昨日見た夢2 倫子と智(さとし)の場合
「もう、いい加減にしなさい、二人共」
私はリビングでじゃれ合っている二人……正しくは一人と一匹に言う。
「だって、リリーが俺のラグを占拠したから」
夫である智が私に訴える。確かにリビングのラグは二人でかなり時間をかけて探したものではあるけど、それだけであそこまで五月蠅くできるのだろうか。
智の隣ではリリーがキュウンと鼻を鳴らしている。気持ちは分かるけど、ルールはルールだ。
「リリー、パパと喧嘩はダメ。あなたも。大人げない」
「悪い。リリーは遊んでいたつもりだったのか」
「そうよ。それに変なスイッチを入れたのはあなた。リリー、ブラッシングしようか?おいで」
私がブラシを見せると、リリーはすたすたと歩いて私が敷いた古いバスタオルの上にコロンと寝転ぶ。このバスタオルも泳いでいた時のものだから相当生地も弱っているし、色も落ちてしまっている。私はゆっくりと、リリーの体にブラッシングをかけていく。
「そろそろ、お風呂に入れてあげたいわね。リリー」
「リリーをお風呂に入れるの?」
「そうよ。暑くなったら、自宅から持ち込んだ子供用プールに水を張って遊んでからでもいいけど、今はシャワーでいいんじゃないかな。後はしっかりとドライヤーかけてあげないとね」
「何、そのお犬様仕様は」
「お犬様だもんね。リリーは箱入り娘だもの」
「子供用プールは楽しそうだな。その時には俺も忘れるなよ」
「まあ、大きくなったらトリマーさんにお願いするのが一番だと思うけどね」
一通りブラッシングが終わると、リリーは再びラグにコロンと横になった。どうやら気に入ってしまったようだ。また同じものを買えばいいか。
「今日のご予定は?」
今は午前10時。リリーが我が家に来て3週間目だ。そろそろ家のルールも分かってきたみたいだから、そろそろ犬社会デビューをさせてあげたい。
「お昼と食べてからドッグランに連れて行きたいと思ったんだけど」
「隣町のか。散歩にはいいかもしれないな。リリーも思い切り体を動かした方がいいだろう」
「体を動かすのなら、普段からたっぷりとしているわよね。お庭でおばあちゃん達ともおもちゃで遊んでいるものね」
「おばあちゃん……大丈夫か?」
「リリーちゃんはお利口だから、お家の傍ならお散歩も上手にできるわよって言っていたもの」
リリーと私たちが出会ったのは、ちょうど三週間前。
私達夫婦が、太一の実家の離れを破格の価格と言い切れる値段で借りることになってしまって住み始めて一か月だ。離れと言ってもかなりの大きさで、本来だったら太一とまなちゃんも一緒に住むはずだったのだが、母屋に住んでいる太一の祖父母と暮らすことになってしまったのだ。太一は今でも両親が一緒に暮らすはずだったのにと零している。
家庭には家庭の諸事情があるので、私たちは深く追及はしていない。クラシックの洋館での二人暮らしはちゃんとした掃除なんて無理と断ろうとしたら、綾瀬一族から祖父母を助けると思ってと言われ、お掃除とかは専門の業者に任せるから最低限だけきれいにしてくれたらいいと言われてしまい結果的に今に至る訳だ。
先月までは太一の祖父……与党の重鎮でもある参議院の議員さんなのだが、秘書さん達が下宿していたのだが、今期限りで引退という事で今後は秘書さんが地盤を継ぐをいうことでいつまでも下宿というわけにはいかないからと出て行ってしまったという。それでも自宅と事務所にほど近いマンションを抑えている辺りは手際がいいものだ。
太一の祖父の地盤は最終的には太一が引き継ぐことが決まったようで、大学の講義の後はアルバイトをせずに事務所の手伝いをしている。
引っ越してきて最初に驚いたのはクラシックな洋館なのに、結構新しい家電が設置されていた。おかげで私たちはたいして買い足すこともなく、かなり快適な住環境をゲットしたと思っていた。
甘い話には、びっくりする条件があったりするもので……本来だったらおじいさま・おばあさまと呼ばないといけないのに、お二人から「おじいちゃんとおばあちゃんがいい」と言い切られてしまって、おじいちゃん・おばあちゃんと呼んでいる。
