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異世界(短編・中編)

偽装婚約しませんか!?

作者: 仲室日月奈

「ローレンスさま。東屋とはいえ、人目があります、から……!」

「君は俺の婚約者なんだ。誰に見られても構わない。俺たちの婚約は、すでに国王陛下に承認されている。ヴィオラを愛でていけない理由は何一つないだろう?」


 背中から抱きしめられた格好のヴィオラは耳まで赤く染め上げたまま、うう、と口をすぼめた。ローレンスは腕の中に閉じ込めた婚約者の銀灰色の髪の一房を持ち上げ、そっと触れるように唇を寄せる。

 その瞬間、東屋を遠巻きに見ていたギャラリーの女生徒から黄色い悲鳴が上がった。

 背後の声に満足したのか、ローレンスは婚約者を大理石の椅子まで優雅にエスコートする。一方のヴィオラは太鼓のように激しく鳴る自分の心音が耳で反響し、外野の声まで聞き取る余裕はなかった。


「ねえ、ヴィオラ。今日はどれから食べる? 俺が食べさせてあげるね」

「……では、レモンメレンゲパイから……お願いします」

「ふふ。さすがヴィオラだ。昼前に店頭に並ぶと、三十分で完売するパイ専門店の看板商品だよ。従者に買ってきてもらった、出来たてほやほやだ。レモンカスタードが絶品でね。メレンゲのふわふわ感も癖になるんだ。きっと君も気に入ると思う。……はい、あーん」


 美しい焼き目のパイを口元に運ばれて、食べないという選択肢はない。食欲に忠実なヴィオラは素直に口を開く。

 一口噛めば、爽やかなレモンの香りがぶわっと押し寄せた。

 濃厚なカスタードクリームが口の中でとろける。サクサクのパイ生地はこれだけで食べたいくらい香ばしく、つのを出して焼かれた甘いメレンゲが美味しさに拍車をかける。絶妙なバランスだ。早々に売り切れるのも納得である。

 甘酸っぱい風味が口いっぱいに広がり、幸福感に包まれたヴィオラは瑠璃色の瞳をうっとり細めた。その様子を眺めていたローレンスはくすりと笑う。


「本当に美味しそうに食べるね。もう一口どう?」

「いただきます」


 最初から、誘惑の声に抗う術など持ち合わせていない。

 第二王子であるローレンスが手ずから食べさせるほどの溺愛っぷりは、今では王立学園の名物にまでなっている。見物客も日に日に多くなっているらしい。愛を囁かれて餌付けされ、いっぱいいっぱいのヴィオラが周囲に気を配る余裕はないけれど。

 入学早々、貧乏子爵令嬢のヴィオラが第二王子ローレンスと電撃的な恋に落ち、婚約者の座に収まったというのは表向きの理由だ。

 ヴィオラとローレンスは偽装婚約中であり、その事実を知るのはローレンスの従者を含めて三人だけだ。契約期間は最長三年間。熱愛中の恋人関係であると周囲に見せつけるように演技しているのは、すべては厄介な縁談を断るためだ。

 ────事の発端は三ヶ月前まで遡る。


 ◇◆◇


 王都に構える王立学園は貴族の子女のみならず、歴代の王子や王女も通う伝統ある学び舎である。

 その歴史も長く、数年前には校舎が建て替えられている。旧校舎は古い資料や資材置き場として使われているが、基本的に生徒が立ち入ることはない。兄の情報によると、恋人の逢い引き場所としても有名だとか。

 新入生のヴィオラは学園探検と称して、旧校舎の中庭を散策していた。


「すごい、図鑑でしか見たことがない花まである……。きっとお金に物を言わせて移植させたのね。さすが権力者はやることが違う」


 下向きに咲く桃色の花びらに触れ、独り言をつぶやく。

 本来この地域では自生していない植物を集められる資金力をうらやましく思いながら、うーむと腕を組む。

 ヴィオラの父はしがない子爵で、治める領地も特に秀でるものがない。強いて言うなら、豊かな自然だけが売りの田舎だ。先祖代々、慎ましい生活を送ってきた。

 王立学園にはさまざまな貴族の令息や令嬢が集う。裕福な貴族はどうやって富を得ているのか。どの貴族と縁を結べば、商売は発展するか。どうにか領民の生活を向上させる手がかりが得られれば、と期待を胸にヴィオラは入学した。

 勉学に励みながら、恋物語のような運命的な出会いができればもっといい。

 夢を膨らませていると、不意に廊下の向こう側から複数の話し声が聞こえてきた。


(やばっ……! 先生に見つかったら怒られちゃう)


 とっさにその場に屈み、這いつくばって植え込みの後ろに回り込む。息をひそめ、気配を極力消す。どうか何事もなく過ぎ去ってくれますように。

 だが願いは虚しく、足音は中庭で止まった。しかも、あろうことか片方はヴィオラが身を隠す前のベンチに座ってしまった。


(うっそ!? どうしてよりによって、そこに座っちゃうの。他にもベンチはあるのに!)


 ぐぬぬ、と自分の不運を恨めしく思う。

 こうなったからには、彼らが立ち去るまで石像になりきるしかない。心を無にするんだ。この距離だ。一瞬でも動揺してしまえば、葉の音で気づかれてしまう。

 何があっても動かないぞと不動の構えでいると、ヴィオラがいるとは思っていない二人は会話を続ける。


「……弱ったな。セリーヌ皇女は本気だ。彼女との婚姻の申し出が正式に来れば、国王は受け入れるしかないだろう。帝国からの援助がなければ、我が国は立ちゆかない。穏便に断るためには、早急に婚約者が必要だ。しかし、セリーヌ皇女との結婚を回避したら婚約破棄してくれる令嬢なんているわけがない。完全に手詰まりだ」

「ローレンス殿下、まだ諦めてはなりません。第一皇女殿下が我が国にお越しになるまで三ヶ月の猶予がございます。なんとしてでも協力者を見つけましょう」


 ローレンスは我が国の第二王子、セリーヌは帝国の第一皇女の名前だ。

 深刻な雰囲気で始まった秘密の相談に息が止まった。成りゆきとはいえ、無関係のヴィオラが聞いてしまっていい話では断じてない。


(はわわ、なんてこったい! 目の前の二人、第二王子と従者だったの!? これなら先生に怒られるほうが数倍マシだったよ!)


