第3話 小さな依頼と、初めての冒険
朝の《月影の宿》は、いつもより静かだった。
“依頼更新日”の朝は、冒険者の人たちが夜明けと同時にギルドへ向かう。だから、食堂の椅子はぽつぽつ空いていて、パンの籠の減り方もおだやかだ。
大鍋のスープを木べらでゆっくりかき混ぜていると、背後で戸棚が開く音がした。
「今日は客も少ないさね」
マルタさんが振り返らずに言う。
「リアノンとセーブルは、昼までで上がりな。出かけておいで」
「えっ、いいんですか?」
「たまには休まないと、いい料理が作れないよ」
「は、はいっ。ありがとうございます!」
セーブルは、ほうきの柄を抱えたまま、ぱっと顔を明るくした。
「ね、リアノン。ギルド、行こ!」
「ギルド……ですか?」
「うん! “依頼の日”の空気、味わってみたい!」
その目は、焚き火の火みたいにわくわくしている。私は、どうしても笑ってしまう。
「……行ってみたい、です。私も」
昼の片付けが済むと、私たちは前掛けを外して通りに出た。
日差しはやわらかく、街の中心に近づくほど、革の音や剣の鞘のぶつかる音が増えていく。
露店の人が「今日は良いもん入ってるよ、見ていきな」と笑って手を振る。
普段は旅人でいっぱいの道が、今日はどこか軽い。
角を曲がった先、石造りの大きな建物の前に人だかりが見えた。
背の高い扉、その上の木製の看板には、羽根と剣を交差させた紋章――冒険者ギルド。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
扉を押して中に入ると、広いホールにざわめきの波が広がっている。
左手には受付の長いカウンター、右手には依頼書がびっしり貼られた掲示板。
冒険者たちは紙切れを前に真剣に眉を寄せ、ときどき小さく笑う。その合間を、職員の人たちが手際よく動いている。
「ここが……ギルド……」
「思ってたより広い! ね、見て、依頼がいっぱい!」
セーブルは掲示板の前まで駆けていき、背伸びして上の方を読もうとしている。
私は一歩だけ遅れて、その背中を追った。
紙には、いろんな字が並んでいた。“街道沿いの落石撤去”“行方不明の家畜捜索”“北の林の魔狼退治”……。
報酬金と締切の文字が、白い紙の上で小さく光って見えた。
――初めて、この場所に立った。
胸の奥が、そっと、温かくなる。
子どもの頃、村に旅の冒険者が来たことがあった。
砂ぼこりまみれのマント、腰の剣、手の甲の古い傷。焚き火のそばで、遠い国の話をしてくれた。
あの時、胸がどくんって鳴った。
“いつか、自分も、どこかへ行ける人になりたい”――そう思った。
けれど、村を失い、家族を失ってからは、夢を口に出すのがこわくなった。
働くことは好き。暮らしを守るのも大事。だから、夢は胸の奥にしまって、今日までやってきた。
でも今、隣でローブの袖を揺らしながら目を輝かせている女の子がいる。
“行こうよ”って、笑ってくれる子がいる。
「いらっしゃい」
声に振り向くと、カウンターの中に優しそうな女性が立っていた。眼鏡の奥の目が、静かに笑っている。
「依頼?それとも見学かしら? “依頼の日”はみんな血が騒ぐから、押されないようにね」
「す、すみません。私たち、今日が初めてで……」
「あら、初めてなの?」
女性は僅かに目を丸くして、すぐ柔らかく微笑んだ。
「私はミーナ。受付の係よ。困ったら、いつでも声をかけて」
「ミーナさん。ありがとうございます。あの……」
言いかけた私より早く、セーブルが手を挙げた。
「冒険者の登録、できますか!?」
「セ、セーブル!」
「だって、せっかく来たんだもん!」
ミーナさんはくすっと笑って、帳面を開いた。
「もちろん。登録はいつでも歓迎よ。身分の分かる人の署名が一つと、登録料が必要だけど……今日は“依頼の日”だから、登録料ちょっと安くなる日なの。登録するにはおすすめの日よ」
