第2話 夜の庭と、小さな火花
朝いちばんの宿は、パンの匂いと、皿の重なる音と、みんなの「おはよう」であふれている。
私は今日も木べらでスープをぐるぐる。鍋のふちから出てくる湯気が顔に当たって、ちょっとだけくすぐったい。
「リアノン、火は弱めでコトコトだよ」
「はいっ、コトコトです!」
おかみのマルタさんは、いつもみたいに背中で台所を動かしている。
隣ではレーナちゃんがパンを切っていて、その向こうで――
「うわぁぁぁっ、焦げる焦げる焦げる〜!」
セーブルの声。
見ると、小さなフライパンの上でベーコンがジリジリ言っている。
「セーブル、火、強すぎ!」
「ひぃっ! あ、あ、あ、はい!」
慌ててフライパンを火から離したセーブルはしょんぼりとしている。
「……また焦がしちゃった」
「端っこ切って、スープの具にしよう。香ばしくておいしいですよ」
「ほ、ほんと? 助かる〜!」
セーブルは失敗しても、すぐ立ち直る。
わたしは、そういうところが好きだ。
でも今日は、なんだか笑顔がすぐしぼんでしまって、いつもより元気がない気がする。
朝食の時間になると、冒険者のお客さんで食堂はいっぱいになった。
「お嬢ちゃん、スープうまいな」
「ありがとうございます! パンのおかわり、鉄貨五枚です」
「お、じゃあ銅貨で。お釣りは鉄貨ね」
「はい、鉄貨五枚お返しです!」
銅貨と鉄貨の音が、コトン、と手のひらにやさしく落ちる。
貨幣の音は、少し小さくて、ちょっと軽い。
わたしは、その軽い音がけっこう好きだ。
「セーブル、トレーは両手で、目線は進む方向!」
「りょう、りょうてっ……わ、わっ!」
ガタン。
セーブルのトレーが少し傾いて、ミルクが一杯こぼれた。
あっ、と思った時には遅くて、白いミルクの川がテーブルの上を細く走っていく。
「す、すみませんっ! すぐ拭きます!」
「大丈夫。落ち着いて、はい布」
レーナちゃんが布を渡して、私も端っこから拭く。
お客さんは笑って、「気にするな」と言ってくれた。やさしい人でよかった。
昼前の仕込み。
セーブルは、いつもより言葉が少ない。
大鍋の前でレードルを握ったまま、誰も見ていないと、ちょっと肩を落とす。
私は何度か声をかけようとしたけれど、タイミングがうまく見つからなかった。
午後、洗濯物を干して、シーツを替えて、床を磨く。
セーブルは一生懸命やっているのに、ちょっとしたところで失敗する。
糸くずに足を取られて、よろけたり。
棚の角にローブを引っかけて、ボタンを一つ飛ばしたり。
「だいじょうぶ?」
「だい、じょうぶ……」
返事は明るいけど、声が小さい。
日が落ちて、忙しい夕食の波が過ぎると、宿は静かになる。
皿を洗って、テーブルを拭いて、最後に床をさっと水拭き。
いつもなら、セーブルは「ふう〜!」って大きく伸びをするのに、今日はしない。
私は裏庭の桶に布をすすぎに行って、ついでに夜風を吸い込んだ。
涼しい。月は、細い銀の舟みたいだ。
――ぽ、ぽっ。
暗い庭の向こうで、小さな光がふたつ、消えたりついたりした。
私はバケツを置いて、そっと近づく。
「……ファイア、ボール」
セーブルの声。
彼女は庭の隅で、片手を胸の前に出して、もう片方の手を指先で丸く作っていた。
口の中で短い呪文を唱えるたび、ほんの少しだけ光が生まれる。
でも、すぐ消えてしまう。
「……どうして。さっきは、ついたのに」
小さなため息。
私は迷ったけれど、やっぱり声をかけた。
「セーブル」
「ひゃっ……! り、リアノン!? びっくりしたぁ……」
「ごめんね。あの……練習、してたんだね」
「うん。ちょっとだけ、やっておきたくて」
セーブルは笑おうとしたけれど、口の端がすこし震えている。
「今日は、なんだか調子が悪くて……ぜんぜん、つかないの」
「朝から、少し元気がなかったから……心配で」
「……見えてた?」
「うん。ミルクの時の顔、いつものセーブルじゃなかった」
セーブルは空を見た。
細い月が、木の枝に引っかかっているみたいに見える。
「ねえ、リアノン」
「なに?」
「ちょっと、話してもいい?」
「もちろん」
セーブルは、少し深呼吸をしてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うち、みんな魔法使いなんだ。お父さんとお母さんは、王都の学院で魔法の先生をしているの。お兄ちゃんたちは二人とも、王国魔導師団に入ってる。お姉ちゃんは、研究者で……なんか難しい魔法の本を書いてる」
