田舎令嬢の結婚
マイアー伯爵の長女イングリットは今年18歳を迎えた。このマイアー伯爵の領地はこの国の北東部に位置し、広大な領地を所有していた。多くの領民と共に農業や畜産、酪農などといった産業により生計をたて、領地を運営していた。
イングリットには同い年の婚約者が存在する。彼は同じく北東部にあるシュミット伯爵家長男のヨハネスという。シュミット伯爵領は大きくはなく、投資活動によって生計をたて領地を運営していた。
この二人の婚約は、同じ年に同じく伯爵家に生まれたという理由で、高位貴族の少ない北東地方において結ばれるべくして結ばれたものであった。
イングリットは亜麻色の髪に琥珀色の瞳を持ち、少し日に焼けた肌が健康的で、薄いそばかすがトレードマークとはいえ、顔かたちの愛らしい女性だった。イングリットはマイアー伯爵家の領地運営の手伝いをしながら使用人や領民たちと共にのびのびと暮らしていた。土いじりをしたり家畜の世話をしたりと令嬢らしからぬ暮らしぶりであるが、性格は穏やかで心優しいイングリットは皆から好かれ、そんな娘が両親にとっては自慢であり誇らしくもあった。イングリットには2歳下に弟のエルンストがいて、今は経営学を含む学問と社交を兼ねて王都にある学院に通っている。跡を継ぐのはこのエルンストで、イングリットはシュミット家に嫁ぐ為に花嫁修行中でもある。
婚約者であるヨハネスはというと、弟エルンストと同じように嫡男であることから学問と社交を兼ねて王都にある学院に通っている。この地が遠方であることから寮に住んでおり、帰省するのは年に数回だ。その際にはイングリットとの交流の時間も設けているのだが、この生活が3年目ともなるとその時間は短くなっていった。
「やあ、イングリット。今日は綺麗じゃないか。使ってくれたのか」
「ええ。貴方がそうしろと仰っていたじゃないですか」
使っているのは白粉だ。以前にヨハネスから贈られた物であるが、イングリットはそれが好きではなかった為使わなかったところ窘められたのだ。この日はヨハネスと面会予定であった為、嫌々使っていた。
「これ、香りも良いだろう?元から顔かたちも悪くないんだから、使えば良いんだよ。そうだ!今日はこれを君に」
渡されたのは衣装とコルセットだった。
「何ですの?こちらは」
「何って、王都の令嬢は皆これを身に付けているぞ?流行りも知らないのか?王都は社交の機会も多いし、これを身につけているととても美しく見える。そんなゆるゆるのくたびれたドレスを着てる令嬢なんて田舎者だよ」
「だって、ここは地方ですし、田舎ですわ」
「だからって美しくあることは貴族令嬢としての努めだろう?ま、伯爵家といっても君のところは農家って言ってもいいもんな。そんな余裕もないか。でも僕と結婚したらいつかシュミット伯爵夫人になるってことだろ?恥ずかしくて社交になんか連れていけないじゃないか。こうやって時々贈り物してやるから努力しろよ?前みたいに花とかはなくて良いだろう?」
ヨハネスは会えない日が続くときは花や手紙を贈ってくれていた。しかしその頻度もぐんと減った。そしていつからか、イングリットを横に置けるか、連れて歩けるかと見定めるようになった。
(王都がどんな所か知らないけど、どんどん王都に染まっていってるわね)
「僕はさ、別に君じゃなくても良いんだ。ただ、この地方にいる伯爵令嬢といったらイングリットだけだし、年頃もちょうど良いのはイングリットだけだし、この辺の子爵令嬢や男爵令嬢よりもイングリットの方がまだ可愛いからな。そこはやっぱり家格が顔に出るのかな?でも王都は全然違うんだ。平民ですら可愛い子が多い。都会に住むと意識が高いんだろうな」
「はあ」
イングリットはヨハネスに対しお前も田舎者だろうと思ったが、男女では少々事情が異なるようだった。
広大な敷地を持つマイアー領を借りて幼い頃から馬を乗り回していたヨハネスは、騎士と同じような体つきに程よく日に焼け健康的に見えることから、男らしさが欠けている王都にいる貴族子息とは違うところが王都の貴族令嬢の心に刺さったようだ。
(まあ、ブロンドに翠色の瞳もポイントは高いんでしょうね)
こんな性格だったろうか?とても純粋に田舎でのびのびと育ち、嫌味っぽいことは言わなかったはずなのに。もうすっかり都会に被れている。
そして用が済んだのか、言いたいことだけ言ってヨハネスは戻っていった。
「お嬢様、どうされます?もうちょっと絞めてみます?」
「ううん、もうやめとくわ。きっと身につける機会はないわよ、似合わないし」
早速侍女のメラニーと貰った衣装を身に付けてみた。苦しいだけだし、どうがんばっても似合わなかった。そもそもサイズは他にないのだろうか?
