田舎令嬢の結婚~田舎子息の場合~
俺には幼い頃からの婚約者がいる。この国の北東部に位置する俺たちの領地は自然が豊かでのびのびと穏やかに生活していた。
俺はシュミット伯爵家の嫡男。シュミット領は大きくはない。邸自体は大きいが他に大きめな庭園があるくらいの敷地で、領民を抱える規模ではない。というのもそこまで歴史のある爵位ではなく、代々投資により潤沢になった家だった。
対して俺の婚約者であるイングリットはマイアー伯爵家の長女だ。マイアー伯爵家はこの地方の中でも広大な領地を持つ伝統貴族で、爵位は同じでも家柄としては上だ。しかし、羽振り良く潤沢であるシュミットとは違い、広大な敷地を利用し領民と共に農業などの産業でコツコツと堅実に領地を運営している。
北東部には高位貴族が少ない。特に歳の近い異性がいた場合には早めに婚約を結ばねば他の地方から獲得しなければならなくなる。俺の婚約はたまたま同い年の同じ家格の令嬢がイングリットだけだったことから、早期に結ばれたものだった。
選択肢がなかったからとはいっても、イングリットは可愛かった。そこはさすが貴族令嬢だ。サラサラと流れるような亜麻色の髪に琥珀色の美しい大きな瞳、何より笑った顔が可愛かった。いつも楽しそうに笑顔を向けてくれる。俺が話をするとじっくりと聞いてくれる。俺がやんちゃする時も一緒になって遊んでしまって怒られることも暫しあった。
この地方の自然を満喫するかのように、俺たちはマイアー領を駆け回っていた。マイアー領で所有している馬を走らせることを気に入っていた俺は、よく訪ねてはやらせてもらっていた。
俺が15歳になると、王都の学院に進学した。貴族の嫡男であるから通るべき道ではあった。この地方の令嬢は学院には通わない。イングリットはというと、少し前から家庭教師による淑女教育やら教養などを学んでいた。
王都に出ると、俺は地方との違いに驚愕した。全てが華やかできらびやかだった。学院には貴族子息令嬢が集い、こんなにも多くの貴族を見たのは初めてのことだった。衣装も見知らぬデザインでとても斬新だった。街に出れば平民とはいえ小綺麗にしている人が多かった。マイアー領民と違って指に土汚れが染み付いている人なんていなかった。俺は王都に馴染むようにと衣装を揃え、髪型も王都に倣った。すると、学院内ですぐに友人が出来た。そして気がつくと周りには美しい令嬢達が常に取り巻くようになった。
「ヨハネス様、本日のお色も素敵ですわね。こちらはどちらの仕立て屋のものですの?」
「ヨハネス様、今度ぜひ昼食をご一緒しませんこと?」
「ヨハネス様、こちらを受け取ってくださいませんか?私が刺繍を施しましたの」
なぜこんなに?