 乳母が聞いたら「お嬢様。口調が乱れておりますよ」と小言が飛んできただろうが、この場に心の叫びを聞く者も諫める者もいない。

 内心あわあわしていると、ローレンスは深いため息をついた。


「そうは言うがな、セドリック。そんな都合のいい女性が見つかると思うか? もういっそ、潔く諦めたほうがいいのではないか」

「何を弱気なことを言っておられるのですか。あなたはこの国の第二王子。第一皇女殿下と結婚すれば、一生あなたは飼い殺しですよ。それはお嫌でしょう?」

「当たり前だ。俺は年下の女王の下僕になる趣味はない」

「……女王や女神に喩えられるほどの美貌を持ち合わせていながら、自分と見劣りしない美しい少年や青年を侍らす趣味がおありのようですからね。世の中にはさまざまな趣味嗜好の持ち主がいるとはいえ、十歳から見せた性癖が特殊すぎて私でも引きます。傍から見れば美男美女カップルですけれど、性格不一致では全力回避が無難ですね」

「…………。それでも帝国から圧力があれば、国王は息子を差し出すしかない」

「ローレンス殿下、お心を強くお持ちください。あなたを助けてくれる令嬢はどこかにいるはずです。そうですね。たとえば、親が勧めてくる婚約話に辟易している令嬢とか」

「そんな奇特な娘がいれば、これほど思い悩んでなどいない。貴族令嬢は遅くとも入学前には婚約者がいるのが普通だ。もう絶望的だ…………」


 悲壮感を滲ませたローレンスは頭を抱えてうなだれる。それきり二人とも口を噤ったまま、会話が途切れる。

 なんとも重苦しい空気が漂う。たまらず、ヴィオラは草陰からざっと立ち上がった。


「でしたら、わたくしがその婚約者役に立候補いたします!」

「なっ!?」

「君は一体……」


 ヴィオラはベンチの前に進み出た。動揺する彼らに不審人物ではないことを証明するため、腰を落として淑女の礼をする。

 素に戻ると令嬢らしからぬ言動になるが、これでも淑女教育は一通り施されている。気を張っていれば、ちゃんと貴族らしい言葉だって話せるのだ。ちょっと気疲れするだけで。


「お話の最中に割り込んでしまって申し訳ございません。セルフォード子爵が長女、ヴィオラと申します。実は、父から婚約者を決めろとせっつかれて非常に困っているのです。女の結婚適齢期は短い。父の心配も理解していますが、わたくしは恋愛結婚を望んでいます。ですが、まだ相手は見つかっておりません。わたくしは時間稼ぎがしたい。……どうでしょう? 殿下と利害は一致していると思うのです」

「……いや、しかし……」

「殿下の目的が達成された際、速やかに婚約破棄してくださって構いません。傷物令嬢になれば、それを理由に働きに出ることもできます。わたくしは愛のない結婚はしたくないのです。ですから、わたくしと……」


 そこで言葉を句切り、目を丸くしたままのアイスブルーの瞳をひたと見据える。

 ヴィオラは息を大きく吸い込み、胸に手を当て自分を売り込んだ。


「偽装婚約しませんか!?」

「…………」

「……やはり、急にこんなことを言われても信用できませんよね。すみません、今のはすべて聞かなかったことにしてください」


 しおらしく目を伏せる。王子のあまりにも不憫な事情に勢い余って申し出てしまったが、入学早々の不敬罪は勘弁願いたい。家族に知られたら泡を吹いて倒れかねない。

 話をなかったことにして早々に立ち去ろう。大丈夫、走るのは得意だ。だてに領地で牧羊犬とともにヒツジを追いかけ回していない。

 逃げの心構えをしていると、咳払いが聞こえてきた。


「俺にはもう他に頼る術がない。その提案を受け入れよう。本日から君は俺の婚約者であり、共犯者だ。よろしく頼むよ、婚約者殿」

「えっ、よろしいのですか!? ありがとうございます!」


 ヴィオラが両手を組んで感謝を表すと、ああ、と頷きが返ってくる。


「ただ、婚約破棄すれば君に瑕疵がつくのは避けられない。だから、それ相応の報酬を払おう。君は見返りに何を望む?」

「……み、見返り……?」


 限界まで首を傾げる。あ、ちょっと首がつりそう。少し戻そう。

 ローレンスは不審げに眉を寄せながらも、わかりやすいように説明してくれる。


「まさか善意だけの申し出というわけではあるまい。王子の婚約者を演じるとなれば、それなりに気を遣う。この関係はあくまでビジネスだ。秘密を共有する以上、対価を求めるのは常識だろう。無償の取引というのは禍根が残るからな」

「なるほど……見返りに対価を。やっと理解しました。それが貴族の常識というならば、わたくしが求める対価は、ずばり王都のお菓子です!」

「なんだって?」


 ローレンスだけではなく、従者のセドリックまで怪訝な顔になった。

 驚かれるのは想定内だ。田舎者という自覚は十二分にある。ヴィオラはぽっと桃色に染めた頬に手を当てた。


「恥ずかしながら、わたくし王都に出てくるのは生まれて初めてなのです。我が子爵家の懐は年中寒く、これまで質素倹約の生活に身を置いてきました。王都には数多くのパティスリーがあるのでしょう? どれも宝石のように美しく、味も大変美味と聞き及んでおります。わたくし、王都中のお菓子を制覇するのが昔からの夢なのです!」

