5 お風呂は嫌い
その日、ウルとヒースは争っていた。
「やー!水嫌い!」
「いい加減風呂には入れ!」
元々、ウルを含め狼族は水の苦手な者が多い。
中でも、ウルは水かきもできない程の水恐怖症だ。
水は飲む物。
それがウルの中での認識だった。
しかし、それに待ったを掛けたのが行きがかり上ウルと同居しているヒースだ。
森の外で暮らす兎族の暮らしは文明化されているらしく、彼の住む家には当然風呂もあった。
つくりは水を溜めて竈で沸かす手間のかかる物だったが、それでもヒースは二日に一回は必ず入浴していた。
そんなヒースが、ウルの水にぬれた毛皮の生臭いにおいに耐えられるはずもなかった。
「きもちいいから。さっぱりするから!」
「やーだ!水怖いぃ」
絶対に連れて行かれまいと、ウルは柱必死にしがみついていた。
ヒースはそんなウルの背中をこれでもかと引っ張る。
「痛い!痛いよヒース」
「あ、ああ…悪い」
ウルの悲鳴に、ヒースは思わず手を離した。
雌である彼女に強硬手段は気が引けるが、だからと言ってこのまま放置する訳にもいかない。なんせここはヒースの暮らす家なのだ。こう言っては悪いが、彼女にノミなど媒介されたらたまったものではないのだった。
「…ウル、そんなことじゃ兎族の街には連れて行けないぞ?」
「え?」
それまで必死に柱にしがみついていたウルが、ヒースの言葉で振り返る。
「兎族は皆綺麗好きなんだ。だから毛づくろいだけじゃだめだ。お風呂に入らなきゃ」
涙目で見上げてくるウルはひどく保護欲を誘ったが、だからと言って彼女の我儘を許容し続ける訳にはいかない。
そう心を鬼にするヒースだったが、ヒースの言葉に対するウルの反応は予想以上だった。
ウルはしばらく俯いて考え込んだ後…いやかなり長い間考え込んでいたが、意を決したのか柱からようやく手を離した。
「…わかった」
大きな黒い目の、縁には涙が乗っている。
なんだかかわいそうになりつつ、ヒースはウルをお風呂場に案内した。
浴室は他の部屋と同じ板張りの部屋だった。しかし床には、滑らないようにするためかスノコが敷かれていた。
服を着たままヒースに先導されて浴室に入ったウルは、その湿度の高い空気に触れただけでふにゃんと耳を伏せさせてしまった。尻尾もすっかり丸まっている。
「じゃあ、俺は外に出るから、石鹸と、この布で体を洗ってから湯船に入るんだぞ。火傷をしないようにそっとな」
風呂に不慣れなウルの為に、ヒースは丁寧に説明して浴室から出ようとしたが、その服の裾をウルが掴んだ。
「どうした?」
振り返るヒースに、ウルは俯く。
「どうした?やっぱりこわいか?」
ヒースが屈みこんでそう尋ねても、ウルは顔をあげなかった。
そして、聞えるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「いっしょ…」
「え?」
「いっしょじゃなきゃ、や」
ぼそぼそ喋るウルの言葉に、ヒースの耳が驚きではねた。
「ゆっくり、ゆっくりだぞ」
結局、ウルの訴えにヒースは勝つことが出来なかった。
現在、ヒースは浴槽に入ったウルを見ないように、洗い場で彼女に背を向けている。
水の溢れる音が止まり、ヒースはウルが風呂に完全に浸かったことを知った。
「大丈夫か?熱くないか?」
「ちょっと…熱い」
ヒースの背中の裾を、ウルは掴んだままだ。
どうしてこんなことになったと、ヒースは自問自答する。
国へ帰れば一族の全てに傅かれる身分である彼も、この寂しがりな狼の前では形無しなのだった。
「ヒース…」
「ん?」
「お風呂、入れた」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、連れてって、くれる?」
ウルの声は、水への恐怖か少し震えていた。
「ヒースの、国。森の外の、兎族の、国」
切れ切れに言うウルの声は、酷く頼りなかった。
彼女は恐いのだ。
ヒースに否定されるのが。もういらないと放りだされるのが。
だから必死になって肉を我慢して、今もこうして嫌いなお風呂に遣っている。
ヒースの胸が、罪悪感で締め付けられた。
この小さな狼を拾ったのは、失敗だったのかもしれない。
元々、草食の兎族と肉食の狼族は相容れないのだ。この二つの種族はいつも、食う者と食われる者の関係でしかなかった。
「俺の国へ、行きたいのか?」
残酷だと思いつつ、ヒースはその質問を口にした。
ウルの裾を握る手に、力が入る。
浴室に立ち込める湯気が、ヒースの服を湿らせていた。
「いき、たい」
泣きそうなか細い声で、ウルはそう口にした。
それを聞きながら、ヒースはきつく目を閉じた。
すまないと、何度も心の中で繰り返して。
兎族の暮らす国に、肉食の狼族を連れて帰るなんて、できるはずがない。それも、兎族の王子である自分が。
「そうか」
それだけしか、ヒースは言えなかった。
ぽちゃんと、滴った水が水面で跳ねる。