驚いたが友人の話では伯爵令息様は羨ましいだの、何を食べたらそんなに背が高くなるのだ?だの、所詮は見た目なんだろうななどと言っていた。
つまりは俺はモテるらしい。家柄も容姿も体格も令嬢が好むようだ。
俺はこの事実に鼻が高くなった。それはイングリットとの婚約において俺は劣っていると引け目を感じていたからだ。俺は選べる立場に無かったがイングリットしか合う女性がいなかったから婚約が結ばれた。でも彼女からしたらどうか、他にも同じ年頃の貴族子息はいるし、家格も俺ではなくても良いのだ。ところがどうだ。俺は需要があるんだ。俺は選ぶ立場にいることだって出来る、俺が望んだからこそ成り立ってる婚約なのだと思うようになった。
王都での生活になれた頃、帰省をした。婚約者には定期的に贈り物をしなければならない。それが婚約者としての責務だろう。今度イングリットはデビュタントをすると聞いていた。王都で人気の髪飾りを贈り物として選んだ。
「まあ、ヨハネス様。素敵な贈り物ありがとうございます」
俺は違和感を覚えた。あんなに可愛いと思ってたイングリットがそこまで可愛いと思えなかった。髪飾りもなんだか浮いて見える。イングリットの肌はうっすら焼けていて、薄いけれどそばかすが見える。髪は結い上げるわけではなくただ下ろされているだけ、彼女からはいい香りが強くは漂わなかった。
「ああ。まあ、流行りものなんだ。王都ではみんなしてるよ」
「そうなんですね」
穏やかな微笑みも華がないように思えた。ニコニコと笑っていたあの明るい笑顔ではない。一緒にいても楽しいと思えず、俺は早めに切り上げた。
「俺はシュミット家に戻るよ」
「そうなのですか?ではごきげんよう」
言葉遣いも距離感を覚えた。
王都に戻るとまたいつものように友人や令嬢に囲まれる。彼女達は美しい。皆が皆、美しい。透き通るような白い肌はしみ一つなく、髪は綺麗に結い上げたり髪留めで飾られていた。彼女たちが通った後には甘い香りが残っている。ついイングリットと比べてしまう。比べた結果、イングリットは学院に通う令嬢達に劣っているようで、俺は故郷に婚約者がいることを言わずにいた。
学院に通う理由は学問もそうだが、人脈を繋げることにある。貴族が通うこの学院では王族も通っている。さすがに王族は別格だが、学院内では爵位における貴族の上下関係が免除された。その為、違う爵位や家柄でも親友になることもあった。そして簡易的な社交パーティーも頻繁に行われていた。ドレスアップするとさらに王都の格は上がり、それに魅了されていった。潤沢だったシュミット家では、それに順応できるだけの資産もあり、俺はどんどん都会に馴染んでいった。
俺は最終学年になった。優雅で華やかな仲間達と日々過ごす。ここで出会い徐々に婚約するものも増えていった。こんな自然な出会い方もあるのかと感心した。もちろん親が持ち込む家同士による縁談が大半であるが、自分が見つけた人を親に認めて貰い婚約を進めることもあることを知った。
そして、一人の令嬢がよく俺に話しかけてくるようになった。キャメルブロンドをいつも綺麗に結い上げ、赤に近いブラウンの瞳はガーネットのようであった。胸元には宝飾品が輝いていたが、それよりも開けた衣装から見える胸もとの肌の白さに色気を感じ、彼女からはいつも強く甘い香りが漂っていた。
「ごきげんよう、ヨハネス様」
彼女はロジーナといい、ブラント男爵令嬢だった。商売が繁盛しており、家格は下だがそこら辺の伯爵家よりも裕福な暮らしぶりだった。価値観も合い2歳年下とはいえ対等に話せることが楽しかった。
白く美しい肌が目を引き、美しいねといつも自然と褒め称えていたように思う。そんな彼女は、お化粧のおかげかもしれませんと王都でよく売れているという白粉があることを教えてくれた。これはブラント男爵の商会が異国から取り寄せ卸売りしているものだという。さっそくイングリットの次の贈り物にした。
ロジーナとは日に日に距離が縮まっていった。今ではイングリットよりも近い。なぜなら肌を触れ合わせることもあるからだ。そんなある日、ロジーナに社交パーティーのエスコートをお願いされた。月一回くらいは何かしらの社交をしていた為、快く引き受けた。イングリットの社交すらエスコートをしたことがない俺は、人生で初めて令嬢をエスコートしたが、この日のロジーナはとにかく美しく、横に立つことを誇らしく思っていた。辺りを見渡すと令嬢は皆腰が細くくびれており、開いたデコルテに見える肌の白さと微かに見える双丘に魅了された。思えば普段着でさえも似たようなデザインだったなと思った。