「たぶん、こういうものなんですよね?他にサイズはないと思いますし、あったとしてもこれがお嬢様に合ってるサイズだと思いますし」
メラニーも同じ感想を持ったようだ。
「さて、早く脱いで早めに湯浴みをしましょう!また大変なことになっちゃいます」
「ええ、そうね」
◇◇◇
翌日、マイアー伯爵の元に客人が来た。領地が隣接するヴィクトール・アダムベルト辺境伯だった。
「先日また獣が目撃されてね、罠を仕掛けておいたんだ。しばらくは近付かないようにそちらでも注意していただきたい」
「そうでしたか、それはいつも策を講じていただきありがとうございます」
10年ほど前になるだろうか。イングリットが領地で遊んでいたところ、辺境伯領との境まで行って迷ってしまったことがあった。その時たまたま狩猟していたヴィクトールに助けてもらった縁で、ヴィクトールは定期的に領地の境目を見回ってくれるのだ。
「我が領地の獣がそちらで悪さをしてもらっては困るからね。せっかくのマイアー領の作物が荒らされては大問題だ」
ヴィクトールはシルバーブロンドにサファイアのような青い瞳の美丈夫だ。成人する頃に先代が亡くなり、辺境伯を継いでいる。領地の運営も問題なく、国の辺境を治めるだけあって武術にも長けている。しかし28歳にもなろう男が未だに婚約者もおらず独身でいる。噂では隣国の侯爵令嬢との縁談が破談になったことが尾を引いているというのだ。
「時に伯爵。今日はイングリット嬢はお見えにならないのですか?」
いつもならばイングリットが顔を出す。助けられて以降、イングリットはこのヴィクトールに懐いているのだ。
「そういえば、そうだな。イングリットは今何をしてる?」
「確認して参ります」
伯爵が執事に声をかけると彼は確認して戻ってきた。
「旦那様、イングリット様は本日は体調が優れないとのことで、お部屋に籠ってございます」
「どうした?珍しいな。朝はそんなことなかったであろう?」
「あの、見舞っても宜しいですか?お声だけでも聞いて帰ろうと思うのですが…」
「ええ、構いませんよ。どうぞお声をおかけになってくださいますか?」
にこやかにマイアー伯爵は送り出す。そして執事がヴィクトールを扉の前まで案内した。
「イングリット様、こちらにアダムベルト辺境伯様がお見えになっております」
中からはガタガタと物音がする。
「イングリット嬢?お加減はいかがです?お声だけでもお聞かせ願えませんか?」
「ヴィクトール様、ごきげんよう。大丈夫ですよ。体調は大丈夫なんです!」
声はとても元気だった。ではどこに問題があるのだろうか?
