第6話: 永遠より、明日
## 6-1: 儀式の前
集会所の机に油紙を広げたまま、僕らは夜までを使い切った。
手順は簡単なはずなのに、簡単に見えるほど危ない。
「合図は、杖三回」
長老が言う。
トン。トン。トン。
木の床が小さく震え、その震えが僕の胸の奥まで届く。
「役割は固定だ。唱える者、支える者、記録する者。――迷ったら、その時点で止める」
若者が油紙の文字を指でなぞる。
油紙には、合図と役割、縄、そして「止める言葉」が短く並んでいた。
その行を見た瞬間、僕の喉が乾く。
止める言葉。
言葉は刃にも、縄にもなる。
僕は腕時計を外して掌で覆い、秒針の音を聞いた。
カチ。
カチ。
普通の刻み。
普通が、ここでは頼りなく見える。
「時計は、祭壇のそばに置く」
僕が言うと、若者の一人が不安そうに眉を寄せる。
「そんなものが、役に立つのか」
「役に立つかは分からない。でも、基準がないと、全部“気のせい”になる」
僕はそう答え、油紙に小さく追記した。
『基準:影/石/時計』
ユキは壁際で黙って座り、布袋を胸に抱いたまま指先を握りしめていた。
「ユキ」
僕が呼ぶと、ユキは顔を上げる。
目の奥が乾いている。
泣いていないのに、泣いた後みたいだった。
「……怖い」
ユキが言った。
「怖いけど、怖いって言ったら、負ける気がして」
負ける。
何に。
僕はすぐには答えられず、代わりに椅子を引いてユキの前に座った。
「怖いって言っていい。怖いままやるしかないから」
ユキが小さく息を吐いた。
「お母さんの声を、もう一度ちゃんと聞きたい」
その言葉が、僕の中の別の恐怖を刺激する。
僕は自分の母の顔を思い出そうとして、失敗する。
温度だけがある。
顔がない。
(ここでまた奪われたら)
その想像を、僕は振り払った。
「僕らは、奪われないためにやる」
言い切るのは苦しい。でも言い切らないと、足が止まる。
***
翌朝、村は静かだった。
静かすぎて、息をする音が目立つ。
窓の隙間から視線だけが出入りする。来ない者たちが、来る者たちを見ている。
反対派の老人は、集会所の前に立っていた。
杖を突き、まっすぐこちらを見る。
「……行くのか」
長老が一歩前へ出る。
「行く」
「また奪われるぞ」
老人の声は、怒りより疲れに近かった。
「奪われるのが嫌なら、触れるな。触れなければ、何も起きん。何も起きなければ、何も失わん」
若者の一人が言い返そうとして、言葉を飲み込む。
“何も起きない”ことが、今は一番の恐怖だからだ。
僕は油紙の束を持ち上げた。
「僕らは、奪われたくない。だから記録して、止めて、戻して……」
老人が笑った。
「戻して? 戻せるなら、わしの孫の名を戻せ」
空気が凍る。
老人は続けた。
「名を呼べんのだ。叱れん。褒められん。抱きしめて、誰を抱いているのか分からん。――それでも“村のため”と言えるのか」
言葉が僕の胸にも刺さる。
僕は自分の母の顔を思い出せない。
それでも、僕はここにいる。
「言えるかは分かりません」
僕は正直に言った。
「でも、このまま何も起きないふりをしたら、もっと奪われると思う。川のせいで。ドラゴンのせいで。――そして僕らのせいで」
老人は僕を睨み、でも反論しなかった。
代わりに、背を向けた。
「好きにしろ。ただし、戻ってきて、顔を見せろ」
戻ってきて。
それは祈りみたいだった。
***
林の奥へ向かう道で、ユキが小さく言った。
「反対してるのに……祈ってた」
「祈ってるのは、止めることじゃなくて、奪われないことだと思う」
僕が答えると、ユキは頷いた。
その頷きが、少しだけ軽く見えた。
祭壇は苔むした石の輪の中にあった。
遺跡の中心、低い石の台。
刻まれた溝が、古文書の記号と同じ形をしている。
「ここだ」
長老が言う。
ユキの足が一瞬止まった。
「……知ってる気がする」
知ってるのに、思い出せない。
その感覚が、僕の喉を締める。
