第1話 月影の宿と、新しい仲間
はじめまして。
のんびり働きながら、少しずつ夢を追う小さな冒険者たちの物語です。
戦いや陰謀よりも、パンの焼ける匂いや人の優しさを描いていきたいと思います。
少しでも穏やかな時間を感じていただけたら嬉しいです。
朝の宿は、いつだっておいしい匂いがする。
パンが焼ける香り、鍋で煮込まれているスープの湯気、バターを落とした時のふわっとした香ばしさ。
私は木べらで鍋をぐるぐるかき混ぜながら、湯気で少し潤んだ自分の頬を手の甲で拭った。
「リアノン、火、強すぎないかい?」
「だ、大丈夫です! 今日は焦がさないです!」
「“今日は”じゃなくて“いつも”だよ」
おかみのマルタさんは、少し厳しくて、でも根っこはすごく優しい。
背中で指示を飛ばしながら、片方の手でパンの焼き色も忘れずチェックしている。こういうところがすごいと思う。私はまだ、鍋の火加減とパンの焼き上がりを同時に見るのがあまり得意じゃない。
「お母さーん! パン、いい感じ!」
かまどの向こうで、同い年のレーナちゃんがトングを握って跳ねるように声を上げた。
「ほら、リアノン! 運ぶよ、運ぶよ!」
「は、はいっ!」
焼きたてのパンが乗った木の板は、ぬくぬくと温かい。私はそれを胸に抱えて、食堂へ小走りに出ていく。
朝の食堂は、出発前の冒険者さんたちでぎゅうぎゅうだ。革の胸当て、古びたマント、磨かれた短剣。カウンターの端では地図を広げる人たちもいる。
わいわいした声の間をすり抜けて、パンとスープを置いて回るのは、ちょっとしたゲームみたいだ。
「お、リアノンちゃん、今日も早いな」
「おはようございます! スープ、熱いので気をつけてくださいね」
「お釣りは銅貨二枚で頼む。……いや、鉄貨に崩してくれ。仲間にパンを追加してやりたい」
「はい、銅貨一枚を鉄貨十枚に――鉄貨二枚お返しです!」
最初は頭がごっちゃになって戸惑ったけれど、最近は手の中で自然に数えられるようになってきた。
お金を扱うのって、ちょっとだけ大人になった気がする。
「リアノン、トレーもう一枚!」
「はいっ!」
レーナちゃんが運んできたパンは、端っこがほんの少し焦げていた。
「うぅ……また焦がしちゃった……」
「端を切ってクルトンにしちゃいましょう。スープに入れるとおいしいです」
「さすがリアノン! 機転のリア! 頭もリア!」
「最後のはよく分からないけど、ありがとう!」
そんなやり取りをしていると、カウンターの向こうからマルタさんの声。
「二人とも、昼に備えて粉の計量もしとくんだよ。あと、買い出しリスト忘れない!」
「はーい!」
朝の混雑がひと段落すると、私は裏口に回って空になった牛乳瓶をすすぎ、洗い場でお皿を重ね、棚にしまう。
手は少し荒れるけれど、皿がぴかぴかに並ぶのを見るのは気持ちがいい。掃除は、やればやるほど答えが目に見えるから、すきだ。
お昼前、レーナちゃんと市場へ買い出しに出た。
通りに面した掲示板には、いろいろな紙が貼られている。ギルドの依頼書、行方不明の猫のお知らせ、楽団の演奏会の予告、そして――
「……あ、また貼られてる」
「うん。《月影の宿 住み込み手伝い募集 三食賄い付き》」
「賄い付き……いい響き」
「リアノン、今も賄い付きだよ?」
「えへへ、そうでした」
市場は、色と匂いの宝箱みたいだった。
赤いトマト、薄紫のたまねぎ、少し土のついたにんじん。香草の束、チーズの塊、焼きたてのパイ。
私は値札の銅貨と銀貨を見ながら、マルタさんのリストと首っ引きで計算する。
銅貨三枚の玉ねぎを二袋、鉄貨五枚のおまけをつけてもらった。
日差しはちょっと強いけれど、風は優しかった。
宿に戻ると、昼の仕込み。
大鍋に水を張って、骨からとった出汁を注ぎ、じゃがいもをどさっと入れる。包丁はよく研いであるから、野菜がすっと気持ちよく切れる。
トントン、トントン。包丁の音は、わたしの好きな音のひとつ。
「リアノン、キャベツお願い」
「はーい!」
葉をはがしてくるくる巻いて刻む。レーナちゃんは時々切り方が分からなくなって不思議な形にしてしまうけれど、私はちょっとだけ得意だ。
「やっぱり上手だなぁ……私、また四角になっちゃう」
「四角のキャベツ、かわいいですけどね」
「かわいくないよ!」
お昼を過ぎると、少し静かになる。
テーブルを拭いて、床にパンくずが落ちていないか確かめて、二階の部屋のシーツを替える。
窓を開けると、外の光がさらっと入り込んできて、白いカーテンが小さく揺れた。
レーナちゃんは窓から外をのぞき込んで、「あ」と声を漏らす。
「どうしたの?」
「掲示板の前、見て。あのローブの子……」
通りの向こうで、黒いローブを着た小柄な女の子が、掲示板の前でぴょんと跳ねた。
風で紙が揺れるたび、顔がぐっと近づいて、次の瞬間――両手を高く上げた。
「やったぁぁぁ! 三食つきだぁぁぁ!」
「……元気、だね」