「……菓子ぐらいで大げさな」

「大げさなどではありません! いいですか。貧乏人にとって、美しいお菓子は夢と浪漫が詰まった宝石に等しい品なのですよ。叶わぬ夢だからこそ、憧れは増すのです。甘味に飢えたわたくしをどうかお救いください。王都のお菓子、それ以上に望むものなどありません」


 砂糖は高級品。それを贅沢に使う王都のお菓子は贅沢品だ。

 右手を握りしめ熱弁をふるうと、ローレンスは呆れたような視線を向ける。


「えらい熱量だな。それほどの価値があるとは俺には思えないが」

「何をおっしゃいます。王都のお菓子はひとつ取っても、地方のお菓子の何倍もするお値段だとか。わたくしには到底手が届きません。ですから、お茶会などで毎回お菓子を食べる機会があるのでしたら! わたくしは喜んで馳せ参じます!」

「…………。わかった。では、君をお茶会に招待するときは有名スイーツを用意しよう。それでいいか?」


 なんて素敵なご褒美だろう。この人は神様か。違った、王子様だった。

 ヴィオラは抱きつきたい衝動を抑え、顔を最大限近づけて嬉しさを表現する。


「ありがたき幸せ! 殿下、お茶会の日を指折り数えて待っていますね」

「近い近い! 少し離れろ……ッ。不敬だぞ」


 顔の前を両手でガードされながら怒られる。ヴィオラは一瞬きょとんとした後、自分の所業に気づき、あわてて飛び退いた。


「はっ……申し訳ありません! つい興奮して、距離感を見誤ってしまいました。不徳の致すところです。次からはしっかり距離を取ってから近づきます。どうぞご容赦を」

「まったく……。君は直情径行型だったのか」


 呆れと諦めが混じったような吐息に、乳母から「ですから、あれほど申し上げたではありませんか。お嬢様は行動する前に一度よく考えてからにしてくださいと……」という苦言が頭をよぎった。

 完全にやってしまった。相手は王族だ。過去、不敬罪での死刑はあっただろうか。

 顔面蒼白で震えていると、今度は哀れみの視線を向けられた。


「はあ、もういい。偽りの関係とはいえ、婚約者になるのだからな。あまり他人行儀な距離ではかえって怪しまれてしまう。俺も婚約者らしい距離に慣れようと思う。だが、すぐに距離を縮めすぎるのも外聞が悪い。少しずつ距離を詰めていく。いいか、少しずつだからな?」

「かしこまりました。殿下」


 くどいほど忠告され、キリッとした表情で大きく頷く。

 ローレンスは苦笑しながら立ち上がり、ヴィオラの髪に絡まっていた葉を一枚ずつ取り除いてくれた。婚約者というより、兄のような人だなと思った。


 ◇◆◇


 翌日。

 スキップしながら食堂に向かっていたヴィオラは、廊下で待ち構えていたローレンスに無駄に輝く笑顔で迫られた。そして「婚約者殿、俺との食事を忘れたとは言わせないよ?」と問答無用でサロンに連行された。口には出せなかったため、食堂のメニューで頭がいっぱいだったことを心の中で謝罪した。

 在学中の王族はローレンスだけなので、王族専用のサロンは貸切状態だ。

 豪華な調度品がずらりと並ぶ一室は重厚感があり、調度品にうっかり触れないようにしなければと自分を戒める。


「ここには他の生徒はいない。楽にしてくれ。話をする前に食事にしよう」

「……っ!」


 促されて座っていると、芸術品と見紛う料理ばかりが運ばれてきた。

 海の幸と山の幸の盛り付け方からして違う。ローストビーフはまるで花が咲いたかのよう。ここは美術館か。ちょこんと載せられた食材の周りには特製ソースで美しい模様が描かれている。おしゃれすぎる料理名は無駄に長く、右から左と抜けていく。まったく覚えられそうにない。

 ヴィオラはおそるおそる温かいクロワッサンを手に取った。そして、一口食べて目を丸くした。こんがり焼けたクロワッサンはバターの香りが強く、サクサクとした食感は控えめに言って絶品だった。小麦粉やバターも外国産のものを使っているかもしれない。焼き立てという最高の条件を差し引いても、こんなに美味しいものは食べたことがない。

 最初こそ王族を前に食事マナーのテストではないかと戦いていたが、目の前の豪華な料理に理性が吹っ飛んだ。王子と同席しているという緊張感は霧散し、ヴィオラは一口一口を味わって食べた。感動で震えたのは初めてかもしれない。

