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第9話 夜の練習、朝のぬくもり

 その日、セーブルは「大丈夫」を何度も言った。


 朝の仕込みでパンを並べるとき、トレイの端が少し傾いて、表面に塗った卵液が光をこぼした。私がそっと支えると、セーブルは笑って首を振る。


「へいき。ちょっと手が寝ぼけてただけ」


 笑っているけれど、目の下の色が薄くない。

 昼のスープに塩をひとつまみ――その手が、ほんの少し多く入れそうになって、私が横から合図する。


「ありがとう、リアノン」


 口では「ありがとう」。次に続くのは「大丈夫」。

 彼女の「大丈夫」は、今日は少し固い音がする。口の中で角張って、舌に当たる感じ。


 レーナちゃんが、皿を拭きながらこちらへ首を傾けた。


「セーブル、眠そうだよ? 少し座ってていいよ」


「ううん、動いてたほうが眠気が覚めるから。だから……大丈夫」


 やっぱり無理をしている感じがする。


「セーブル、少し休んでて。ここは私がやっておくから」


 私がそう言っても、彼女は首を横に振る。


「ありがと。でも、ほんとに平気。……リアノンは、パンの火加減、頼むね」


 強がっている。分かる。分かるけれど、無理にほどくと、ほどけた糸がどこかで切れてしまいそうで、私は「うん」とだけ答えた。


 今日の波は、いつもより少し高かった。皿の音、スープの香草、パンの香り。セーブルは走るように動き、私も走る。走って、走って、やっと夜の静けさが降りてくる。


 片づけを終えると、マルタさんが手ぬぐいで額を拭き、私たちに目を細めた。


「よし、今日はここまで。二人ともよく動いたねえ」


「はい」


「はい!」


 セーブルはいつもより大きな声で返事をして、笑った。

 空元気、と言う言葉を、私は胸の内で噛んで飲み込む。


 部屋に戻ると、布団に体が吸い込まれるみたいに、私はすぐ眠気に落ちた。

 けれど、夜が深くなったころ、窓の外で風が欅の枝を揺らす音に目が覚める。

 横を見た。セーブルの布団が、空っぽだった。


「……セーブル?」


 返事はない。

 私は上着を羽織り、そっと廊下へ出る。宿の木が夜の匂いを吐き、階段の一段一段が微かに鳴った。


 裏口を開けると、月の白いひかりが、庭の草に薄く降りていた。

 そこに、立っていた。

 セーブル。焦げた袖口を握りしめ、まっすぐに。


「……っ」


 私は声を飲み込んで、物陰に身を寄せた。声をかけるべきか、迷いが胸の中で丸くなる。

 セーブルはひとつ息を吸って、吐いた。小さな声で、名前を呼ぶみたいに呟く。


「ファイア……ボール」


 火は、生まれない。

 もう一度。吸って、吐く。

 やっぱり、生まれない。


 肩がわずかに震える。彼女はもう一度、今度は強く。

 空気が紙一枚、歪む。

 次の瞬間、ぱち、と乾いた小さな音。袂の内側で、赤い点がはじけて、すぐ消えた。


「っ……」


 袖の焦げ目が、少しだけ増える。

 セーブルは顔を伏せ、両手で目を覆った。覆った手の隙間から、月の光が細くこぼれる。

 それが、ぽたり、と草に落ちた。


「どうして……」


 風の音に混じって、やっと聞こえるくらいの声。

 彼女は膝を落として座り、背を丸める。

 肩が小さく上下して、また、光が一粒、草の上に落ちた。


「どうして私だけ……」


 風の音に混じって、やっと聞こえるくらいの声。

 彼女は膝を落として座り、背を丸める。

 けれど、そこで終わらなかった。

 涙で濡れた頬のまま、もう一度杖を握り、立ち上がる。


「……もう一回……」


 震える声。

 魔力を通すたび、ぱち、ぱち、と夜の静けさに火花が弾けた。

 失敗するたびに、袖の焦げが広がっていく。

 それでも彼女は、止まらなかった。

 涙の跡を袖で拭って、また構える。

 泣きながら、何度も。


「もう一回……もう一回だけ……!」


 声がかすれる。

 息が乱れて、顔が歪む。

 それでも、彼女の瞳はまだ、光を失っていない。

