第6話 白百合亭で交わした約束
白いカーテン越しの午後の光が、テーブルの上を小さく撫でていく。
私とセーブルは、空になったパフェのグラスを前に、名残惜しそうにスプーンを眺めていた。
「……おいしかったですね」
「うん。幸せの味だったね」
「次はプリンとタルト、半分こで」
「欲張り計画だね!」
ふたりで小さく笑い合う。白百合亭の中はやさしい匂いで満ちて、外のざわめきが布でひとつ和らいだみたいに遠い。
――そのときだった。
ひとつ向こうの丸テーブルで、声の調子がわずかに変わった。
椅子の脚が床を引っかく音。ひと呼吸置いて、低い声。
「だから、契約通りに進めるべきだって言ってるじゃない」
澄んだ女の子の声。落ち着いているのに、奥に硬い芯が通っている。
向かいに座る二人――革鎧の青年と、弓を背負った少し年上の女性が顔をしかめた。
「契約は分かってる。でもよ、依頼人は早ければ追加で払うって言ってたろ。森の北側を回れば一日短い。得だろ」
「危険度が上がる。それに依頼書は東の旧道を通ることって明記してた。あれは村の子どもが毎日使う道でもある――通行の安全確認も兼ねてる。近道で早く終えても、依頼の趣旨から外れる」
「……正論だけ並べるなよ」
青年が舌打ちした。弓の女性も眉間に皺を寄せる。
「現実ってのは、正しいだけじゃ回らないの。あんたが突っぱねて、誰が得したの? 依頼人は早い方が嬉しい。私たちも追加で報酬もらえて嬉しい、でしょ?」
「得と損の話だけじゃない。約束を守るって、そういうこと」
女の子は、少しだけうつむいて、でも視線は揺れなかった。
「旧道に魔物や獣の巣が出来ているかもしれない。私たちは対処できるけど、村の子はできない。報酬のために、明日の誰かを危険にしないで」
短い沈黙。
やがて、青年が椅子にもたれ、肩をすくめた。
「……やっぱ無理だ。お前とは合わない」
「合わない、ね」
「解散だ。今日で終わりにしよう」
弓の女性が淡々と続ける。
「あんたの正義感に巻き込まないでくれる?依頼なんて報酬もらってなんぼでしょ、一緒にやっていけないわ」
「……分かった」
女の子は噛みしめた唇をゆっくり離した。その声は、かすれず、震えなかった。
俯く彼女に青年は硬貨を放り投げるように渡す。
硬貨が落ちる音が、やけに澄んで響いた。
二人は立ち上がり、出口へ。扉のベルが短く鳴って、白いカーテンが少し揺れた。
残った女の子は、湯気の消えたカップを両手で包んだまま動かない。指の節が白い。
やがて、ぽとん、と小さな水音。膝に、一滴の涙が落ちた。
「……リアノン」
隣でセーブルが囁く。
「放っておけません」
「うん」
私たちは椅子からそっと立ち、女の子のテーブルに歩み寄った。明るい店なのに、その席の空気だけが少し薄暗い洞のように見えた。
「……あの」
呼びかけると、彼女の肩が小さく跳ねた。
伏せていたまつ毛が揺れて、青灰色の瞳がこちらを捉える。年は私たちより少し上――十五、六くらいだろうか。腰には細身の剣。背筋は、泣いていても正しい。
「何?」
刺すほどではない、でも棘のある声。
私は一歩だけ距離を取って、テーブルの端に視線を落とした。
「大丈夫ですか?」
「平気」
即答。静かな拒絶。
セーブルが続けて口を開く。
「えっと……お茶、冷めちゃいます」
「放っといて」
きっぱりと切る。短い一言。
そこで私は、思わず息を止めた。彼女は自分の言葉に、すぐ気づいたのだろう。
まつ毛が震えて、目が少しだけ泳いだ。
「……ごめんなさい。言いすぎた。……せっかく、心配して来てくれたのに」
膝の上で、手がぎゅっと重なる。
私は首を振る。
「いえ。……あんなふうに言われたら、私ならうまく笑えないです」
セーブルも小さく頷く。
「私も、胸がぎゅっとして。だから、ただ……声を」
「……変な子たち」
その言い方は、先ほどよりも柔らかかった。
席に空きがある。けれど、私たちは無断で腰かけない。
店の人がこちらに目をやり、気づいたようにポットを持ってくる。
「お代わり、よろしければ。サービスです」
「ありがとうございます」
ポットから立つ湯気が、冷えたカップをもう一度温めた。
「もし……少しだけ、お話しても?」
彼女は逡巡して、カップに視線を落としたまま、微かに頷いた。
「ええ。――座って」
「失礼します」
私とセーブルは、端の椅子に腰をかける。三人の間に、熱のある湯気がふわりと広がった。
声をかけてしまってから、言葉を探す時間がやってきた。
焦ると、良くないことを言ってしまうことがある。
私は、鍋の塩加減を思い出す。ひとつまみ、足りないくらいから。
「さっき……契約通りにって。私、聞こえちゃって」
彼女は一瞬だけ目を上げ、すぐに頷いた。
「そう。依頼は東の旧道を通って安全確認をしつつ荷物を運ぶこと。近道の話が出たから、止めた」
「正しいです!」
「でも“正しい”だけじゃ、駄目なんだって。……そう言われた」
彼女は苦笑とも溜息ともつかない息を吐く。