若者たちが縄を張り、石を置き、棒を立て、影の角度を記録する。
僕は腕時計を祭壇の端に置いた。
秒針は、今は普通に進んでいる。
「始める前に、全員でもう一度」
僕は言った。
「止める言葉」
若者たちが視線を交わし、声を揃える。
「止める」
ユキも言った。
「止める」
長老が短く頷く。
「よし」
杖が一度、石を叩いた。
開始の合図。
僕は息を吸い、古文書の複写を開く。
記号の列を目でなぞる。
(短く。確かに。戻れるように)
僕は声にした。
「……ア、ル」
空気が揺れた。
水音が一段、深くなる。
ユキの指先が溝に触れ、淡い光が走った。
「……来てる」
ユキが囁く。
僕は頷き、次の音節へ視線を移した。
ここから先は、戻り道を見失わないための戦いだ。
## 6-2: 永遠より、明日
「……リ」
次の音が落ちた瞬間、祭壇の溝が淡く光り、空気が揺れた。
揺れは風じゃない。音の揺れで、時間の揺れだ。
耳の奥で、水音が不協和音に変わる。
若者が縄を握る手に力を入れた。
「目を逸らすな」
長老が低く言う。
「逸らしたら、今見ているものが夢になる」
夢。その単語が怖い。
夢は流れる。
流れて、忘れる。
だから僕は腕時計を見た。
秒針が一つ進み、次の瞬間、止まった。
「……止まった」
僕が呟くと、記録役の若者が炭を走らせた。
『時計:秒針停止』
「続ける」
僕は音節を拾う。
「……ア、ル」
咆哮が、遠くで返った。
ズン、と腹の底に落ちる音。
怒りではない。苦しみに近い。
僕は咆哮の節が、古文書の記号の並びと重なるのを感じた。
繋がる。そう思った瞬間、視界が反転した。
***
雨の夜。幼いユキと母の手が、祭壇の溝を指先でなぞる。
祈り。
その祈りは、言葉の形をしていない。
言葉より前にある、願いの形。
「……ごめんね」
ユキの母の声がした。
謝っている。誰に――ユキに、村に、それとも川に。
母は川に触れた。
触れてしまったのではなく、触れざるを得なかった。
村が追い詰められていたからだ。飢えと疫と、冬と。
「守れ」
祈りが願いになり、願いが誓いになり、誓いが形を持った。
黒い影――ドラゴン。
ドラゴンは守るために試練を作り、試練を作るために時に触れる。そして触れるたび、誰かが削れる。
その矛盾が、咆哮に混ざっていた。
泣いているみたいだったのは、泣いていたからだ。
***
次は、長老の過去だった。
若い長老。今より目が鋭く、怖いほど真っ直ぐで、村が泣いている。
名を呼べない。顔を思い出せない。それでも生きる。
若い長老は祭壇へ立ち、古文書を握りしめた。
「止める」
そう言った。
でも、止まらない。
止めると言うほど、川が奪う。
奪うほど、守りたいと願う。
守りたいと願うほど、守護が歪む。
若い長老が膝をつき、涙を落とした。
涙は落ちるのに、誰に向ける涙か分からない。
***
現実へ戻る。
石の冷たさが、指に戻る。
ユキが息をしている。
「分かった」
ユキが言った。
「ドラゴンは、敵じゃない。……わたしの願いが、形になった」
若者が喉を鳴らす。
「じゃあ……俺たちが戦ってきたのは」
「守り方の歪みだ」
長老が答えた。
「敵は、守りたい気持ちそのものではない。守り方が、時間に触れてしまったことだ」
僕は息を吸う。
ここで必要なのは、言葉遊びじゃない。輪郭を与えることだ。
永遠。その言葉は広すぎて、掴めない。
掴めないから、川が引っ張る。
引っ張られて、逆流する。
僕はユキを見た。
ユキの目が揺れている。
「ユキ。願いを……“明日”で言える?」
ユキは唇を噛み、震える声で言った。
「永遠じゃなくて……明日でいい」
その瞬間、水音が一拍遅れて静かになった。
「明日、お母さんと話したい。明日、村が燃えない夜を迎えたい。明日の朝、みんなが名前を呼べるようにしたい」
永遠より、明日。
僕は喉の奥が熱くなる。(それが救いだ)
僕は音節を短く拾い、ユキの言葉に合わせて唱えた。
「……ア、ル」
咆哮が重なる。
