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夢の願い――異世界で英雄になる代償に、僕は現実の記憶を失っていく  作者: プロンプト時雨


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第1話: 夢の扉が開く時

東京近郊の、駅から少し歩いたところにある古いアパート。外階段の鉄は少しだけ錆びていて、夜になると街灯の明かりを受けて鈍く光る。僕の部屋は二階の端で、隣の生活音は薄い壁越しに伝わるのに、会話だけは一度も交わしたことがなかった。


僕の名前は佐藤健。二十歳の大学生だ。


朝はスマホのアラームで目を開ける。カーテンの隙間から差し込む光は、いつも同じ角度で、いつも同じ強さで、寝ぼけた目の奥に刺さる。ベッドの脇に置いてある安い折り畳みテーブルには、教科書と、レポート用のノートと、コンビニでもらった箸が散らばっていた。


「……起きるか」


言葉にしても部屋は返事をしない。エアコンの風だけが、乾いた音を立てている。


大学へ行く。授業を受ける。アルバイトに行く。帰る。


それだけのはずなのに、日によって心が妙に沈む。みんなが「普通」と呼ぶ生活の中に、どうして僕だけが置いていかれている気がするんだろう。


大学のキャンパスは人で溢れている。昼休み、ベンチで笑い合うグループ。学食の行列。講義室で肩を寄せ合いながらスマホを覗きこむ二人。


僕はそこにいるのに、そこにはいない。


そんな感覚だけがいつも胸の奥に残った。


授業中、教授の声は遠い。板書のチョークが黒板を擦る音だけが耳に残る。ノートを取ろうとペンを握っても、指先が冷たい。


(いつからだろう。人と話すのが、こんなに面倒になったのは)


幼い頃に両親を亡くしてからだ、なんて言えばわかりやすい理由になる。だけど、そうやって理由を手に入れた瞬間、僕は自分の人生を「仕方ない」で片付けてしまう。そんなことに慣れたくなかった。


夜、アルバイトから帰ると、玄関に置いた靴がすこしだけ濡れていた。雨上がりの道路の匂いが、部屋まで追いかけてくる。シャワーを浴び、適当に晩ご飯を済ませて、スマホを開く。


タイムラインには、知らない誰かの幸せが並ぶ。指で流すたび、自分の部屋の静けさが際立った。冷蔵庫がうなり、外の車が通り、どこかの部屋でテレビが点く。


でも、僕の周りには、僕に向けられた声がない。


その夜も、ベッドに横になった。


枕元には、レポートの下書きが開いたままのノート。そこに挟まった赤と青のペン。どちらもインクの減り方が中途半端で、僕はいつも「今度まとめて買おう」と思って、そのままにしていた。


(このまま、何も変わらずに……)


ふと、胸の奥で何かが疼いた。


変わりたい。


だけど、どうやって。


目を閉じる直前、天井の薄いシミが目に入った。まるでそこから別の世界が滲み出してくるみたいで、僕は小さく息を吐く。


「……また、あれを見るのか」


最近、毎晩のように同じ夢を見る。


最初はよくある、現実の断片が混ざった夢だと思っていた。だけど回数を重ねるほど、夢は現実よりも鮮明になっていった。肌に触れる風の冷たさ。土の匂い。胸の鼓動。


夢の中で感じた感情が、朝になっても残る。しかもそれは、嫌な残り香じゃなく、どこか心を温める熱だった。


(現実逃避? それとも……何かの暗示?)


わからない。ただ、わからないままでも、僕はその夢を待ってしまっている。


目を閉じて、深く息を吸う。


そして、眠りへ落ちる。


***


最初に鼻をくすぐったのは、湿った土と若い葉の匂いだった。


次に、耳を打ったのは、遠い鳥の声。風が枝を揺らす音。どこかで小さな水が流れる、絶え間ない囁き。


まぶたを開けると、そこは森だった。


見上げれば、葉が重なる天蓋が空を隠し、木漏れ日が地面に斑の模様を落としている。空気はひんやりとしていて、肺の奥まで澄んだ匂いが入ってきた。足元には柔らかい苔と落ち葉。踏みしめると、じわりと湿り気が返ってくる。


