ss-01 晋を穿つ牙
満天の星の中、覇をなすは、月。
眩き光は我が主と、その傍にて息を荒らげ倒れ伏す、全裸の女達を照らす。主は女らを一顧だにせず、ただ望月をのみ覗く。
「陛下、急の報せがございます。江南の地にて決起したる劉裕、桓玄を討ち、晋王を復したる由」
主より擲たれた酒盃が、傍らにて砕ける。欠片の一つが我が頬を掠め、一筋の熱きを走らせる。
「好かん名だ、と言ったろう。公の場以外で呼ぶな、虫唾が走る」
一度頭を垂れた後、意を改める。身に染み付きたる習いは、易易とは拭い去りきれぬらしい。
「――しからば友、ギよ。昇って参ったぞ」
「天とやらに愛された男が、か?」
「戯れを。中原の物言いを嫌うそなたがそれを言うか」
「貴様で遊ぶなら悪くあるまいよ、崔宏」
人払いを命じる。女らは宦官に服を着せられ、退出せられる。
者ものがいなくなったのを見届けた後、ずいと主が目前に寄る。
「確かに、あの男と刃を交えるのは、おれとて望むところ。が、江南のぬる風に抱かれ、どこまでその爪牙を保ちおれようかよ」
「全ては、見えたるときにのみ」
「いい逃げ口上だ」
主が狼そのもの、といった笑みを浮かべる。
主の、その人ならざる武を正面より受け止めた、懦弱であるはずの南人。後にも先にも、主の瞳にあれだけの輝きが灯りたるを見たは稀なることである。
「宏。改めて、聞く。おれはこの先、貴様が奉じる天とやらを焼き尽くすぞ。構わんな?」
鋭き語気である。
それでもなお、僅かな逡巡は伺える。あるいは主なりの、我が宗祖への信義が現れたところなのやもしれぬが。
拱手――は、せぬ。
煌々たる瞳に魅入られつつ、我は、告げる。
「我が望むは、ただ一つ。そなたの、暴よ」
時は、淝水の直後に遡る。
「魏帝を名乗れ、だと?」
苻堅――いちど中原を統べた王が堕ちたのだ。主なき地にて戦乱の嵐が吹き荒れるは必定。我らは速やかに中原を脱し、遙か北の彼方、トゥバの祖地たる盛楽へと戻り、爾後の振舞いを決すべく、衆議を立ち上げた。
「崔宏、いま一度言ってみろ」
主の抑えられた、しかしよくよく獰猛さを隠しきれずにある声が響く。我が後背にて、南人官僚らが恐怖に息を呑むのが聞こえた。
「帝となられませ、と申し上げました。ここよりトゥバは黄淮の地にもまた覇を唱え、四海を平らぐ偉業をものと致します。なれば、その王にも相応しき名が求められましょう」
「下らぬ方便だ!」
大柄な主に、更に輪をかけたその巨躯を震わせられるは、ザンスン・スォ様である。
「我らは誇り高きトゥバの戦士ぞ! ならば武をもって南人を征し、統べればよい! トゥバ以外の名なぞ、どこに名乗るべきいわれがある!」
ザンスン・スォ様に連なる猛者らが、後を追うように、次々と口を開く。聞くにも耐えぬ罵詈雑言も多く混じり、ならばこの崔宏が、敢えて取り合う義理もない。
「はて、それは異なこと。将軍以下、お歴々のお携えになる武具は、何者の手によるのでありましょう? お望みと仰せであれば、我ら南人、みな舌を噛みて滅びゆきましょうぞ――胸に、そのわざを秘めたまま」
ぐっと、ザンスン・スォ様が言葉に詰まられる。
主が、大いに笑われた。
「やめておかれよ、スォ殿! こ奴の言う通り、おれらはもはや南人らと混じり合いすぎた! その声を聞かずして、ことなぞ為せようかよ!」
が、その言葉はすぐさま「次」をお求めになる。
「だが、崔宏。いま貴様を殺せば、号令を下せるものはおらんな?」
「仰せの通りにございます」
頭を垂れたるのち、場を見回す。
恐怖に反感、憎悪に、殺意。
種々の思いこそないまぜにはなっておるものの、ただ、一つのことが変えられている。衆人が、我が言を待ち受けるようになった、ということ。
改めて思う。これが、主の力である。
「然らば申し上げましょう。トゥバのお歴々が味わわれたる通り、《《我ら》》南人は、力よりも名分を優先いたします。まこと度し難き者ものにございます」