「では、お顔だけでもお見せ願えませんか?」
「!!!それはっ!今日は出来ません」
「?」
また中でなにやら音がする、といっても揉めてる声がする。
そして中からメラニーが出てきた。
「申し訳ございません、辺境伯様。本日はお会いになれないそうです」
「…そうか。わかった。ゆっくり休んでください、イングリット嬢」
こうしてヴィクトールは戻っていった。
しばらくして、メラニーがイングリットの部屋に戻ってきた。
「お帰りになったの?メラニー」
「はい。またお会いできる日を楽しみにしていると仰ってましたよ」
「そう…」
「せっかくご訪問いただきましたのに…。よりによって本日だなんて…」
「本当よね。残念だわ」
これもヨハネスのせいだった。関係はほぼ幼馴染みの名ばかりの婚約者のせいであった。
◇◇◇
そこから数日後のことだった。
険しい顔をしたエルンストが帰省した。
「ちょっと、お耳にいれた方が良いかと思いまして」
予定にはなかった帰省に、マイアー伯爵夫妻もイングリットも何事かと集まった。
「何だね?それは?」
「本当ですの?」
マイアー伯爵夫妻は驚いてはいるものの冷静であった。
「そうですか…」
イングリットはというと、こちらもまた冷静であった。
エルンストは2年先輩になるヨハネスと同じ学院に通っている。エルンストの話ではこうだ。
エルンストが田舎にいる頃から、ヨハネスが王都に行った後も婚約者としての責務もきちんと努めるようにマイアー伯爵家にも顔を出し、姉イングリットに贈り物をする姿も見られた為何も問題ないかと思っていたが、王都で生活を始めると学院ではどうも様子が違うことを知った。王都ではヨハネスはとてもモテており、回りにはいつもきらびやかなご令嬢をはべらかせているというのだ。中でもロジーナ・ブラント男爵令嬢とは懇意にしているらしく学院では恋人だと噂されているらしい。そしてヨハネスはその噂を否定することがないどころか田舎に婚約者がいるということを明かしていないというのだ。さらにはロジーナのデビュタントにエスコート役として帯同したというのだ。北東部では知人男子が行うこともあるため不自然ではないのだが、王都では身内男子(父や兄弟)あるいは婚約者のみがその役を担うのだという。そこで新たにヨハネスとロジーナは婚約したという噂まで出ているというのだ。
これがエルンストが険しい顔をしていた理由である。
「それが本当だとしたら許せんな。イングリット を何だと思ってるんだ?馬鹿にしとるのか?」
「イングリット、貴女は何かご存知?」
「…何も知りませんが、ただ、ヨハネス様は王都に行かれてからずいぶんと華やかになられたなとは思っていました」
ずいぶんと垢抜けた。田舎ならではの武骨さが無くなり、貴族子息らしくなった。
「それは、確かに。そういえば、贈り物は何を頂いていたの?お花とかですか?お菓子?貴女が大切に何かを持っている様子は無いですし、そういった形に残らない物でしたの?」
女性目線でなされる質問に、初めてイングリットは母に打ち明けた。
「それが、白粉や香水、あとは衣装、それも王都で流行っているというコルセットなどです」
「は?何ですの?それ。それを身につけろということですの?」
母は贈り物への意味を質問した。
「はい。おそらく。『君もこういうものを身につけるくらいしたらどうか』と言われましたので」
「なんだその言い方は?ありのままのイングリットでは不満だというのか?」
静観していた父も流石に口を挟んだ。
「よくわかりません。ただ、貰ってから一度身につけてみたのですが、どれも私には合わなくて。次にヨハネス様がお見えになった時に私が今までと変わらぬ格好でおりましたら機嫌を悪くされてしまって…。先日は仕方なく身に付けましたらやはり体調を崩しましたし。もしかしたら、私に愛想をつかしてしまわれたから他のご令嬢と仲良くされているのでしょうか?」
「いや、だとしてもイングリットとヨハネスはただの恋人という関係ではない。婚約者だ。他の令嬢と親しくするというのは間違っている。もし、そうであれば婚約を解消してから次のご令嬢を探すべきであろう」
父である伯爵は憤っていた。
「で?エルンスト。その男爵令嬢とやらは何者なのだ?」