「……夢、だよな」


声に出すと、自分の声が森に吸い込まれる。


なのに、手のひらに触れる樹皮のざらつきまで本物で、頬を撫でる風まで本物だ。夢のくせに、現実よりも現実らしい。


少し歩くと、木々の隙間の向こうに、赤茶色の屋根が見えた。煙突から細い煙が上がり、畑の畝が整然と並んでいる。人の気配がある。生活の匂いがある。


その瞬間だった。


耳の奥が、きぃんと一度だけ鳴った。


頭の内側に、言葉が落ちてきた。


『汝は、願いの執行者なり』


声ではない。耳で聞くというより、骨の奥から響くような、重い言葉。


「……誰だ」


僕は周りを見回した。もちろん、森には誰もいない。


『ここに導いたのは、守護者。汝に役目を与える』


「役目って……何の」


返事のかわりに、胸の奥が熱くなった。


最初は心臓が強く打っただけかと思った。けれど次の瞬間、腕の内側から光が滲んだ。手のひらの中心が、じんわりと温かい。


「……うそだろ」


指を開くと、そこに小さな光球が浮かんだ。火のように燃えるのではなく、霧のように柔らかく漂う光。触れても熱くないのに、確かに温度がある。


試しに、地面に落ちていた枝に向けて手を伸ばす。


光が流れ、枝は形を変えた。


木の繊維が音もなく組み替わり、短い刃――いや、刃のように尖った木片になった。握っても折れない。硬さが増している。


「……できた」


胸が高鳴る。


夢の中だから、何でもありなのか? それにしても、これはただの妄想とは違う。僕の意志に反応している。


『執行者とは、願いを具現する者』


守護者の言葉は淡々としている。


『選ばれし理由は、汝の奥底に眠る願い。汝が気づかぬほどの、深い願い』


(深い願い……僕に?)


思い当たらない。いや、思い当たらないふりをしているだけかもしれない。


変わりたい。誰かとつながり、必要とされたい――そして、救いたい。


『この世界では、願いを叶えるたび、汝の力は巡る。だが――』


声が少しだけ低くなった。


『叶えられぬ願いが残れば、同じ夢は繰り返される』


「繰り返す?」


『汝が失敗し、願いを閉じられぬなら、扉は閉まらぬ。夢は終わらぬ』


胸がひやりとする。


夢が終わらない? 悪夢みたいに?


「待て。失敗したらどうなる。死んだら? ここで……何かあったら」


返事は、直接的な説明ではなかった。


『時は巡る。巡る時は、流れに似る』


そこで言葉が途切れる。


どこか遠くで、水が流れる音が一瞬だけ強くなった気がした。森の奥の、見えない場所で。


僕は唾を飲み込む。


(ただの夢じゃない。試されてる。……いや、任されてる)


村の方角から、足音が複数近づいてきた。


木々の間から現れたのは、粗い布の服を着た男たちと、籠を抱えた女たち。顔に疲れが刻まれている。僕を見つけると、その目が一斉に大きく開いた。


「……おお」


「本当に……来たのか」


誰かが膝をついた。


「執行者様!」


その呼びかけに、僕の肩が跳ねた。


「え、僕?」


「ケン様!」


別の声が続く。僕の名前が、発音しやすい形に変わっている。なぜか、それが自然に感じた。


「ケン様、どうか……どうか、お願いです」


最初に近づいてきた中年の男が、両手を胸の前で握りしめる。


「ドラゴンが……ドラゴンが村を」


「ドラゴン?」


僕が聞き返すと、男は顔を歪めた。背後にいる者たちがざわめく。恐怖という感情が、群れのように広がっている。


「数日前、山の向こうから現れました。畑を踏み荒らし、家畜を持っていき……昨日は、見張りの若い者が、炎に追われて戻ってきて……」


「炎……」


僕は喉の奥が乾く。


ドラゴンなんて、物語の中の存在だ。現実なら画面の中でしか見ない。


だけどここでは、村人の震える声が「それが現実」だと言っている。


「ケン様、村は小さく、武器もありません。森も畑も、みんなの命の糧です。このままでは冬を越せません……」


「冬?」


僕は思わず空を見上げた。葉は青く、空気は冷えているが、雪の気配はない。けれど村人の顔には、季節より深い「追い詰められた色」があった。


「お願いです。執行者様。願いを……村を救う願いを」


僕は返事に詰まる。


(自信はない。何をすればいい。ドラゴンと戦う? 僕が?)


