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最後の切符【AI作品】

掲載日:2026/01/10

ユキは廃線の駅で目を覚ました。


頭が重い。鈍痛が額の奥にある。

手を当てると、自分の手が冷たい。

いつからここにいるのだろう。


記憶がない。

考えようとすると、思考が霧の中に消えていく。

まるで水の中で息をしようとするような、苦しさがある。


自分が誰なのか。

なぜここにいるのか。

何を待っているのか。


わからない。


周囲を見回した。古い待合室だった。


壁には色褪せたポスター。「安全第一」と書いてある。

文字の一部が剥がれ落ちている。

ポスターの人物の顔は、時間に削られて判別できない。


時計は三時十五分で止まっている。

長針も短針も動かない。永遠の三時十五分。

それがいつの三時十五分なのか、誰も知らない。


窓の外は霧に覆われ、白い世界だった。

何も見えない。世界はここだけかもしれない。

この待合室と、止まった時計と、自分だけ。


立ち上がった。

体が重い。まるで水の中にいるような感覚。

重力が、いつもより強い気がする。


椅子がきしむ音が、静寂を破った。

その音が消えると、また静寂。

耳が痛くなるような静けさ。


どれくらいここにいたのだろう。

時間の感覚がない。朝なのか夜なのかもわからない。

光は一定のまま。変わらない薄明かり。


駅の中を歩いた。

足音だけが響く。

コツ、コツ、と規則的な音。

自分が動いている証。生きている証。


誰もいない。本当に、誰も。

世界に取り残された最後の人間のような気分。


改札口を通り抜けた。

自動改札機は錆びて、動いていない。

通るとき、冷たい金属に手が触れた。

体温が奪われる感触。


券売機があった。古びている。


ボタンは色褪せ、画面は割れている。

かつては誰かがこれを使っていた。

切符を買い、列車に乗り、どこかへ行った。

その人たちは今、どこにいるのだろう。


何気なく覗き込むと、券売機の隙間から紙片が見えた。

白い紙。古びているが、まだ形を保っている。

まるで、誰かに見つけられるのを待っていたかのように。


引っ張り出した。

切符だった。


切符を手に取る。

紙の感触。ざらざらしている。

長い時間、ここにあったのだろう。

だが、不思議と脆くはない。


日付が書いてある。

だが文字が滲んで読めない。

「19××年×月×日」

インクが時間に溶けている。

時間は紙にも、文字にも、等しく残酷だ。


ユキは切符を握りしめた。


これは、何かの手がかりかもしれない。

何への手がかりかはわからないが。

この空虚な世界で、唯一の具体的なもの。


ホームに出た。

扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。

湿った空気。霧の匂いがする。


線路は錆びて、草に覆われている。

もう何年も列車は来ていない。それは明らかだった。

レールの間から雑草が伸び、枕木は朽ちかけている。

自然が、人工物を取り除こうとしている。


遠くに霧が立ち込めている。

白い壁のように。世界の終わりのように。


その中で、何かが動いた気がした。

影のような、形のないもの。

だが、確かに動いた。


ユキは目を凝らした。

心臓の鼓動が少し速くなる。

胸の中で、何かが反応している。


だが何も見えない。

霧が揺らいでいるだけだった。

風か。それとも、自分の目の錯覚か。


駅舎に戻った。


待合室の椅子に座った。硬い椅子。

背もたれに体重を預けると、軋む音がした。

木と金属が時間に疲れている。


切符を眺めた。


何かを思い出しそうになる。

だが思い出せない。

記憶の断片が、霧のように掴めない。

指の間をすり抜けていく。


誰かを待っていた気がする。

この待合室で。この椅子に座って。

窓の外を見ながら。


だが誰を?


その人の顔が、思い出せない。

声も。名前も。

ただ、温もりだけが残っている。

かすかな、幻のような温もり。


時間が経った。

どれくらいだろう。

時計は止まっているから分からない。

だが光が少し変わった気がする。

薄明かりが、さらに薄くなったような。


そのとき、扉が開いた。


風が入ってきた。

そして女性が。


女性が入ってきた。

黒いコートを着ている。

髪は短く、目は鋭い。

この世界の曖昧さとは対照的な、明確な存在。


女性はユキを見て、少し驚いた表情を見せた。

眉がわずかに上がる。

「あなたも、ここに?」


その声は、この空間で聞いた最初の他者の声だった。


ユキは頷いた。

「ええ」


声が出た。少しかすれている。

どれくらい声を出していなかったのだろう。

自分の声が、他人のもののように聞こえる。


女性は向かいの椅子に座った。

コートの裾が揺れ、靴音が床に響く。

その音さえ、この静寂の中では大きく感じる。


「私はクロエ。記憶鑑定士」


記憶鑑定士。

その言葉がユキの中で引っかかった。

記憶、という言葉に。


失われた記憶。

自分の記憶。

それを鑑定する?


ユキは切符を見せた。

「これを見つけました」


クロエは切符を手に取った。

その動きは慎重だった。

まるで、壊れやすいものを扱うように。


じっと見つめる。

その目は鋭い。

まるでレントゲンのように、切符の奥を見ているかのよう。

表面ではなく、その本質を。


数秒の沈黙。


「これは……記憶結晶の切符ね」


クロエの声には、確信があった。


「記憶結晶?」


クロエは切符を返しながら説明した。

その声は静かだが、明瞭だった。


「この世界では、記憶が結晶になる。具現化する」

「感情が強いほど、記憶は形を持つ」

「触ると、その記憶が見える。感じられる」


ユキは理解しようとした。

記憶が、物質になる?

