第4話: 古文書の声
夢の中で迎える朝の空気は、紙の匂いがした。
エルダー村の集会所。いつもなら人の声が反響する木造の建物は、今日は妙に静かだった。焚き火の煙がまだ天井の梁に残っていて、焦げと湿り気の混じった匂いが鼻の奥をくすぐる。
机の上には、紙が広げられている。
古文書の複写。
遺跡から持ち帰った断片を、村の者が丁寧に写したものだ。字――というより、音を表す記号みたいな刻みが並んでいる。線の太さも、曲がり方も、一定じゃない。規則があるのに、規則だけでは読めない。
僕は椅子に座り、紙の端を指で押さえた。
(これが“守護者”の言葉)
ドラゴンの咆哮。
あれは怒りの叫びだけじゃなかった。
節があり、区切りがあり、言葉みたいに聞こえる。
長老が机の向こうで、黙って紙を見ていた。皺の深い指が、記号の一つをなぞり、止まる。
その傍に、若者が二人。畑や見張りを手伝っていた顔だ。彼らは緊張した面持ちで、紙の上の意味を探そうとしている。
そして、ユキ。
彼女は部屋の隅に座っている。膝を抱えたまま、視線だけが紙へ吸い寄せられていた。
「繋がらん」
長老が短く言った。
「断片はある。だが、意味の鎖が足りん。――昔の村は、これを読めたのだろうが」
“昔の村”。
僕はその言葉の裏側を想像してしまう。
読めた。
でも、読めなくなった。
忘れた。
意図的に、あるいは代償で。
胸の奥が冷える。
「長老」
僕は声を落とした。
「時の川のこと、もう少しだけ教えてほしい」
長老の目が、僕の顔へ向いた。
「……またそこへ行き着くか」
「行き着く。代償があるなら、知らないまま払いたくない」
長老は小さく息を吐いた。
「時の川は、時を運ぶ。記憶を運ぶ。願いを運ぶ。――だが運ぶだけではない。川に触れた者は、その流れへ“差し出す”」
差し出す。
「何を?」
長老は答えない。
沈黙が答えだった。
(記憶だ)
僕は現実で、母の顔が薄れていくのを感じた。
名字が一瞬出てこない恐怖を感じた。
あれは偶然じゃない。
僕がこの世界へ触れるたび、現実の僕から何かが削れている。
机の上の紙を見つめると、紙の白さが急に眩しくなった。
(ここで止まったら、村は燃える)
(進めたら、僕の現実が薄れる)
選択は、簡単じゃない。
でも。
僕はここにいる。
「……ドラゴンの咆哮と、この音節が似てる」
僕は紙の一部を指差した。
「ここ。ここで、息が切り替わる。咆哮も同じ節で区切れる」
若者の一人が眉をひそめる。
「咆哮が……言葉?」
「断言はできない。でも、遺跡で声に出したとき……返ってきた」
長老が頷く。
「それが事実なら、この断片は“鍵”だ」
鍵。
僕は舌の奥で、その言葉の重さを確かめた。
「……試す」
そう言って、僕は紙の記号を目で追った。
声に出すのは怖い。
声に出した瞬間、何が起こるか分からない。
でも、起こらない限り、前へ進めない。
僕は息を吸い、記号の並びを音として形にしようとした。
「……ア、ル……」
喉が震え、音が空気に落ちたその瞬間。
集会所の外の空気が、ぴん、と張った。
静けさの質が変わった。
水音。
遠い流れ。
(時の川……)
僕の頭の奥で、何かが同調した。
“共鳴”。
遺跡で感じた、あの痺れ。
机の上の紙が、ただの紙ではなくなる。
記号が、音になり、音が、道になる。
遠く、山の方角から低い咆哮が返った。
ズン、と地面が震えるような響き。
若者が息を呑む。
「……今の、聞こえたか」
誰もが頷けない。
聞こえたと言えば、村の不安が増える。
でも、僕は聞いた。
確かに、返ってきた。
僕は二つ目の音節を口にした。
「……リ、――」
言い切る前に、舌が止まった。
(……あれ?)
目の前の小皿。
そこに置かれた木片。
さっきまで、それが何か分かっていたはずなのに、名前が出てこない。
木の。
切れ端。
……いや。
(何のための?)
たったそれだけのことが、手の届かないところへ逃げる。
息が冷たくなる。
(これが、前兆)
僕は唇を噛み、無理やり音を続けた。
「……リ」
咆哮が、また返る。
節が一致している。
そして、その一致が、僕から何かを削る。
長老が僕の顔を見て、低く言った。
「……止めろ。今はそこまでにせい」
僕は息を吐いた。
汗が背中を濡らしている。
「今の……代償か?」
長老は答えない。
その代わり、紙の一節を指で押さえた。
「ここに、『守る』と読める部分がある」
若者のもう一人が身を乗り出す。
「守る? ドラゴンが?」
長老は頷き、さらに指を滑らせた。
「だが、守る対象が書かれていない。欠けている。――意図的に削られたか、失われたか」
僕は喉を鳴らした。
(守る対象が分からない)
だから、村人は恐れる。
守護者が守っているものを知らないから、守護者を敵だと見なす。
「ユキ」
僕は振り返った。
ユキの顔色が変わっていた。
蒼白。
目が、遠い。
彼女は小さく首を振り、唇を震わせた。
「……わたし、これ……知ってる気がする」
「何を」
ユキは息を吸い、吐いた。
「音が……ここ、胸の奥で鳴る。昔、聞いた」
昔。
光の柱。
時の川。
遺跡。
彼女の過去は、紙の上の記号と繋がっている。
ユキは続けようとして、そこで止まった。
目が潤む。
「お母さんの顔……さっき、思い出そうとしたのに……」
言葉が途切れ、ユキは両手で口を押さえた。
僕の胸が締めつけられる。
(ユキも、削れてる?)
