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夢の願い――異世界で英雄になる代償に、僕は現実の記憶を失っていく  作者: プロンプト時雨


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第5話: 時の川のほとり

夜明け前の空は、まだ黒い。エルダー村の屋根が闇に沈み、焚き火の残り香だけが細く漂っている。


人の声は小さく、足音は慎重だった。村人たちは大声を出さない。出せない。恐怖が、音量を奪っている。


僕は集会所の前で深く息を吸い、吐いた。胸の中で、現実の時間がどこかに遠ざかっていく感覚がする。


袖口の下で、手首に巻いた腕時計が冷たい。ここへ来る前、いつも見ていた数字が、やけに遠い。


(時間は測れる。――測れれば、失う前に気づける)


古文書の複写を胸に抱え、長老の背中を見る。杖を突く音が、いつもより重い。若者が数人、桶や縄、石、それから油紙の包みを抱えている。


「本当に……行くのか」


誰かが呟いた。


「行かねば、ここで終わる」


長老の声は低く、切れ目がない。


僕は頷いた。終わらせるには、時の川に触れなきゃいけない。ドラゴンの咆哮が言葉なら、それを拾う道は一つしかない。


時の川――あの流れ、僕の記憶を削る流れ。


(削られても、進む)


そう決めたはずなのに、足は勝手に震える。


「ケン」


声をかけられて振り向くと、ユキが立っていた。髪はきちんと結われ、目の下に寝不足の影がある。手には小さな布袋、握りしめすぎて指が白い。


「眠れた?」


僕が聞くと、ユキは首を横に振った。


「眠ったら、夢に引っ張られる気がして……怖かった」


その怖さが、僕と同じ種類だと分かる。僕らはもう、夢と現実の境界を見てしまった。


「……無理はするな」


「無理じゃない。逃げないだけ」


短い返事なのに、声が震えていた。僕はそれ以上言えず、代わりに腕時計を軽く叩く。


「川で“時間”を見たい。変なことが起きたら、まず記録する。……ユキも、見てて」


ユキは不思議そうに見て、でも頷いた。


***


僕らは列になって村の外へ出た。家々の戸は閉まり、窓の隙間からだけ薄い灯りが漏れている。起きているのは、ここへ来た者だけだ。犬の遠吠えすら、今夜は控えめに聞こえた。


若者の一人が、僕の手首をちらりと見て、喉を鳴らした。


「それ……さっきの“時計”ってやつ、本当に勝手に動くのか?」


「動く。――正確に動くのが、普通なんだ」


僕は小声で答え、文字盤を少し見せた。針が進むだけのことが、ここではもう“普通”じゃない。


「秒針って、何だ」


「一番細い針。短い時間を刻む」


「短い時間って、どれくらいだ」


僕は一瞬、説明に詰まった。現実なら当たり前に口から出る単語が、ここではいちいち重い。


「……瞬き一回より、少し長い」


「そんな短さが分かって、何になる?」


「分からないまま奪われるよりは、いい」


僕がそう言うと、若者は黙った。黙り方が、同意というより諦めに近い。


ユキが布袋を握り直す。


「ケン、さっき“残す”って言ったね」


「うん」


「残したら、戻れる?」


僕は即答できなかった。戻れる、と言い切る資格がない。代わりに、ユキの視線から逃げないように、ゆっくり頷いた。


「戻るために残す。……少なくとも、無駄にはしない」


ユキは小さく息を吐き、前を向いた。


村の外れは草の匂いが濃い。夜露が足元で弾け、湿った冷気が鼻の奥に残る。


時の川は、薄い光を宿していた。昼間に見る川とは違う。水面が、月明かりではない何かを反射している。川底の石が淡く青白く浮き上がり、流れの筋が見える。


そして時々、流れが逆を向く。泡が上流へ滑る。砂が巻き上がり、沈まずに漂う。耳の奥に、不協和音みたいな水音がする。


僕は喉を鳴らした。


(ここが“境界”だ)