 未知なる喜びの連続に、小声で「……なにこれ、美味しすぎて涙が出てくる」「ここが楽園か」「どの味もハイレベル……」と感嘆のため息をついた。実に罪深い味だった。

 苺ソルベまで平らげて幸せの余韻に浸っていたら、食後の紅茶を飲んでいたローレンスが口を開いた。


「さて。ヴィオラ嬢、そろそろ今後の方針について話し合おう」

「……! わ、わかりました。どうぞ」

「まず、この偽装婚約の最終目標を確認しておきたい」


 重苦しい口調で言われ、ヴィオラは背筋を伸ばした。

 先ほどは食欲に負けて目的を見失っていたが、自分の役目は第二王子の婚約者役だ。これは言わば彼の身を守るための作戦会議なのだ。集中しないと。

 ヴィオラはすぅっと息を吸い込み、教師から「では、この問題に答えなさい」と当てられたときのように淀みなく答えた。


「花婿にされたローレンスさまが愛玩動物にされるのを防ぐため、偽の婚約者を用意し、セリーヌ皇女にすっぱり諦めてもらうこと、ですよね!」


 ハキハキとした口調で言ったのに、なぜかローレンスは表情を曇らせた。まるで、うっかり苦手な食べ物を口にしてしまったように。


「…………他人の口から言われると微妙な気分になるが。まあ、そういうことだ」

「帝国から婚約を断る防波堤としてのお役目はどんとこいですけれど、具体的にはどういう感じで攻めていきますか? 仲良しアピールが必要ですよね?」


 ヴィオラの問いに、ローレンスは頷いた。顎下に指を添えながら思案顔になる。


「ああ。どうせするなら、他者が入る隙がないぐらいのやつがいいな。お互いのことしか見えていない甘い雰囲気が出せれば、尚のこといい。プライドが高いセリーヌ皇女も袖にされ続ければ他の男を選ぶだろう。彼女の性格は知っている」

「ほうほう。仲がよろしいのですね」


 王族の交友関係までは把握していないため、友達から噂話を聞くようにふんふんと頷くと、ローレンスは眉を寄せて横を向いた。それから、げんなりとした声が続く。


「つきまとわれていた、の間違いだ」

「あら、そうなのですか? それは大変でしたね」

「…………。ヴィオラ嬢、先に伝えておく。安っぽい演技でセリーヌ皇女は騙せない。やるからには本気で事に当たらねばならない。できるか?」

「はい。誠心誠意、努力いたします。今夜から寝る前に恋物語集を読むことを日課にします。ひとつずつ、恋人らしい振る舞い方を実践してみましょう」

「それはいいな。俺も読んでみよう。来週、オペラでも観に行くか? 演技の見本としてこれ以上にない教材になると思う」

「まあっ! よろしいのですか!? ぜひ行ってみたいです!」


 前のめりで顔を近づけると、ローレンスが焦ったように両手で座るように促す。


(……はっ! しまった。常識的な距離じゃないといけないんだった)


 前日に受けた注意を思い出し、しずしずと着席する。

 その様子をじとっとした目で見られ、ヴィオラは咳払いで誤魔化した。


「ごほん、失礼しました。セリーヌ皇女殿下がいらっしゃるまで、あまり時間の猶予がございません。短期決戦の構えで参りましょう。ひとまず恋人らしい振る舞いとして、呼び方から変えてみませんか? どうぞヴィオラと呼び捨てにしてください」

「なるほど。では、俺のこともローレンスと」

「……お名前で呼んでもよろしいのですか? いくら便宜上の婚約者になるとはいえ、殿下とは昨日が初対面でしたし、さすがにちょっと不敬が過ぎるような……」


 こちとら王族のパイプなど何一つない、田舎貴族の娘だ。

 ぽっと出の子爵令嬢が王子に見初められたという建前を用意しても、王族へ不敬を働いてもいい免罪符にはならない。王子が自分のお気に入りを呼び捨てにするのと、ヴィオラのような小娘が王族の名前を直接口にするのは天と地ほどの差がある。恐れ多いにもほどがある。

 殿下呼びで我慢してもらいたいなと思っていると、ローレンスは先回りするようにヴィオラの懸念を取り除く。


「周囲が納得できるほどの親密さを出すためには、他人行儀な呼び方では勘ぐる者も多いだろう。俺たちは本物の恋人になりきらなくてはならない。物理的距離は少しずつ縮めていくとして、口調ぐらいは恋人らしさをアピールしても問題ない」

「…………確かにそうですね。では、ローレンスさま。明日からは婚約者役をしっかり務めさせていただきますので、細かい点はその都度調整していきましょう」

「そうだな。よろしく頼む」


 席を立ったローレンスが右手を差し出す。

 この偽装婚約は、彼の人生がかかっている。誰かを騙すことはよくないが、人としての尊厳を損なう危険を回避するためなら話は別だ。

 秘密の共犯者として、ヴィオラは彼の手に自分の小さい手を重ね合わせた。


 ◇◆◇


 さらに翌日。

 食堂のテラス席での昼食に誘われていたヴィオラは、生徒や教師の衆目を集める中、淑女らしい微笑みを貼り付けてローレンスに近づいた。周囲は遠巻きに見ているだけで会話が聞き取れる距離ではないが、王族に対して不敬と取られる発言には注意しなければならない。

 一歩引いた感じで、エレガントに。


「殿下、本日はお日柄もよく……」

「ヴィオラ。俺のことはローレンスと呼んでくれ、とお願いしただろう?」

「失礼しました、ローレンスさま。太陽の光を浴びて輝く御髪は、まるで天から遣わされた神々のよう……」

「そういう世辞は今後は一切不要だ。仲のいい友達感覚で喋ってくれて構わない」

「え? ですが」

「むやみやたらに飾り立てる言葉は聞き飽きている。頼むから普通にしてくれ」


 真顔で願われたら、首を横に振るわけにもいくまい。

 無礼がないように細心の注意を払っていたが、本人からの要請であれば致し方ない。ヴィオラは眉尻を下げて謝罪した。


「お気を悪くさせてしまい、申し訳ございません。もっとフランクな感じでいきますね。ええっと……では。やあ、ごきげんよう愛しの婚約者殿」

「ちょっと待て。それは男性側の台詞だろう」

「……あれ?」

「何を不思議そうな顔をしている。君は淑女だ。自分の性別を忘れてはいけない」

「そうでした。恋仲であると強調される台詞を考えていたら、つい。ラブラブな雰囲気を出せるような女性側の挨拶を考えます。……ローレンスさま。どうか、もう一度チャンスを」