「噂ではブラント男爵は新興貴族でして、輸出入の卸売り業といった商売で成功した成金貴族です。ロジーナ嬢は華やかでお美しくはありますが、僕の好みではありませんね」
「なるほどな。それはシュミット伯爵が好みそうな家柄だな」
「「え?」」
「…?」
伯爵夫人とエルンストは声をあげ、イングリットもまたなぜ?といった様子だった。
「お相手は男爵令嬢なのですよね?『好みそう』ですか?」
伯爵夫人は意味がわからないといった様子だ。
「シュミット伯爵は金が好きだからな」
それを聞き頭の中を整理したエルンストも問う。
「爵位という意味ではなく勢力ということですか?」
「そういうことだ。田舎の農地より金だろうな」
もしヨハネスが婚約者について本気でシュミット伯爵に掛け合うようであれば、イングリットとともに持参するマイアー領の農地一部より、ロジーナとともに持参する持参金の方を取るだろう。シュミット伯爵側が引き換えるものがイングリットの場合は伯爵令嬢をもらう代わりにマイアーに支援金を、ロジーナの場合は家格が格下の男爵令嬢を娶ること自体だろうからだ。
「イングリット、何も心配することはない。この父がお前を不幸にはさせないよ。ただ1つ確認させてくれ。お前はヨハネスに好意を持ってるか?慕ってはいるのか?」
好意、お慕い、その言葉にイングリットが思い浮かべた相手はヨハネスではなかった。
「昔は一緒にいて楽しくもありましたが、今は嫌いではありませんといった程度です」
「そうか、それならば良い。もし婚約破棄となれば私はそれを受け入れるつもりだ」
それに待ったをかけたのが伯爵夫人であるサンドラだった。
「ですが、あなた。イングリットはもう18ですわ。これから新しく婚約者を探すことは難しいでしょう?行き遅れなんてそんなことはっ…」
「サンドラ、心配ない。先程も言ったであろう。この私が不幸にはさせないと」
「そうですの?」
「ああ。出来れば婚約を白紙にして欲しいくらいだな。ただこちらから申し出るわけにはいかない。きっと慰謝料をと言われてしまうだろうから」
「たしかに…、婚約者であるヨハネスが聞いた通りであるならば、あちらに嫁いでイングリットが幸せになれる気がしませんわ。どうにかなりませんの?」
「あ、あの」
「何だ?イングリット」
「私がシュミット伯爵家に嫁がなくても問題はないのでしょうか?支援金を賜れるんですよね?」
「そんなものは端金だ。マイアー領がしっかりと運営出来ていることはお前もよく知っているだろう。こちらからすれば他の部分で言えば家格が同等の家に嫁げるという点だけだ。異性関係に問題のあるものは結婚してからも問題を起こすだろう。お前たちが幼い時に結んだ婚約だ。お前が蔑ろにされることはない。あとはお前の気持ち次第だ。私たちはお前が不幸になるような結婚は望まないよ。なあ、サンドラ」
「はい。当然のことですわね」
伯爵夫妻は、父と母の顔をしていた。
「お父様、お母様」
◇◇◇
そして、その決戦の日はすぐにやってきた。
シュミット伯爵がヨハネスを携えマイヤー伯爵家に面会を申し出てきたのだ。マイヤー伯爵は念入りに準備を整え、その日を迎えた。
「お時間を作っていただきありがとうございます。大変申し上げにくいのですが、我が嫡男ヨハネスとマイヤー伯爵家の長女であるイングリット嬢との婚約を白紙にしていただけないだろうか?」
「婚約を白紙ですと?」
「はい。2人が幼い頃に両家で結んだものです。成長するにつれ互いに価値観も変わりましょう。見直しても宜しいかと思いまして」
「見直したところでこちらが問題ないと申し上げたら婚約は継続となりますが?婚約破棄の間違いではないですかな?」
「いや、破棄では…。あの、でしたら、こちらとしては継続は望んでおりませんので話し合いの上、解消という形はいかがでしょうか?」
「話し合いとな?何度も言いますがそちらの一方的な破棄の間違いではないのですか?こちらは北東部において数少ない伯爵家の1つですし、そちらとは違い伝統貴族です。特別裕福かと言われたらそこまでではありませんが、広い領地を持ち比較的安定した運営をしております。長女のイングリットは人望も厚く性格に難があるわけではありません。見目に関しては人それぞれ好みもありましょうからそれはご希望に添えられるかは存じ上げませんが、贔屓目に見ても悪くはないとは思います。さて、継続を望まぬ理由は何ですかな?」
