第7話 背中を追う日
朝は、いつも音でできている。
鉄のフライパンが熱を飲む音。パンの生地が焼けて膨らむ、ぷくぷくという息。湯気がカップの縁でほどけるときの静かなさざめき。
私とセーブルは、いつものように《月影の宿》の台所で手を動かし続けた。
朝食の波が引くまで、息を合わせるように黙々と働き、鍋や皿の音だけが私たちの会話みたいに響いていた。
客席から「ごちそうさま」「おかわり」の声が消えはじめるころ、食器の山がようやく低くなる。
洗い桶の水を替え、皿を立てかけ、床を拭き、テーブルを整え――最後に、マルタさんの「よし、午前の休憩にしといで」の一言。
肩の力がふっと抜けたとき、セーブルが袖をまくり直しながら顔を寄せる。
「ね、休憩のとき、行かない?」
「どこに?」
「ギルド。掲示板。……よさそうな依頼、ないかなって」
セーブルの瞳は、眠たい色から、少しだけ冒険色になる。
「休憩時間に依頼は受けられないから、見るだけなら」
「見るだけでも、“冒険者”してる感じ、するもんね!」
そう言って、彼女は皿拭き用の布を器用に畳んで、台の端にぴしっと積んだ。
「レーナちゃん、少し行ってくるね」
客席の方でテーブルを拭いていたレーナちゃんが顔を上げ、「いってらっしゃい、二人とも」と笑って手を振る。
マルタさんも肩にかけた手ぬぐいで額をぬぐい、「鐘が二つ鳴るまでには戻りな」と言ってくれた。
外は、洗いたての空気。パン屋から甘い匂いが流れてきて、石畳の上でほどよく混ざる。
私とセーブルは、肩を並べて歩調を合わせた。
「リアノン、また街の外に出る依頼がしたい」
「私も。……まだ剣がうまく使えないから、難しいのは無理だけど」
「うん。私も魔法……火が、うまく“生まれる前”で止まっちゃう」
「どうしてだろう。私は魔法に詳しくないけど、できる日とできない日があるのは不思議だよね?」
「うん……何でだろう。――でも、まずはギルド!」
セーブルの足取りは、宿の中より半歩大きい。私もつられて半歩大きくする。
ギルドの扉はいつもの重さ。押し開けると、紙と革と、人の匂い。
朝の繁忙は過ぎたらしく、けれどまだ賑やか。掲示板の前で二、三のパーティが頭を寄せ、受付には数人の列ができている。
「取りやすいの、残ってるかな」
「見てみましょう」
掲示板の端に、白地に薄い青の縁取りの札が混じっていた。
手書きの文字が整っていて、目にやさしい。
『初心者講習参加者募集 本日のご案内』
「講習……」
私が札を指でなぞっていると、背後からやわらかな声。
「あら、二人とも」
振り向けば、メガネの受付嬢――ミーナさんが、書類を抱えたまま立っていた。
「休憩中かしら。依頼を見に来たの?」
「はい。掲示板を見に来ました」
「今日や明日で大きな依頼は難しいでしょう? ――それなら、講習を受けてみるのはどう?」
ミーナさんは白い札を指さして、いたずらっぽく片目を細めた。
「怪我を減らすための、はじめの一歩。現役の冒険者が先生としていろいろ教えてくれるわよ」
そのとき。
「ミーナ、帳面見に来た」
奥の扉から、青い外套を肩にかけた男性が現れた。くすんだ金髪を後ろで束ね、目尻に細い皺のある笑顔。
続いて、淡いベージュのローブの青年が杖を横に抱えて出てくる。少し伸びた前髪を指で払い、穏やかな青い瞳でこちらを見る。
「ああ、ちょうどよかった」
ミーナさんが肩をすくめる。
「紹介するわ。――こっちが剣士のバッツ。こっちが魔法使いのルイス。どっちも現役で、講習の先生」
「おう、よろしく。講習を受ける子たちか?」
「はい。えっと……リアノンです。こっちはセーブル」
「よろしくお願いします!」
「おう、元気がいいな」バッツさんが笑って腕を組む。
「俺はバッツ。初心者が生き残るために必要なことや、剣の使い方を教えてる」
ルイスさんも穏やかに頷いた。
「ルイスです。魔法や魔物について教えてるよ。よろしくね」
ミーナさんは書類を抱え直し、三人で自然に半円を作る。
その立ち位置だけで、昔からの呼吸が見えた。言葉を交わす前から、間合いが合っている。
「ねえ、ミーナ。次の枠、空きは?」
「訓練場は今日明日は使われてるわ。でも、明後日の午後なら空いてる」
ミーナさんは手早く帳面を開き、さらさらと指を走らせる。
「二人の予定がよければ、俺たちは明後日で構わないぜ」
「明後日……」
私はセーブルを見る。仕事は? と目で尋ねると、セーブルは小さく頷いた。