「彼らの言い分も分かる。私だって、追加でお金をもらえるなら、うれしくないわけじゃない。でも、私は自分が間違っていると思うことをやりたくない」
「冒険者として、正しいと思います」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。
彼女はきょとんとして、それから少しだけ目を細める。
「……あなた、冒険者?」
「はい。まだ数日前になったばかりですけど」
「……あなたの言葉は、まっすぐに聞こえる」
頬が熱くなる。褒められ慣れていない。セーブルが横で嬉しそうに笑った。
「ごめんなさい。自己紹介がまだでした。私はリアノン。こっちは――」
「セーブルです! 見習い魔法使いです!」
「……元気のいい子ね」
女の子が小さく笑う。
その笑いが、泣いたせいで少し鼻声なのが、どうしようもなく愛おしく思えた。
「あなたは?」
「……クレア。剣を使う」
「クレアさん。素敵な名前」
「名前だけはね」
クレアさんは肩をすくめる。
「“正論ばかりで融通が利かない”って、よく言われる。私も、言い方が下手。負けたくないって思うと、どうしても言い方が強くなる。……それで、また離れていく」
彼女は自分の指先を見つめ、言葉を選びながら続けた。
「でも、さっき“放っといて”って言ったのは、違った。あなたたちは――その、善意で」
「もう謝られました。気にしないでください」
私は笑って、テーブルの縁をなぞる。
「……ありがとう」
クレアさんの口元に、ほんの少しだけ力の抜けた笑み。
「クレアさんは、悪くないと思います」
セーブルが、珍しく慎重に言葉を置いた。
「正しいことを言えない人もいる。でも、クレアさんは言えた。……うらやましいです」
「うらやましい?」
「私、魔法がぜんぜん上手く使えなくて。上の兄弟はすごい魔法使いで、――だから、言えないことが多かった。言っても、届かない気がして」
セーブルの視線が、パフェの台座の丸い影を追う。
「でも、今日は言いに来ました。“大丈夫ですか”って。言ってよかったです」
クレアさんは、驚いたようにセーブルを見つめ、それから静かに頷いた。
「あなたのお陰で吹っ切る事が出来た。助かったわ」
「えへへ、たまには勇気を出すのも良いですね」
「その“たまに”を増やすといい」
「はい。がんばります」
店の人がそっと小皿を置く。薄いクッキーが三枚。
「サービスです。よろしければ」
「ありがとうございます」
クレアさんは一枚だけ取って、端から小さくかじった。
砂糖の甘さにか、ちょっとだけ目を細める。さっきまでの強張りが、薄紙を一枚はがすみたいに消えていった感じがした。
「ねえ、クレアさん」
私は、言葉の前に一拍の間を置いた。
「先程も話した通り私たち、冒険者登録をしたばかりです。今日は装備を見て回って、夢を見つけて、ここで甘いものを食べました」
「いい日ね」
「はい。だから、欲張りたい。いつかでいいから、あなたと一緒に依頼に行けたら嬉しいです」
クレアさんは瞬きを一度して、じっと私を見る。
その目に、警戒の光と、ほんの少しの驚きが混ざる。
「……わたし、扱いづらいよ」
「そんな事ないと思います!」
セーブルが即答して、私が慌てて付け足す。
「もしクレアさんが良ければ、ですけど」
「あなたたち、本当に変な子ね」
クレアさんは呆れたように息をついたが、その口元は笑っていた。
「約束だけしとく。――いつか。今は、ちょっと休む」
「約束、ですね」
「重たくしない約束で」
「はい。軽やかな、約束で」
三人で、小さく笑った。
窓の外で、空の色が群青に変わり始める。店内のランプが少し明るさを増し、カップの縁に金の輪が宿る。
白いカーテンが風に揺れて、ランプの光がテーブルの上でゆらゆら踊った。
「……助かった。ありがと」
クレアさんがカップを置く。
「こちらこそ、話してくれて、ありがとうございます」
「話してみたら、少し、胸の中のこぶが小さくなった」
「良かった」
「じゃあ、また今度、プリンでもつつきながら!」
「ふふ……それも良いわね」
「はい!」
店の人がラストオーダーの時間を告げる。
私たちは席を立つ準備をしながら、テーブルの上を整えた。
クレアさんは立ち上がる前に、ほんの短い沈黙をつくる。言葉が見つからないとき、人は沈黙を選ぶ――それを彼女は丁寧に守った。
「名前、もう一度。教えて」
「リアノンです」
「セーブルです!」
「覚えた。……私はクレア」
「はい。クレアさん」
「さん付けは、くすぐったい」
「では、クレア」
「……うん」
扉のベルが、ちりんと鳴る。
外は冷えてきて、石畳が薄く光っていた。
私たちはまだ店内に残り、テーブルに置かれた小皿のクッキーを三等分する。
カップの底に残った温かさを、最後の一口まで味わった。
誰かと別れた直後の涙の匂いと、誰かと出会った直後の温かさが、同じ場所にゆっくり重なっていく。
白百合亭の空気は、その両方をやさしく受け止めてくれる。
――いつか。
軽やかな約束を胸にしまって、私たちの小さな冒険は、また次の頁を開こうとしていた。