そもそもが北東部において歳の近い伯爵令嬢がイングリットしかいないことから、シュミット伯爵が持ち込んだ縁談だった。条件を考えてもマイヤー側になんの落ち度もない。どう考えても有責による破棄での慰謝料支払いに持っていきたくないのがわかるだけに、マイアー伯爵は抵抗を見せた。
「…」
「今年から同じ王都の学院に通っている息子エルンストの話では、そこのヨハネスにはロジーナという恋人がいるそうではないですか」
シュミット伯爵は少し顔を歪ませるとすぐになに食わぬ顔に戻し、指摘を認めた。
「ははは、ご存知でしたか。ヨハネスは王都で真実の愛に出会いましてな。どうせなら愛する人と結ばれて欲しいではありませんか」
「お認めになりますか。婚約期間中に他の者と愛を育むなどとは、そちらの有責となろうかと思われますが?」
「いやいや、愛を育むとは違いますよ。ただ想いを寄せていただけに過ぎません。ですから先に婚約を白紙にしていただいて、愛する人と結ばれようと考えたまでのこと」
「まだ関係はないと?そのロジーナ嬢のデビュタントをそこのヨハネスがエスコートしたというのに?」
「はい?なんですかな?その話は」
シュミット伯爵はその話を息子から聞いていなかったのだろう。ヨハネスは青ざめていた。
「なんでも王都では、デビュタントをエスコートする役は父か兄弟といった身内、または婚約者が行うそうですよ。ロジーナ嬢のデビュタントをエスコートしたということは、婚約している若しくは婚約を見据えていると知らしめたということになりますな。2ヶ月ほど前のことだそうじゃないですか。その間にヨハネスは婚約者として贈り物を持参しイングリットに会いにきている。客観的にどう考えても婚約期間が並行していると思わんか?周囲からしたら、関係が同時進行していると思わんかね?」
シュミット伯爵がヨハネスを見据えると溜め息を吐いた。
「なんて軽率な…」
「ということで、そちらの不貞による婚約破棄でお願いしたい」
「わかりましたよ。婚約を破棄いたします」
「慰謝料もよろしいかな?」
「…はい」
こうして公式文書により誓約を結び、シュミット伯爵らは戻っていった。
「うまくいきましたわね、あなた」
「ああ。良かった。エルンストの帰省のお陰だな」
「ですが、イングリットは今後どうしますの?一から婚約者を探さねばなりませんのよ?」
「ああ。それには心当たりがある。もう間もなく来てくださる頃か?」
「来てくださる?」
そして現れたのは、ヴィクトール・アダムベルト辺境伯だった。
「話し合いはうまくいったのですか?」
「ええ。辺境伯様が助言くださったように手順を踏んでお話したところ、まあ、うまくいきました。ありがとうございました」
「いえ、これには私の私情も挟みますから」
なんのことかとサンドラが首を傾げていると、呼ばれたイングリットが部屋に入ってきた。
「ヴィクトール様!いらしていたんですか?」
「ええ。ごきげんよう、イングリット嬢。本日の体調はいかがですか?」
「あっ!ごきげんよう、ヴィクトール様。挨拶もせず申し訳ございません。本日の体調は良好でございます」
「それなら良かった」
にっこりと微笑むとヴィクトールはイングリットを隣に座るよう促した。
「シュミット伯爵令息との婚約が破棄されたそうですね」
「!」
イングリットが驚きマイアー伯爵夫妻の顔を確認すると2人とも笑顔で頷いた。
「では、そんな貴女に私から渡したいものがあるのですが…」
従者がヴィクトールの横に立つと小さな小箱を手渡した。
「こちらを受け取っていただけますか?」
イングリットは受け取ると中を確認した。
それは、白粉だった。
「えーっと、白粉ですか?」
今は女性に白粉を贈るのが流行りなのか?とイングリットは首を傾げた。
「はい。先日貴女が体調不良だと言いお会いできなかった理由を、私が帰る前に彼女が教えてくれたんです」
ヴィクトールが示した先には侍女のメラニーが立っていた。