長老が川の手前で立ち止まる。


「近づくな。まず見る」


若者たちが頷き、川岸に石を並べ始めた。目印だ。さらに一本の棒を地面に刺し、影の位置を確かめる。別の者は川岸の石に紐を結び、一定の間隔を測る。


「石?」


僕が聞くと、若者の一人が答える。


「長老の言いつけです。……同じ場所に同じ石を置けば、流れが変でも、こちらが変でも、差が見える」


差――ループの差分。僕はその言葉が妙に頼もしく感じ、同時に怖くなった。差が見えるということは、変化が起きているということだ。


長老はさらに言う。


「石と影と、言葉だ。――わしらにできる観察はそれだけ」


“観察”。この村の者が、こんな言葉を使うのが意外だった。でも、必要なんだ。伝承だけでは足りない。僕らは実際に代償を払っている。なら、実際に確かめるしかない。


僕は腕時計を外し、掌で覆ってからそっと見せた。暗がりでも針が微かに光る。


「それは……?」


「時計。時間を測る道具だ」


若者の目が丸くなる。長老だけが、少しだけ頷いた。


「お前の世界の“影”か」


「影に近い。……川のそばで、針がどう動くか見たい」


僕は石の目印の横にしゃがみ、秒針を目で追った。規則正しく刻んでいる――はずだった。


カチ。


カチ。


カチ。


三回目の音が、わずかに遅れる。気のせいだと言い聞かせた直後、秒針が一目盛りだけ、ほんの一瞬、逆へ跳ねた。


「……今、戻った?」


僕が呟くと、ユキが息を呑む。


「戻った。わたしも見た」


長老が短く命じる。


「言葉にするな。まず書け」


若者が油紙を広げ、炭の棒を渡してくる。僕は震える指で、そこに大きく書いた。


『秒針が逆に一目盛り』


(言葉にした瞬間、削られるかもしれない。だから“外へ”残す)


僕は息を吸い、川を見つめた。水面に映る自分の顔が、少しだけ歪んでいる。


(現実の僕も、歪んでいくのか)


不意に、頭の奥がじん、と痛んだ。思い出そうとしたからだ。現実の講義室。教授の声。窓。……教授の名前。


(……誰だっけ)


胸が冷たくなる。僕は目を閉じ、無理やり思い出す。出てこない。


(やめろ)


今は、考えるな。考えれば考えるほど、削れる気がする。


長老が僕の表情に気づいたのか、低く言った。


「気づいたか。川に近づくだけで、すでに持っていかれる」


「……触れてないのに?」


「触れている。目で。耳で。心で」


その言葉が、背骨に刺さる。


(見るだけで代償)


なら唱え、共鳴させたら――僕はどれだけ失う。


長老が川面へ小石を投げた。着水の輪が広がり、普通なら下流へ流れるはずの波紋が、一瞬だけ上流へ引かれる。


「見ろ」


「……戻ってる」


「戻る。だが、戻りきらん。だから歪む」


歪む、という言い方が、怖かった。


長老は僕の腕時計を指先で示した。


「もう一度、見せろ」


僕は頷き、秒針の動きを皆に見える位置へ置いた。若者の一人が息を止め、別の者が油紙の端を押さえる。


「では試す」


長老が草を一本ちぎり、川面へ落とした。草は水に乗り、すぐに下流へ流れ――るはずが、石の目印の手前でふっと止まり、次の瞬間、上流へ吸い込まれる。


「今のを、時計で数えろ」


「……一、二、三……」


僕は秒針を追いながら数えた。草が止まってから戻り始めるまで、ちょうど三つ分。なのに、胸の中の感覚はもっと長い。


「三……いや、体感は五くらいだ」


「体感は当てにならん」


長老はそう切り捨てて、棒の影を見た。


影が、わずかに揺れている。風はない。それなのに、影が“遅れて”動く。


「影も歪む」


長老が言う。


若者が炭で書く。


『草:停止→逆流(約3秒)』『影:風なしで揺れ』


僕は思わず口を挟む。


「“約”って書くなら、基準も残したい。秒針の逆跳ねも、何度起きたか」


「では、繰り返せ」


長老は頷いた。


僕らは同じ場所で、草、砂、小石を順番に落とし、止まる位置と戻るタイミングを記録した。逆流は規則的ではない。止まるときは止まり、戻るときは戻る。なのに、“戻りたがる”癖だけは一貫している。


