最後の切符【AI作品】
ユキは廃線の駅で目を覚ました。
頭が重い。鈍痛が額の奥にある。
手を当てると、自分の手が冷たい。
いつからここにいるのだろう。
記憶がない。
考えようとすると、思考が霧の中に消えていく。
まるで水の中で息をしようとするような、苦しさがある。
自分が誰なのか。
なぜここにいるのか。
何を待っているのか。
わからない。
周囲を見回した。古い待合室だった。
壁には色褪せたポスター。「安全第一」と書いてある。
文字の一部が剥がれ落ちている。
ポスターの人物の顔は、時間に削られて判別できない。
時計は三時十五分で止まっている。
長針も短針も動かない。永遠の三時十五分。
それがいつの三時十五分なのか、誰も知らない。
窓の外は霧に覆われ、白い世界だった。
何も見えない。世界はここだけかもしれない。
この待合室と、止まった時計と、自分だけ。
立ち上がった。
体が重い。まるで水の中にいるような感覚。
重力が、いつもより強い気がする。
椅子がきしむ音が、静寂を破った。
その音が消えると、また静寂。
耳が痛くなるような静けさ。
どれくらいここにいたのだろう。
時間の感覚がない。朝なのか夜なのかもわからない。
光は一定のまま。変わらない薄明かり。
駅の中を歩いた。
足音だけが響く。
コツ、コツ、と規則的な音。
自分が動いている証。生きている証。
誰もいない。本当に、誰も。
世界に取り残された最後の人間のような気分。
改札口を通り抜けた。
自動改札機は錆びて、動いていない。
通るとき、冷たい金属に手が触れた。
体温が奪われる感触。
券売機があった。古びている。
ボタンは色褪せ、画面は割れている。
かつては誰かがこれを使っていた。
切符を買い、列車に乗り、どこかへ行った。
その人たちは今、どこにいるのだろう。
何気なく覗き込むと、券売機の隙間から紙片が見えた。
白い紙。古びているが、まだ形を保っている。
まるで、誰かに見つけられるのを待っていたかのように。
引っ張り出した。
切符だった。
切符を手に取る。
紙の感触。ざらざらしている。
長い時間、ここにあったのだろう。
だが、不思議と脆くはない。
日付が書いてある。
だが文字が滲んで読めない。
「19××年×月×日」
インクが時間に溶けている。
時間は紙にも、文字にも、等しく残酷だ。
ユキは切符を握りしめた。
これは、何かの手がかりかもしれない。
何への手がかりかはわからないが。
この空虚な世界で、唯一の具体的なもの。
ホームに出た。
扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
湿った空気。霧の匂いがする。
線路は錆びて、草に覆われている。
もう何年も列車は来ていない。それは明らかだった。
レールの間から雑草が伸び、枕木は朽ちかけている。
自然が、人工物を取り除こうとしている。
遠くに霧が立ち込めている。
白い壁のように。世界の終わりのように。
その中で、何かが動いた気がした。
影のような、形のないもの。
だが、確かに動いた。
ユキは目を凝らした。
心臓の鼓動が少し速くなる。
胸の中で、何かが反応している。
だが何も見えない。
霧が揺らいでいるだけだった。
風か。それとも、自分の目の錯覚か。
駅舎に戻った。
待合室の椅子に座った。硬い椅子。
背もたれに体重を預けると、軋む音がした。
木と金属が時間に疲れている。
切符を眺めた。
何かを思い出しそうになる。
だが思い出せない。
記憶の断片が、霧のように掴めない。
指の間をすり抜けていく。
誰かを待っていた気がする。
この待合室で。この椅子に座って。
窓の外を見ながら。
だが誰を?
その人の顔が、思い出せない。
声も。名前も。
ただ、温もりだけが残っている。
かすかな、幻のような温もり。
時間が経った。
どれくらいだろう。
時計は止まっているから分からない。
だが光が少し変わった気がする。
薄明かりが、さらに薄くなったような。
そのとき、扉が開いた。
風が入ってきた。
そして女性が。
女性が入ってきた。
黒いコートを着ている。
髪は短く、目は鋭い。
この世界の曖昧さとは対照的な、明確な存在。
女性はユキを見て、少し驚いた表情を見せた。
眉がわずかに上がる。
「あなたも、ここに?」
その声は、この空間で聞いた最初の他者の声だった。
ユキは頷いた。
「ええ」
声が出た。少しかすれている。
どれくらい声を出していなかったのだろう。
自分の声が、他人のもののように聞こえる。
女性は向かいの椅子に座った。
コートの裾が揺れ、靴音が床に響く。
その音さえ、この静寂の中では大きく感じる。
「私はクロエ。記憶鑑定士」
記憶鑑定士。
その言葉がユキの中で引っかかった。
記憶、という言葉に。
失われた記憶。
自分の記憶。
それを鑑定する?
ユキは切符を見せた。
「これを見つけました」
クロエは切符を手に取った。
その動きは慎重だった。
まるで、壊れやすいものを扱うように。
じっと見つめる。
その目は鋭い。
まるでレントゲンのように、切符の奥を見ているかのよう。
表面ではなく、その本質を。
数秒の沈黙。
「これは……記憶結晶の切符ね」
クロエの声には、確信があった。
「記憶結晶?」
クロエは切符を返しながら説明した。
その声は静かだが、明瞭だった。
「この世界では、記憶が結晶になる。具現化する」
「感情が強いほど、記憶は形を持つ」
「触ると、その記憶が見える。感じられる」
ユキは理解しようとした。
記憶が、物質になる?