会う度にイングリットの評価が下がっていく。そばかすが気になると化粧をしてないからか?と。宝飾品も身につけない。髪もそのままで綺麗に飾ろうとはしない。衣装は首もとまで襟で詰まっていて腰回りはリボンで結んでいる程度。色気なんか感じなかったし、可愛かったはずが美しいとは思えなかった。そしてある時気がついた。彼女は美意識が低すぎると、田舎娘は古臭いのだということに。
そして白粉以外にも香水、そしてコルセットを贈った。仕方ない、俺が贈ってあげないとその知識もなければ金もないのだと。
コルセットを贈り物に選び帰省した日、イングリットは前に贈った白粉で化粧を施していた。正直に言うと美しかった。なんだ、ちゃんと施せば美しいじゃないかと思った。
「やあ、イングリット。今日は綺麗じゃないか。使ってくれたのか。これ、香りも良いだろう?元から顔かたちも悪くないんだから、使えば良いんだよ」
そしてこの日の贈り物である衣装とコルセットを渡す。
王都の令嬢は皆これを身に付けている。流行りも知らないのか?お前は田舎者だな。美しくあることは貴族令嬢としての努めだろう?俺と結婚したらシュミット伯爵夫人になるんだから努力しろよ。恥ずかしいじゃないか。
俺は学院では令嬢に囲まれている。今ではロジーナという恋人とも言えるような人までいる。俺は気が強くなっていた。会えない時は花を贈っていたが、それに回す資金をイングリットが着飾る為のドレスや宝飾品に回してやるかと偉そうに言ってやった。
俺は、イングリットじゃなくても良い。ただ、この地方にいる自分に相応しい令嬢はイングリットしかいないから仕方なかっただけなんだ。この辺ではイングリットは可愛い方だが王都に比べたらそうとは言い難い。都会に住むと意識が高いんだろうなというようなことを伝えると、イングリットは「はあ」となんとも間抜けな返事をしていた。王都では貴族らしくあるために紳士らしく振る舞っている。最近ではイングリットの前でも『僕』と言うようになったが、幼馴染みでもあるという近しい感覚があり、つい当たりが強くなってしまったがまあ言いたいことは言えたし良いだろう。
こうして俺は王都に戻ったのだが、なにやら回りが騒がしい。
「ヨハネス、お前ロジーナと婚約してたんだな」
「は?」
「恋仲だとは思ってたけどさ、よく親を説得できたな。ずいぶんと家格に差があるじゃないか」
「え?」
「何だよ、ロジーナのデビュタントをエスコートしただろ?ってことはお前がロジーナの婚約者だとお披露目したことになるじゃないか」
「デビュタント?」
「え?まさかデビュタントだと知らずにエスコートしたのか?」
友人の話では、王都ではデビュタントのエスコートを父兄弟以外では婚約者が担うという。そんな決まりは北東部ではなかった。
驚愕の事実を知ったところでロジーナが寄ってくるとさらに驚くことを口にした。
「ヨハネス様、いつ伯爵様にはご挨拶に伺えますの?父が身分を考えたらこちらからそちらに伺うべきだろうと申しておりますの」
「何のことだ?」
「何のって、私達の婚約のことですわ」
「婚約!?」
「ええ。私のデビュタントをエスコートしてくださいましたでしょ?私にそのようなお相手がいたことを父も驚いておりましたのよ?デビュタント以降に私の縁談を用意するつもりだったようなのですが、伯爵令息でいらっしゃるヨハネス様だけに異論もないそうですわ」
「デビュタントのエスコート…」
「ええ。デビュタントのエスコートは父兄弟以外では婚約者が担いますでしょ?ヨハネス様は引き受けてくださいましたし、そういうおつもりで宜しいんですわよね?私の初めてを貰ってくださったじゃないですか」
初めてといってもキスだ。その先はまだしていない。いや、それよりもあの社交パーティーがデビュタントだと?そんなことロジーナには言われていない。そもそも俺にはイングリットという婚約者がいる。それなのに他の令嬢のデビュタントのエスコートをしてしまった。軽率だった。どちらにも本当のことなど言えぬ。