そして、その癖に合わせるように、僕の頭の奥がじくじく痛んだ。


(観察するだけで、削られる)


なら、この先はもっと確実に“残す”必要がある。


***


「小さくやる」


長老が言った。


「大きく唱えるな。大きく願うな。川は、強いものから奪う。欲張れば欲張るほど、持っていかれる」


僕は頷き、古文書の複写を開く。そこには音節と記号。それは文字ではない。でも、僕は遺跡で知った。声にすれば、道が開く。


「……唱える前に、決めることがある」


僕が言うと、長老が視線を寄越す。


「止める合図を。もし誰かの様子がおかしくなったら、すぐに止める」


若者が不安そうに顔を見合わせる。長老は短く頷いた。


「三度、杖を鳴らす。合図があれば、誰も続けるな」


「分かった」


僕は腕時計をもう一度見て、油紙へ追記する。


『唱える前:秒針正常→遅れ→逆跳ね』


「縄は、どうする?」


僕が問うと、若者の一人が縄を持ち上げた。


「腰に回します。もし倒れたら引きます。昔は――」


言いかけた言葉が詰まる。昔、という言い方だけで空気が重くなる。


長老が引き取った。


「昔は、引けなかった。今は引く。引けるようにする」


僕は縄の端を握り、結び目の強さを確かめた。現実なら、こんな結び方は慣れていない。でも、慣れていないからこそ、ここで確認する。


「唱える時間も決めよう。――腕時計で測る。長く続けたら、持っていかれる」


若者が戸惑う。


「時間を決めるって、どうやって」


「秒針が一周するまでの半分。……いや、ここでは揺れる。だから、“合図”と併用する」


僕は長老を見る。


「杖三回で止める。それでも止まらなければ、全員で同じ言葉を言う」


長老が眉を寄せた。


「言葉は刃になる」


「でも、刃がなければ切れない」


僕は油紙に書いた。


『緊急停止:全員で「止める」』


ユキが小さく繰り返す。


「……止める」


その一言が、祈りみたいに聞こえた。


若者たちが輪を作る。長老がその中心に立つ。僕は長老の隣に立った。


「唱えるのは、ケン様だけでいいんじゃ……」


誰かが言いかける。


長老が首を振った。


「代償を一人に背負わせるな。背負えば壊れる。――村が背負う。そうでなければ、守る意味がない」


村が背負う――それが正しいと分かっていても、怖い。


ユキは少し離れたところに立っていた。母のことを思い出しているのか、唇を噛んでいる。僕は視線で呼び、ユキの前まで歩いた。


「ユキ、無理はするな」


ユキは首を振った。


「……逃げない。わたしの願いだから」


「願いは、君だけのものじゃない。――君が倒れたら、ここで終わる」


僕が言うと、ユキは笑おうとして失敗した。


「分かってる。……でも、お母さんのこと、もう“遠くなる”のが嫌なの」


その言葉に、胸が締まる。願いは強いほど、代償が大きい。


長老が僕に視線を向ける。


「唱えよ。短く」


僕は息を吸い、記号を追い、声にする。


「……ア、ル」


音が空気に落ちる。川の水面が、ふっと揺れた。逆流が一瞬止まり、流れが“ためらう”。耳の奥の水音が強くなる。


遠く、山の方角で咆哮が返った。ズン、と低いのに荒々しくはなく、合図みたいに。若者が息を呑む。


「……返ってきた」


誰も否定できない。


僕は次の音節を小さく続けた。


「……リ」


その瞬間、視界が白くなり、川の水面が光る。青白い光が柱のように立ち上がり――僕は目を見開いた。


(光の柱)