笑い声は――主のみ、か。
まぁ、反省は後ほどでよい。
「故に、理由を頂きたく思うのです。強き者が、また名分をも奉じている。ならば我らが膝を屈するのもやむなきことである、という理由を。大いなるトゥバがトゥバであることを曲げる必要はございませぬ。ただ南人に向けては、魏の名を示す。ただそれだけで、大人にかしずく南人はいや増しましょう」
ここで、拱手する。
即ち、《《南人》》の振る舞いである。
と、そこへ。
「まこと、それだけかの?」
偉丈夫らの中より、枯れた、しかし誰よりも深き声がする。
ヤ・フェ様。
主を幼きみぎりより扶育なされ、かくの如き大才へと導かれたお方。聞けば我々、すなわち、元来トゥバにとりては虐げるべき者を、使役すべき者であると進言なされたのも、かのお方であったと言う。
「この期に及び、崔宏どのは北人を謀らんとされるご所存かの? この老人には、魏が真に南人らをかしずかせ得る名とは到底思えぬのだが」
――ありがたい。
その点をご指摘いただかねば、話が進まなんだ所であった。
なにゆえ、魏であるか。それを求められもせぬうちに語らば、どうにも勢いに欠けよう。
「はて、ヤ様。名が足りぬとは、いかなる故にございましょうか?」
ほっほ、ヤ・フェ様が笑われる。
「魏なぞ、晋に滅ぼされたる名ではございませぬか。そなたの申される名分からしても、弱きものにございましょう。何ぞの故に、その名を呈されるのです?」
にこやかでありながら、甘き答えを許すわけにはゆかぬ、とも仰っておられるかのようである。望むところである。
「大きくは、ふたつ」
指を立て、掲げる。
諸氏の目が、指に集まるのを感ずる。
「名分、と申しました。ならば名乗るにも、名分が求められます。漢が滅びてより後、トゥバは魏とよしみを通じておりました。我々は漢の名の元、魏と共にあった。なれば、我らもまた魏なのです」
そして、指を折る。
「無論、それは表向きのこと。二つ目、こちらが真の理由にございます。我ら南人を、ひと時でも一にまとめ上げたるが、晋。その滅亡がトゥバの如き強者の手によるものであれば、まだ諦めも付きましょう。なれど、」
間を開け、指を、握りこむ。
「かの者らは、己が欲がために食み合い、挙げ句匈奴なぞに民庶の血を吸い上げさせました。その中には、無論我が父祖の血も混じりてございます」
爪が皮を食い破り、手首より垂れ、袖を朱に染める。
「なればこそ、踏みにじって頂きたいのです。愚劣を為したる汚泥の煮凝りを、かの者らが蔑みたる、弱きはずの名に」
血の垂れるがままとし、改めて、誰ぞを見るでもなく、辺りを見回す。
言葉は、包み隠すことなき赤心である。
我が志は、我らを斯様なる境遇に陥れたる、晋氏の滅亡。それを成し遂げるのが匈奴であろうが、鮮卑であろうが構わぬ。求められるは、どちらが晋氏を殺しうるか、である。
「御託は揃えたか?」
主が、告げる。
「トゥバがトゥバであることはそのまま、ただし歯向かう南人には、魏の旗を振り、踏みにじれ。そういうことでいいな?」
「否。旗ですら、トゥバのままで構いませぬ。ただ我らが南人らに向け語る折にのみ、魏の名を用いさせていただければよいのです」
そう、トゥバはトゥバで良い。
強き故にトゥバであり、トゥバであるが故に、強い。
そこに混ぜものを入れる余地は、ない。
ふん、と主が鼻を鳴らされる。
「回りくどいことをさせる。ならば、はじめから文書に魏の名を用いさせよ、でよかろうに」
「南人は度し難いのです。お歴々に、それを実感していただかねば、と思うたが故にございます」
しばしの、睨み合い。
やがて主が、呵々とお笑いになった。
主と、劉裕。
天の配剤なぞ、人の身にてどう操りきれよう。父祖の艱難を思わば、この身一つで,何ほどのことを成し遂げ得ようか。
なれど我が元にはいま、天をも脅かしうる、二なる龍の芽が、ある。
ならば、どちらでも良いのだ。
――司馬の名を、地に落とせさえすれば。