でも、逃げたら。


逃げたら、現実の僕と同じだ。


ここで何もできなかったら、僕はまた「仕方ない」と言い訳する。


(怖い。――でも、怖いからって、何も変わらない)


「……わかった」


声が震えないように、腹の底に力を入れる。


「僕にできることがあるなら、やる」


村人たちの顔が一瞬だけ明るくなる。だけどその光は薄く、すぐに不安が影を落とす。


「ケン様……」


「ただ、教えてくれ。ドラゴンはどこに。村はどんな状況で、何をすればいい」


男は頷き、背後の者が口々に説明する。


「山の方から現れます」


「森の縁を回って、畑へ」


「音が……地鳴りのような音がして」


「翼で風が巻き起こって……火の息が」


言葉が増えるほど、僕の背中が冷える。


それでも、胸の奥では別の熱が生まれていた。


(怖い。でも……僕は今、誰かに頼られている)


村人たちは僕を村へ連れて行こうとしたが、その途中で、森の奥から細い泣き声が聞こえた。


「……今の、子ども?」


村人の一人が顔色を変える。


「ユキだ……!」


彼らが走り出す。僕も後を追った。


木々の根を跨ぎ、茂みをかき分ける。湿った土が靴の裏に絡む。息が上がる。


やがて、小さな木の下に座り込む白い髪の少女が見えた。


細い肩が震え、手には摘みかけの草が握られている。頬には涙の跡。青い瞳が、森の緑の中で異様に澄んでいた。


「……ユキ」


村人が呼ぶ。


少女は顔を上げた。僕を見て、目を見開く。


「……執行者?」


驚きと、期待と、恐れ。その三つが同時に混ざった声だった。


「僕は……ケン、って呼ばれてる」


僕がそう言うと、ユキは唇を噛んだ。


「ケン……」


呼ばれると、胸の奥が少しだけ温かくなる。名前で呼ばれることが、こんなに実感を伴うなんて。


「どうしたの。泣いてた?」


僕が膝をつくと、ユキは握りしめた草を見下ろした。


「お母さんが……また、息が苦しそうで。今日は森で薬草を探してたの。でも、見つからなくて……」


その言い方が、大人びているのに、ところどころ幼くて、胸が痛んだ。


「村の外れの家にいるの?」


ユキは頷く。


「お母さん、前は笑ってたの。だけど、少しずつ……時間が、削れていくみたいで」


時間。


その言葉に、さっきの守護者の声が背筋を撫でる。


『時は巡る』


ユキは続けた。


「わたし、お願いしてる。ずっとお願いしてる。お母さんが元気になること。村が……みんなが、笑っていられること」


「永遠の幸せ、ってこと?」


僕が尋ねると、ユキは小さく頷いた。


「うん。永遠って、よくわからないけど……今夜を越えて、明日の朝が来て。目が覚めたらお母さんが起きてて。みんなが泣いてなくて。そういうのが、また次の朝にも続けばいい」


願いの形は、子どもの言葉の中で、驚くほど具体的だった。


(僕は……そんなこと、願ったことがあったか?)


誰かのために願う。誰かのために動く。


ユキの瞳は、僕の胸の奥を照らすみたいに真っ直ぐだった。


「ケンは……願いを叶えられるんでしょ」


ユキは、泣き腫らした目で言った。


「執行者って、願いを……形にできるって。長老が言ってた。村の祈りが届いたら、執行者が来るって」


「……僕も、よくわからない」


正直に言うと、ユキは一瞬だけ不安そうに眉を寄せた。


「でも」


僕は言葉を継いだ。


「さっき、手から光が出た。できることがあるなら、やる。君のお母さんのことも、村のことも」


ユキは、すこしだけ肩の力を抜いた。


「……じゃあ、お願い。お母さんを助けて。村も……ドラゴンも」


「ドラゴン?」


ユキは唇を噛み、目を伏せる。


「こわい。だけど……ただのこわいじゃない。胸の奥が、ざわざわするの。ドラゴンの声がすると……頭の中が、白くなる」


村人が顔を見合わせる。


「それは……」


誰かが何かを言いかけて、言葉を飲み込む。


そのとき、森の奥から、低い音が響いた。


空気が震える。


遠雷のような、でも雷よりも重い、地の底から湧き上がるような唸り。


鳥たちが一斉に飛び立ち、枝がざわめき、風向きが変わる。


「……来る」


村人の誰かが呟いた。


次の瞬間、ユキの身体がふらりと揺れた。


「ユキ?」


僕が支えようと手を伸ばしたが、ユキは力が抜けたように崩れ落ちた。


「ユキ!」


抱き留めると、体温が熱い。額に汗が滲んでいる。呼吸は浅く、瞼は震えている。


「ユキ、しっかり――」


ユキの唇がかすかに動いた。


「……だめ……見ないで……」


そして、意識が落ちた。


村人たちが慌てて駆け寄る。


「まただ……ドラゴンの気配がすると、この子は……」


「ケン様、ユキは……特別なんです」


その言葉と同時に、森の向こうで、また唸りが響いた。


僕は背中に冷たい汗を感じながら、ユキの小さな身体を抱えた。


(ユキとドラゴン。何かが……繋がってる?)