ユキが息を呑む音がした。輪の中の誰かが膝を折り、別の誰かが歯を食いしばる。水音が、音ではなく“圧”になって、鼓膜の内側を押してくる。


そして、僕の頭の中へ映像が流れ込む。


夜。雨。幼いユキ。母の手。母の表情。優しい。でも、どこか遠い。


母の指先がユキの額に触れ、何かを確かめる。その背後に川。時の川。光。そして、黒い影。


ドラゴン。


ドラゴンが吠える。その吠え方が、泣いているみたいだった。


僕は息を呑む。映像の端に、細い灯りが揺れている。誰かが、祭壇の方角で祈っている――そんな気配。


次の瞬間、映像が途切れた。


現実が戻る。川の水面と夜明け前の冷気、輪の中の人々。


でも、僕の口が動かず、言葉が出ない。


(……何を言おうとした?)


僕は必死に考える。今見た映像を説明しようとする。でも必要な単語が出てこない。雨。川。母。……母?


(母って、なんだっけ)


一瞬、胸が凍った。僕は自分の母の顔を思い出そうとして――輪郭が出ない。ただ温度だけがある。手の温度。抱きしめられた温度。顔がない。


(……持っていかれた)


僕は喉の奥で呻いた。


「ケン様?」


若者が僕を支える。


「……大丈夫」


そう言いながら、自分でも分かる。


大丈夫じゃない。確かに、何かが失われた。


長老が短く言う。


「これが代償だ。見たな」


僕は頷いた。見たのだ。そして、失った。


***


ユキがふらりと膝をついた。


「ユキ!」


僕が駆け寄ると、ユキの顔は真っ白だった。唇が震え、目が焦点を失っている。ユキの指先が、無意識に自分の額へ触れる。映像の中の“母の指先”をなぞるみたいに。


「……お母さん」


ユキが呟く。


「今、見えた。……お母さんが、川のそばで」


僕は息を呑む。同じ映像を見たのだ。共有――共鳴。


ユキは続ける。


「お母さん、笑ってた。……でも、その笑い方が……」


ユキは言葉を探す。


「思い出せない」


その一言が、胸を裂いた。母の笑い方みたいなものまで削れる。


僕はユキの手を握る。温かいのに、どこか遠い。


「今、書こう。……思い出せなくなる前に」


僕は油紙を引き寄せ、炭で乱暴に走り書きをした。


『雨/幼いユキ/母の手/川/光/黒い影(ドラゴン?)』


文字が震える。書きながら、僕は自分が何を書いているのか、どこかで分からなくなりそうで怖かった。


長老がユキの前に膝をつき、静かに言った。


「ユキの母の病は、病ではない」


空気が凍る。若者たちが顔を見合わせる。


「……何だと」


誰かが声を荒げる。


長老は続けた。


「時の食い痕だ。時の川に触れた者は、少しずつ……削られる」


削られるのは、記憶と時間、そして命。


「母は、何をした」


ユキが震える声で聞いた。


長老は目を閉じ、一呼吸おいて言う。


「昔、ユキの家系の者は、川に関わった。――村の願いが強すぎた頃だ」


「願いって、何の……」


若者の一人が言いかける。長老は、答えを飲み込むように唇を結び、ゆっくり開いた。


「生き残る願いだ。守る願いだ。冬に、飢えに、疫に……村は何度も追い詰められた。願いは祈りに変わり、祈りは“誓い”になった」


僕の背中を冷たい汗が流れる。


(ユキの家系)


(特別な理由)


