第3話: 真実の片鱗
朝の光は、前よりも冷たく感じた。
カーテンの隙間から差し込む白が、目の奥を刺す。僕は息を吸って、吐いて、それから胸のあたりを確かめるように手を当てた。
痛みが残っている。
胸を貫いた衝撃の残像が、まだ骨の内側で鳴っている気がした。
(死んだ……よな)
夢の中で。
でも、確かに。
あれは「終わり」だった。
僕は枕元のノートを掴み、開いた。昨夜――いや、昨夜じゃない。あの村から戻ってきた“朝”に書いた文字がある。
穀倉。
火。
救出。
間に合わず。
代償。
同じ夢。
僕はペンを探した。
……ペン。
(どこだっけ)
すぐそこにあるはずなのに、一瞬、目と手の連携がずれる。ベッド脇のテーブル。教科書。コンビニの袋。冷えたスマホ。
あった。
ペン先を紙に当て、僕は書き足す。
「死ぬと戻る」
「夢の中で死ぬと、現実の朝に戻る」
「そして眠ると、また同じ村へ」
書きながら、指が震えた。
怖いのは死じゃない。
死んでも戻れる。
それは救いでもある。
怖いのは――戻るたびに、何かが削れていく感覚だ。
僕はふと、思った。
「母さんの顔、どんなだったっけ」
胸の内側がきゅっと縮む。
両親を亡くしたのは幼い頃だ。はっきりした記憶が薄いのは、元から。
でも今のこれは違う。
「元から薄い」のではなく、「今、薄くなった」感覚。
輪郭だけが残り、目の色が出てこない。声の高さが出てこない。笑い方が出てこない。
(……やばい)
僕はノートに書いた。
「現実の記憶が削れる」
「代償」
書いた瞬間、安心する。
怖さが紙の上に移る。
僕は机に額をつけ、しばらく呼吸を整えた。
それでも、頭の奥で水の音がする。
遠い流れ。
時の川。
村の外れの、あの川。
僕はスマホを見た。日付も時間も、いつも通り。僕だけが、いつも通りじゃない。
(今日の夜も、行く)
行かなきゃ。
終わらせるまで、終わらない。
そして、終わらせるためには――戦うだけじゃ足りない。
ドラゴンの躊躇。
ユキを見たときの目。
あれを無視して、ただ倒そうとしたら、もっと代償を払う。
(話せるなら、話したい)
そう思いながら、僕は昼を過ごした。
講義の内容は頭に入らない。自分のノートを見返す。筆跡が自分のものなのに、少しだけ他人みたいだ。
夕方、部屋に戻る。
何度もノートを確認する。
「穀倉」
「火」
「老人」
あの反対派の老人。
火で死んだ。
でも次に戻ったら、生きている。
その事実が、胃の底を冷たくした。
(僕のせいで死んだ人を、僕だけが覚えている)
誰にも分からない。
僕だけが知っている。
その孤独が、僕を眠りへ追い込む。
目を閉じる。
息を吐く。
(同じ夢は繰り返される)
守護者の声が、頭の奥で鳴る。
僕は暗闇に落ちた。
***
湿った土と枯れ葉の匂い。冷たい空気。遠い森のざわめき。
まぶたを上げると、現実より輪郭の濃い森が、すぐそこに立っていた。
同じ森。
同じ風。
同じ――はずなのに。
(……違う)
僕は立ち上がり、周囲を見回した。
木漏れ日の角度が、昨日よりわずかに低い。
足元の落ち葉の重なり方が違う。
それは誤差だ。
でも、この誤差が“進行”だとしたら。
(時の川が進んでる? 逆に進んでる?)