「マルタさんに書いてもらえます……!」
「じゃあ仮登録で進めましょう。名前と所属――あ、所属は空欄でいいわね。得意分野は?」
「料理と……ええと、畑仕事……です」
自分で言って、少し照れた。ここで言う“得意”って、もっとこう、剣とか魔法とか、そういう……。
「いいのよ。依頼には、料理や仕込みが役に立つものもあるし、野外作業は畑仕事の経験がそのまま活きるわ」
あたたかい声に、体の力がふっと抜けた。
「私は、えっと……ま、魔法が、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「ほんのちょっとだけ!」
「正直でよろしい」
ペン先の音が止み、ミーナさんがこちらを見た。
「それじゃ……登録料の話をしておくわね。登録と冒険者資格証代で、銀貨三枚」
「……銀貨、三枚……」
胸の奥で、ため息が小さく鳴る。
宿で一ヶ月働いた給金の約半分。
私の視線が床の木目に落ちそうになった時、セーブルがぐっと身を乗り出した。
「リアノン、二人で出せば、いけるよ! あたし、今週の給金、持ってる!」
「でも……今、手持ちを減らしたら、来月のやりくりが……」
「リアノン。夢は、お金より重いんだよ」
その言葉に、心が少し震えた。
夢――そう呼ぶのも恥ずかしいくらい遠かったものが、今、手を伸ばせば届く距離にある。
「……分かりました。登録、します」
「やったぁ!」
ミーナさんが少しだけ柔らかく笑った。
「いい決断ね。銀貨三枚なんて、きっとすぐに取り返せるわ。――自分の力でね」
ミーナさんは小さな木箱を取り出した。中には親指くらいの薄い板――透明な石のカードが並んでいる。
「冒険者資格証よ。ギルドカードとも呼ばれてるわ。あなたたちの魔力を少し流し込むと、名前が刻まれるの」
私は息を呑んだ。カードは、光のない水のかけらみたいに見えた。
「リラックスして。深呼吸して、指先から、ほんの少し」
言われたとおりに、胸いっぱいに息を吸う。吐く。
カードにそっと触れると、冷たい感触が指から腕へ、すっと登っていく。
次の瞬間――薄い石の内側に、糸のような光が走った。
白い文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
「――リアノン・ハートウェル」
「セーブル・アーチ・ブランシェ!」
名前が浮かび上がったのを見て、私たちは顔を見合わせた。
心臓が高鳴る。手の中にあるのは、ただの石の板じゃない。
夢の入口、そのものだ。
「おめでとう」
ミーナさんが柔らかく言った。
彼女はカウンターに肘をつきながら、笑みを浮かべる。
「それが《ギルドカード》よ。あなたたちの身分証であり、冒険者としての記録帳でもあるわ」
「記録……?」
「依頼をこなした数、報告の正確さ、推薦や功績。全部が魔法で刻まれていくの。
数年に一度、ギルドがその内容を確認して“更新”するのよ」
「こ、更新……?」
「ああ、つまり、“ちゃんと働いてますよ”って証明する仕組みよ」
「そんな仕組みまであるんですね」
「ええ。更新のときに成績が良ければ、カードの色が変わるの。
銅色から銀、銀から金へ――信頼の印みたいなものね。
真面目に依頼をこなしてる人は、街でも歓迎されるのよ」
「歓迎……?」
「ギルド加盟の宿や食堂、鍛冶屋なんかでは、カードを見せると割引があるの。“働く冒険者”は街の誇りだからね」
セーブルの目がまんまるになった。
「じゃあ、いっぱい働けばごはんが安くなる!?」
「そういうことね」
「わぁぁぁっ、やる気出てきた!」
「……私も、です」
ミーナさんは小さく笑い、指でカードを撫でる。
「このカードがある限り、あなたたちはギルドの一員よ。
怪我をしたときや、道に迷ったときも、カードを見せればギルドの仲間が助けてくれる。無理はしなくていい。でも、誇りは忘れないでね」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
