第2話: 願いの代償
朝の光は、いつも現実から始まる。
カーテンの隙間から差し込む白い光に目を細めながら、僕は枕元のノートへ手を伸ばした。昨夜――いや、夢の中で聞いた言葉が、まだ胸の奥で湿ったまま残っている。
エルダー村。
ユキ。
ドラゴン。
守護者。
そして、時の川。
ノートに書いた文字を見つめるだけで、森の匂いが蘇りそうだった。
(本当に、夢だったのか)
手のひらを開いても、光球は浮かばない。指先をいくら見つめても、現実は現実のままだ。
だけど、怖いくらい鮮明だった。
大学へ行き、講義を受け、アルバイトへ向かう。いつもの流れのはずなのに、頭の片隅に森の音が居座っている。友達がいない僕にとって、夢の中で誰かに名前を呼ばれた感覚は、しつこいほどに甘かった。
駅前のコンビニで、僕は小さく「おはよう」と言ってみた。返事は返ってきたのに、それだけで胸がきゅっと縮む。相手の顔をまともに見られない自分が、情けなかった。
昼休み、ノートを開いてレポートの続きを書こうとしたとき、また一瞬、指が止まった。
昨日聞いた、教授の苗字。
そんな、どうでもいいこと。
(たしか……)
思い出そうとした瞬間、脳の奥に薄い霧がかかったみたいに、答えが遠のいた。思い出せないわけじゃない。二歩先の言葉が、すこしだけ遅れてやってくる。
妙な感覚だった。
(疲れてるだけか?)
そう言い訳をして、僕は講義室の窓から外を見た。
現実のざわめきは、夢よりずっと乾いていて、どこにも引っかからずに流れていった。
夜。部屋に戻ってベッドに横たわると、胸の奥が勝手に期待へ傾いた。
また行けるのか、あの村へ。ユキは無事だろうか、長老は何を知っているのか、ドラゴンはなぜあんなふうに――。
(同じ夢は繰り返される)
守護者の言葉が、警告なのか、約束なのか分からないまま、僕は目を閉じた。
***
土と葉の匂いと冷たい空気、森の音。
目を開けた瞬間、世界は現実よりも濃い色でそこにあった。
同じ森。
同じ風。
それでも昨日とは微妙に違う。木漏れ日の角度が、ほんの少しだけずれている。足元の落ち葉の重なり方も違う。
(……また来た)
僕は息を吐き、胸の鼓動を落ち着ける。
森の向こうに、村の屋根が見えた。
走る足音。
人の気配。
「執行者様!」
森の中から村人たちが現れた。顔に刻まれた疲れは、昨日より濃い。
「ケン様、こちらへ!」
呼ばれるたび、僕の中の現実が少し遠のく。
村へ向かう道すがら、畑の畝の傷が目に入った。焦げた跡。踏み荒らされた土。急いで直した木柵の歪み。
「……これ、全部ドラゴンのせい?」
僕が聞くと、案内役の男が唇を噛んだ。
「はい。畑を壊し、家畜を奪い、火を――」
言いかけて止まる。
「火?」
「……まだ、村を焼くほどではありません。でも、いつでもできるぞ、と見せつけるように」
恐怖を与えるための行動。
ただの獣じゃない。
(象徴的な意味がある……って、長老も言ってたな)
村の中央へ着くと、人が集まっていた。
集会所――木造の建物の前に、村人たちが輪を作り、低い声で言い合っている。子どもを背に負った女が泣きそうな顔で立ち尽くし、若い男が拳を握りしめ、老人が杖を床に叩いて怒鳴っていた。
「やめろ! また儀式だ、執行者だと騒いで……!」
その老人は、目の奥に怒りより深い疲れを抱えていた。声が震えている。
「昔、同じことを言った者がいた。願いだ、救いだと。結果はどうだ。家族を失った。名前も、顔も……思い出せなくなったんだ!」
周囲が静まる。
誰も、その言葉を否定できない。
「おじいさん……」
誰かが声をかけるが、老人は首を振った。
「願いの代償は、金では払えん。痛みでも払えん。自分の中の、大事なものが削られていく。――そんなものに、子どもを近づけるな!」
「昔もそうだ。『川』に触れて、願いだ救いだと騒いで……結局、残ったのは穴だけだ!」
老人の視線が、集会所の隅に立つユキへ向いた。
