雅とリンと時々ちひろ
本編にリンクしていますが、本編がまだこの時間枠まで披露しておりません。
日々是精進(仮)本編を読まなくても内容は変わりません。
「ふう?大丈夫か?」
「平気とは言えませんけど……仕事の調整をお願いします。公式として必要かと思って医師の診断書を渡しますね」
週末からの冷え込みのせいか、普段はかなり健康管理をしっかりしている楓太が風邪を引いた。三月頃には社長の持ち物件のマンションに引っ越しが決まっているが、今はまだ実家で家族と暮らしている。仕事はたまたまオフだったのだが、家族から風邪を貰ってしまったので事務所に資料を取りに行けないので届けてもらえないかと連絡があった。
偶然にもふうの実家に行く時間が取れたので、久しぶりにふうの実家の柏木家に来たというわけだ。
ふうの実家は茶道の家元。事務所と茶道教室の片隅に柏木家のプライベートスペースがある。ふうの家族は基本的に事務所と教室で過ごしているせいか、自宅はひっそりとしている。
「ありがとう。じゃあこれを元に仕事の調整をさせて貰おうか。困っていることは?」
「声が出ない位ですか?」
確かにふうの声があり得ない位に掠れている。辛そうに見えるが、他は一切異常はないという。
「そこが問題だよなあ。打合せはマスクをすればできるから、声が落ち着くまでは打合せとダンスレッスンを中心にするか」
「そうですね。お願いします」
ふうは僕が手渡した台本をチェックしている。そんななか、リビングの片隅に置いてあったペットベッドからチリンと鈴の音色がして、にゃあんと可愛い声がした。
「リン?おいで。澤田さんだから平気だろ」
ふうが優しく呼びかけると、チリンと鈴をならして子猫が歩く音がする。やがてふうが座っているソファーの足元に灰色の子猫が僕らを見上げている。
「大きくなったか?」
「ちょっとだけですよ。抱いてみますか」
ふうが立ち上がって、ブランケットを僕の膝の上に引いて、毛が付くと困るでしょうと言ってからリンを抱き上げて僕の膝の上にちょこんと置いた。
「こんにちは」
目をまんまるくしてからリンちゃんは僕の匂いを嗅いでいる。やがて落ち着いたのか僕の膝の上で丸くなって喉を鳴らし始めた。
「やっぱり、澤田さんは平気なんだね」
ふうが気になる一言を言ってくる。僕は平気って……そんなに人見知りが激しいのか?この可愛い子猫は。
「リンって人見知りか?」
「そうですよ。僕以外の家族とは微妙に対応が違います。むしろ澤田さんの方が慣れているかもしれません。メンバーだと双子には思い切り毛を逆立てましたから」
「ああ、事務所に許可をもらってブログにアップした時のか」
年明けの最初のメンバーがそろってオフになった時に、ふうの家にお泊りをしたとメンバー全員でブログにアップしたのだ。ふうは実名で活動していないし、実家が分かるようなところでの写真ではなかったのでアップを了承したのだ。
「まあ、僕は人畜無害ってことが猫にも分かってもらえたのかな」
「澤田さん……そこで安心してもいいんですか?本当だったらかなりの高スペックだったんでしょ?」
「それは昔の話。僕は今の生活は楽しいからいいんだ」
ふうにはどうも僕の前の仕事とか分かっているように見える。そんな事誰に聞いたのだろうか。
「でも子猫と限らず、動物の体温って癒されるよね」
僕はゆっくりとリンの背中を撫でたり、耳の間を撫でている。
喉をご機嫌に鳴らしてくれているので、ご満悦なのだろう。
「そうなの。でも澤田さんは成人男性なのだから女性との交流を求めようよ」
何気なく言ったふうの一言に僕は敏感に反応する。
「ふうは僕の事を気にしなくてもいいんじゃない?僕の同級生だってそんなに結婚していないよ」
「だって、澤田さん一般女性がいいんでしょ。業界の女の子に誘われても絶対についていかないじゃない」
うっ、そんなところを見ていたのか。自分の兄妹ならどうにか誤魔化せるが、ふうは無理だろうな。
「そういうことってしたいからするものじゃないさ。その時が僕にはまだってだけで」
「澤田さんってかなりいいマンション持っているんでしょう?そういうのを狙ってくる人もいっぱいいるわけ」
ふう……これ以上僕の傷を広げるのを止めてくれないかな。リンちゃんの体温は離れがたいんだけど……。
「僕も猫飼おうかな」
「止めたらどうです。更に出会いが遠のきますよ」
「そっ、そうなのか」
「……多分。それに澤田さんの部屋ってペット平気なんですか?」
「大丈夫だよ。子供・ピアノ・ペット可だし、完全防音だから」
「嘘……芸能人とか住んでいない?」
「どうだろうね?オケの団員さんはいるから、声楽家位はいるだろうね」
「やっぱり、澤田さんはメダカとか飼うのはいいですけど、猫とか犬は止めましょう。うん、これだけの高スペックなんだからもっと出会いを広げていこうよ。普通のお嬢さんがいいんだったら僕も知らない訳じゃないし」
ちょっと待て。ふう、お前はいつからやり手婆みたいなことを始める気だ。お前の知り合いのお嬢さんというのは、柏木流のお弟子さんしかいないじゃないか。
「大丈夫。お弟子さんだけじゃないし。ビジネスでやり取りしている信頼できる方にお願いするだけだから。良家の子女なら大丈夫だよ。一応社長にも言っておいてあげるから」
「お願いだから。それだけはやめてくれないか。体はゆっくりでいいからな。僕が何とか調整するから。悪いけど事務所に行かないと。ほら、リンちゃんはふうの所に行こうな」
焦って僕はりんちゃんをふうに渡す。リンちゃんは物足りない表情をしているけど、それはそれだ。僕は柏木家の者でもないし、リンちゃんは僕の家族でもない。
「今日はそういうことにしておきましょう。俺の事はお構いなく。これでも恋愛をしていますので」
マネージャーとしては聞き捨てならないことをサラリと言ってのけた。何?恋愛だと!?
「おまっ、相手は誰だ」
「うーん、内緒。すぐに囲いたいとかじゃないから。自分の立場も分かっているからさ」
「そう、そうか」
「俺は、将来の嫁も踏まえて考えているから。そんな簡単にへまなんかしないよ。お疲れさま。玄関はそのまま閉めておいて。今の俺はリンに頼られているからさ」
ふとふうの膝をみるとリンちゃんがお腹を出して伸びていた。ああ、これが頼られているという事なのか。僕はまだまだという事か。
「分かったよ。何かあればメールするから。なっちゃんは?」
「僕の風邪に関しては知っているよ。リンを見には来るけど一緒に部屋にいないようにしているから安心して」
「お前となっちゃんはそんなんじゃないだろ」
「今はですけど、将来は未知数ですから」
今背筋が凍ることを言われた気がした。ちょっと待て、なっちゃんは今12歳だぞ。大丈夫なのか?手を出さなければいいのか?頭の中にいろんなことがぐるんぐるんと回っている。
「ああ、僕らはそんな関係じゃないですよ。何にもありませんよ」
ぴしゃりと言い切られてしまって、リンもなっちゃん大好きだもんね。でも今日は来ないから我慢してね、なんて甘い声でリンと遊び始めた。さっきまでの態度は一体なんなんだ。
釈然としないまま僕は柏木家を後にするのだった。