「貴族の婚約というのは家同士が結ぶことが多い。済まないが一度持ち帰らせてくれ。父に話を通したい」
「ええ。お待ちしておりますわ」
不味いことになった。明らかに俺の失態だ。だが待てよ?学院で出会って婚約を結んでいる者たちもいるんだ。俺の婚約は幼い時の約束に過ぎないのではないだろうか?俺は王都では需要があるんだ。イングリットじゃなくても俺と結婚したい人はいくらでもいる。ただ、ロジーナは男爵令嬢だ。ロジーナが伯爵令嬢であれば問題なかっただろうが、格差は否めない。友人が言っていたように、父上を上手く説得しなければならない。ただ幸いなことに、ブラント男爵は成金だ。もしかしたらうちよりも資金はあるかもしれない。そこにかけよう。
そして俺は急遽北東部に帰省した。
「婚約者を変更できないかだと?」
「はい。実は王都で懇意にしている人がいます。彼女も僕を好いてくれていて、僕らは愛し合っているんです」
「何をぬかしているのだ!?婚約者がいるものが他の女性と愛し合っているだと?百歩譲って好いた女性がいるというのは理解しよう。しかし、愛し合っているというのは何事か!?」
「あ、愛し合っているというよりは、両思いだということです」
「体の関係はないということだな?」
「勿論です!」
「…で?その令嬢はどのような人物だ?」
「ロジーナ・ブラント男爵令嬢です」
「だ、男爵令嬢だと!?」
それを聞くや否や伯爵は目を見開き、伯爵夫人は目眩を起こした。
「で、ですが!ブラント商会を立ち上げている裕福な家柄です」
「あのブラント商会か?」
投資活動を生業としているシュミット伯爵は経済の動きに敏感だった。
「…。なるほど。で?お前はマイアー伯爵令嬢よりもブラント男爵令嬢を妻に迎えたいということか?」
「はい!彼女は美しく、横に携えるには華があります。社交の機会も多いですし夫人としての役割を務めてくれましょう。同じように潤沢した家柄で価値観も似ています。イングリットよりも僕に相応しいと思っています」
「ふむ。では、先にマイアー伯爵に婚約の白紙を求める」
「破棄ではなくてですか?」
「何を言っとるか。あちらに非はない。こちらの有責となれば慰謝料が発生する。情に訴え白紙もしくは解消にもっていくのだ。段階を踏まねばブラント男爵側にも婚約を申し入れられないだろう。先に婚約を結んでしまうとそれこそ反故により慰謝料が発生するではないか」
そして父はすぐに先触れを出し、マイアー伯爵と面会をした。
しかし、相手の方が上手だった。むしろ自分が浅はか過ぎた。イングリットには弟がいて、同じ学院に通っていたのだ。俺はモテていたが為に目立っていたことだろう。彼が噂を耳にしていてもおかしくはなかった。俺がどれだけ不誠実であったかがマイアー伯爵に知られていたのだ。結果として、シュミット側の反故により婚約破棄に伴う慰謝料を支払うことになった。
「なぜ、ロジーナ嬢のデビュタントのエスコートをしたことを黙っていた。イングリット嬢のエスコートすらしたことないのに。公の場での噂はすぐに広まる。もう王都ではお前とロジーナ嬢が婚約していることになっているのではないか?」
「…はい」
「本当にまだ手は出していないんだろうな?」
「…キスはしました。それ以上のことはしていません」
「はあぁぁ。全く。こちらが有利に話を進められるか怪しいな。とはいえ家格はこちらが上だ。それも格差がある。向こうとしても伯爵家に娘が嫁ぐことは魅力的であろう。だがもう外堀が埋まってしまっている以上はどんな条件であれ婚約を結ばねばならなくなっているということを理解しろ」
父の言っていることを、俺はこの時きちんと理解できていなかった。
◇◇◇
日取りを決め、ロジーナとブラント男爵を北東部のシュミット伯爵邸に招待した。
応接室で待っていたロジーナは不満げな顔を覗かせていた。対する男爵はホクホク顔だ。
「遠路遙々お越しいただき感謝する。さて、うちのヨハネスがロジーナ嬢と懇意にさせて貰っていると聞いている。なんでも、デビュタントのエスコート役を担ったと」
「はい。その節は驚きましたが、まさか伯爵令息様とその様な間柄だとは思いませんで、学院内では二人の仲は有名だそうで、先のお話を進めていただきたいと存じます」
「…そうでしたか」
男爵の話を聞くと、父上は俺を見据えてきた。何か不都合があるのだろうか?