ユキは小さな身体を強くこわばらせ、拳を握っていた。
「……わたしは」
ユキが一歩前へ出る。
「わたしは、お母さんを守りたい。村も守りたい。ここは、みんなの場所だから」
ユキは言いかけて、喉の奥で言葉をつかまえ損ねた。
「ずっと、って……言いたいのに、うまく言えない。……でも、今夜を越えたい。明日の朝がほしい」
震えた声だった。それでも逃げない。
「守りたい、って言ったって――!」
老人が叫ぶ。
ユキは唇を噛み、目を潤ませた。
「……昔、村が襲われたとき、わたしは何もできなかった」
周囲の空気が変わる。
ユキは続けた。
「外から来たものが、火をつけて、みんなが走って……お母さんがわたしを抱いて、土の上に伏せて……。わたし、泣いてばかりで、助けてって言うだけで、何も……」
その光景を思い出しているのか、ユキの声が途切れる。
「終わったあと、村は残った。でも、残っただけ。みんな、傷だらけで。わたしは――あのときのこと、ずっと忘れたくないのに、時々……ぼんやりする」
彼女の言葉は幼いのに、背負っているものが重い。
(ユキの願いは、永遠の幸せじゃなくて……『失いたくない』なんだ)
胸が締めつけられる。
そのとき、長老が集会所の奥から姿を見せた。
「静かにせい」
低い声が、輪の中心へ落ちる。
老人も口を閉じた。
長老は僕に視線を向ける。
「執行者よ……いや、ケンと呼ばれておるのだったな」
「……はい」
「民の恐れも、怒りも、正しい。だが恐れだけでは村は滅ぶ。希望だけでも村は滅ぶ。――両方を抱えねばならん」
長老はそう言い、老人へも視線を向けた。
「おぬしの嘆きは、村が忘れぬ。だが今、ドラゴンがいる。見ないふりをしても、去りはせぬ」
老人は歯を食いしばり、杖を握り直す。
「……だからといって、また代償を」
「代償を払わずに願いは叶わぬ」
長老は断言した。
その言葉が、僕の胸にも刺さる。
(代償……)
現実で、ペンの色が一瞬出なかった。
あれは、偶然じゃないのか。
長老が僕に近づき、声を落とした。
「ケン。おぬしは昨日、この村を見た。ユキの倒れるところも」
「……見ました」
「ドラゴンが近づくと、ユキは意識を失う。昔からだ。理由は……まだ語れぬ。だが覚えておけ。ユキは特別な存在だ」
昨日と同じ言葉。
だけど、今日は重みが違う。
長老はさらに言う。
「ドラゴンの行動は、ただの破壊ではない。村を試している。団結を促す試練だ、と言い伝えもある」
「試練……」
僕が呟いたとき、集会所の外で悲鳴が上がった。
「来るぞ!」
「森のほうだ!」
空気が一気に張り詰める。
村人たちが走る。
ユキが僕の袖を掴んだ。
「ケン……」
その声に、僕は頷いた。
「守る。まず、目の前の人を守る」
***
森の縁、畑の向こうで、風が変わった。
熱を含む、乾いた風。
地面が微かに震え、遠くから重い羽ばたきが響く。木々がざわめき、鳥が一斉に飛び立つ。
――ドラゴン。
それは、想像よりも大きかった。
黒い鱗は鈍い鉄のように光り、角ばった頭が空を裂く。翼が広がるたび、風が渦を巻き、土が舞い上がった。
「……うそだろ」
恐怖が足元から這い上がる。
村人たちが叫ぶ。
「下がれ!」
「子どもを!」
「ケン様!」
僕は一歩前へ出た。
手のひらが熱い。
光が滲む。
(やるしかない)
僕は深く息を吸い、手を突き出した。
「――止まれ!」
光が矢の形になって飛ぶ。空気を裂くような音。
ドラゴンは、ほんの少し首を傾けた。
そして、軽々と避けた。
矢は地面に刺さり、土を爆ぜさせる。
「……効かない?」
次の瞬間、ドラゴンが炎を吐いた。
熱が襲い、視界が赤く染まる。
僕は咄嗟に地面へ転がり、焼ける空気を避けた。頬が熱い。髪の先が焦げる匂いがする。
「くそ……!」
立ち上がろうとした瞬間、ドラゴンの影が覆いかぶさる。
鱗の隙間から見える目。
そこに、怒りだけじゃないものがあった。
迷い。
いや、躊躇。
(なに……?)
