2 ニンジンは付け合せです
目を覚ましたウルは最初、自分はお腹がすきすぎて死んでしまったのかと思った。
なぜなら、そこはウルが初めて眠るようなふかふかの布団の上だったからだ。
まるで空に浮かぶ雲の上にいる様な心地だった。
丸太を重ねた壁の真ん中に、向こうを透かす不思議な板が嵌っている。すこし歪んだそれからは、きらきらとした光が差しこんでいた。
寝起きでぼんやりとしていたウルだったが、その時その腹の虫がグゥと大きな音を立てた。
ああ、お腹がすくってことはやっぱり生きていたのか。
ウルは雌としての柔らかみに欠ける凹んだ腹を撫でた。
「…起きたのか」
なにやら積み重ねた丸太の一部の四角く区切った部分(ウルは“ドア”と言う物を知らなかった)が、キイと開いて入ってきたのは先ほどの青年だった。
その手に乗っている白い皿からは、甘い匂いと湯気が立ち上っている。
「そ…それ!」
口の中を涎でいっぱいにしながら、ウルは寝台から飛び出そうとして失敗した。
ひと月の間碌に飲まず食わずで歩き続けてきた体は、もうすっかり弱り切っているのだ。
ウルはひもじい想いで、青年を見つめた。
群れの長老たちの話では、他の二足歩行の動物たちは皆、狼を恨んでいるという。
ならば、この青年はウルをどうするつもりだろうか。
まさか今から自分の目の前で食事をして苦しませるつもりなのだろうか?
ウルが懇願の意を込めて涙目で青年を見上げ続けていると、彼は真っ白い頬をうっすらと赤くして、さっと目を逸らしてしまった。
ガァン。やっぱりここでも嫌われ者なのか。
ウルは俯いて鋭い犬歯を噛み締めた。
それからしばらく。
部屋には気まずい沈黙が落ちたが、先に行動を起こしたのは今度は青年の方だった。
目の前に、一口大の大きさに切られたツヤツヤと光るニンジンが、山ほど乗った皿を差し出される。添えられているのは見たことのない銀色の…櫛?
とにかく、ウルは空腹に負けて、そのニンジンの山にかぶりついた。
ウルは知らなかったが、それはニンジンのグラッセで、その青年の大好物でもあった。
ガツガツと、フォークも使わず食事をするウルを、青年は呆然と見守っている。
ウルは瞬く間にそれをペロリと平らげると、口の周りをニンジンのカスだらけにして期待の目で青年を見つめた。
「で、肉は?」
白いシーツの上でぶんぶんとまだらなしっぽを振る小柄な少女の一言に、青年は青ざめて慌てて部屋を出て行った。
それから、青年はずっと姿を見せなかった。
ウルは勝手に部屋を出ていいのか分からず、また先ほど青年の入ってきた四角い部分の仕組みもよく分からなかったので、ずっとベッドの上で膝を抱えて途方に暮れていた。
よくよく考えてみれば、折角助けてくれた上にゴハンを分けてくれたのに、自分はずうずうしくもお代わりを要求してしまった。
しかも、他の動物は食べることのないお肉を。
ウルは自分の軽率な行動を恥じた。
その頭のてっぺんにある三角の耳は髪の毛の中に紛れるほど伏せられ、しっぽは力なく寝台に横たわっている。
両親と幼い頃に死に別れたウルは、群れで育てられたとはいえ他の個体とコミュニケーションを取るのが苦手だった。
特に雌のオオカミはその数が圧倒的に少ないので、男達からは大事にされ過ぎて疎遠だし、女達はウルを見下していたのでうまく馴染むことが出来なかった。
―――今度、あの人が来たら謝ろう。
それだけを胸に、ウルは寝台の上に膝を抱えて待ち続けた。
その目は只管に先程の壁の四角く区切られた部分に向いている。
やがて窓から入る光が陰り、そして外は夜になったようだった。
しかしオオカミは基本夜行性なので、明かりがなくても暗い部屋の中を昼間のように把握することが出来る。
その時だ。
ウルはピンと耳を立てた。
鼻をふんふんとひくつかせて、様子を窺うようにしっぽを少しだけふる。
ガチャリという音がして、入ってきたのは先ほどの青年だった。
少し、足の裾が濡れているようだ。
それに、なんだか生臭いにおいがする。
ウルは慌てて立ち上がり、寝台から転げ落ちそうになりながら青年に近づいた。
足は少しもつれたが、今はそれどころじゃない。
「ご、ごめんなさい!」
開口一番のウルの言葉に、青年は面食らっていた。
「あ、あたしごはん貰ったのに、お礼もしないで…あの、あなたみたいな人、見るの初めてで、でもイヤなら肉とか食べないし…あの、だから置いてかないで、一人にしないで」
ウルは必死で彼を見上げた。
ここで見捨てられたら、再び孤独なだけで目的のない逃避行に逆戻りだ。
森で最強の生物であるにも関わらず野犬たちに怯え、泥だらけになりながら安住の地を求めて這いまわるのはもう嫌だった。
部屋の中は闇に沈んでいたが、ウルは明暗だけで青年のまっすぐに長い二つの耳が、ひくひくと状況を窺う為にせわしなく動いているのに気付いていた。
「これ…」
しばらくして、青年が差し出してきたのは皿に乗せられた生魚だった。
生臭い臭いの正体はこれだったのだ。
口の中からしみだしてきた涎を我慢して、ウルは機嫌を窺うように青年を見上げた。
彼は一族の中でも一番大きかった長と同じくらい背が高い。勿論体は比較できないほど長の方が厚く逞しかったが。なので表情を窺おうとするとどうしても、首が痛くなるほど上を見上げなければならなかった。
「これ…?」
黙って差し出された魚と、青年の顔を見比べる。
しかし、整ったその顔から何がしかの感情を読み取ることはできなかった。
自然お預けを喰らったような形で、ウルは青年の前に立ち尽くし続けた。
謝ったが、まだ許しの言葉は貰っていない。
主に群れ単位で行動し、上下関係の厳しい狼族に育ったウルにとって、相手の機嫌を窺うという行為は非常に重要なのだった。
「食べろ」
やがて痺れを切らしたのか、青年が小さく呟いた。
その言葉とほぼ同時に、ウルは気付けば生の魚にかぶりついていた。
地上に暮らす者たちの味とは違うが、それでも久しぶりの生の肉と新鮮な血だ。
普段のように口の周りをベタベタに汚しながら、ウルは魚を貪った。
バッターン!
そして、それを目の前で目撃したウサギの青年は、堪えきれず卒倒してしまった。
どうしたらいいのかと、ウルは魚の骨をしゃぶりながら途方に暮れてしまった。