――誇り。
誰かにそう言ってもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。
私はカードを握りしめ、小さく息を吸った。
「はい。頑張ります」
「それと、よかったら使って」
ミーナさんはカウンターの下から古びた木箱を引き出した。
ふたを開けると、擦り傷の多い短剣、革紐でつなげた胸当て、色あせた布のマントが入っている。
「ギルドの“貸し出し品”。初心者向けの装備ね。決して強くはないけど、何もないよりはずっといい。壊しても怒られないし、使わなくなったら返しに来て。期限も約束もいらないわ」
「……借りられるんですか?」
「昔は、私も借りてたのよ」
ミーナさんが短剣の小さな刃こぼれを指でなぞる。
「先輩たちの足跡がついてる。古ぼけていて重かったりするけど、頼りになるわ」
「ありがとうございます……!」
「リアノン、剣、似合う!」
「えっ……そ、そんなこと……」
「その剣を持って立つ姿、ちゃんと冒険者に見えるわよ」
少し照れた頬の熱が、胸の奥の熱に溶けていく。
「登録は済んだし、掲示板を見てみる?」
「はい!」
紙の海の前で、二人で首をかしげながら読み進める。
「『夜の森の魔狼退治』……これは、やめておきましょう」
「“夜”って時点でやめておこう!」
「『行方不明の家畜捜索』……羊は速いので、追いつける自信がありません」
「私も!」
「『峠の落石撤去』……これは、力のある人向け……」
「んん……」
背後からミーナさんの声がした。
「初めてなら、こっちがいいわよ」
差し出された紙には、丸い字で依頼内容。
『街外れの丘にて、薬草シューメルの採取。指定束数。日没前にギルドへ提出。初心者可』
「昼間に丘で摘むだけ。獣の気配も薄いし、危なくない。ちょっとしたスライムにだけ気をつけて」
「スライム……」
セーブルがごくりと喉を鳴らす。
「ちょっとだけ、ぷにぷにするやつ」
「ぷにぷに……」
「火に弱いけど、無理はしないこと。怖かったら、距離をとって逃げて帰ってくればいい。採れた分だけでも受け付けるわ」
「……行ってみたいです」
気づいたら、私は言っていた。
セーブルがぱっと顔を上げる。
「行こう!」
*
街の門を抜けると、風の匂いが変わった。
石畳の硬さが土に変わり、草の青い匂いが鼻の奥をくすぐる。
丘は、街から歩いて一刻程。空は広く、鳥が高いところを横切っていく。
「はぁぁ……空が近い!」
「気持ちいいですね」
小道の脇に、鈍い緑色の葉が株を作っている。葉先が少し白く、触ると指にすべすべまとわりつく――これがシューメルだ。
「束数は、十。根元から折らずに、葉を傷めないように……」
「任せて! 台所で鍋のハーブを摘むの、得意だよ!」
セーブルは膝をついて、器用に葉を束ねていく。私も両手で柔らかく持って、紐で結んだ。陽の光が葉脈を透かして、小さな川みたいに見える。
「リアノン、あれ、見て。白い蝶」
「きれい……」
影が通る。丘に、雲の形がゆっくり落ちていく。
こんなふうに外で働くのは、いつぶりだろう。畑の手伝いをしていた時の手の感覚が戻ってくる。手は覚えている。体も覚えている。
束が五つになった時、小さく水の跳ねるような音がした。
ぽよん。
日陰の草むらの向こうに、ゼリーの固まりみたいなものが揺れていた。人の拳くらい。透けていて、内側に小さな気泡がゆっくり動いている。
「……ぷにぷに」
「スライム……です」
セーブルが、ごくりと息を飲んだ。
「近づきすぎると危ないですよ。――私は、抑えます」
私は腰に下げた短剣をそっと引き抜いた。
借りたばかりの鉄の刃が、陽の光を受けて鈍く光る。
こんなふうに武器を構えるのは初めてだ。手が少し震えたけれど、柄を握る指先に力を込める。
――これが、“冒険者”の手。