「すごい家なんだね」
「うん、みんな、すごい。すごすぎるくらい」
ふふ、と笑ったけれど、その笑いは少し寂しかった。
「でもね、あたしだけ、ぜんぜんダメで。魔力はあるって言われるんだけど、うまく流れないの。火の玉一つ、まともに出せない日もある」
「……今日、みたいに?」
「そう」
セーブルは指先を見つめる。
小さな指。お皿を拭くとき、よく泡だらけになる指。
「家のみんなはね、優しいよ。からかったり、怒ったりはしない。でも、気を遣ってるの、分かるんだ。練習の時、視線を外すの。失敗しても、誰も『大丈夫?』って言わないの。たぶん、言ったらあたしが余計に落ち込むと思ってるから」
小さく息を飲む音がした。
「それでね、だんだん、あたしの“魔法の話”は、家の中のどこにも居場所がなくなっていった。
みんなが話すのは、難しい魔法の論文とか、最近の魔導戦術とか、学院の成績とか。あたしは、そこに入れない。だって、初歩のファイアボールすら、ちゃんとできないから」
言葉は静かだったけれど、私の胸の中には、波が広がった。
私は、セーブルの横にしゃがんだ。
草の匂いと、夜の土の匂い。
「だからね、ここに来たの」
「リュミナリオに?」
「うん。誰も比べない場所で、いちからやってみたかった。
上手にできなくても、笑ってくれる人がいる場所なら、あたし、いくらでも練習できるから」
私はうなずいた。
「ここは、そういう場所だと思う。少なくとも、私はそうしたい」
「リアノン……」
「セーブルは、ちゃんと頑張ってるよ。だって、毎日、台所でも、掃除でも、魔法でも、何回失敗しても、必ず『もう一回!』って言うもん」
「……言ってるかな」
「言ってる」
私は笑った。
「ね、もう一回、やってみよう。ここで、今」
「……うん」
セーブルは立ち上がって、両手を胸の前に。
目を閉じて、深く息を吸う。
わたしも、息を合わせるみたいに、そっと吸って、そっと吐いた。
「――ファイアボール」
指先に、丸い光が生まれた。
ぽっ、と灯って、ゆらゆら揺れて、飴玉みたいな小さな火の玉が浮かぶ。
「……ついた」
セーブルの声が震えた。
「ついた! リアノン、見て!」
「見えてる。とってもきれい」
ふたりで笑う。夜の庭に、笑い声がふわっと広がった。
火の玉は短い時間しかもたないけれど、そのあいだにセーブルの顔は、いつもの彼女に戻っていく。
「ありがと、リアノン。なんか、胸のつっかえが、ちょっと取れた」
「よかった」
「明日、また練習する。今日より、もうちょっと上手に」
「うん。わたしも、パンの切り方をもう少し早くする」
「それも練習だね!」
セーブルの火は、すっと消えた。
でも、不思議と暗くはなかった。
宿の窓から漏れる灯りと、空の月の光と、胸の中のぽわっとした温かさが、そこに残ったから。
「戻ろっか。マルタさんに、遅いって言われちゃう」
「うん!」
部屋に戻ると、窓からひんやりした夜風が入ってきた。
ベッドに横になると、今日の音がいろいろ思い出された。お皿の音、パンの皮が割れる音、ミルクのこぼれる音、セーブルの小さな火が生まれる音――ほんの一瞬、パチッて鳴った、あの音。
「おやすみ、セーブル」
「おやすみ、リアノン」
目を閉じる。
眠りに落ちる前、セーブルの息が、いつもより落ち着いているのに気づいた。
――翌朝。
まだ薄暗い台所に、セーブルが眠たそうな顔で入ってきた。
「リアノン……」
「おはよう」
「……昨日の火、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ。とってもきれいだった」
「……よかった。夢じゃないよね?」
「夢じゃないよ」
「えへへ。じゃあ、今日も、がんばれる」
セーブルはパンを一口かじって、ちゃんと笑った。
私はスープの火を弱めて、鍋をコトコトにする。
コトコト。今日もいい音。
台所の朝は、いつもの匂いと、いつもの声でいっぱいだ。
でも、少しだけ違うのは――セーブルと私の間に、昨夜の小さな火の、あたたかさがちゃんと残っていること。
きっと、こういうのを“はじまり”って言うんだと思う。
働いて、笑って、ちょっと練習して。
それでも、わたしたちは少しずつ前に進んでいく。
今日も、いい一日になる。
そう思えたから、私は木べらを握り直して、大きくうなずいた。