僕だけじゃない。
時の川の代償は、触れた者全てに影を落とすのか。
長老がユキを見て、低く言う。
「……ユキは特別だ」
「特別って、何だよ」
僕は思わず声を荒げた。
長老は僕を睨み、短く言い返した。
「今は言えん。言えば、彼女を壊す」
壊す。
その言葉が重い。
集会所の外で、風が鳴った。
村の見張りの男が駆け込んでくる。
「長老! ケン様! 遺跡の方角に影が――」
言い切る前に、窓の外が暗くなった。
羽ばたき。
羽ばたきで空気が押し潰され、ドラゴンが来た。
村の上空を、黒い影が横切った。
攻撃はしない。だが威圧があり、息が詰まる。
若者が震え、机の端を掴む。
「……来たのか」
長老が立ち上がり、杖を握った。
「偵察だ。……音に反応した」
僕は喉を鳴らす。
(僕が呼んだ)
古文書の音節と共鳴、そして咆哮。
確かに繋がっている。
外へ飛び出すと、村の外れに人が集まっていた。
皆、空を見上げている。
ドラゴンは遺跡の上空を旋回し、何かを探すように首を巡らせていた。
村も焼かず、家畜も狙わない。
ただ、遺跡へ視線を落とし、地面の匂いを嗅ぐような動きをする。
(探してる。何を?)
僕はユキの顔を見た。
ユキは立っていられず、誰かに支えられている。目は焦点を欠き、唇が青い。
ドラゴンの目が、ユキの方角へ向いた。
一瞬、動きが止まる。
躊躇している。確かに。
(また、ユキを見てる)
僕の胸の奥で、ユキが言った。
「……近い」
「何が?」
「ドラゴンが……近い。遺跡の奥に……行きたがってる」
ユキの声は、意識の底から漏れてくるみたいだった。
ドラゴンは低く唸り、遺跡の方向へ降りかけ、また上がる。
何度も。
まるで、扉の前で迷っている。
(守護者としての制約?)
長老が、僕の横で短く息を吐いた。
「……昔、村の強い願いが守護者を作った」
僕は長老を見る。
長老は空を見上げたまま、続ける。
「守りたいと願った。守らねばならぬと誓った。――その誓いは、時の流れへ触れた」
時の流れ。
時の川。
「触れた結果、何が起きた」
長老は一瞬だけ目を閉じた。
「流れが歪んだ。人は忘れた。忘れねば、生きられなかった」
忘れねば、生きられなかった。
代償。
僕は喉の奥で呟いた。
「だから、今も……同じことが繰り返されるのか」
長老は答えない。
ドラゴンは一度、遺跡の上空で大きく咆哮した。
怒りではなく、呼び声だ。
それは、古文書の節と似ている。
僕の頭の奥が痛んだ。
(また削れる)
でも、今は見なきゃいけない。
ドラゴンの動きと、目と視線。遺跡へ、そしてユキへ。
僕は確信に近いものを掴んだ。
ドラゴンの目的は、村を滅ぼすことじゃない。
何かを守り、何かを探している。
そして、その鍵は――古文書の音節と、時の川の流れ。
ドラゴンは最後にもう一度だけ村を見下ろし、遺跡の上を旋回し、山の方角へ戻っていった。
残されたのは、静寂と、冷えた汗と、ひどく重い疑問。
***
集会所へ戻ると、僕は机に両手をつき、息を整えた。
若者たちはまだ震えている。
ユキは壁にもたれ、目を閉じている。呼吸は浅い。
長老が紙をまとめながら言った。
「仮説を立てる」
「仮説?」
「古文書の音節は、呼び声か、言葉の鍵だ。ドラゴンの咆哮はそれに反応する」
僕は頷く。
「そして、ドラゴンは遺跡を探している。――いや、遺跡の“奥”だ」
長老が続ける。
「次に調べるべきは、時の川だ」
僕の胸の奥で、水音が鳴った。
時の川。
そこに触れれば、答えに近づく。
その代わり、僕の現実が削れる。
僕はユキを見る。
ユキは薄く目を開け、僕の手を掴んだ。
「ケン……わたし、逃げない」
小さい声なのに、強い。僕は頷いた。
「うん。次は、時の川を調べる。――声を聴くために」
紙の上の音節が、急に怖く見えた。
それでも。
僕は指先で、その記号をなぞった。
呼び声と鍵、代償、そして流れ――時の川へ。