長老はさらに言う。


「守護者――ドラゴンと、時の川が結びついたのもその頃だ。守りたいと願った。守らねばならぬと誓った。その誓いが、川の流れへ触れた」


前に聞いた言葉。でも今日のそれは重い。現実の痛みを伴っている。


「……長老は、何を失った」


僕が言うと、長老の指が杖を強く握りしめた。


「昔の“顔”をいくつも、思い出せん」


その告白が、場を黙らせた。長老は続ける。


「名を言おうとすると、舌が止まる。涙が出るのに、誰に向ける涙か分からん」


ユキが唇を噛む。


「じゃあ、わたしの願いが……また呼んでるの?」


僕はユキの肩に手を置いた。


「呼んでるかもしれない。でも、呼んだのは君だけじゃない。村も、僕も……」


言いながら、僕は震えていた。僕自身が現実を削ってここへ来ている。村のために、ユキのために、そして自分のために。


***


輪の外で、誰かが叫んだ。


「やめろ!」


反対派の老人――あの火の中で、息が途切れたはずの老人が、杖を突きながらこちらへ来る。


生きている。


怒りが生々しい。


「まただ! また、川に触れて……!」


老人の目は、怯えと憎しみが混ざっていた。


「昔もそうだ。願いだ、守るだと騒いで……結局、何が残った。名前が消え、顔が消え、家族が消えた!」


その言葉は、村人たちの心を刺す。誰も否定できない。


僕が母の顔を思い出せなくなった瞬間がある。その恐怖は、嘘じゃない。


老人は、杖の先で地面を叩く。


「お前たちは“代償”と言うが、代償は金じゃない。――自分の中身だ。思い出だ。生きてきた証だ」


老人は一度息を吸い込み、言葉を継いだ。


「わしは、孫の名を忘れた」


村人が小さくざわめく。


「忘れたら困るだろう? 叱りたくても呼べん。抱きしめたくても、誰を抱いているのか分からん。――それでも、お前たちは“村のため”と言えるのか」


言葉が、僕の胸にも刺さった。僕は自分の母を思い出せない。顔がない。名前がない。温度だけがある。


若者が震える声で言う。


「だから、怖いんだ。でも、怖いままじゃ……ドラゴンは止まらない」


別の村人が、喉の奥で呻くように言った。


「止められるなら、止めたい。けれど、止められないなら……せめて選びたい」


「でも、今やらなきゃ村が――!」


若者の一人が言い返す。


「村が、だと?」


老人が笑う。


「村は残る。だが、お前の中は残らん。残らないまま、生きていけるのか!」


僕は唇を噛み、息を吸った。


(残らない)


残らない。僕の現実も、そうなる。


僕は一歩前へ出た。


「……だから、選ぶ」


老人が睨む。


僕は続ける。


「選んで、背負う。代償があるなら、代償を知ってから背負う。知らないまま奪われるのは嫌だ」


「知ったからといって、止められるのか!」


「止められないかもしれない。でも、残す」


僕は油紙の束を持ち上げた。


「書く。共有する。僕が忘れても、誰かが読めるようにする。――それでも足りないなら、次は別の方法を考える」


言いながら、僕は自分の言葉に驚いた。僕はいつから、こんなことを言えるようになった。現実の僕なら、争いを避けていた。でも今は、逃げられない。


ユキが僕の袖を掴む。


「ケン……わたし」


ユキは震えながら言った。


「お母さんを助けたい。村も助けたい。……永遠に、って言ったら欲張りかな。代償があっても」


僕は、その言葉の大きさに息を呑んだ。


「……“永遠”って言葉、重いな」


ユキが、唇を噛む。


「わたし、永遠って……よく分からない」


「分からないのに、背負わせたくない。まずは――今夜を越える。朝を迎える。そういう、ちゃんと数えられる形にしておこう」


言いながら、僕自身がその言い方に縋っているのを感じた。


その言葉は強い。でも危うい。


(強すぎる願いは、強すぎる代償を呼ぶ)