「失敗は成功のもととも言う。何度でも挑戦するがいい」


 ローレンスは鷹揚に頷く。後ろで給仕の準備をしていた従者は遠い目をしていた。


 ◇◆◇


 それから一ヶ月後。

 寝る前に恋物語を熟読してきた成果か、仲のよい婚約者アピールはだいぶ板についてきた。最先端の流行に詳しくないヴィオラのために、オペラの王族専用ボックス席に招待したローレンスは王都の店も案内してくれた。従者と護衛を引き連れながら。

 王族御用達の老舗洋菓子店は宝石のように輝くチョコレートが並び、いくつかお土産用に買ってもらって顔がゆるみっぱなしだった。だが次の貴族街の宝飾店はおそろしい金額とわかるほどの大粒のダイヤモンドやピンクサファイアが惜しげもなく並び、場違い感が半端なかった。半泣きでローレンスの服の裾をつかみ、店を後にした。

 立派な時計台から景色を見下ろしたり、可愛い雑貨店を見たりしていると夕刻の鐘が鳴り響いた。帰りの馬車まで歩く途中、食欲をそそる串焼きの屋台を名残惜しげに見ていたら「君はお菓子以外も食欲が旺盛だったな……」とため息をつき、おごってくれた。大変美味だった。

 それからも熱愛アピールは続いた。物理的距離も近づき、東屋で並んで座って耳に手を当て内緒話もした。実際はしりとりだったり、幼少期の恥ずかしい暴露話だったり、恋愛とは関係ない内容だったが。それでも周囲には仲睦まじい光景に見えたらしい。

 そんなわけで一緒に過ごす時間が長くなるにつれて緊張することもなくなり、一日のご褒美のデザートをヴィオラは恍惚の表情で堪能していた。毎日幸せだ。


「君はときどき、口調が崩れるな。そちらが素か?」


 向かいの席に座るローレンスが呆れ気味に肘をつき、ヴィオラは背筋を正した。


「へあっ……う、すみません。完全に無意識でした。これでもボロを出さないようにしているのですが、気を抜くと出てしまうようです。ですが、殿下に聞かせる言葉ではありませんでしたね。以後気をつけます……」

「いや、別に不快に思っているわけではないが。まあ、貴族社会でうっかり出さないように注意したほうがいいな。君が侮られる」

「うう、そうですよね。猫かぶりが続けられるように頑張ります」

「猫かぶり」

「大きな猫さんなら大丈夫でしょうか。なんか強そうですし、簡単に剥がれないかもしれません。こういうのは気合いとイメージが大事だと乳母が申しておりました」


 真剣に言ったのに、ローレンスはパッとうつむき肩を震わせた。

 彼はめったに笑わない。冷静沈着の王子と噂される程度には感情を抑制しており、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

 しかしそう見せかけているだけで、実は笑いの沸点が低いのだろうか。必死に声を抑える様子は普段と印象が異なる。いつもの威厳もすっかり消え去っている。

 完璧に見える王族でも中身は同じ人間なのだと思うと、親近感が湧いてきた。


「そういえば、ローレンスさまは甘いものを食べるのも平気そうですよね」

「ん? 脳の疲労回復に糖分補給は最適だからな」

「父も兄も甘いものが得意ではないので、男性は苦手なのかと思っていました」

「好みは人それぞれだ。っと、そんなに急いで食べるな。別に誰も取ったりしない。口の周りについているぞ」

「え、どこですか?」


 口の周りをペタペタと触っていると、ローレンスが顔をしかめた。


「違う。そこじゃない。……ああもう、じっとしてろ」

「すみません。ありがとうございます。ローレンスさまはお優しいですね」

「ぐっ……。き、君の行動が幼いんだ。もっと淑女らしさを意識したほうがいい」

「淑女らしさ、ですか。難しいですね」

「難しくない。君の年齢ならできて当然だ。優雅に美しくをだな……」


 長くなりそうなお小言を聞き流し、ヴィオラは次の狙いをフォンダンショコラに定めた。優しくフォークを突き立てると、中から溶けたチョコレートがとろりとあふれ出す。視線が釘付けになるのは自然の摂理だと思う。

 欲望のままパクリと一口頬張り、息を呑んだヴィオラは呻いた。


「ううう。どれもとっても美味しいです! 王都のパティシエは皆さん、一流の腕をお持ちなんですね。ほっぺたが落ちちゃいそう〜」

「……君。俺の話を聞いていたか?」

「もちろん、聞いていますよ。淑女らしさは今度、マナー本で学び直してきます。さあさあ、ローレンスさまも召し上がってください。とんでもなく美味しいので、疲れがぱあっと吹き飛びますよ」


 満面の笑みでお菓子を勧めると、ローレンスはきょとんと目を瞬かせた。それから聞き取れないぐらいかすれた声で何かをつぶやいた。


「…………可愛い」

「今、何かおっしゃいまして?」

「んんっ! いや、何も」

「そうですか」


 その日を境に、ローレンスが婚約者に向ける目は優しくなっていった。


 ◇◆◇


 正直、ローレンスの演技力は大したものだった。

 他人が見ていない場所でもヴィオラを一番に考え、恋人のように丁重に扱ってくれる。いつの間にか二人きりのときの口調も棘がなくなり、優しいものに変わっていた。しかも回数を重ねるほど、その糖度は高くなっていく。演技力にも磨きがかかり、彼の溺愛っぷりは日に日にレベルアップした。

 もはや熱愛中であることを疑う者がいなくなるほどに。

 夜会に誘われたときも「そのぅ。我が家は懐が寒く、地味なドレスしか持ち合わせていませんが恥をかかないでしょうか?」と涙ながらに辞退を申し出たら、王子の婚約者にふさわしいドレスと宝飾品と靴が贈られた。もちろん、エスコートも完璧だった。

