は、やはり近しき所に辿り着いていたようだ」
「――何の、ことだ」
こめかみを伝う汗に気付かずにおれねェでいた。
胸がバクバクと言いやがる。
「ここな鎮悪は、天王の参謀として活躍なされた王猛様の孫でな。弱冠にして四書五経、史典の類は易々と諳んじるようになった。故にその才を王猛様に愛され、時には王猛殿の夜伽語りにじかに触れたこともあった」
崔宏が目で促すと、王鎮悪が立ち、改めて頭を垂れる。
「祖父は、私に多くの物語をお聞かせくださいました。しかし、そのいずれもが私の知る史実とはいささか食い違っておりました。左氏春秋、史記、漢書、そして近しきは、三國志。崔先生に師事するに及び、私は予てよりの疑念を先生にお伝え申し上げたのです。先生のご助力を頂戴し、記憶にある限りの祖父の物語を再構成し、史書の記述と比較致しました。結果導き出された先生の仮説は、祖父の物語のほうが、より正しき歴史を語っているのではないか、というものでした」
そりゃそうだ。王猛は、苻堅と一緒に龍を浴びた。
俺やら寄奴が見せられたことからすりゃ、苻堅と王猛だって同じようなもんだったんだろう。実際に、王さま達が見聞きしてきたこと。そいつがそのまま史書に残る、なんてこたありゃしねェ。史書に求められんなァ、いつだって王さまの偉大さを伝えること。
だが、にしたって史書のほうを疑うなんざ、どうにかしてやがる。
「怪力乱神の類など、元より信じるつもりはない」
崔宏が王鎮悪の言葉を継ぐ。
「なれど、淝水における対峙の折、天王と貴公が見合った直後に、些かの空白が生じたこと。また時を全く一とし、丁旿殿に異変が起きたこと。そこには、我では想定し得ぬ何かが起こった、と見做さねばならぬ。撤退時、追手に貴公らが加わっていることを知った。故に、敢えて天王へ具申した。白髪の小僧が紛れている、とな。そこでの天王より下命が、拉致。我が内にて、細い糸が徐々に繋がりつつあった」
崔宏が立ち上がり、窓のほうに向かう。
「申し訳ないが、ここからはひととき、顔を逸らさせて頂く。我としても、妬みに醜く歪む顔を見られたくないのでな。――天より見出されたる、貴公には」
天。
動揺に殺されかけちゃいた寄奴だったが、何とかその一言が踏みとどまらせた。卓上に置かれてた短刀を引き寄せる。何かにすがりでもしてねェと、ぶっ倒れちまいそうな気さえした。
「丁旿殿接見の折、天王が宣し賜うたは、顧みるだに、禅譲の辞にも等しい。即ち、どのような経緯であれ、天が次なる覇者に貴公を、その腕に丁旿殿を選んだ、となろう。主上でなく、貴公らをな」
崔宏の拳が、ぎり、と強く握られる。
その一言を口にすんのが、崔宏に取っちゃどんだけ屈辱的なことだったのか。許しがてェことだったのか。想像するっかねェ。だが、あの崔宏が、激情を隠し切れねェでいた。そいつだけが、確かなことだ。
改めて、崔宏が寄奴に振り向く。
もうその顔は、いつもの冷ややかなそれだった。
「なれば、我らは覇たる者として貴公に勝たねばならぬ。斯様な些末なる場でなどなく。そして、来たる大いなる戦のためにも、今は貴公とは約を結ぶが上策、と判断した」
そう言って、王鎮悪の肩をぐい、と押す。
「貴公には、ここな鎮悪をお貸しいたそう。この者は草とも通じておる。華北の報は、この者を通じて仔細を届けられもしよう。我らもまた鎮悪を通じ、江南の事情をより正確に掴み得る」
王、って名乗るわけだ。
材木商の王玄伯。ってこた王鎮悪ァ、そこの跡取り息子かなんかって態で居座れることになる。
「元々はこの地盤を築いてから、京口に立ち寄る心積もりでおったのだがな。だが貴公がこうして広陵に足を運んでくれたおかげで、予定よりも早く主上が元へ帰還することが叶いそうだ、感謝する」
崔宏が改めて拱手してきた。
「劉裕殿。願わくば、貴公がより良き主上の贄とならんことを」