僕は村へ向かって走った。
「執行者様!」
森の中から村人が現れた。呼吸が荒い。顔に焦りが張り付いている。
「ケン様、こちらへ!」
呼ばれるたび、胸の奥が嫌な音を立てる。
(僕は“ケン”で、僕は“執行者”で――)
名札みたいに貼り付けられた役割。
それを捨てたら、村は燃える。
僕は頷き、村の中央へ入った。
集会所の前には、すでに輪ができている。
昨日と同じようで、同じではない。
誰かの立ち位置が半歩ずれている。
誰かの視線が一瞬だけ僕を避ける。
それが怖い。
「やめろ! また儀式だ、執行者だと騒いで……!」
反対派の老人が叫んだ。
生きている。
声も、杖の震えも、生々しい。
(昨日、死んだのに)
僕は喉の奥が詰まった。
老人は昨日と同じ言葉を吐く。
「願いの代償は、金では払えん! 痛みでも払えん! 自分の中の、大事なものが削られていく!」
その“削られる”という言葉が、僕の背中を冷たく撫でた。
老人はユキを睨む。
「子どもを近づけるな!」
ユキが一歩前へ出る。
「お母さんを守りたい。村も守りたい」
その声は昨日より少しだけ強い。
いや、僕がそう聞きたいだけか。
長老が現れ、輪を鎮める。
「静かにせい」
長老の声は変わらない。
でも今日の僕は、長老の言葉の“余白”に耳を澄ませてしまう。
(長老はどこまで知ってる)
(僕のループを、知ってるのか)
長老が僕を見る。
「ケン。おぬしは今日も来たな」
“今日も”。
その言い方に、胸がざわつく。
僕は一歩、長老に近づき、声を落とした。
「長老。時の川を見ましたか」
長老は一瞬だけ瞬きをし、それから視線を逸らした。
「……見た者はおる。だが口にすると、恐れが増える」
言い逃れ。
隠し。
それでも、答えはあった。
(時の川が変だ)
僕は息を吸った。
「僕は、川を見に行きたい」
長老は短く頷く。
「行け。ただし、ユキを一人にするな」
その言葉に、僕はユキを見る。
ユキは僕の袖を掴んだ。
「ケン……一緒に行く」
***
村の外れ。
草の匂い。
朝露が靴を濡らす。
時の川は、そこにあった。
水面は穏やかに見える。
けれど、よく見ると――流れが、ほんのわずかに逆を向いている。
下へ落ちるはずの泡が、上へ滑っていく。
砂が、巻き上がる。
そして、耳の奥に不協和音みたいな水音。
「……逆流してる」
僕が呟くと、ユキが身をすくませた。
「やっぱり。わたしも、見たことがある」
「いつ?」
ユキは視線を落とし、指先を握った。
「小さい頃。村が襲われたあと……夜に、ここへ来たの。怖くて、でも……何か、確かめたくて」
ユキの声は薄い。
「川の向こうに、光の柱が立ってた。空まで届くくらい。――それで、みんなの時間が、ちょっとだけズレたって、大人たちが言ってた」
光の柱。
きっと、これが中心だ。
(ユキの願いが、時の川に触れた)
(それでドラゴンが――)
僕は川の流れを見つめた。
水面に、自分の顔が映る。
現実の僕より、少しだけ目が鋭い。
(ここが境界なんだ)
ふいに、ユキが言った。
「ねえ、ケン」
「なに」
「……ドラゴン、今日、畑のほうから来る。最初は右。次に、火を――」
ユキは言いかけて、口を押さえた。
僕は息を止めた。
「……どうして分かる?」
ユキは首を振る。
「分からない。ただ、そうなるって……胸が言う」
それは予知じゃない。
記憶。
ユキも断片を持っている。
(僕だけじゃない。ユキも“気づいてる”)
僕の背中を冷たい汗が流れた。
ユキはさらに、苦しそうに言う。
「わたしの願いが……呼んでる気がするの。守りたいって思うほど、来る」
「……それでも守りたい?」
ユキは顔を上げた。
「守りたい。だから、逃げない」
それから、言葉を選ぶみたいに、少しだけ目を伏せた。
「……今夜だけでも。明日の朝だけでも、ちゃんと迎えたい」
強い。
でも、その強さが怖い。
願いは強いほど、代償も大きい。
僕はユキの手を取った。
「今日、穀倉を守る。火を出させない」
ユキが目を見開く。
「……穀倉?」
言った瞬間、僕は噛みしめた。
(言いすぎた)
ユキは僕を見て、何かを飲み込むように頷いた。
「……分かった」
そのとき、空気が変わった。
遠くから低い音がして、羽ばたきと咆哮が重なる。ドラゴンが来る。
***
村の外。
畑の向こう。
風が熱を含む。
黒い影が空を裂き、巨体が降りる。
――ドラゴン。
村人たちが叫ぶ。
「下がれ!」
「子どもを!」
僕は息を吸い、手を突き出した。
「止まれ!」
光が飛ぶ。
ドラゴンは避ける。
炎が来る。
僕は覚悟して、光の膜を張った。
熱が膜を叩き、空気が歪む。
(耐えろ……)
村人たちが動く。
桶を運ぶ。
水を溜める。
穀倉の周りに湿った布をかける。
僕は叫ぶ。
「穀倉を守れ! 火の粉を落とすな!」
誰かが驚いた顔をする。
でも、今は構っていられない。
ドラゴンの目が、僕の背後へ向く。
ユキ。
ユキがふらりと膝をついた。
「ユキ!」
僕が振り返る。
ドラゴンが止まる。
躊躇。
確かに。
(お前はユキを見てる)
僕はドラゴンへ向けて叫んだ。
「お前は、何がしたい!」
ドラゴンは答えない。
でも咆哮が、ただの怒りじゃない。
音の中に、節がある。
刻むようなリズム。
(言葉?)