その答えはまだ形にならない。ただ、ユキの体温と、森を揺らす音が、僕に「ここから先は引き返せない」と告げていた。


***


村へ向かう道は、先ほど見えた屋根のあたりへ続いていた。


エルダー村。


木の柵が低く巡らされ、畑の土は黒く豊かだ。なのに、ところどころに焦げた跡があり、踏み荒らされた畝が見える。誰かが急いで直したのか、土が不自然に盛り上がっていた。


「……ここまで?」


僕が呟くと、村人が苦笑する。


「はい。ドラゴンは境界を知っているみたいで……村を滅ぼすほどは壊さない。でも、生活を奪っていく」


「わざと……?」


村人は頷く。


「恐怖を与えて、こちらの心を折りに来ているような……」


象徴的な意味。


守護者の声が言っていた言葉が、頭の片隅に引っかかる。


村の中央に近づくと、人が増えた。僕の姿を見ると、誰もが立ち止まり、息を呑む。


「執行者だ……」


「ケン様が……」


僕は視線を受け止めきれず、思わず肩をすくめる。


(現実では、誰も僕を見ないのに)


視線が熱い。期待が熱い。


村人に案内され、木造の大きな家へ入った。香草の匂いと、焚き火の煙。乾いた木の香りが混ざっている。


中には、背筋を伸ばした老人がいた。白い髭が胸元まで伸び、目だけが鋭い。


「……来たか。執行者よ」


声が低い。部屋の空気が締まる。


村人が僕の背中を押すように促す。


「ケン様、長老です」


僕は一歩前へ出た。


「僕は……佐藤健。ここではケンって呼ばれてるみたいで」


「名はどうでもよい」


長老は即座に言った。


「重要なのは、汝が願いを執行できるかどうかだ」


「……願い」


長老の視線が、僕が抱えているユキに移る。


「ユキは……また、か」


長老はため息をつき、そっとユキの額に手を当てた。手つきが慣れている。何度も同じことをしてきた手だ。


「この子の願いは深い。母の命だけではない。村の行く末も――そして、この世界の歪みも」


「歪み?」


僕が聞き返すと、長老は言葉を切った。


「今はまだ、語る時ではない」


そのとき、ユキが小さくうめいた。瞼が震え、ゆっくりと目を開ける。


「……ケン」


かすれた声。


僕は息を吐き、安心する。


「大丈夫? 急に倒れた」


ユキはゆっくりと上体を起こし、周囲を見回した。


「……ドラゴン……近い?」


「今は、遠い。だが、また来る」


長老が答える。


ユキは唇を噛み、僕を見た。


「ケン、お願い。わたし……怖い。でも、逃げたくない」


僕は頷いた。


「逃げない。君のお母さんも、村も……守る」


口にした瞬間、自分の言葉なのに驚いた。


現実の僕は、守るなんて言葉を滅多に使わない。そんな資格があると思えなかった。


でもここでは、言葉が形になる気がした。


長老が、僕の目を見据える。


「執行者よ。村の平和が鍵だ。ドラゴンをただ倒すことが解ではない可能性もある」


「……倒すだけじゃない?」


「ドラゴンの行動には意味がある。力だけでねじ伏せれば、別の歪みが生まれる」


意味深な言い方だった。


僕は聞きたいことが山ほどあった。


守護者とは何か、なぜ僕が選ばれたのか、ユキは何者なのか。


ドラゴンは何を望むのか。


「長老、ユキは……特別だって聞いた」


僕が言うと、長老は視線を逸らさず、ただ短く答えた。


「特別だ」


「それはどういう意味で」


「――いずれ分かる」


また、その言葉だ。


部屋の外で、村人の声が上がった。


「執行者様!」


「ケン様、どうか……」


長老は立ち上がり、扉の隙間から外を見た。


「民は怯えている。怯えは願いを歪ませる。だが、希望がなければ願いは枯れる」


その言葉は、まるで誰かに言い聞かせるようだった。


そして、長老はふと、小さく息を吐く。


「昔、この村の外に『時の川』と呼ばれる場所があると伝えられていた」


部屋の空気が変わった。


村人の一人が息を呑み、別の者が小さく首を振る。


「長老……その話は」


「今、執行者が来た。語る価値がある」


長老は続けた。


「伝承では、あの川は時間を映す。触れれば過去を取り戻す者もいる。だが同時に、何かを忘れる者もいる」


「忘れる……」


僕は思わず呟いた。


「容易に近づくものではない。川は優しくはない。だが、この世界の歪みを知るには、避けて通れぬかもしれぬ」


ユキが、長老の言葉に反応したように肩を震わせた。


「時の川……」


ユキはその名を、初めて聞いたようでもあり、ずっと前から知っていたようでもあった。


僕の胸の奥で、守護者の声が重なる。


『時は巡る』


『同じ夢は繰り返される』


(川……流れ……巡る……)