 おかげでヴィオラは毎日、翻弄されっぱなしだ。


(おかしい。……こんなはずでは)


 演技と頭でわかっていても、本当に愛されているように錯覚してしまう。彼が甘い声とともに笑いかけてくれると心臓が高鳴る。ダメだとわかっていても、彼の挙動一つにときめいてしまう。優しくされるたび、好きがあふれそうになる。偽者の婚約者なのに。

 あくまで、ローレンスは恋人のふりをしているに過ぎない。

 ヴィオラが彼を好きになっても、この想いが実ることは万に一つもない。偽装婚約という契約が終われば彼のそばにはいられない。そもそも自分は第二王子の妃にはふさわしくない。

 いつかは離れる運命なのだ。一緒にいられるタイムリミットはまだわからない。どれだけの時間が残されているのかは神のみぞ知る。

 けれども、もしそのときが来たら。

 ちゃんと笑って彼の幸せを祈ろう。今までの感謝を伝えて彼のもとを去ろう。ぶっつけ本番だと泣き笑いになってしまいそうだから、今夜から寝る前に鏡の前で練習しよう。自然と微笑んで別れを切り出せるように。

 彼の幸せを願うなら、乙女の涙の出番は必要ないのだから。


 ◇◆◇


 終わりは唐突に訪れた。

 交換留学という名目で転入してきたセリーヌ皇女の前で、ローレンスが婚約者にベタ惚れという演技を続けたおかげで、彼女は早々に見切りをつけた。「あたくしを愛せない男などお呼びではないのですわ!」という捨て台詞を残し、交換留学の期限が来る前に帝国に戻っていった。

 彼女が帰国して一月もしないうちに、帝国から正式な発表があった。

 セリーヌ第一皇女が魔術大国の新王に嫁ぐ、と。

 先王が急逝して即位して間もない若き王は、妖精の祝福を受けたような類い稀なる美男という噂だ。あれほど自分の容姿に見劣りしない伴侶を求めていた彼女のことだ。麗しの新王は、きっとセリーヌ皇女のお眼鏡にかなったのだろう。


(夢の時間もこれでおしまい。……ローレンスさまは晴れて自由の身。彼の横にいるべきなのはわたくしではない。田舎令嬢とはいえ、引き際は弁えなくては。ちゃんと笑顔のままお別れするんだ。うん、できる!)


 本音を言えば、もう少し一緒にいたかった。

 けれども、これは期間限定の関係だ。いつかは終わりが来る。それが予定より少し早まっただけだ。みっともなくすがる姿は見せたくない。

 気丈に。なんでもないように振る舞え。仮とはいえ、第二王子の婚約者なのだから。


「これでお役目は果たせましたね。わたくしはいつでも構いませんから、殿下の都合のよいときに婚約を白紙になさってください」


 王族専用のサロンで開かれたお茶会で、ヴィオラは世間話のように話を振る。

 きっと大丈夫。淑女の笑みは崩れていないはずだ。何度もこの日のためにシミュレーションしていたのだから。

 ローレンスは虚を突かれたように目を見開いたかと思えば、徐々に怪訝な顔になっていく。ティーカップを置き、静かな声で問いかけられる。


「君はそれで本当にいいのか?」

「? はい。そういう契約ですので」

「そう、か……」

「今まで過分な待遇を受けたこと、大変ありがたく存じます。殿下と過ごす毎日はわたくしの幸せでした。よき伴侶を迎えられ、今後の殿下の日々が穏やかなものとなりますようにお祈りしております」


 退室の挨拶を済ませて腰を浮かせたところで、ローレンスが声を張り上げた。


「すまないが、予定が変わった。婚約破棄はしない。よって、今日からは本物の婚約者としてお願いしたい」

「んんん……?」


 意味がわからず、とりあえず着席する。

 頬に手を当てながら、先ほどの言葉を反芻する。

 ヴィオラの予想では「ああ。今まで世話になったな。君も元気で」と言われるはずだった。なのに、なぜ。どこを間違えてしまったのか。

 彼にヴィオラを引き留める理由なんてない。ひょっとして、サロンに来る前にローレンスは頭でもぶつけてしまったのだろうか。

 頭の心配をしていると、ローレンスは居心地が悪そうに視線をさまよわせた。


「要するに、だな。君を手放したくなくなった」

「…………どうしましょう。わたくし、とうとう幻聴が聞こえてきました。悪い風邪をひいたのかもしれません。殿下に移す前に急いでお暇しますね」


 体調不良に気づけずお茶会に出席した挙げ句、ローレンスに風邪まで移してしまっては申し訳が立たない。彼も本調子ではなさそうだし、一刻も早く自室にこもって体を休まねば。