咆哮が、言葉に近づいた。
守れ。
離すな。
奪うな。
その瞬間、代償の圧が僕を掴んだ。
頭の中が白くなる。
現実の自分の名字が、舌の先から消えかける。
(やばい)
長老が杖を上げた。
「止める準備をしろ」
僕は震える息を吐き、頷いた。
ここで失ったら、取り返しがつかない。
でも止めたら、今届きかけた答えが散る。
僕は腕時計を見た。
秒針が、止まっている。
止まっているのに、心臓は動く。
(止めるのは、僕らだ)
「一度、切る」
僕が言った。
長老が杖を叩く。
トン。トン。トン。
若者たちが声を揃える。
「止める!」
光がすっと引いた。
空気の歪みが薄くなる。
僕は大きく息を吸い、吐いた。
(まだ、残ってる)
名字も、顔も、消えていない。
怖いけれど、怖いまま制御できた。
長老が言う。
「整え直せ。今の形で、もう一度だ」
ユキが頷き、涙を拭った。
「明日でいい。明日を守る」
僕は頷き、再び音節を拾った。
今度は、奪われないように。
奪わせないように。
***
二度目の共鳴は、穏やかだった。
荒れた波が、岸へ戻るみたいに。
ドラゴンの咆哮は低くなり、怒りの形をほどいていく。
守護が、試練の形を脱いでいく。
祭壇の光が淡く広がり、時の川の水音が、普通の水の音に近づく。
腕時計の秒針が動き出した。
カチ。カチ。秒針が一つ進み、もう戻らない。
若者が炭で書く。
『時計:秒針再開(逆跳ねなし)』
その一行が、僕の胸をほどく。
長老が呟いた。
「……これで、奪われ方が変わる」
「奪われない?」
若者が聞く。
長老は首を振った。
「ゼロにはならん。だが、日常を壊す奪い方は、抑えられる」
抑えられる。それは、救いだ。
僕はユキを見た。
ユキは溝から手を離し、震える指で自分の頬を触った。
「……終わった?」
「終わった」
僕が答えると、ユキは泣きながら笑った。
その笑い方を、僕は心の中へ刻む。
奪われないように、刻む。
***
遠くでドラゴンが吠えた。
吠えは、痛みが解けるときの息みたいだった。
怒りではない。呼び声でもない。見守りの声。
僕は目を閉じ、息を吐いた。
(終わった。――終われた)
奪われるだけの儀式じゃなかった。
奪わせないための、願いに輪郭を与える儀式だった。
## 6-3: 取り戻した朝
村へ戻る道は、来たときより明るかった。
空の色は同じはずなのに、息が通る。
若者が何度も腕時計を見てしまう。
「戻ってない……戻ってない」
その呟きは、確認というより祈りだった。
長老は歩きながら油紙を抱え、時々、同じ行を指でなぞった。
『時計:秒針再開(逆跳ねなし)』
『願い:永遠=明日』
それが、僕らの勝ち筋だ――そう言い切ってしまえる自分に驚く。
それでも、勝ったのだと思いたかった。
***
ユキの家の前には灯りがついていた。
夜明け前なのに、誰かが起きている。
戸口の向こうから、微かな声が聞こえた。
「……ユキ?」
その声は弱い。それでも、確かに言葉だった。
ユキが息を呑み、布袋を落としそうになる。
「お母さん」
ユキが部屋へ駆け込む。
僕は戸口に立ち、足が動かなかった。
覗くと、布団の上で細い肩が少しだけ起き上がっていた。
ユキの母が、ユキの髪に手を伸ばす。
その動きが、儀式で見た映像と重なる。
母の手は、祈りの手で、そして今は触れる手だった。
「……ごめんね」
ユキの母が言った。
「遠くに……行ってた」
「遠く」。その単語が胸に落ちる。
ユキが泣きながら笑った。
「戻ってきたよ。……今日、戻ってきた」
ユキの母が、ほんの少し笑った。
その笑い方は、儀式の映像よりずっと近い。
生きている笑い方だった。
長老が戸口で深く息を吐いた。
「名を……呼べるか」
ユキの母が、ゆっくり言った。
「ユキ」
ユキが声を漏らし、母の手を握りしめる。
その一瞬で、この村がこれまで失ってきたものの重さが分かった。名前を呼べることが奇跡になる世界で、それでも今日は奇跡が起きた。