「だね……」
私たちは顔を見合わせて、同時に笑ってしまった。
夕方、仕込みが一段落したころ。
「リアノン、レーナ、玄関に来な。今日から新しい子が入るよ」
マルタさんに呼ばれて、私たちは扉のところへ走った。
そこに立っていたのは、掲示板の前で飛び跳ねていたローブの女の子――だった。袖がちょっと焦げている。近くに寄ると、ほのかに香ばしい匂いがした。
「えへへ、よろしくお願いします! セーブルっていいます!」
「よろしくね、セーブル。うちは忙しいよ。真面目に働けるかい?」
「ま、真面目は得意です! 多分、掃除もできます!」
「多分?」
「ち、ちゃんと掃除できます!」
マルタさんがふっと笑って、腕を組む。
「まあ、元気があるのはいいことだ。最初は皿洗いと床掃除から覚えな。レーナ、リアノン、教えてやって」
「はいっ」「任せてください!」
最初の仕事は、夕食前の床の拭き上げ。
セーブルは雑巾をぎゅっと絞って、やる気まんまんで四つん這いになった。
「こういうの、意外と好き! わかりやすく綺麗になるし!」
「分かります。綺麗って、見てすぐ分かりますもんね」
「ねっ!」
次は皿洗い。泡がもくもく、泡の王国。
セーブルは何でも楽しそうで、見ていると私まで楽しくなってくる。
夕食時の食堂は、朝よりさらに賑やかだ。
肉のソテーにハーブを振って、煮込みにクルトンをぱらぱら。パンの籠はすぐに軽くなる。
セーブルはトレーを持って、最初はおぼつかなかったけど、三往復目でリズムを掴んだみたいだった。
「リアノン、パン追加!」
「はーい!」
「セーブル、トレーは胸の前。目線は進行方向!」
「りょ、了解です、先輩!」
「先輩はやめてください!」
お客さんのひとりが笑って言う。
「新しい子、元気がいいね」
「はい。今日から一緒に働くことになりました!」
「こりゃ《月影の宿》がますます明るくなるな」
忙しさの波がすぎ、夜が少し深くなったころ。
片付けの合間に、マルタさんが裏庭に出て薪のチェックをする。
セーブルがそわそわしているのに気づいて、私は小声で聞いた。
「どうしました?」
「え、えっと……暖炉の火、つけてもいいかなって」
「外で試してからにしましょう。念のため」
「……念のため、だよね」
裏庭でセーブルが小さな声で呟く。
「ファ、ファイア……ボール……」
指先で空気をつまむみたいにして、ちょん、と火花が跳ねた。
「……ついた!」
「うまくいきましたね!」
「や、やったぁ! 今日は風が味方してくれた!」
セーブルは胸を張って笑った。ほんの小さな灯りだけど、彼女の顔を丸く照らして、とても嬉しそうだった。
片付けを終えて、二階の屋根裏部屋へ。
今日から二人部屋。私のベッドの向かい側に、新しいベッド。
窓を開けると、夜の空気がひやりと入り込んで、遠くの通りの音がかすかに聞こえた。
「うわぁ、屋根の下って、やっぱり最高……」
セーブルはベッドに倒れ込んで、体全体でふかふかを味わっている。
「セーブルは、今までどこに?」
「いろいろ。魔法の本を写すバイトしたり……お金貯めたいから、住み込みは助かる!」
「私も最初に“賄い付き”って見た時、嬉しくて飛び上がっちゃいました」
「分かる!」
笑い合ってから、同時に欠伸が出た。
たくさん働いて、よく笑って、よく動いた一日。
ベッドに横たわると、身体が布の上に吸い込まれていくみたいだった。
「ねぇ、リアノン」
「はい?」
「いつかさ……一緒に、何かやってみない?」
「な、何か?」
「うん、例えば、えっと……内緒だけど。いつか冒険者になって、依頼とか、一緒に受けられたらいいなって!」
「……いいですね」
私は窓の外の月をちらりと見た。
まあるい光が屋根の上に落ちていて、《月影の宿》という名前にぴったりの夜だった。
「じゃあ、まずは明日も頑張って働きましょう」
「うん! 明日は今日より失敗しない!」
「私も。パン、絶対焦がさないです」
「ふふっ、どっちが先に完璧取るか勝負だね!」
「ええ、負けませんよ」
「よーし、挑戦状受けた!」
笑いながら、目を閉じる。
遠くで誰かの足音、どこかの部屋の小さな笑い声、廊下の木が鳴る音。
街は、寝ていても生きている。そんな当たり前が、急に愛しく感じられた。
明日も、朝になったらパンを運んで、スープをかき混ぜて、テーブルを拭いて。
忙しくて、楽しくて、お腹がすいて、ちょっとだけ失敗もして。
そうやって過ぎていく日々が、私、けっこう好きだな――って、思った。
やがて、眠りがそっとやってくる。
月の光はやさしくて、屋根の影は静かで、隣のベッドから聞こえるセーブルの寝息は、リズム良くてちょっと面白い。
私は布団の端をぎゅっと握って、小さく深呼吸をした。
「……おやすみなさい」
返事はないけど、いい。きっと明日は、もっと忙しくて、もっと楽しい。
私の“今”は、ここから始まっている。




