第二十一話 教典
小高い丘の上に立つ城。その前で僕とミルは馬を降りた。
「ずいぶん馬の扱いが上手くなったな」
「練習したからね。じゃあ行こうかミル」
城は静けさに包まれていた。兵が伏せていることも考えていたが、その心配は無かったようだ。扉を開けて中に入る。いつの間にか日は落ち、月明かりが城内に差し込んでいた。入ってすぐ両側に、二階へと続く階段。その階段に挟まれ、広い空間の真ん中には見覚えのある台座があった。月の光が差し込む台座。
「これは」
「どうしたんだよ急に」
「この場所を夢で見た事がある」
「じゃあここにセキの記憶が――」
「知っているのか。神の間を」
階段の上から声が聞えてきた。一歩ずつゆっくりと降りてくる人影を月明かりが照らす。デメルギア王城で相対したあの男。男は話を続けた。
「と言ってもこれは私が作った複製品だがね。本当の神の間はもうこの世には無くなった。愚かな人間どもが、神の居城を攻め落とした時に」
男が僕たちの前に立つ。大事そうに抱えた本と共に。
「二人できたのか。命知らずか、英雄気取りか。分かっていると思うが君の剣は私には届かないよ」
ミルが腰に差した剣から手を離す。男の指には黒い指輪と、デメルギアの国王から奪った白い指輪がはめられていた。
「お前の目的は何だ。指輪を集めて何をしようとしている」
「言ったでしょう。在るべきところへ返すと。人は力の使い方を間違えた。戦争は民を苦しめ、不幸を生む。それでも尚、今ですら人は争うことを止めない」
「先に仕掛けてきたのはお前たちだろう」
「何をもって先と言っているのか。あなたは理解しているのかい。司教たちから話を聞けば、あなたの所に黄色の指輪を持つ者が何人かいると。そこの女もその一人。やはり裏切っていましたか」
「何の話をしている」
「もうよい。ここまで来たことは褒めてあげよう。人間たちの大好きな誉れ、名声。そんなものの為に死を選ぶ愚かな人間に神の意思を」
男が手をかざす。たちまち城の床が形を変え始めた。波打つ床の上で僕たちは体勢を崩す。
「セキ」
ミルの体を隆起した床が包み込む。伸ばした手は彼女には届かなかった。後ろに飛び退き、僕は避ける事が出来たが、ミルは石に覆われてしまった。
「地の力。国王の指輪の」
「違う。これは神の力だ」
男が本を開く。
「見せてやろう。人間を憎んだ神の本当の力を。“悪因苦果”悪には悪の報いを与えん」
男が言葉を言い終えると、彼の頭上に無数の矢が現れた。その矢は僕を的と定め、一斉に降り注ぐ。僕は思わず目を覆った。いくつもの矢が空気を裂いて通り過ぎる。だが痛みは無い。目を開くと僕の脚元には行き場を失った矢が転がっていた。
「なぜだ」
男が困惑の表情を浮かべる。
「人間はみな等しく悪。それは変えられない事実のはずだ。“禍重乎地”災いは地よりも重く」
突如月の光が遮られた。見上げると頭上には巨大な石の塊。脚に力を込める。駄目だ間に合わないか。諦めかけた時、何かが僕の背を押した。背後で石が砕ける。振り返るがそこには誰も居ない。今のはいったい。何もわからないまま僕は男に視線を戻した。
狼狽えた様子で僕を見ている男。もう迷ってはいられない。男に近寄り拳を握る。慌てて本を開くがその力は僕には届かなかった。拳は男の顔をゆがめ、体を弾き飛ばす。床に倒れ、本は転がった。
「なぜだ。神よ、人間は……」
男が頬を押さえる。僕は倒れた男の上に跨った。
「今すぐ兵を退き降伏しろ」
「まさか……、まさか神なのですか」
焦点の合わない目で男が呟いた。
「何を言っている」
「祈りは届いたのか。生まれ変わっていたのですね」
「僕は人間だ。神の声を聞いたことも無ければ、特別な力も無いただの人間だ」
「そんなはずはない……」
男は落とした本に手を伸ばす。開かれたそこには“応化利生”の文字。生まれ変わりだと。僕に流れ込んでいた記憶の欠片は神のものだったとでも。いや、そんなはずはない。男の指先が本に触れる。
「あなた様を私は待ち続けました。長年、女神が姿を消したあの日からずっと。ついに、ここに私の祈りは届いた。応化利生、神は姿を人に変え、我が前に再臨されたのですね」
男が言い終えると指輪は黒さを増し、闇が辺りを包み込んだ。まるで夢の中に居るかのような感覚が全身を覆う。意識だけ浮いている。そんな感覚だった。