その瞬間、頭の奥が痛んだ。
守護者の声が響く。
『願いの力を使え。――だが代償を忘れるな』
僕は歯を食いしばる。
願いを使えば、守れる。
代償で、僕の現実が削れる。
それでも。
僕は手を胸に当てた。
「願いの力……僕に力を貸してくれ」
光が爆ぜる。
膜が厚くなる。
炎が弾かれる。
そして――
ドラゴンは、穀倉のほうを見た。
尾が振り上がる。
僕は叫んだ。
「今だ! 水を!」
村人たちが一斉に桶を投げる。
水が飛ぶ。
尾が壁を裂く。
火の粉が舞う。
でも、濡れた藁は燃え広がらない。
火は小さい。
村人が踏み消す。
止まった。
(止めた……!)
胸の奥が熱くなる。
同時に、何かがすっと抜けた。
僕は息を呑む。
(……何を忘れた?)
考えようとした瞬間、ドラゴンが翼を広げた。
村外れの遺跡へ向かう。
(遺跡……!)
僕はユキを抱き起こし、言った。
「行く。追う」
ユキは青い顔で頷く。
「わたしも」
***
遺跡は、石と苔の匂いがした。
崩れた柱。
刻まれた符号。
壁に走るひび。
僕は息を整えながら、奥へ進んだ。
ドラゴンの影が、さらに奥へ消える。
その背中は、逃げているというより――導いている。
(見ろ、と言っている?)
僕は足を止め、耳を澄ませた。
遠くで咆哮。
リズム。
節。
ユキがふらつく。
「だいじょうぶ?」
「……うん。ここ、近い。胸が……引っ張られる」
ユキの言葉に、僕は背筋が寒くなる。
「引っ張られる?」
ユキは震えながら言った。
「記憶が……引き戻されるみたい」
そのとき、遺跡の壁の一部が微かに光った。
青白い。
水面の光みたいな色。
僕が触れると、指先が痺れた。
(共鳴……?)