頭の中で、その概念が形を取ろうとする。

だが掴みきれない。


クロエは続けた。

「そしてこの切符は特別」

「最後の列車の切符」

「忘れられた記憶が乗る列車。一度だけ来る」


クロエの声には、重みがあった。

まるで、何度もこの説明をしてきたかのような。


「最後の……」

ユキは呟いた。


最後。

その言葉が、胸に刺さる。


「乗れば、記憶が戻る」

クロエは言った。

「だが、代償がある。必ず」


代償。


ユキは切符を見つめた。

この小さな紙片が、そんな力を持つのか。


クロエは立ち上がった。

「使うかどうかは、あなた次第」

「私はもう行く。またいつか」


「待って」

ユキは言った。


だがクロエはもう扉の向こうだった。

残されたのは、冷たい空気だけ。

そして、また静寂。


一人になった。


ユキは切符を握りしめた。

手の中で、微かに温かい。

それとも、自分の体温がそう感じさせるだけか。


乗るか。

乗らないか。


記憶を取り戻すか。

この空白のまま、ここにいるか。


外が暗くなり始めた。


窓から外を見た。

霧がさらに濃くなっている。

白から灰色へ。

世界が色を失っていく。


そのとき、遠くから音が聞こえた。


低い、機械的な音。

規則的なリズム。


ガタン、ゴトン。

ガタン、ゴトン。


列車だ。


音が近づいてくる。

ユキは立ち上がった。


心臓が早鐘を打つ。

胸の中で、何かが叫んでいる。

恐怖か。期待か。

わからない。


ホームに出た。


霧の中から、光が見えた。

黄色い光。

古い列車のヘッドライト。

それは幽霊のように霧を切り裂いて現れた。


列車が姿を現した。


黒い車体。錆びている。

だがまだ動いている。生きている。

蒸気を吐きながら、ゆっくりと。


列車が止まった。

ブレーキの音。

蒸気が噴き出す。

白い蒸気が霧と混ざり合う。


扉が開いた。

重い金属音。


中は空っぽだった。

座席だけが並んでいる。

誰も乗っていない。

ユキを待っているかのように。


ユキは切符を見た。

紙が、手の中で震えている。

それとも、自分の手が震えているのか。


乗るか、乗らないか。


もし乗れば、記憶が戻る。

クロエはそう言った。


だが、代償がある。


今の自分は失われるかもしれない。

この静かな駅での時間。

この空白の感覚。

これも、自分の一部なのではないか。


列車は待っている。

蒸気を吐き続けている。

だが、いつまでも待ってはくれないだろう。


ユキは一歩、踏み出した。


そして、決めた。


切符を握りしめて、列車に駆け込んだ。


ステップに足をかける。

冷たい金属。

車内に滑り込む。


扉が閉まった。


重い音。

最後の音。

後戻りはできない。


列車が動き出した。


ゆっくりと。

そして速度を上げていく。

車体が揺れる。

古い懸架装置が軋む。


窓から駅が遠ざかっていく。


あの待合室。

止まった時計。

全てが、霧に飲み込まれていく。


車内で、ユキは座席に座った。


古い座席。

布が擦り切れている。

でも、温もりが残っている気がする。

誰かが座っていた温もり。


すると、記憶が戻り始めた。


断片的に。

映像のように。


この駅で、誰かを待っていた。


冬の日。

雪が降っていた。

白い雪が、静かに降り積もっていた。


その人を待ちながら、ユキは思っていた。

「今日こそは、伝えよう」

何を?


約束。


「必ず戻ってくる」

そう言った人。

でも、戻らなかった。


別れ。


ホームで。

列車が来る前に。

「待っていて」

その言葉が、最後だった。


そして――


記憶が、鮮明に蘇った。


色が。

音が。

温もりが。


全てが。


ユキは涙が溢れた。


止められない。

思い出した。

全てを。


自分が誰なのか。

なぜあの駅にいたのか。

何を待っていたのか。


列車は霧の中を進んだ。


窓の外、世界が流れていく。

でも、もう霧ではない。

風景が見える。


やがて、列車が止まった。


霧が晴れた。


扉が開いた。


外は明るかった。

朝の光。

柔らかい、温かい光。


見覚えのある街だった。


自分が生まれた街。

この道を、何度歩いたことか。

角の花屋。

橋の欄干。

全て、覚えている。


ユキは降りた。


足が、地面に着く。

確かな感触。

ここは、現実。


駅の向こうに、誰かが立っていた。


逆光で、顔が見えない。

でも、わかる。


近づいた。


それは、待っていた人だった。

あの日、約束した人。


「ただいま」


ユキは言った。

声が震えた。


相手は微笑んだ。


その笑顔を、ユキは知っている。

何度も見た笑顔。

何度も夢に見た笑顔。


「おかえり。ずっと待ってた」


二人は抱き合った。


記憶が完全に戻った。


自分が誰か。

どこから来たか。

なぜあの駅にいたか。


全て。


そして、時間が流れ始めた。


止まっていた時計が、再び動き出した。

世界が、動き出した。


ユキは、帰ってきた。


(完)





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