 火はつかないけれど、あきらめの色もない。


 私は物陰に手をつき、ただ見ていた。

 風が草を撫で、欅が小さく鳴いた。

 泣き声は大きくならない。けれど、確かにそこにある。

 夜は長い。月は静か。私は、祈るみたいに、手を握った。


 声をかけたい。抱きしめて、もう寝よう、と言いたい。

 でも、今はきっと――この涙を、邪魔してはいけない。


 だから、静かに背を向けた。


 宿の裏口に戻るとき、風が背中を撫でた。

 その向こうで、もう一度、ぱち、と小さな音がした。

 月の光が草の上で揺れた。

 振り返らずに、私はそっと扉を閉めた。


 *


 朝。

 《月影の宿》の台所は、いつもの音と湯気でできている。

 パンの生地が膨らむ音。スープの鍋が柔らかく息をする音。

 けれど、セーブルの目が――腫れていた。


「おはよう」


「……おはよう」


 声はいつもの高さ。けれど、まぶたが少し重そうで、目尻が赤い。

 マルタさんは、彼女の顔をひと目見て、ふっと笑った。


「おやまあ、寝不足顔だねぇ。夜風が強かったかい? 今朝はあんたの分、少し楽させてやるよ」


「いえ、できます。私――」


「いいのいいの。焦って手を動かすより、落ち着いて一個ずつ。うちはそういう店さ」


 言い方は軽い。でも、目がやさしい。

 レーナちゃんが、積み上げた皿の向こうからひょいと顔を出す。


「セーブル、パン、私が見てるから。ほらほら、座って一息いれて」


「……ありがと」


 セーブルは少しだけ腰を下ろし、膝の上で手を重ねる。

 レーナちゃんは、パンの焼き色を確かめながら、わざと明るく言った。


「焦げってさ、がんばった証拠ってお母さん言ってたよ。昨日、私のも焦げてたの」


「レーナのは、黒焦げ、だったろう」


「う……焦げは焦げだもん」


「ふふ、そうとも。焦がしたくないなら、火の前に立たなきゃいい。……でも、それじゃいつまでも生焼けだ」


 マルタさんは、パンをひっくり返す私の手元をちらりと見て、目尻の皺を深くした。


「焦がしたっていいさ。焦げるのは、頑張ってる証拠だよ。

 何もしなけりゃ、いつまでも生地のまんま。焼くから、香りが出るのさ」


 セーブルが、少しだけ笑った。

 さっきよりも、目の腫れがやわらかく見える。

 私はパンの向きを変えながら、胸の内側で小さく頷いた。


 昼の波が来て、去って、食器の山が低くなる。

 セーブルは無理をせず、でも手を止めすぎず、静かに体を動かしていた。

 大丈夫、と言わない。その代わりに、小さく「ありがとう」を言う。


 片づけがひと息ついたころ、私はセーブルの隣に立ち、声を落とした。


「セーブル」


「うん?」


「魔法のこと……もう少し、詳しい人に相談してみない?」


 彼女は瞬きをひとつ。

 私は続ける。


「ルイスさんに。昨日のこと、私も一緒に話す。……いいかな」


 セーブルは、指先で焦げた袖を軽くつまんだ。

 短く息を吸って、吐く。

 そして、小さく頷いた。


「……うん」


「夕方、ギルドに顔を出してみよう。ミーナさんもいるだろうし」


「うん。お願い、リアノン」


「任せて」


 レーナちゃんが遠くから手を振る。


「二人とも、水分取ってねー! 今日あったかいよ!」


「はーい」


 私が返事をすると、セーブルも「はーい」と真似をした。

 その声はまだ完全じゃないけれど、朝よりは少しだけ、軽かった。


 窓の向こう、昼の光が石畳の目地で跳ねる。

 私は濡れた布を絞り、台を拭く。

 セーブルは隣で、同じように布を動かしていた。

 並んだ二枚の布が、音もなく台の上をすべっていく。

 水の跡が消えて、木の肌がまっすぐに光った。


「ありがとう、リアノン」


 セーブルの声が、さっきよりはっきりと聞こえた。

 私は顔を上げて「ううん」と笑う。


 たぶん今日は、昨日より、いい日になる。

 そう思えるくらいには、台所の匂いが、あたたかかった。

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