ドラゴンが次の炎を吐こうとした――そのとき、視線が一瞬だけ、僕の背後へ向いた。
ユキのいる方向。
ドラゴンの動きが止まる。
「……ユキ?」
僕が振り返った瞬間、ユキがふらりと膝をついた。
「ユキ!」
村人が支える。ユキの顔が真っ白になる。
「まただ……ドラゴンが近づくと」
ドラゴンは、ユキを見つめるように首を傾けた。
まるで、確かめるように。
その瞬間、僕の頭の奥で鈍い痛みが走った。
視界が揺れる。
胸が苦しい。
そして、あの声。
『願いの力を使え。――だが代償を忘れるな』
守護者。
僕は歯を食いしばる。
「代償って……何を」
返事はない。
目の前で、炎が畑を舐める。村人が悲鳴を上げる。
このままでは、村が焼ける。
(僕がやらなきゃ)
僕は手のひらを胸に当てた。
ユキの願い。
村の願い。
僕自身の、誰かのために立ちたい願い。
それらを一つにまとめるように、息を吸う。
「願いの力……僕に、力を貸してくれ」
次の瞬間、光が爆ぜた。
眩しい白。
風が逆流する。
ドラゴンの前に、光の膜が展開した。炎が膜にぶつかり、弾かれる。熱は残るが、直撃は防げる。
「今だ! 下がれ!」
僕は叫び、村人たちを柵の内側へ押し込む。
ドラゴンが一歩後退した。
勝てた、と思った。
――次の瞬間までは。
ドラゴンは尾を振り抜いた。
その一撃で、村の外れにある穀倉の壁が裂けた。乾いた藁が飛び散り、そこに火の粉が落ちる。
炎が走る。
「火だ!」
「穀倉が!」
村人たちが一斉に駆け出した。
ドラゴンは翼を大きく広げ、上空へ退いた。逃げるというより、見下ろしている。
(わざとだ……)
恐怖を植え付ける。
団結を試す。
長老の言葉が、現実になっていく。
***
穀倉の火は速かった。
乾いた木。
乾いた藁。
炎は一瞬で屋根を這い、黒い煙が空へ伸びる。
「水を!」
「桶を回せ!」
村人が叫び、井戸へ走る。
僕も走った。
喉が焼ける匂い。目が痛い。熱で息ができない。
(止めろ……止めないと)
僕は手のひらを掲げ、光を絞り出そうとした。
けれど、さっきの光の膜を維持した反動が、全身に襲いかかってくる。
腕が重い。
膝が震える。
精神が、擦り切れるように痛い。
「ケン様!」
村人が僕を呼ぶ。
「中に……中に人が!」
穀倉の扉の向こうで、咳き込む声がした。
僕は迷わず走り、扉へ体当たりした。
熱が頬を叩く。
煙で視界が白い。
「誰かいるのか!」
返事は咳だけ。
僕は手探りで中へ入った。
藁が燃え、床が熱い。屋根が軋む。
奥に、倒れ込んだ影が見えた。
「……こっちだ!」
僕は肩を掴み、引きずる。
相手は重い。
息が荒い。
外へ出ようとした瞬間、梁が落ちた。
轟音。
目の前が火花で埋まる。
僕はとっさに身をひねり、相手を庇った。
熱が背中を焼く。
痛い。
(間に合え……!)
村人たちの手が伸び、僕らを外へ引きずり出した。
冷たい空気が肺に入った瞬間、僕は膝から崩れ落ちる。
周囲では泣き声が混ざり、叫びが飛び交う。
「助かったのか……?」
僕は隣を見た。
引きずり出した相手――さっき集会で叫んでいた反対派の老人だった。
老人は、胸が上下していない。
手が冷たい。
「……うそだろ」
村人が泣き叫ぶ。
「おじいさん!」
「起きて!」
僕は息を呑み、指先を握りしめた。
(僕が……間に合わなかった)
守ったつもりだった。
ドラゴンを退けたつもりだった。
なのに、炎は村も人も奪った。
その瞬間、僕の頭の中がふっと白くなった。
何かが抜け落ちる感覚。
目の前の老人の顔が――どこかで見た誰かに重なる。
(……誰だっけ)
ありえない。
今、目の前で死んでいる人なのに。
僕は顔の輪郭を必死に脳へ刻もうとする。
だけど、輪郭が指の間から砂のようにこぼれる。
(これが……代償?)
胸の奥が冷たくなる。
僕は立ち上がろうとして、よろめいた。
足元が崩れる。
世界が傾く。
疲労ではない。もっと根深い消耗。
「ケン様!」
誰かが支える。
僕はその腕に掴まりながら、喉の奥で呟いた。
「……僕は、何を失ってる?」
返事はない。
ただ、遠くで水の音がする。
森の奥で。
流れる音。
(時の川……?)