専門学校を首席で卒業した私は今借りている家からほど近い教育系の出版社で経理の仕事をしている。太一は自宅から地下鉄で二駅ほど離れた大学で経済学を、まなちゃんと智は理科大学に通っている。二人は学科が違うので校内で会うことはほとんどないそうだ。
今の家のルールの一つに、リリーは皆で育てることというのがある。私たちが家を空けている昼間は母屋でおばあちゃんとお手伝いさん達にたっぷりの愛情をかけてもらっているようだ。大学の講義が早く終わった人が午後の散歩に連れて行って、母屋で皆で揃って夕食を食べる。
大勢でわいわいと食べるのが好きな私はこの時間が贅沢な瞬間にしか思えない。お昼を簡単に済ませてからリリーのリードを用意していると玄関のドアが勢いよく開いた。
「リリー、遊ぼう。えっと……四日ぶり」
まなちゃんが、目に下に真黒なクマを張り付けていた。実験とレポートが大変そうに見える。
「これから隣町のドッグランのある公園に連れて行くんだけど、ついていく体力ある?」
「無理。ちょっと寝てくる。帰って来たら絶対に遊ぶんだから」
「分かったけど、太一さんは?」
「今日はおじいちゃんと外出。仕方ないわよ。綾瀬の坊ちゃんだし」
高校にいる頃から私たちは太一の家庭環境の事は知っていた。本人の希望もあって私たちはいたって普通だったのだが、こっちではいわゆるお坊ちゃんだったのだ。
私達を呼んだのも太一がリラックスできる場所が必要だったからだろう。
「おばあちゃんは?」
「銀座。ついでに実家に寄るって言っていたわよ」
おばあちゃんの実家は銀座の和菓子屋さんのお嬢さん。女学校に通っていたおばあちゃんにおじいちゃんが何度もアタックして今に至るそうだ。今でもとても仲良しで、お茶目で素敵な人たちだ。
「今夜は皆でご飯かな」
「多分そうかもしれない」
「分かった。じゃあ、行ってくるわね」
夕食を一緒に食べるルールは基本的に平日。仕事が休みの時は奥さん業も自分なりにしているつもりだけど、おばあちゃんの目からしたら若葉マークなのでいろんなことを教えて貰えて楽しい。おじいちゃんもおばあちゃんも、私の今までの事を話したらぎゅっと抱きしめてくれた。どうやら、彼の卒業を待ってすぐに婚姻届けを出した理由を太一がのらりくらりとはぐらかしていたのが原因だったらしいけど。
なので、町内会の行事とかに参加できるようにと離れの私達も町会費を払うのよと言われている。町会長さんは引っ越してすぐにお会いしたけど、太一坊ちゃんの高校の同級生と後輩で……ご夫婦ですか?おめでたですか?と聞かれた。
普通はそうなのだろう。しかし結婚して一年……まだコウノトリさんはやってこない。
リリーはいつもおばあちゃん達とお散歩に行くようにしっぽをふさふさと揺らしながら私達を引きずらないペースで歩いてくれる。
「凄いな。おばあちゃん達。結構遠くまで散歩に行っていたりして」
「あり得るわね。犬の散歩で町内の見回りも兼ねているのよなんて言っていたもの」
閑静な住宅地で、古くからの住民が多いので若い人がすごく多いわけじゃない。私も通勤の途中で犬の散歩をしている年配に方はかなり多い。
あっという間にドッグランのある公園について、暫くリリーと彼がボール遊びをしてからドッグランに連れて行く。リードを放してあげると、リリーはちょっと腰が引けたようにも見えたけど、嫌なら帰っていらっしゃいと頭を撫でながら言い聞かせると、リリーははじけるように走り出した。やがてリリーと同じように遊んでいる他の犬たちと一緒になって遊んでいる。
「やっぱり犬同士の交流は楽しそうね」
「そうだな。これからはこうやって連れて行くか」
ドッグランのフェンスに寄りかかりながら私たちは話し始める。夫婦になって一年と少し。私たちが付き合い始めてからは本当にいろんなことがたくさんあった。こっちに引っ越してくる前に一緒に暮らしていた黒猫のビリーは連れて来たらストレスで体を壊してしまいそうだと判断して、よっちゃんの家でお世話をしてもらうことにした。
「ビリーを連れてきたかったのか?」
「あの子は、今の家だとストレスで倒れちゃったと思うわ。だから……いいの。連休になったらビリーとリリーを会わせてみたいわね」