頭の中で、その概念が形を取ろうとする。
だが掴みきれない。
クロエは続けた。
「そしてこの切符は特別」
「最後の列車の切符」
「忘れられた記憶が乗る列車。一度だけ来る」
クロエの声には、重みがあった。
まるで、何度もこの説明をしてきたかのような。
「最後の……」
ユキは呟いた。
最後。
その言葉が、胸に刺さる。
「乗れば、記憶が戻る」
クロエは言った。
「だが、代償がある。必ず」
代償。
ユキは切符を見つめた。
この小さな紙片が、そんな力を持つのか。
クロエは立ち上がった。
「使うかどうかは、あなた次第」
「私はもう行く。またいつか」
「待って」
ユキは言った。
だがクロエはもう扉の向こうだった。
残されたのは、冷たい空気だけ。
そして、また静寂。
一人になった。
ユキは切符を握りしめた。
手の中で、微かに温かい。
それとも、自分の体温がそう感じさせるだけか。
乗るか。
乗らないか。
記憶を取り戻すか。
この空白のまま、ここにいるか。
外が暗くなり始めた。
窓から外を見た。
霧がさらに濃くなっている。
白から灰色へ。
世界が色を失っていく。
そのとき、遠くから音が聞こえた。
低い、機械的な音。
規則的なリズム。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
列車だ。
音が近づいてくる。
ユキは立ち上がった。
心臓が早鐘を打つ。
胸の中で、何かが叫んでいる。
恐怖か。期待か。
わからない。
ホームに出た。
霧の中から、光が見えた。
黄色い光。
古い列車のヘッドライト。
それは幽霊のように霧を切り裂いて現れた。
列車が姿を現した。
黒い車体。錆びている。
だがまだ動いている。生きている。
蒸気を吐きながら、ゆっくりと。
列車が止まった。
ブレーキの音。
蒸気が噴き出す。
白い蒸気が霧と混ざり合う。
扉が開いた。
重い金属音。
中は空っぽだった。
座席だけが並んでいる。
誰も乗っていない。
ユキを待っているかのように。
ユキは切符を見た。
紙が、手の中で震えている。
それとも、自分の手が震えているのか。
乗るか、乗らないか。
もし乗れば、記憶が戻る。
クロエはそう言った。
だが、代償がある。
今の自分は失われるかもしれない。
この静かな駅での時間。
この空白の感覚。
これも、自分の一部なのではないか。
列車は待っている。
蒸気を吐き続けている。
だが、いつまでも待ってはくれないだろう。
ユキは一歩、踏み出した。
そして、決めた。
切符を握りしめて、列車に駆け込んだ。
ステップに足をかける。
冷たい金属。
車内に滑り込む。
扉が閉まった。
重い音。
最後の音。
後戻りはできない。
列車が動き出した。
ゆっくりと。
そして速度を上げていく。
車体が揺れる。
古い懸架装置が軋む。
窓から駅が遠ざかっていく。
あの待合室。
止まった時計。
全てが、霧に飲み込まれていく。
車内で、ユキは座席に座った。
古い座席。
布が擦り切れている。
でも、温もりが残っている気がする。
誰かが座っていた温もり。
すると、記憶が戻り始めた。
断片的に。
映像のように。
この駅で、誰かを待っていた。
冬の日。
雪が降っていた。
白い雪が、静かに降り積もっていた。
その人を待ちながら、ユキは思っていた。
「今日こそは、伝えよう」
何を?
約束。
「必ず戻ってくる」
そう言った人。
でも、戻らなかった。
別れ。
ホームで。
列車が来る前に。
「待っていて」
その言葉が、最後だった。
そして――
記憶が、鮮明に蘇った。
色が。
音が。
温もりが。
全てが。
ユキは涙が溢れた。
止められない。
思い出した。
全てを。
自分が誰なのか。
なぜあの駅にいたのか。
何を待っていたのか。
列車は霧の中を進んだ。
窓の外、世界が流れていく。
でも、もう霧ではない。
風景が見える。
やがて、列車が止まった。
霧が晴れた。
扉が開いた。
外は明るかった。
朝の光。
柔らかい、温かい光。
見覚えのある街だった。
自分が生まれた街。
この道を、何度歩いたことか。
角の花屋。
橋の欄干。
全て、覚えている。
ユキは降りた。
足が、地面に着く。
確かな感触。
ここは、現実。
駅の向こうに、誰かが立っていた。
逆光で、顔が見えない。
でも、わかる。
近づいた。
それは、待っていた人だった。
あの日、約束した人。
「ただいま」
ユキは言った。
声が震えた。
相手は微笑んだ。
その笑顔を、ユキは知っている。
何度も見た笑顔。
何度も夢に見た笑顔。
「おかえり。ずっと待ってた」
二人は抱き合った。
記憶が完全に戻った。
自分が誰か。
どこから来たか。
なぜあの駅にいたか。
全て。
そして、時間が流れ始めた。
止まっていた時計が、再び動き出した。
世界が、動き出した。
ユキは、帰ってきた。
(完)