 ヴィオラはテーブルに手をついて立ち上がる。淑女の礼を取り、さっと身を翻してドアを目指す。

 だがドアの取っ手をつかむ直前、ガタンと椅子が倒れる音がした。驚いて振り返ると、すぐに焦りに満ちた声が飛んできた。


「ヴィオラ、待ってくれ! 俺の渾身の告白を、空耳と一緒にしないでくれ。……頼む」


 後半の、切実な響きに目を見張る。

 金色の眉は下がり、アイスブルーの瞳は潤んで今にも泣き出す寸前だった。

 そんなバカな。貧乏子爵令嬢が成人間近の王子を泣かせるなど、前代未聞の悪行ではないか。ヴィオラの混乱は頂点に達した。


「え? まさか、幻聴じゃ……ない、……だと?」

「ヴィオラ。口調が乱れている」

「……はっ、失礼しました。予想外の事態に気が動転しました。何のお話でしたでしょう?」


 今ここでぐるぐると考えこんでも、すぐに答えは出ない。ならば悩み事は一旦リセットするに限る。大自然に育まれた貧乏領地出身であっても、自分は貴族令嬢だ。

 冷静沈着に。何があってもうろたえない、取り乱さない。

 ヴィオラは薄く息を吐き出し、淑女らしく微笑んで外面を取り繕う。

 何もなかったのだと自分に言い聞かせ、置き人形になったつもりで心を無にした。ちゃんとした令嬢に擬態できたと安堵していると、ローレンスは物言いたげな目を向けた。

 唇を引き結び、視線を合わす。しばらくそのまま見つめ合う。やがてローレンスは片手で顔を覆い、うなだれてしまった。


「突然のことに脳が理解するのを拒むのもわからなくはないが、記憶を抹消することだけはやめてくれ。普通に凹む。貴族社会で表面上は取り繕えていても、俺だって人並みに傷つくんだぞ」

「……あう。申し訳ありません……」

「わかればいい。では、本題に戻そう。いいな?」

「はい……どうぞ」


 怒られる気配を感じながら先を促すと、咳払いが聞こえてきた。

 ローレンスはテーブルを回り込んでヴィオラの前までやってきて、片膝をつく。それから、胸に手を当て片手を差し出した。

 まるで騎士が姫に忠誠を誓うように。


「――ヴィオラ・セルフォード令嬢。他の男ではなく、俺を選んでくれ。俺にとっても君と過ごす時間はかけがえのない楽しい日々だった。君の代わりなんて誰にも務まらない。俺の心を解きほぐせるのはヴィオラだけだ。俺は、君を妻に望む」

「ななななっ……!?」

「どうか俺の手を取ってほしい」


 ヴィオラは無意識に震える指先を伸ばしかける。

 けれど、途中で我に返った。あわてて手を引っ込めて、自分の胸に押しつけた。


(……あ、危なかった)


 叶うことならば、この手を取りたい。それは本心だ。

 しかし、それはできない。貧乏子爵令嬢が王家に嫁ぐなど、身分差という壁がぶ厚いにもほどがある。平々凡々な見た目、中身も特筆すべきところがない女を娶って、周囲から侮られるのはローレンスである。敬われるべき王族の威信にも傷がつく。

 あとで解消する関係だったから、ヴィオラは婚約者になれたのだ。けれども結婚するとなれば話は別だ。第二王子の妃という地位はヴィオラには荷が重すぎる。

 どれだけ彼を好きでも、お互いが不幸になる結婚は避けるべきだ。

 ヴィオラは自分を慈しむような視線から逃げるように目を伏せ、力なく首を横にふるふると振った。懇願するように自分の両手を握りしめ、震える唇を開く。


「で、殿下……。ですが、あの、わたくしは結婚相手として何もかも不足しております。わたくしは仮初めの婚約者という立場で充分です。どうかお考え直しを……っ」

「ローレンスと、呼んでくれないのか?」


 悲しげな声音で紡がれる言葉に、はっと顔を上げる。

 婚約者のふりをしていた間は、彼のことは名前で呼んでいた。他でもない本人から要望があったからだ。

 しかし、そんな不敬が許される間柄ではもうない。ローレンスはこの国の第二王子であり、ヴィオラはただの子爵家令嬢。いくら学園内は平等にという規律があろうと、臣下としての心構えを忘れてはいけない。本来、気安く話せる間柄ではないのだから。

 この婚約は解消されなければならない。赤の他人に戻るだけ。難しくはない。だって、最初にそういう取り決めをしていたのだから。

 ならば、他の女子生徒と同じように彼を殿下と呼ぶのは何らおかしくない。そのはずだ。けれど、正しいことをしたはずなのに、なぜか胸が締めつけられるように息が詰まる。偽装婚約中、じっと見つめられるのは慣れていたはずなのに心拍数が上がる。視線が痛い。

 ヴィオラは浅い呼吸を繰り返しつつ、口を開けた。


「…………わ、わわわたくしは! 教養も機転も人脈も足りていなくて、とてもお妃様なんて務まりません。殿下には他にもっとふさわしい方がいます……! 決意を固めたわたくしの心をもてあそぶような言動はお控えください」

「そんな寂しいことを言わないでくれ。ヴィオラ、俺は君じゃなければ意味がないんだ。君をこんなにも愛しく思っている。この想いを消せと言われても、もう無理だよ。お願いだ、君はただ頷くだけでいい。教養はこれから身に付ければいい。機転はそういうのが上手な者に手ほどきを受けたらいい。人脈は一緒に築き上げていこう」


 優しい声音はするりと心の中に染み渡っていく。

 彼の言葉は、不安をひとつひとつ丁寧に取り除いてくれる。あれだけ固かった決心が鈍りそうになる。その隙を突くように、ローレンスが言葉を重ねる。


「……それとも、俺と一緒の未来はそんなに嫌かい?」

「い、嫌だなんて滅相もない。どんなときも共にあれればいいと、わたくしも願っています。けれど、ダメなんです。わたくしは……腹芸とか駆け引きとか、そういう小難しいの! たとえ学んでも実践なんてできません! だって……だって、わたくしは自分の性格を直せるとは到底思えませんから」

「…………。それが拒む理由?」

「は、はい。そうです。三つ子の魂百までと申しますように、わたくしはきっと死ぬまで今のまま変わらないでしょう。人間の根本的な性質はそうそう変わらないのです」


 胸を張って言うことではないのは百も承知だ。

 けれども、夢と現実を混同してもらっては困る。取り繕い方をいくら学んだとしても、根本的な部分は変えられない。だからこそ、自分は王族にはふさわしくない。うっかりボロが出て周囲に迷惑をかける未来しか想像できない。