あまり贅沢は望んでいない。リリーとこうやって共に過ごしていることだってある意味で贅沢なのだから。
「リリーは幸せかな」
「そうだと思うな。おばあちゃん達がいるからリリーだけでお留守番ということは今まででもないだろう?」
リリーは穏やかな子だけど、孤独であることを極端に嫌がる。動物病院の前に段ボールの箱の中に兄妹と一緒に入れられていたという。先生達が看病等をしてくれたけれども生き残ったのはリリーともう一匹。もう一匹はちょっと障害があるという事で、動物病院の先生が自分の家の子として飼っている。お散歩のルートには給水ポイントとして動物病院を通ることにしている。休憩をかねて姉妹の交流をさせている。
動物病院で里親の募集をしようというところに太一が偶然に通りかかり、最終的に離れの番犬になるという目的の元で我が家にやってきたのだ。しかし現状のリリーを見ていると番犬になるのは程遠いと思うのだが。どちらにしても、この小さなお姫様は母屋の住民も私達も骨抜きにし、お世話の奪い合いという状況だ。
「そういえば、リリーがデビューする話……知ってる?」
「太一さんがなんか言っていたよな」
「うん、おじいちゃんがね……という事なのよ」
週末にある討論番組の冒頭シーンで手帳にしまってあるリリーの写真を見せてしまってリリー込みで取材のオファーがあったというのだ。
「おじいちゃんにとってはひ孫だしな」
「そっか。太一が孫だものね。誰がリリーを連れて行くの?」
「秘書さん達もお世話しているぜ。こないだジャーキーでものをいわせようとしておばあちゃんに凄く怒られていた」
とっても優秀なおじいちゃんの秘書さん(おじいちゃんは公設秘書さんと私設秘書さんがいる。離れに住んでいたのは私設秘書さん)なのに、そんなことをしていたなんてちょっと意外だ。
「じゃあリリーはなんとかなりそうね。ねえ、私が前の日に見た夢の話をしたの覚えている?」
高校生の頃に、何度となく不思議な夢を見たと言って皆に話したことがある。彼にももちろん話したことがあるのだが覚えているだろうか?
「あれだろ?男の人と大きな動物を可愛がっていたってやつだろ」
「うん。あれって……リリーの事だったのかな」
「案外そうなのかもしれないな。でもあの動物って猫だったこともあったろ?」
「結果的にビリーと一緒に暮らしたじゃない。だからある意味で正夢でもあるの」
「そうか。それなら正夢だよな。あの時も凄く暖かくて幸せな夢だったって言っていたよな」
「うん。凄く涙が出てくるくらい幸せな夢だった」
「そっか。それなら俺は、この時間をその夢以上に幸せと言えるように努力しないといけないと思うんだけど」
なんでそこで鼻息を荒く宣言するのだろう。ひとしきり楽しんだらしいリリーが息を切らして私たちの所に戻ってきた。
「リリー。まなちゃんが待っているから帰ろうか」
私がリードを見せると、ちゃんとお座りをしたので私はリードを繋いで彼に渡す。
「今日はおしまい。また来ような」
リリーはワンといいお返事をしてから来た時と同じように私達の前を歩いていく。
「なあ?」
「うん?」
「今夜……ちょっと夜更かししたくない?」
「いいけど……お弁当を作れるか分からないわよ」
「大丈夫。俺も手伝うからさ。それならいいだろう?」
こんな春の穏やかな午後に……しかも犬の散歩の途中で夜のお誘いを受けてしまって答えに詰まる。
「反論がないからいいってことだよな。大丈夫。子作りの練習なだけだから」
「当たり前です」
「俺だって、まだ二人……違うな。リリーと三人暮らしを楽しみたいし」
「仕方ないなあ。明日は私も朝早くないから程々にしてよね」「
「やった。リリー、パパは頑張るぞ」
いきなり話しかけられたリリーはきょとんとしている。勿論意味は分かっていないだろう。こんな人の往来のある通りで何を言っているのだろうと思ってしまうけれども、リズムよくリリーのしっぽが揺れているのを見ていると、まあ今日くらいはいいかと思う私がいるのでした。
時代的に携帯電話はあったけど、カメラ機能がない事を思い出したので、愛用している手帳の中にリリーの写真があるという設定に変えました。