「では、二人の婚約についてだが…」
そう父上が切り出すと、ロジーナは何を思ったか口を挟んできた。
「あの、伯爵様?私ヨハネス様から伯爵邸は地方にありますが比較的街に近いと教えてもらってましたの。道中には街と呼べるような街はなかったように思うのですが、もっと奥地にございますの?」
「いや、この奥は何もないが?いくつか商店があったであろう?それにこの辺は行商にきて貰っている。我々が街へ行くなんてことはほとんどないが?」
「え?あれが商店?ヨハネス様、どういうことですの?」
「いや、その通りだが…?」
何かおかしかっただろうか?
顔を真っ赤にして震えだしたロジーナを見て、男爵の顔は青ざめていた。
「ロジーナ。シュミット伯爵邸は地方にあると聞いていたんだろう?地方とはこのように王都とは環境が違うのだ。街がなんだ。伯爵様も仰られたではないか、行商を呼んでいると。不自由はない。いいか?男爵令嬢のお前が伯爵令息に見初められたのだぞ!?すごいことであると理解しているか?」
「ですが、お父様?思っていたのと違いますわよ?伯爵邸もこの辺一体では一等に大きいようですが、我が男爵邸もこちらと似たような大きさですわよ?」
男爵はさらに青ざめ、父上の顔色を窺っている。父上も俺もロジーナの口から吐かれるセリフに唖然という言葉が合うだろうか。
「あの、伯爵様?こちらのお屋敷から奥の土地は領地ですの?」
「いや、我が領地はこの庭園だけだが?」
「え?でしたら、別邸をどちらかに所有してございますの?」
「いや、ないが?」
話が違うとばかりにロジーナはあれこれ質問してくる。
「私、伯爵夫人になれば今よりも裕福に暮らせるものとばかり思ってましたのよ?それなのになんですの?ヨハネス様は見栄を張っておられましたの?それとも伯爵という地位はこんなものですの?」
「は?」
父上は信じられないという表情でロジーナを見つめている。俺はロジーナの真意がわからなかった。
そもそも裕福さと家格は直結しない。家格や身分を敬わない態度に不敬にも程があり、貴族教育や淑女教育の不十分さ未熟さ、むしろロジーナの貴族であるための素質のなさが露呈された。
男爵はオロオロとするばかりで、もう父上の方に顔を向けることが出来ずにいる。
「ヨハネスよ。お前はこの令嬢のどこに伯爵夫人としての適合性を見出だしたのだ?どこまでも浅はかだな。見目だけで中身が全く伴っておらぬではないか。こんなに失礼な者は見たこともない」
女性の声がキャンキャンと騒がしかったのか、母上が何事かと部屋にやってきた。
「どうなさったの?騒々しいではありませんか」
その母上の姿を見て、さらにロジーナは毒づいた。
「えっ!?どなたですの?こちらは使用人が勝手に主人に意見するんですの?」
「は?」
母上は驚きのあまりその場で固まってしまった。
「ロジーナ。こちらは私の母上だ。伯爵夫人でありこの邸の女主人だ」
「まあ!あまりにもくたびれた衣装でしたからお仕えの者かと思いましたわ。こちらの流行りですの?古臭いこと」
古臭いだと?母上はいつも身綺麗にしているが?失礼にも程があり過ぎやしないか?さらには正体を知っても尚不敬な発言を続ける様に、俺は心が冷めていくのを感じた。父上ももう観念ならなかった。
「ブラント男爵。この話はなかったことにしてもらいたい。お引き取りを」
「た、大変失礼いたしました。しかし、王都ではヨハネス様とロジーナは婚約していることになっております故、それなりに責任を…」
「知らん。そもそもデビュタントのエスコート役をまだ婚約を結んでもいない相手に任せること事態が間違ってはいないか?順番が違うのはどちらか?偽証やそもそも不敬で訴えても良いのだが?…商売に影響が出ないと良いですね」
男爵はロジーナを引きずるように伯爵邸を後にした。
「…ヨハネス。この落とし前はどのようにつけるつもりだ?何がこの伯爵夫人に相応しいだと?イングリット嬢とはもう破談になっているのだぞ?」
