05/09 肉の世界
夜は密やかであるべきだ。静かで、寂しく、神秘であるべきだ。
しかし、街の中で迎える夜は、いつも煩い。街頭は眩しく、夜空の下辺に薄白く染みる。夜にこそ自己主張を始める馬鹿共が。思春期の子供の様な人に対する嫌悪感とは違う。夜を跋扈する魑魅魍魎への恐怖に似ている。
だが、最近は逃れる術を知った。
ある晩、体を暗闇に染めるのを楽しむべく路地を歩いている時、僅かに滲む灯りの中に、ギラリと光る物を見付けた。それは、メスだった。今時珍しい、柄までを地続きの金属で出来た、手術用具。近所に病院も医院も無く、物珍しさから拾い上げた。屋外に落ちていた割に錆などは無く、その刃は指で撫でただけで皮を切り裂くのではと思う程、シャープな輝きを放っていた。
それで、試しに民家のブロック塀に刃を宛がった。摩擦抵抗無くなめらかに、ザラつく壁面を滑っていった。その一連の行動に意味は無く、また壁を傷付けてやろう等という野蛮で馬鹿げた考えも一切持ち合わせず、ただ、そうした。すると驚いた事に、メスは軽やかに壁を切り裂いたのだった。
壁面にぱっくりと傷口が開く。切り口に覗くのはコンクリートの断面ではなかった。もっと有機的な、肉だ。
俺はバツ印を描く様に、もう一筋切る。硬質な壁は、そうする事で、だらりとだらしくなく垂れ下がる肉塊と化した。開口部を捲り、中を覗くと、塀の向こうに見える民家の外壁も、鮮やかな薄紅色をしていたのだった。顔を上げ、開口部の外から見える家屋は、変わらず鬱々とした佇まいだ。俺は開口部を広げ、中へ入っていった。
素晴らしいの一言に尽きる光景だった。そこは地面もあらゆる壁もが肉と骨とで出来た世界だった。見渡す限り筋肉の薄紅色、脂肪の白、骨の象牙色。まるで何者かの体内であるかの様でありながら、空は虚ろに無限、また肉と骨とは人の手で作られたものを象る整合性を見せる。
初めてこの世界に脚を踏み入れた民家を、俺は肋屋と名付けた。屋根の骨格が肋骨の様でああったのが由来であり、我ながら洒落た名だと思っている。この世界を散策する上でのキャンプに定めた。
この世界には住人が居ない。迷い込む者も居ない様で、正に俺だけの世界だった。ただ、時折道端や屋内に、醜くうごめく肉塊を見る。恐らくはあちら側の人間だろうと考える。他にも考え付いたのは、こちら側には時間の概念が無く、またあちら側とは平行しないという事だ。
しかし、この世界では色々歩き回るより、肋屋で呆然と寝転がっている方が良い。周囲を肉に囲まれていると、母胎に帰った様な心地良さがある。肉のうねりに体を漂わせ、目を開け放ち無心になる。すると俺は純真無垢な胎児に戻るのだ。それは確信的な安らぎだ。俺は何度もこの肉の世界に逃げ込み、幾許かの時を過ごしている。
そうして、いつもの如く無意識の羊水にたゆたっている時、ふと、何者かの気配を感じた。いや、視線だろうか。上体を起こし、その先に目を向けると、元の戸口の辺り、骨と骨との隙間から誰かが俺を覗いている。誰も居ない、一人きりの世界の筈だったのに。
「誰だ」
と叫ぶと、それはさっと消えた。俺は、肋屋を飛び出した。
肉の通りに出て、左右の見渡す。長い黒髪が、路地へ入ってゆくのが見えた。追い掛け路地に入る。髪の毛は右へ折れていく。路地を出て右を見れば、髪は民家に入っていく。
民家の中は肋屋程に隙間が無く、暗い。俺は暗闇に向けて呼び掛けた。
「おい、居るんだろう。出てこい」
返事は無い。俺は暗闇の中に踏み込んでいった。踏み締める感触はどこも変わらない。靴底がやや沈み込む、畳の様な、しかし筋繊維の千切れるのが確かに伝わる、それだ。壁を手探りでゆくにしろ、掌に伝わる温度は生暖かく、さらりともぬるりともしない。
突然、横合いから押し倒される。追っていたそれが、俺にのし掛かってきたのだ。
そして暗闇の中で見た。女だ。
この世界ともあちらの世界とも異質。あまりにも美しすぎた。顔は白くその凹凸が判然としない。白目と肌との境界も無く、ただぽっかりと黒い瞳が、奥知れない穴として、俺の眼前にある。そういった異様さを美しいと感じたのは、何物かとの比較ではなく、脊髄反射の様な、直感だった。
女は俺に跨がり、手首を押さえ付けていた。抵抗するという思考は働かない。女の舌が口の中に差し込まれる。粘り着く唾液が頬を伝う。まるで世界が俺の中に流れ込んでくるかの如く、また俺が世界に溶け込んでいく様な感覚。俺と女と世界とがそこで混ざり合い、交じり合い、消えていく。
消えていく。
跳ね起きると、そこは無機質の世界だった。見慣れた玄関で、俺は居た。女を追って入った家は、俺の家だったのだ。一体どこを境にして戻ってしまったのか解らない。
酷い疲労感に見舞われた。意識が鈍化している。考えるのを後にして、寝室へ向かった。
ベッドに倒れ込むと、すんなりと眠りに落ちる。夢も見ず、ただ、眠りへと落下していく。
目が覚めた時の境は曖昧だった。体をベッドから引き剥がし、視覚を脳に送る。
肉だ。肉と骨と筋と神経との有機組織が俺の部屋に充ち満ちている。それが四角く切り取られた窓から差し込む朝日に照らし出されている。
ああ、持ち帰ってしまった。
一日一話・第九日。
おにくおにく。
と言うか、また日付変わってますけどー!!!
さて、明日のお題を貰っているが、どう料理すれば……