長老が低く言った。


「覚悟は言葉では測れん。だが、今は決めねばならん」


川の水音が、強くなった。逆流が、また始まる。泡が上流へ滑り、石がわずかに揺れる。


僕はその揺れを見つめ、思った。


(この川は、僕らの議論すら待ってくれない)


***


夜明けが近づき、空が少しだけ白む。僕らは川岸を離れ、集会所へ戻る道を歩いた。


足が重い。頭が重い。そして、胸の奥が空洞みたいに冷たい。


(母の顔)


思い出そうとするたび、逃げる。僕は、その逃げ方が“川の流れ”に似ていると思った。掴もうとすると、指の間から滑る。


歩きながら、僕は腕時計を見た。針はちゃんと進んでいる。進んでいるのに、さっきの逆跳ねが頭から離れない。


ユキが隣で、ぽつりと言った。


「……もし、全部忘れたら、どうなるの?」


僕は答えられず、代わりに油紙の束を抱えた。


「忘れる前に、残す。――僕らができるのは、今のところそれだけだ」


ユキは小さく頷き、でも目の奥が揺れている。


集会所へ戻ると、長老はすぐに机を片づけ、油紙を広げた。炭の文字が雑でも、そこには確かに“今起きたこと”が残っている。


長老が言う。


「今日見たものは、夢で終わらせるな。夢は流れる。紙は残る」


僕は頷き、古文書の複写を机に置いた。次の計画を立てろ。ただ触れるだけでは足りない。共鳴を制御しなきゃいけない。


古文書の音節と遺跡、そして祭壇。遺跡で見た、あの青い光。長老とまとめた仮説。“呼び声”か“言葉の鍵”。


「次は……祭壇でやる」


長老が頷く。


「共鳴儀式だ。川の流れを利用し、咆哮の節と音節を繋ぐ。――成功すれば、守護者の言葉が聞ける」


「その前に、準備がいる」


僕は油紙に、新しい項目を書き足した。


『合図:杖三回』『役割:唱える者/支える者/記録する者』『縄:引き戻し用』『止める言葉(全員で)』


「記録は、一枚じゃ足りない」


僕は油紙を二、三枚引き出して重ねた。


「同じ内容を写す。集会所に一つ、長老の家に一つ、祭壇へ持っていくのを一つ。――一つ燃えても、濡れても、残るように」


若者が目を丸くする。


「そんなに……」


「そんなに、だ」


僕は腕時計を見て、針の進みを確かめた。今は普通に動いている。だから余計に怖い。普通の顔をして、奪う。


ユキが、布袋を胸に抱えたまま言った。


「……もし、忘れるなら」


「うん」


「忘れた自分に、言葉を残して。――お母さんのこと、わたしが笑ってたこと、ここに来た理由を」


僕は喉が詰まり、頷くしかできなかった。


若者が不安げに言う。


「止める言葉?」


「誰かが混乱しても止まるように。――同じ言葉を、全員が覚える。覚えられないなら、紙に貼る」


僕が言うと、長老が短く笑った。


「お前は“忘れる”前提で動く。賢いが、悲しい」


僕は笑えなかった。


「失敗したら」


ユキが言った。視線が、僕ではなく古文書に向いている。


長老は答えない。答えは分かっている。失敗すれば、奪われる。より大きく。


「代償は?」


僕が問うと、長老は静かに言った。


「今より重い」


その一言が、背中を冷たくした。


ユキが僕を見る。


「それでも、やる?」


僕は頷いた。やる――ここまで来た。止まったら、村は終わる。ユキの母は戻らない。僕の現実も、ただ削られて終わる。


なら、削られるなら、答えに変える。


僕は古文書の音節を指でなぞり、心の中で繰り返した。呼び声と鍵、守護者、時の川、そして代償。


胸の奥で、水の音がした。


次は、もっと近づく。時の川の中心へ。


それが、僕らの計画になった。


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