***
村はすぐには賑やかにならないし、賛成も反対もいきなり消えない。
それでも集会所に灯りが増え、来なかった者も来て、反対派の老人も来た。
老人は油紙を見て、長く黙った。
「……戻ったのか」
長老が答える。
「完全ではない。だが、戻り方が変わった」
「奪われないのか」
老人が問う。
長老は首を振る。
「奪われる危険は残る。だが、無知のまま奪われるのは終わりにできる」
老人は唇を噛み、僕を見た。
「お前は、何を失った」
僕は息を吸い、自分の中を確かめる。母の顔――出る。輪郭は薄いけれど、出る。名字――言える。
僕は胸の底から息を吐いた。
「失いかけました。でも、止めて……戻しました」
「戻した、だと」
老人の声が震えた。
怒りではない。羨みでもない。悔しさに近い。
「戻したなら……わしの孫の名も」
長老が静かに言った。
「それは、今日ではない。だが、“今日”を積み重ねれば、道はできる」
老人は俯いた。
俯いたまま、小さく言った。
「……顔を見せろと言った。戻ってきたなら、それでいい」
それは許しではない。けれど、拒絶でもない。村が前へ進むための、最初の一歩だった。
***
その夜、川の方角は静かだった。
逆流のうなりが聞こえない。聞こえないからといってゼロではないが、日常を壊す音でもない。
見守りの沈黙。
僕は集会所の机に座り、油紙をもう一度写した。
写して、別の場所へ分ける。燃えても、濡れても、残るように。
ユキが隣に座り、言った。
「ありがとう」
僕は首を振った。
「僕だけじゃない。君が“永遠”に輪郭を与えたからだ。……明日って言えたから」
「うん」
ユキは頷いた。
「永遠は、怖い。明日なら、抱えられる」
その言葉が、僕の中の何かをほどいた。
***
朝。
僕は現実の部屋で目を覚ました。
カーテンの隙間から白い光が差している。
スマホのアラームが鳴り、止めようとして手が止まった。
(止める)
その言葉が、祭壇の合図と繋がる。
僕は指先を見る。
炭の黒が爪の間に残っている。
夢のはずなのに、残っている。
机の上に、ノートがあった。
そこに、自分の字で書いてある。
『永遠より、明日』
『止める(合図)』
『時計:逆跳ねなし』
僕は喉が鳴るのを感じた。
覚えている。
少なくとも、今は。
僕は連絡先を開き、「母」を押した。
呼び出し音が、一回、二回。
「もしもし?」
声が聞こえて、その声に顔が少しだけ浮かぶ。はっきりじゃない。でも、浮かぶ。
僕は息を吸った。
「うん。……今日、会える?」
返事は驚いたようで、すぐに笑った。
その笑い方を、僕は怖がらずに聞く。
奪われる恐怖は消えない。
それでも、恐怖に全部を渡さない。
僕は窓を開け、冷たい空気を吸い込んだ。
永遠より、明日。
僕は明日を選び、明日を積み重ねる。
夢で取り戻したのは奇跡じゃない。“輪郭を与える”という技術だった。
皆さま2025年はどんなお年だったでしょうか?
私は、クリスマス前まで考えてもいなかった、小説を書くなんてチャレンジをした稀有な年になったと思います。
普段はエンジニアとして、プログラミング言語を扱うことはあっても、自然言語をこんなに大量に書いたのは、小学校の読書感想文以来かもしれません。
ふとした瞬間に小説って、
- 世界観設定(概要設計)を書いて
- キャラ設定(モジュール仕様)を決めて
- プロット(詳細設計)を作り
- 本文執筆
- 推敲して...
あれ?普段と同じことだ。VSCode + GitHub Copilotで行けるんじゃね?
なんて考えたことが始まりでした。
まだまだ未熟故、お見苦しいところも多いかと思いますが、
この執筆環境(LLMNovelFramework)もいつか、GitHub上に公開できればなどと目論んでいます。
それでは最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。