ユキが膝をつき、息を荒くする。
「ユキ!」
僕は支え、壁の符号を見た。
それは文字じゃない。
でも“音”を表している。
そう直感した。
隠し扉。
埃をかぶった箱。
中に、古文書。
紙は薄く、古い。
僕は息を呑み、開いた。
そこに書かれていた。
『守護者』
ドラゴンの絵。
そして、音節。
(ドラゴンが……守護者)
喉が乾く。
僕は試しに、音節らしき記号を声に出した。
「……ア、ル、……」
言いかけた瞬間、遺跡の奥で咆哮が返った。
同じ節。
同じリズム。
僕の背中を、鳥肌が走る。
(繋がった)
ドラゴンは言葉を持っている。
そして、僕はそれに触れられる。
その瞬間、頭の奥がずきんと痛んだ。
視界の端が白くなる。
(……代償)
僕は必死に踏みとどまった。
ユキの手を握りしめる。
ユキは薄く目を開け、言った。
「……ケン。今の、ドラゴンの声……怖くない」
僕は頷いた。
「うん。……怒ってるだけじゃない」
僕は古文書を抱え、ユキを支え、遺跡を出た。
村へ戻る途中、ふいに僕は思った。
(僕の大学……どこだっけ)
心臓が跳ねる。
(……え)
東京近郊。
駅。
アパート。
その“場所の名前”が、出てこない。
(思い出せないわけじゃない。……ただ、遠い)
指の間から砂が落ちるみたいに、現実がこぼれていく。
僕は唇を噛んだ。
(これ以上はまずい)
でも、止まれない。
***
夜。
集会所。
焚き火の光が、皆の顔を赤く染める。
僕は古文書の断片を、長老の前に置いた。
長老は静かに目を通し、深く息を吐く。
「……やはり、残っておったか」
「長老は知ってた?」
僕が問うと、長老は目を細めた。
「知っていることもある。知らぬこともある。時の川は、すべてを語らん」
曖昧だ。
でも、否定しない。
長老は古文書の一節を指でなぞり、言った。
「ドラゴンは“守護者”と記されている。だが守るものが何か、民は忘れた」
「忘れた……」
僕は呟く。
忘れた。
代償で。
あるいは、意図的に。
反対派の老人が焚き火の向こうで睨む。
「……また文字遊びか。そんなものが命を返すか」
その声に、誰も強く言い返せない。
僕は言った。
「返せない。でも……次は奪わせない」
老人が鼻で笑う。
「言葉は簡単だ。代償は簡単じゃない」
僕は頷いた。
簡単じゃない。
だからこそ、僕が背負う。
ユキが僕の隣に座った。
「ケン。……わたし、思い出した」
「なにを」
ユキは焚き火を見つめ、言った。
「光の柱を見たとき、川の音が変わった。――今と同じ。逆に流れてるみたいに」
僕は息を呑んだ。
時の川。
逆流。
ループ。
全部、一本の線になる。
僕は古文書を握りしめた。
「ドラゴンと話す」
ユキが僕を見る。
「話せるの?」
「……分からない。でも、咆哮は言葉だ。古文書がそれを教えてる」
長老が静かに言った。
「対話を望むなら、川を利用せよ。時の川は音を運ぶ。記憶を運ぶ。――代償も運ぶ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は理解した。
(時の川に触れれば、もっと削れる)
でも、触れないと届かない。
僕はユキの手を取った。
「次のループで、試す」
ユキが頷く。
「わたしも。……一緒に」
その瞬間、胸の奥で水音が強くなった。
流れ。
巡り。
そして――
視界が暗くなる。
頭が落ちる。
地面が近づく。
(……また?)
僕は自分の身体が、勝手に“終わり”へ引っ張られるのを感じた。
息が吸えない。
音が遠い。
(やめろ。まだ――)
次に見えたのは、闇。
***
「……っ!」
僕はアパートのベッドで飛び起きた。
現実の朝。
心臓が暴れる。
僕はノートを掴み、ページをめくる。
古文書。
守護者。
音節。
時の川。
書く。
書いて、繋ぎ止める。
ペンを握った瞬間、僕はまた一瞬止まった。
(……僕の名字、なんだっけ)
喉が凍る。
次の瞬間、思い出した。
佐藤。
佐藤健。
出てきた。
でも。
出てきたこと自体が、恐ろしい。
“出てこない可能性”が、現実になり始めている。
僕は震える手で書いた。
「記憶は削れる」
「削れた分だけ、真実に近づく?」
答えはない。
でも、やる。
次の夜、僕はまた眠った。
***
森の匂い。
冷たい空気。
同じ村。
同じ声。
「執行者様!」
「ケン様!」
僕は胸の奥で誓った。
次は。
次は、時の川の流れを使って、ドラゴンの声を拾う。
戦うだけじゃない。
声を聴く。
ユキが僕を見上げる。
「ケン。次は……一緒に」
僕は頷いた。
「うん。次こそ、真実の片鱗を掴む」
遠くで水音がした。
時の川。
その流れは、僕の記憶と引き換えに、答えへ続いている。