「午前の山を片づければ、午後なら来られると思います! ね、リアノン」
「うん。マルタさんに相談してみないとだけど、多分大丈夫だと思います」
「確認して、後で伝えに来ます!」
ミーナさんは嬉しそうに私たちのことを見てくれていた。
バッツさんが、私の手元をちらりと見て言う。
「剣は始めたばかりか?」
「……はい、習ったこともないです」
「じゃあまずは、基本からゆっくりいこう。変な癖が付く前でよかったな」
「癖?」
「まあまあ、楽しみにしときな」
バッツさんは笑った。
「若いのに怪我でもされたら寝覚めが悪いからな。きっちり身につくまで、面倒見させてもらうぜ」
「怖がらせんじゃないわよ」とミーナさんが即座に片肘でつつく。
「こいつ、口は悪いけど腕はいいから安心してね。あんたも新人に無茶はさせないように。返事は?」
「わーってるよ。ただの挨拶だろ」
ルイスさんが合いの手を入れる。
「まあまあ、バッツのことは任せて。さて、今日のところは挨拶だけ。――リアノンさんとセーブルさんだね?」
「はい」
「まずは“怪我をしないためにはどうするか”。そこから明後日一緒に始めよう。講習は一回きりじゃない。何度受けたっていいんだから、納得がいくまで頑張っていこう」
「はい、お願いします」
セーブルの声の奥の、少しだけ固い部分を、ルイスさんは見ないふりをしてくれた。
それだけで、胸のどこかが楽になる。
「ところで」
ミーナさんが帳面を閉じ、ぱん、と軽く叩く。
「三人全員で顔を合わせるの、久しぶりじゃない?」
「そういやそうだな。ミーナがここに“座った”日以来か」
バッツさんが受付台の角を指でとん、と叩く。
「座った、は失礼」とミーナさんが笑う。
「でも、私はここが好きよ。ここから見える“出発する背中”が好き。――あなたたちの背中も、昔は毎日のように見てたのにね」
その言い方に、三人の間の時間が、やわらかく重なった。
私とセーブルは、自然と背筋を伸ばす。
こういう人たちの背中を、いつか追いかけられたら、とまだ少し遠い夢を思う。
「じゃあ、確認が取れたら決まりだな。明後日の午後」
バッツさんが掌をひらりと上げる。
「遅刻厳禁、無理厳禁、見栄厳禁」
「見栄?」
「かっこよく見せようと思うなってこった。どんだけみっともなくても、生きるのが優先だ」
ルイスさんが横で小さく頷く。
「バッツの“みっともなさ”は、いい手本だよ」
「うるせえ、俺はかっこいいんだよ」
「はいはい、かっこいい、かっこいい」
なんだか三人のやりとりを見ていると、ちょっと羨ましい。
お互いが信頼している、そんな雰囲気。
ミーナさんが帳面の端に、二人の名前を書き込む。
インクが紙に染みていくのを、私はしばらく見つめていた。
名前がこの街に、すこしだけ根を張った気がしたから。
「では、明後日の午後ですね」
「うん。裏庭の塀に、白い布を結んでおく。目印になるから」
ミーナさんが受付台から身を乗り出し、私たちの手を両方包むように握った。
「嬉しいわ。ちゃんと帰ってくる人が増えるのが、いちばん嬉しい」
その言葉は、受付嬢の仕事の重さと優しさを一緒に抱えていた。
「では、私たちは戻ります。昼の仕込みが待ってるので」
「ええ、頑張ってね」
「はい」
別れ際。
バッツさんが、気軽に手を上げた。
「忘れんなよ」
ルイスさんは、控えめに手を振る。
「またね」
扉を押し開けると、昼の光がひとつ強くなる。
石畳の上で、私とセーブルは同時に深呼吸をした。
胸の奥に、薄い紙を一枚挟んだみたいな期待がある。薄いけれど、ちゃんと手触りがある。
「明後日、がんばろうね」
「うん。無理をしないように」
「あと、遅刻しない、見栄を張らない」
「だね!」
《月影の宿》に戻ると、レーナちゃんが皿の山に囲まれて「おかえり!」と笑った。
台所の匂いは、朝とはもう違っている。昼のスープの香草が、湯気の奥で少しだけ顔を出す。
鍋の底を木べらでそっとなぞる。焦げつく前に、火加減をひとつ弱める。
明後日の午後、白い布の目印。遅刻厳禁、無理厳禁、見栄厳禁。
口の中で何度か唱えて、私はマルタさんに「戻りました」と声をかけた。
「あの――明後日の午後ですが、冒険者ギルドの講習を受けてきてもいいですか?」
「へえ、講習なんてもんがあるのかい。何にしても、やりたいことがあるなら行っといで」
「はい!」
いつもの返事が、いつもより少しだけ弾んだ。
それだけで、その日のスープは、ほんのすこし美味しくできた気がした。