「お会いできなかったのが、荒れてしまった肌を私に見られたくないからという可愛いらしい理由だったものですから。こちらはそんな肌にも使える天然由来の白粉です。これでしたら悪化させることもなく、むしろ改善に向かうと思いますし、荒れた肌も隠すことができます。綺麗な貴女を私に見せたいと思ってくださっていたということでしたら、ぜひ、こちらを使っていただけると嬉しいです」
『可愛い』や『綺麗』、『嬉しい』といった好意ともとれる単語に、イングリットは胸の高鳴りが止まらなかった。
ヨハネスからもらった白粉は肌に合わなかった。田舎の綺麗な空気のもと、日頃から化粧の習慣がなかったイングリットは、この白粉を使うと翌日真っ赤に荒れてしまったのだ。香水もまた、体には合わなかった。
「ちなみに、まだその品物は手元に残っていますか?もしあれば詳しく調べてみたいので」
「はい」
メラニーに指示を出し、贈り物一式をヴィクトールに披露した。
その後、少しの歓談を終えると、ヴィクトールがマイアー伯爵に向き合った。
「マイアー伯爵。私はイングリット嬢をお慕いしております。この度は以前から組まれていた婚約が破棄されましたし、私とイングリット嬢の縁談を進めていただけないでしょうか?」
サンドラは驚き口元を扇子で隠すとキラキラと目を輝かせている。
イングリットも突然の申し出に唖然とし、固まってしまった。
マイアー伯爵はというと、にっこりと微笑み頷いていた。
「はい。勿論です。アダムベルト辺境伯様。こちらこそお願いできますでしょうか?構わないかな?イングリット」
「は、はい…」
こうしてイングリットとヴィクトールの婚約が結ばれた。
マイアー伯爵夫妻はいろいろお話をして親睦を深めると良いと言い、当人同士を残し席を外した。
「こんなおじさんで申し訳ありません、イングリット嬢」
「ヴィクトール様は全然おじさまなんかじゃございません!それよりも、こんなお子様でよろしいんでしょうか?ヴィクトール様」
「イングリット嬢こそ、お子様なんかじゃありませんよ。立派なレディです」
ふふふと二人で顔を合わせて笑った。ここでイングリットは以前から疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「あの、ヴィクトール様は隣国の侯爵令嬢との縁談が破談になったことで独身を貫いていると耳にしたことがあったのですが…」
「ああ、その事ですか?当たっているような当たっていないようなといったところでしょうか」
「?」
「彼女からは辺境伯領が辺鄙な所だから絶対に行きたくない、あんなところに住みたくないと断られました。私はここで生まれ育っていますから、故郷を蔑まれたことに衝撃を受けました。ここは隣国にとって酷い所なのか?女性にとって酷い場所なのか?そもそも過酷な場所なのかと。そのあとは破談になり領地に籠る生活をしていましたが、そんな時にイングリット、貴女に出会いました」
「あ、私が領地で迷子になってしまった時のことですね?」
「ええ。少女がこんなところでと驚きましたが、貴女は領地内を隅から隅まで楽しんでいました。それを見て、ああ、ただ単に彼女が私の領地を好まなかっただけなのかなと思えたんです。この地方は何もない田舎とはいってもマイアー領は平地でアダムベルト領は森や山岳部もありますから自然の厳しい土地ではあると思いますがね。そして話には続きがあります。しばらくして彼女から謝罪の手紙が送られてきました。実は祖国に懇意にしている人が居て、どうしても国を跨ぎたくなくて、咄嗟に嘘をついたそうなんです。自分の貴族としての責務や私に対する配慮を欠いたことを申し訳ないと、とても浅はかで幼い行いだったと、アダムベルト領は自然豊かで美しく空気も綺麗で素敵な所だと思いましたと綴られていました。そして、結局彼女の想いは実を結ぶことはなく、高位貴族として自国の益になる結婚をしたそうです。国を跨ぎたくなかった、懇意にしている人が在る祖国に残るという彼女のせめてもの願いが叶ったことは良かったのでしょうね」
「そうなんですね」
愛する人と結ばれるという貴族はどれだけいるのだろうか?想いが通じる貴族はどれだけいるのだろうか?