「申し訳ございません、父上。ですが、令嬢はロジーナだけではありませんし、王都では僕は人気があるのです。いくらでも候補はおります」
「私の言っていることを理解していないのか?外堀が埋まってしまっていると言ったであろう?そもそも王都ではロジーナと婚約していると噂されているのだろう?他の令嬢と破談になっているお前の価値は下がるだろうな。そもそもあんな女を見初めていたとされるお前の評価は低いだろう。王都で見つかるとは思えないな」
やっと理解した。俺はなんてお粗末なのだろうか。
学院に戻ると既にロジーナによって言い散らされていた。
俺は邸とその庭しか領地を持たないど田舎の伯爵令息だと。田舎も田舎で何もない。ただ自然が広がっているだけだと。
見目が良かっただけの男という評価に、令嬢の取り巻きはいなくなった。友人はというと冷ややかに側にいるだけだった。伯爵令息という身分は貴族社会においては重要だ。友人だった子爵令息にとっては、貴重な存在なのだろう。
しかし評価が下がったのは俺だけではない。ロジーナもまた貴族教育や淑女教育の不十分さ未熟さ、貴族としての素質なさに関して周囲も気づくところになり、孤立していった。
友人が言うには、あんな自分を引き立てるお飾りの男を探してるだけの女に捕まるわけないと。お前も似たようなもんだったからある意味お似合いだったけどなという言葉は聞こえなかった振りをした。
◇◇◇
半年後には卒業し、俺は僅かに残った人脈だけを得て伯爵邸に戻った。
父上も母上も俺には何も期待していない。あれから父上は北東部の貴族を家格も年齢も関係なく当たっているが、田舎の婚約は早く、妥協できる令嬢はもう残っていないと言っていた。母上はあんなことがあっても変わらず今まで通りの衣装に身を包んでいた。でも今俺はこの姿を古臭いとは思わない。これはあの日イングリットが身に付けていたものと同じような衣装なのにもかかわらずだ。この北東部においてはこのデザインこそが主流であり、自然豊かな景観と合わせるととても優美に見えるものであると知った。俺はイングリットに何て言ったか。ロジーナが母上に言ったのと同じようにゆるゆるでくたびれて田舎者、古臭いって伝えたんじゃなかったか?
イングリットはというと、俺と婚約破棄したすぐ後にアダムベルト辺境伯と婚約したと聞いた。俺たちは18歳となり成人を迎えていたがそれでもすぐにイングリットは新しく縁談を結ぶことが出来たということに、マイアー伯爵に許可を得たからこそ俺は婚約出来ただけ、イングリットは選択肢が豊富にあり選ぶ側なのだと身をもって知った。それも相手は妥協などではない。歳は離れてるとはいえ初婚になる身分も格上の美丈夫だ。イングリットを切り捨て手放したことの後悔が今更ながら襲ってきた。
さらに一年後、同窓生だった王太子殿下が婚約を発表した。それは建国記念日であり、王都で国内の貴族を集めた大きなパーティーでの出来事だった。これは婚約者探しのチャンスとばかりに父上に連れられて俺も参加をした。
そこで見たのは、30歳を迎えたばかりのアダムベルト辺境伯とその夫人となったイングリットの姿だった。アダムベルト辺境伯は気品溢れ物腰も穏やかで美しい紳士だったが、その横で霞むことなく輝きを放っているイングリットに俺は目が釘付けになった。
イングリットは俺に気がついたのか辺境伯に声をかけると二人でこちらに向かってきた。
「これはシュミット伯爵令息ではありませんか。伯爵の代理ですか?」
アダムベルト辺境伯は爽やかに話しかけてきた。地方の貴族で当主が未だ現役である俺がここにいることは不自然なものだった。
「いえ、王太子殿下とは同窓生なのですよ」
「ああ、では直接のご招待ですか?」
「まあ」
本当のことなど言えなかった。
「学院をご卒業されてからは何をされているのですか?」
今度はイングリットが穏やかな笑みを浮かべ聞いてきた。
「今は父の仕事を学ばせてもらってます。いつか引き継ぐ事業ですから」