 彼の隣にいるべきなのは、身分も教養も美貌も兼ね備えた名家のご令嬢である。野山を駆け回り、美容やファッションより食欲を優先する残念な令嬢はお呼びではないのだ。

 立ちすくむヴィオラに、ローレンスは柔らかく笑いかけた。


「直す必要なんてないよ」

「……へ?」

「素直な性格はヴィオラの長所だ。変える必要なんてない。俺が好きなのは、ありのまま君だからね。どうかそのままでいてほしい」

「いやいや、何を言っているんです。顔にそのまま感情が出る王族なんていないですよね!? 絶対に無理なやつですよね!? うまく丸め込もうったって、そうはいきませんよ。わたくしは騙されませんから」


 セルフォード子爵家は取るに足りない弱小貴族だが、ヴィオラは何でも信じる父親とは違って警戒心は人並みにある。乳母から世の中の危険な事例を口を酸っぱくして注意され続けてきたのだ。

 つまり、都合のいい話には裏がある。甘い汁を吸うだけ、リスクなんてひとつもない。そんな夢のような話は存在しない。

 世の中には慈善事業ばかりする善人だけではない。悪事に手を染めた貴族は息を吸うように人を騙す。帳簿の数値を偽装する。裏社会の人間に一度カモにされれば逃げることは許されない。軽い気持ちで頷いたら最後、無事では済まされないのだ。あとから、あえて伝えていなかった、なんて可能性だって充分にあり得る。

 むむむっと口を尖らしていると、ローレンスはゆっくりと起き上がった。それから警戒心の高い猫を手懐けるように、優しい口調で諭していく。


「嘘なんて言っていないよ。君みたいに純朴で優しい子は珍しい。裏表がないヴィオラと話すだけで俺はとても心が安らぐ。言葉の裏を読まなくて済むからね。肩の力を抜いて過ごせる相手というのは、案外なかなか見つからないんだ。ヴィオラのような癒やしを与えてくれる存在は貴重なんだよ。……君が離れてしまうと、俺は睡眠不足と食欲不振で過労死するだろうね」

「そ、それはダメです。ちゃんと休んでいただかないと」


 どんなに万能な人でも休息は大事だ。

 体力を過信し過ぎるのはよくない。若さを武器に無理をできる期限は決まっている。蓄積された疲労は忘れた頃にやってくる。「睡眠と適度な運動は、健康で過ごすために欠かせないものですよ。お嬢様」とは乳母の言葉である。ヴィオラはその教えに従って、テスト前だろうとなんだろうと、しっかり睡眠は摂っている。

 王族に課せられた公務は多い。彼が不摂生な生活を送るようになれば、彼だけではなく周囲の人間も困ることになることは想像に難くない。

 本気で心配しているヴィオラに、ローレンスは力なく微笑む。


「俺が心置きなく休むためには、ヴィオラが必要なんだよ。君がいてくれるだけで力が湧いてくる。頑張ろうと思える。君の笑顔はそれだけの力があるんだ」

「え、笑顔……ですか?」

「うん。特に美味しいものを食べるときの君の顔は特別だ。見ているだけで疲れが取れる。ああ、そうそう。王族の責務について思い悩んでいるようだったけど、難しいことは従者に任せればいい。優秀な側近を君につけよう。もちろん、俺がそばにいるときは俺が対処する。それで万事解決だ。サポートは任せて」

「うう。ローレンスさま……」

「素直になって、俺の気持ちを受け入れて? ヴィオラは俺が嫌い?」


 自信なさげに苦笑され、心臓がキュッと締めつけられた。

 この人を一人にしてはダメだ。

 ヴィオラは貴族らしい建前をぽーんと放り投げ、心の衝動のままローレンスに飛びついた。力の限り、ぎゅうぎゅうに抱きつく。締めつけると言い換えてもいい。

 苦しいだろうに、ローレンスは何も言わずにヴィオラの背中に腕を回し、昂ぶった感情を落ち着けるようにポンポンと軽く叩く。

 その弾みで情けない涙がポロポロとこぼれ落ち、彼のワイシャツを濡らしていく。


「す……好きですうううう」

「うん。俺も好きだよ。これで晴れて両思いだね。俺と結婚してくれるよね?」

「ひぐっ……今すぐは無理ですけど……。妃教育に合格できた暁には、ローレンスさまの花嫁さんにしてください」

「ふふ。そういう現実的なところも好きだよ」


 目尻に溜まった涙を人差し指ですくい、瞼にそっと口づけが落とされる。

 キャパオーバーで目元を潤ませてローレンスを見上げる。彼はヴィオラの両頬を包み込み、こつんと額を合わせた。至近距離で澄み切ったアイスブルーの瞳が見つめてくる。


「ねえ、ヴィオラ。君はこれから妃教育で王宮に出向くことが増えると思う。その中でいろいろな出会いもあるし、将来の不安や課題も出てくるだろう。けれど、変わらないこともあるのだと覚えておいてほしい。俺は君との約束をこれから先も守るよ」

「……約束、ですか?」

「君に美味しいお菓子を届けること。今度、外国のお菓子も取り寄せてみようか」


 魅力的な提案に、透明な膜を張っていた瑠璃色が輝きを増す。


「ローレンスさまは神様ですか!?」

「違うよ。今は君の婚約者。そして未来の夫だよ」


 ローレンスは華やかな笑みを浮かべて訂正する。ヴィオラは感極まって婚約者に再び抱きついた。

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先日、「バス通学の園川さんと寮生の三牧くん」という短編を投稿しました。天然系女子と世話好き男子の青春ラブコメです。未読の方はぜひぜひ。

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