「私は婚約の前段階、縁談が破談になっただけでしたが、隣国の侯爵令嬢と破談になるとは何事かと噂がたちましてね、一時期は全く縁談が持ち上がることが無くなってしまいました。今となってはそれで良かったと思っています。こうしてイングリットと婚約することが出来たのですから」
ヴィクトールはイングリットを見つめるとにっこりと微笑んだ。
「北東の領地を満喫する貴女の姿は私が持っていた様々な不信感を拭うきっかけとなりました。そしてそんな貴女の幸せを願うようになりました。遊び回るにも危険がないようにマイアー領に隣接するエリアは特に整備したり、マイアー伯爵に貴女の近況を聞いたりしてね。はじめは貴女に対する感謝からだと思っていたんです、妹を見守るかのようにね。ただ、貴女がデビュタントをした時に胸に沸き起こる想いに驚愕しました。これからはいろんな男子に出会うし縁談の対象になっていく、そして私はそんな貴女を誰にも渡したくないと思っていたんです。その時に初めて私は貴女を愛しいと思っていると、特別な存在だと思っていると気がついたんです。ただ、私と貴女は10歳程離れています。貴女が成人してからならまだしも、素直にこの想いを認めることは憚られました。そもそも貴女は私と出会うより前から婚約者がいましたし、伝えられる立場にないと内に秘めていましたが、実らぬこの想い故に独身を貫いていました」
「ヴィクトール様はずっと私を想ってくださっていたんですね。とても嬉しいです。私もお慕いしていました。はじめはきっと憧れだったんだと思います。歳の離れた既に大人の男性ですもの、格好いいな、素敵だなと思っていました。ですが、私の結婚相手は決まっていましたし、恋をするという感情は持たずに生きてきましたから、このヴィクトール様への想いが恋だとは考えもしなかったんです」
ヴィクトールはイングリットを優しく見つめたまま傾聴している。
「元婚約者となりましたヨハネスには、家族や同士といった思いでおりました。一緒にいるのは嫌ではない、これからを共に生きる人だと、その程度でした。そうなってしまったのは、彼が王都に行き変わっていったことも一因であると思っています。そして父から、彼に好意を持っているか、お慕いしているかと質問されたときに思い浮かんだのがヴィクトール様だったのです。私が好きなのは、お慕いしているのはヴィクトール様です。綺麗な姿を見て貰いたいと思うのもヴィクトール様です」
「イングリット…、嬉しいよ」
「…、ヴィクトール様」
ヴィクトールが心から告げてくれているのがわかった。少し崩れた言葉から、アダムベルト辺境伯ではなくヴィクトール自身の台詞なのだとイングリットは呼ばれた名前を噛み締めた。
「北東は田舎とはいえ、辺境伯夫人となれば伯爵夫人になるよりも忙しいでしょうし、気苦労も増えましょう。私が貴女を支えます。ですから貴女はありのままの貴女でいてくださいね」
「ヴィクトール様、私は田舎者とはいえ貴族の娘です。きちんとお務め致します。至らない点は努力させてください。私も貴方をお支えしたいのです」
「ありがとう、イングリット」
◇◇◇
長い間独身を貫いていた辺境伯が結婚をした。その横には若く美しい妻が華を添え、社交の場で彼女を田舎者だと揶揄する者は誰もいなかった。ただ一人唇を噛み締める男がいたとかいないとか、そんな彼は王都で田舎者と呼ばれているらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
久しぶりに製作しました。さらっと書き上げましたので、誤字脱字等、不十分な点等あるかと思いますが、ご容赦願います。
作者のモチベーションに繋がりますので、よろしかったら、評価していただけると嬉しく思います。