「そうですか。知識も必要ですし人脈も重要な事業でいらっしゃいますから、貴方を支えてくださる聡明な方が現れるとよろしいですね」
ああ、そうか、彼女はシュミット伯爵家の仕事も理解している。花嫁修業をしていたのだから当然だ。そして、暗く感じていた笑みは、社交における貴族のそれであり、淑女の嗜みであったことに気がつくのであった。少女のように楽しく笑うなんてことは表ではしないのだ。
今日のイングリットの顔にそばかすなんか見当たらなかった。透き通るように美しい肌に、さらさらと流れる亜麻色の髪が映える。長く絹糸のように流れる髪はそれを活かすように纏められ、彼女の愛らしい顔に似合うデザインの施された髪飾りでとめられていた。王都で流行っている宝石でゴテゴテしたようなものなんかではない。衣装もコルセットを使ってはいなかった。それなのにこの衣装は彼女を魅力的に見せるアイテムのひとつとなっていた。
そこに王都の貴婦人らが集まってきた。俺は数歩下がり様子を窺った。
「とてもお美しくてお声をかけても良いのか迷っていましたの。私アルテンブルク公爵夫人のマルガレーテと申しますわ。あとこちらが・・・・」
夫人らを代表して最も家格が上である公爵夫人が声をかけている。
「皆様ごきげんよう。私アダムベルト辺境伯夫人のイングリットと申します。実は王都には初めて足を運びましたの。お恥ずかしながら生まれも育ちも北東部でして…」
イングリットは自分の故郷を隠すことなく打ち明けていた。
「まあ、そうでいらっしゃいますの?とても洗練されていらっしゃったから、地方からお越しになったとは思いませんでしたわ。北東部といえば自然が豊かな環境ですわよね?それにしてもとても素敵ですわ。そちらのお衣装は王都では見ませんが北東部の流行りでいらっしゃいますの?貴女をより美しく引き立てていらっしゃいますわね。よろしければどこの仕立て屋でお作りになったのか教えていただいてもよろしくて?」
「ええ。ですが、こちらで流行っているコルセットを使わないものですよ?」
「それでもこれだけお美しく見せれるのですもの。使わなくて済むに越したことはございませんわよ。ここだけの話、とても窮屈ですものね」
使っている夫人たちは好き好んで使っているわけではなかった。
「そうですね。この衣装はこの日の為に用意したものですが、私ではなく主人が作成を依頼してくれたものでして、私は詳しくは存じ上げないのです」
その答えに貴婦人らは、あらまぁと感嘆の声を上げた。
「こちらの衣装は北東部で主流となっているものをパーティー用に改良したものです。王都ではコルセットの使用が主流であるとお聞きしておりましたが、この通り妻の体型ではコルセットで締め上げるのが難しく似合わないんです。流行りものもあるかと思いますが、お似合いになるものをお召しになるとさらにお美しくなると思いますよ。皆さんもご主人におねだりされてはいかがですか?」
アダムベルト辺境伯の説明に、「あらまあ///」と貴婦人らは再び感嘆の声を上げた。
イングリットは元々田舎の領地を駆け回ったり乗馬も嗜む為適度に引き締まった身体をしていた。腰回りは細く、ふっくらしていたのではなく胸が豊かだったのだ。コルセットを身に付けようとした場合、ウエストを絞めようとすると胸もまた押し潰され呼吸ができなくなり、胸に合わせて絞めるとウエストは絞めきれずかえって太って見えてしまったのだ。ヴィクトールが用意した衣装はウエスト部分が自然と絞まって見えるデザインでさらに北東で主流のリボンで絞める着方をする。いつも胸元を露出することなく首もとまで襟で隠していたが、この日はパーティーということで双丘がイヤらしくない程度に綺麗に見える所まで首もとを露にしたデザインとなっていた。
俺は、イングリットがこんなに魅惑的な身体つきであるなんて思ってもいなかった。
「そういえば夫人のお髪もお肌もお美しいですこと。何か秘訣はございますの?」