「わ、わたし、やってみるね?」
「大丈夫。風向き、後ろに下がって」
「う、うん!」
セーブルは二歩下がって、胸の前で小さく手を組み、短く息を吸った。
「ファイアボール」
ぽっ。
指先に灯った小さな火がスッと飛んでいき、スライムの表面をなめるように触れ、じゅっと微かな音。表面が一瞬きゅっと縮む。
「効いてる……!」
「今!」
私は地面を蹴って踏み込み、剣を振り下ろす。
鉄の刃がぷに、と軽い抵抗を切り裂き、スライムの体が二つに割れた。透明な欠片が草の上でしゅるりと縮み、動かなくなる。
「やった……!」
「リアノン、すごい!」
「セーブルの魔法のおかげです」
「でも、今の、すごく冒険者っぽかった!」
「……ふふっ、そうかな」
胸の中が、ぽっと熱くなった。
束を十に揃えるまで、もう一度だけスライムに出会った。
今度はセーブルが落ち着いて火を当て、私は距離を保つだけで済んだ。
二回目の「大丈夫」の声は、最初よりもずっと自分の中にちゃんと届いた。
*
日が傾く前にギルドへ戻ると、ホールの人波は朝より少し落ち着いていた。
ミーナさんに束を差し出すと、彼女は一本ずつ葉の状態を見て、丁寧に数えた。
「きれいに摘めてる。傷がほとんどないわ」
「リアノンが上手なんです!」
「セーブルも上手でした」
二人で褒め合って、三人で笑った。
ミーナさんは帳面に印をつけ、引き出しから小袋を取り出す。
「初めての報酬。数は多くないけれど、あなたたちの手で得たお金よ」
革の小袋は思っていたよりも軽かった。けれど、手にのせると、心の中のどこかがゆっくり満ちていく。
「……ありがとうございます」
「今日があなたたちの最初の冒険ね」
ミーナさんは、あの穏やかな目で私たちを見た。
「最初の一歩を、ちゃんと踏み出せる子は、そう多くないの。どうしても怖くなったり、忙しさに流されたりしてね」
胸の奥が、ちくりとする。
“忙しさに流される”――きっと私は、そうやって夢をしまってきた。
でも今、革の小袋と、薄い魔法カードと、借り物の剣の重みが、確かな実感で私の手にある。
「また、おいで」
「はい。絶対に」
私たちは深く頭を下げて、ギルドの扉を押した。
外は、夕焼けが街の屋根を赤く染めていた。
「はぁぁ……今日、私たち、ほんとに冒険者だったね」
「はい。ちゃんと、冒険者でした」
「スライムもちゃんと倒したし!」
「ぷにぷにでしたね」
二人で笑いながら、石畳を歩く。
「セーブル。今日は……ありがとう」
「え?」
「私、ずっと、冒険者に憧れていたんです。
でも一人じゃ、こわくて。あなたが誘ってくれたから、ここまで来られました」
「……うん。私も、リアノンが一緒だから頑張れる」
「ふふっ……そう言ってもらえると、嬉しいです」
しばらく、二人とも言葉を失った。
夕焼けの風が髪を揺らし、石畳の上を静かに流れていく。
「明日は朝の仕込み、早いですよ」
「うわぁぁ、そうだった! パン焦がさないようにしなきゃ!」
「私も、スープの塩を間違えないようにします」
「……ね、明日もがんばろう」
「はい」
《月影の宿》の灯りが、角を曲がるたびに近づいてくる。
扉を開けると、マルタさんがこちらを一目見て、口の端を少し上げた。
「顔に書いてあるよ。いい一日だったみたいだね」
「はい!」
「はい!」
台所に戻ると、使い慣れた鍋がそこにあって、木べらが手に収まった。
私の場所。私の毎日。
――そして、胸の前の革袋と、ポケットのカード、部屋の隅に立てかけた借り物の剣。
新しく手に入れた“私の場所”。
火を弱める。鍋が“コトコト”と静かに歌い始めた。
明日も働いて、笑って、きっと少しだけ失敗して、また練習する。
それでも、もう知っている。私の中の小さな火は、ちゃんと灯っていることを。
「いただきます」と言うみたいに、私は心の中で小さくうなずいた。
――今日の一歩から、私たちの冒険は始まったのだ。




