対抗意識 :約2500文字
『あっ、なに撮ってんのー? もー、今すっぴんなのに……イエーイ!』
「ちっ!」
思った以上に大きな舌打ちが口をついて出て、おれは自分でも少し驚いた。リモコンを掴み、一時停止のボタンを押す。テレビ画面には、ベッドの上でくつろぐ女と、それをくすぐる撮影者の男の手が映っている。再生してまだ数十秒だが、距離の近さや緊張のなさが、二人の関係を嫌というほど雄弁に物語っていた。
どうやらこの部屋の前の住人が撮影したものらしい。おれは数日前に、このボロアパートに引っ越してきたばかりだ。やたら軋む畳に染みついた独特な匂い、隣室の生活音。どれも覚悟していたことだ。だが、まさかこんな置き土産があるとは思わなかった。
掃除の最中、押入れの奥の壁の隅から偶然見つけた一枚のDVD。興味本位で再生してみたら、これだ。
最初に映ったのは部屋の全景だった。畳に点々と落ちた黒ずんだシミ、かさぶたを摘まんだように剥がれ落ちた壁紙、天井に染みついた雨漏りの跡。「ああ、この部屋か。しかも、おれと同じような貧乏暮らしか」。安物の家具や、床に落ちたペットボトルを見せて親近感を抱かせておいてからの、ベッドの上の彼女へのズームイン。ひどい裏切りだ。
胸糞悪い……ああ、胸糞悪い。胸糞が! 悪い!
おれはDVDプレーヤーの電源を切り、バラエティ番組にチャンネルを切り替えた。作り物めいた笑い声が、やけに大きく部屋に響いた。
◇ ◇ ◇
『ふふふ、買ったの?』
『ああ、まあね』
『もー、撮らないでよ』
『ははは』
いやあ、微笑ましいじゃないか。うん、実にいいカップルだ。付き合いたての頃って、だいたいこんな空気だよな。少し浮かれて、照れて、何をしても楽しい。まるで、おれと彼女みたいだ。
……と、我ながら見事な心変わりっぷりだが、いやいや、これが本来のおれなのである。おおらかで懐が深く、心が広い。……って全部同じ意味か? ははははは!
今思えば、以前――ひと月ほど前か――このDVDを見たときは、心が荒んでいた。環境の変化に、無意識のうちに不安を溜め込んでいたのだろう。他人の幸福がやたら癪に障った。
でも今は違う。ひょんなことからバイト先で彼女ができたのだ。名前を呼ばれるだけで、自然と頬が緩む。そんな存在が。だからもう一度このDVDを見てもいいかなという気になったわけだ。
いやあ、やっぱり恋っていいなあ。人間らしいって、こういうことかもしれん……ん?
『もー、ほら、マロンが撮ってほしいって!』
おれはリモコンの一時停止ボタンをそっと押した。
画面いっぱいに映っているのは、ポメラニアンだろう。小さな体にふわふわの毛、舌をちょこんと出して無邪気にこちらを見つめる、かわいらしい小型犬だった。
またもや裏切りだ。
おれは動物が、特に犬には目がない。いつかは必ず飼いたいと、ずっと思い続けているのだ。
この男……女だけじゃなく、犬まで飼ってやがったのか。まだ手しか映っていないが、案外金に余裕がある生活をしていたのかもしれん。
おれはプレーヤーの電源を切り、ドラマにチャンネルを変えた。BGMが今のおれの心情をそのまま代弁しているように感じられた。
◇ ◇ ◇
「ワン!」
「ふふふ、ほら、夜だから静かにな」
おれは足元に擦り寄ってきた愛犬、マロニーの頭をそっと撫でた。そう、おれも犬を飼い始めたのだ。前回あのDVDを見てから、およそ三週間後のこと。近所で子犬の譲渡会があると知り、彼女と連れ立って出かけた。
男の一人暮らしじゃまず門前払いだろうと踏んで、彼女を連れていったのが正解だった。マルチーズの子犬を引き取ることになった。これで前の住人に追いついたわけだ……ん?
『それで、なんでカメラを買ったの?』
『まー、いろいろね』
『ふーん……あっ、わかった。それでしょ?』
『それって?』
『その腕時計。ふふふ、それを撮りたくてカメラ買ったんだ?』
『ああ、ははは。ロレーックス』
「ワンワン!」
「……うるさいぞ」
おれはリモコンの一時停止ボタンをそっと押した。画面には、親指を立てた男の手。その手首には、照明を受けていやらしいほどきらめくブランド時計が巻かれていた。
はらわたが煮えくり返る。同じ部屋に住んでいたのに、どうしてこいつばかりが……。
おれはDVDプレーヤーの電源を切り、ニュース番組に切り替えた。大したことのない出来事を、アナウンサーが過剰に深刻な顔で読み上げていた。
◇ ◇ ◇
「ん? ふふっ、どうしたの、それ」
「ああ、買ったんだよ。かっこいいだろ?」
「あはは、腕時計はもう見たよ。そのカメラのこと」
「ああ、これも買ったんだ」
おれがカメラを向けると、彼女はすぐに照れたように口元を手で隠した。恥ずかしそうに、それでもちゃんとレンズを意識して、ぎこちなくピースを作る。
そう、おれはビデオカメラと腕時計を手に入れた。数か月前、あのDVDの続きを見たとき、おれは確かな敗北感に打ちのめされた。だがこう考えた。この部屋の前の住人にできたことなら、おれにだってできるはずだ、と。だから必死にバイトを掛け持ちして、金を貯めた。そしてつい先日、ようやくこの時計とカメラを手に入れたのだ。
思えば、あのDVDがなければ、おれは彼女も犬もこの時計も手に入れていなかっただろう。もし何かのきっかけで、欲しいと思っても、『どうせ、おれなんて……』なんて悟ったようなふりをして、最初からあきらめていたはずだ。
そう考えると、あの男はいい先輩だったのかもしれない。……ん?
『ん? 何してるの? え? 何それ? え? ちょ、ちょっと、やめてよ。ねえ、ねえ、誰か! ああっ! あっ、あっ、あっ……』
「ねえ……なにこれ……?」
「ああ、まあ……」
「この女の人、刺されてるよね? ねえ……」
「ああ……ああっ、作り物だよ。ごめんごめん、変なもの見せてさ。はははは!」
おれはリモコンのボタンを押し、映像を止めた。
……驚いたな。あのDVDの続きを彼女と一緒に見ていたら、まさかこんな展開が待っていたとは。
おれは小刻みに震える彼女の肩にそっと腕を回し、抱き寄せた。軽く口づけすると、彼女はぎこちなく微笑んだ。おれは氷を溶かすように優しく彼女の体を撫でる。強張っていた体から、少しずつ力が抜けていくのが伝わってきた。
そのままおれは彼女を促し、そっとベッドへ移動させた。
――まずは警戒心を解かせないとな。事をうまく運ぶためには。
おれはテレビの電源を切った。