「私の髪はまっすぐなのが自慢できるところですの。日頃から結い上げたりせず傷まないようにおろしていることが多いですわね。それと私は元々肌が弱いのです。お化粧をするとかぶれてしまうのが悩みだったのです。そこで主人が天然由来の化粧品を贈ってくれまして、ただ、高価な物でしたからもっと手に取りやすいように自身で製品化しましたの。私の生家で製造しておりますから国産品ですわ。輸入品より安価で安全ですのよ」
「たしか、1年程前に粗悪品が出回っておりましたものね」
「ええ、あれは酷かったわ。施してる間はとても美しく見せることが出来ましたけれど、素肌は見せられる状態ではなくなってしまいましたもの」
「流行り物に飛び付いて良くないこともあるものだわって勉強になりましたわ」
ブラント男爵の商会で扱っていた白粉は、爆発的に貴族の間に出回ったが健康被害も多く報告され、購入する人はいなくなった。それだけに止まらず、ブラント商会の目利きの信用は地に落ち、事業は打ち切りとなった。あれだけ美しいと思っていたロジーナは着飾ることも出来なくなると、素顔は醜かった。毛先はボサボサに傷んでいた。化粧によって上塗りすることで、髪を纏めあげていたことで作り上げていた上辺だけの美しさだった。
俺が贈った贈り物のおかげで、イングリットは商才の才能を開花させた。北東部での信頼が厚かったイングリット・マイアー伯爵令嬢は、アダムベルト辺境伯夫人になったことで辺境伯の愛と支援を得て、美しく輝く事業主として活躍している。
イングリットは美しくなる努力をしてない訳じゃなかったのか?彼女なりに気を遣っていた結果だったのだろう。今となってはとても美しいじゃないか。よく見ればアダムベルト辺境伯の衣装も王都の流行りではない。北東部の着飾る時の一般的な衣装だ。二人は領地にいる時と変わりないはずなのに誰も二人を田舎者だなんて揶揄しないじゃないか。堂々と胸を張って良い。俺は伯爵子息なんだ。あれがあるべき姿だ。俺は輝く二人の姿を目に焼き付け、己の自信に繋げた。
「あの、イングリット様?先ほどお二人とお話しされていた紳士はどなたでしたの?今もこちらを見ていらっしゃいますけど」
「あの方は、シュミット伯爵令息のヨハネス様ですわ。私の幼馴染みですの」
「幼馴染みといいますと、あの方も北東部の方ですの?」
「ええ」
「どおりで…」
「「?」」
イングリットとヴィクトールは顔を見合わせた。
◇◇◇
この日もヨハネスは王都で社交に勤しんでいた。
「やあ。貴女のようにお美しい女性は初めて見ますが、このようなパーティーは初めてですか?」
「ええ」
「よろしかったら私が案内して差し上げましょう」
「いえ、結構ですわ。連れがおりますの」
令嬢はいそいそとその場を去った。
「声かけられていましたけど大丈夫でした?」
「ビックリしましたわ。あれが有名な田舎令息でしょう?」
「ええ。そうよ。あの有名な目利きの出来ないボンクラですわ」
「まだ自分はかっこいいとでも思ってらっしゃるのかしら?」
「30歳にもなってパーティーで嫁探ししてる伯爵子息に、誰も興味なんてありませんのにね」
「自分で伯爵令息の…って名乗るんでしょう?」
「伯爵様も引退なさらず現役でお務めになっているってことは、後を任せられないのよ」
「それにお声をかけるのもデビュタント間もない10代の未成年ばかりですのよ」
「なんて気持ち悪いの。でもほとんどの令嬢はあの方を要注意人物だと警戒してるもの。まだ知られていないご令嬢にお声かけするしかないのよ」
「まあ、なんてことなの?あんなおじさんに興味はありませんのにね」
「まったくですわね。田舎臭いし古臭い身なりですこと。歳を重ねているという自覚がありませんものね」
自分の上辺すらも価値がなくなっていることに、ヨハネスはまだ気づいていなかったのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
作者のモチベーションに繋がりますので、よろしかったら、評価していただけると嬉しく思います。