点だった言葉が、線になりかけていた。


村人が、恐る恐る僕に尋ねる。


「ケン様……本当に、村を救えるのですか」


その声には、期待だけじゃなく、絶望が混ざっていた。救えなければ、もう何も残らない、という目。


僕は深く息を吸い込んだ。


「……救う」


断言したいのに、喉が詰まる。


それでも、言う。


「救うために、ここに来た。方法はまだ分からない。でも……君たちの願いは、僕が受け取った」


不思議と、手のひらが温かくなった。


光球が浮かんだときと同じ感覚。


「ケン……」


ユキが僕の袖を掴む。


「わたしも、やる。怖いけど……お母さんを助けたい。村を、守りたい」


「うん」


僕は小さく笑ってしまった。


現実の僕なら、誰かの前で笑うことすら、こんなに自然にはできない。


なのに今は、ユキの必死さが、僕の中の何かを動かしている。


長老は頷いた。


「執行者よ。最初の夜は、まだ扉の内側に過ぎぬ。だが覚えておけ。願いを背負うとは、代償を背負うことでもある」


「代償……」


長老はそれ以上語らなかった。


ただ、僕の目を見て、静かに言った。


「欲望ではなく、真の願いを見失うな」


その言葉を聞いた瞬間、視界の端が揺れた。


森の匂いが遠のく。


木の香りが薄くなる。


(え……?)


床が消えるような浮遊感。


僕はユキに手を伸ばした。


「待って、まだ――」


指先が空を掴む。


白い光が視界を満たし、音が遠ざかっていく。


そして――


***


「……っ」


目を開けると、天井のシミがあった。


アパートの天井。


現実の部屋。


心臓が速い。喉が乾いている。手のひらに汗。


夢だった。


けれど、夢のはずなのに、森の匂いがまだ鼻の奥に残っている。ユキの体温も、長老の声も、耳の内側にしつこく貼り付いていた。


僕はベッドから起き上がり、枕元のノートに手を伸ばす。


夢を忘れないうちに書かないと――そう思った。最近、夢が濃くなるほど、目覚めた瞬間に一部が溶ける感覚がある。


ペンを掴もうとして、僕は一瞬、指を止めた。


赤と青。


いつもどっちを使ってた?


「……あれ」


自分でも驚くほど、どうでもいいことで迷った。


たったそれだけで、足元が少しだけぐらつく。


(青で書いてたはず……いや、赤だった? 見出しは赤で……本文は青で……)


一秒、二秒。


たったそれだけの空白が、妙に怖い。


結局、僕は青い方を取った。


ノートに、震える字で書く。


――エルダー村。

――ユキ。

――ドラゴン。

――守護者。

――「同じ夢を繰り返す」

――時の川。


書くたびに、夢が現実へ固まっていく気がした。


「……時の川」


声に出すと、喉の奥がひやりとする。


長老の言い方。


触れれば何かを忘れる。


守護者の言葉。


夢は繰り返される。


僕はスマホを手に取った。現実の時間を確認する。いつもの朝。いつもの数字。


なのに、胸の奥だけは、いつもより少しだけ温かい。


(僕は……行くんだろうな。また、あの夢へ)


カーテンを開ける。


街の音が部屋に流れ込む。現実の匂い。現実の光。


それでも、森の木漏れ日は消えない。


大学へ行く準備をしながら、僕はふと思った。


今日、誰かに話しかけてみよう。


ほんの小さな、意味のない会話でもいい。僕の中の扉が、少しだけ開いたのなら。


玄関で靴を履き、ドアノブに手をかける。


そのとき、頭の奥に、昨夜の声がまた響いた気がした。


『――同じ夢は繰り返される』


そして、長老の言葉。


『時の川』


その名が、次に眠る夜の道標のように、静かに胸に残った。


ご一読ありがとうございます。これから健の記憶と引き換えに、物語は大きく動き出します。もし少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります!

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