***
夜。
村は静かだった。
燃え残った匂いが、風に乗って漂う。焚き火は小さく、皆の顔は火に照らされて暗い。
僕は集会所の隅で、壁に背を預けていた。
体が重い。
目の奥が熱い。
眠ってはいけない気がするのに、瞼が落ちる。
ユキが近づいてきた。
「……ケン」
声が小さい。
「ごめんね」
「謝るな」
僕は言った。
「君のせいじゃない」
ユキは唇を噛む。
「でも、わたし……ドラゴンが来ると、頭が白くなる。動けなくなる。わたしが……邪魔だから」
「邪魔じゃない」
言い切った。
僕自身が、さっき感じた。
ドラゴンはユキを見て躊躇した。
あれは偶然じゃない。
「むしろ、君が鍵だ」
ユキが目を見開く。
「鍵?」
「まだ分からない。でも……ドラゴンは君に反応した。長老も言ってた。君は特別だって」
ユキは俯き、手を握りしめた。
「特別って、こわい」
「……うん」
僕も同じだった。執行者と言われ、力を与えられ、代償まで背負わされる。
特別なんて、祝福じゃない。
長老が近づいてきた。
「ケン」
低い声。
「今日、願いを使ったな」
僕は頷く。
「……代償を感じた」
長老は目を細める。
「ならば覚えておけ。願いの力は、ただの力ではない。時の流れと繋がっている。時の川の伝承は、ただの昔話ではない」
「時の川が……?」
長老は頷きかけ、そこで止めた。
「今は言えることが少ない。だが、代償は小さいうちに気づけ。大きくなってからでは遅い」
その言葉を聞いた瞬間、僕の視界が急に暗くなった。
胸の奥で、水の音が膨れ上がる。流れが、僕の内側を引きずっていくみたいに強い。
頭が落ちる。
地面が近づく。
――痛み。
胸を貫くような衝撃。
息が、吸えない。
誰かが僕の名を呼んでいる気がする。遠くて、薄くて、手の届かない声。
(……なにが)
理解が追いつくより先に、僕の中で結論だけが落ちた。
(ああ。僕は今、この夢の中で――死ぬ)
次に見えたのは、闇。
そして、遠い水音。
流れ。
巡り。
***
「……っ!」
僕はベッドの上で飛び起きた。
アパート。
天井のシミ。
現実の朝。
息が荒い。手が震えている。
(夢……だった? いや、さっきまで――)
スマホで時間を確認する。いつもの朝。
でも胸の痛みが、まだ残っている気がした。
僕は枕元のノートを掴み、ページをめくった。
昨日書いたはずの文字が、ぼんやりと霞んで見える。
(……僕、こんな字で書いたっけ)
不安が背中を撫でる。
それでも、書く。
穀倉の火。
救出。
間に合わなかった。
悔しさだけが残る。
代償。
僕は唇を噛んだ。
(終わらせないと)
守護者の声が言った。
叶えられぬ願いが残れば、同じ夢は繰り返される。
僕はその夜、恐る恐る眠りについた。
***
森の匂い。
冷たい空気。
そして――同じ村。
同じ道。
同じ集会所。
「執行者様!」
「ケン様!」
声が、昨日と同じ。
だけど、微妙に違う。
誰かが言い回しを変えている。
誰かの立ち位置が、半歩ずれている。
僕の胸の奥に、嫌な既視感が膨らむ。
(……戻ってきた)
(同じ夢だ)
(繰り返してる)
恐怖より先に、焦りが来た。
時間がない。
村を救わないと終わらない。
でも、代償で僕の記憶が削られていくなら――僕はいつまで僕でいられる。
村人の輪の中で、反対派の老人が昨日と同じように叫んだ。
「やめろ! また儀式だ、執行者だと騒いで……!」
僕は、その声を聞きながら思った。
次は。
次は、穀倉を燃やさせない。
次は、誰も死なせない。
そのために、僕はこの世界で“執行者”をやる。
ユキが僕を見上げる。
「ケン。次は……わたしも、一緒に」
声は弱いのに、眼差しは強かった。
「お母さんを守るためにも、村を守るためにも。わたしも、手伝わせて」
僕は頷いた。
「一緒にやろう。次こそ……終わらせる」
胸の奥で、水の音がした。
遠い流れ。
時の川。
その名が、僕の中で“代償”という言葉と結びつき、静かに重く沈んでいった。
明日以降、年末まで毎朝9時に投稿予定です。




