9.それはまるでロマンス小説の一節のようです。
「――エ、クロエ!」
気付いたら、家に帰っていたようだ。
自室のソファに深く身体をうずめていたクロエは、心配そうに顔を覗き込んできていたユーゴの声で、はっと我に返った。
目をぱちぱちさせて辺りを見回すクロエを見て、兄はほっとしたように深く息を吐いた。
「大丈夫?」
こくりと頷くと、フィンが水を持ってきてくれた。
「どうしたの、ねえさま。ふらふらしながら帰ってきたと思ったら倒れ込むように座ってさ。いくら声かけてもぼんやりしててさ」
「……本屋に行ったんじゃなかったのか?」
そういえば、そうだった。
「い、かなかった」
「え? じゃあ何しに行ったの?」
「何かあったのか」
ぎゅっと服の胸元を握り締めて、小さく頷いた。じわりと視界が涙で歪む。
「どうしよう、兄さん」
「ん?」
「困ったことに、なってしまった」
何をどう話したらいいのか。混乱している頭を整理するように、クロエは今日あったことを順番に言葉にしていった。
本を買いに街に行ったこと。
曲がり角で、出会い頭に男の人とぶつかったこと。
支えてもらった腕が力強かったこと。
クロエを見つめる目がとっても優しかったこと。
それから何だか胸が苦しいこと。
「……」
「……」
「……何で二人とも、だまってるの」
沈黙に耐えきれずにクロエが抗議の声を漏らすと、ユーゴとフィンは顔を見合わせて同時に首を振った。
「クロエ、それは……」
「チョロエねえさま」
「チョロって何!?」
ユーゴの戸惑った顔とフィンの呆れたような目に、出かけた涙も引っ込んだ。
抗議の声を上げようとしたとき、フィンがそれを遮るように大きくため息をついて話し始めた。
「あのさ、ねえさまがいつも読んでるじゃない、そういう本」
「そういう?」
「そういう本だよ、曲がり角でぶつかってキュンとか、目と目が合う瞬間~みたいなやつの本」
「え、何ちょっとバカにしてるの?」
「そうじゃなくて、さ。さっきねえさまが言ってたことをもうちょっと落ち着いて考えてみてよ」
僕はもう行くね、とフィンは軽く手を振って部屋を出て行った。
背中を見送ってから、クロエは自分とフィンの言葉を順番にたどる。と、急速に顔が熱を持って行くのが分かった。
「――え……」
「その、ぶつかった相手っていうのは知ってる人?」
頭の中が混乱していて、兄の言葉に脊髄反射で「ラインハート様」と答えてしまった。
はっと気づいた時にはもう遅い。ユーゴはそうかとばかりに頷いて、にっこり微笑んだ。
「だったら問題ないじゃないか」
「え」
「だって、彼はクロエに求婚してくれているんだろう?」
そうだけど、そうだけど!
「可愛い妹が……何だか複雑だな」
微笑ましげにそう呟かれた。むずむずする。
――でも、何か引っかかる。
「……違う」
「ん? 違う人だった?」
「そうじゃなくて、わたし、化粧してなかった」
するりと自分の頬を撫でる。ゴドルフィンお墨付きの落ちないヨレない色黒ファンデーションの質感はそこにはなく、さらさらとした素肌に触れる。
髪ももちろん、指通りなめらか。鳥の巣様のもじゃ毛ではない。
ラインハートはきっと、クロエをクロエだと認識しなかっただろう。
「別にそれは関係なくないか?」
ユーゴの声に顔を上げると、兄は不思議そうに首を傾げていた。
「だって、素顔でぶつかった時に求婚されたわけじゃないんだろう? ラインハートは求婚する程度にはクロエに興味があるわけだし、クロエは憧れの恋愛小説王道シチュエーションで彼と恋に落ちて、万々歳ってことじゃないのか」
そうなの、だろうか。本当にそうかな。
「……わたし、ラインハート様と結婚するの?」
「しないのか? クロエが彼のプロポーズに『はい』って答えたら結婚だろう」
「そ、そうなの?」
何か重大な見落としがあるような気がしてならない。
けれど、ぶつかった瞬間に支えてくれた力強い腕と、甘く優しい瞳、に、結婚という響きが加わってふわふわと身体の奥から何かが沸き上がってきて、思考を押し流していく。
「ねえさま、大丈夫なの?」
「わからない。もう何も見えていないかもしれない」
ひらひらとクロエの目の前で手を振ってみても、視点が定まる気配すらない。
指をもじもじと組みながら、彼女はうっとりと頬を薔薇色に染めていた。
「おじいちゃまの財産どうのこうの! みたいなのはもうどうでもいいのかな」
「まぁ、それもクロエが勝手に言っていることだしな。おじいちゃまも母さんも、そんなわけわからないこと早くやめろって方針だし。――初めて好きな人が出来たんだ、しばらくそっとしておいてやろう」
兄弟が何かぶつぶつ言っている。耳には入ってくるけれど、脳まで浸透しない会話を聞き流しながら、クロエは恍惚のため息を吐いた。
夢見心地のまま夕食を食べ、今まで読んだ数々の恋愛小説の素晴らしいシーンがすべて自分とラインハートで脳内再生され、空想と現実の境目が曖昧になり融合していく。
見つめあい、語り合い、笑いあう二人、取り巻くすべてが光り輝いて、――。
(ほんとうに、それでいいの?)
冷たいほどに落ち着いた自分の声にそう言われ、はっと身体を起こした。
いつの間に床に就いたのだろう、朝の光が窓から差し込んでいる。
すっと、頭が冴えていく。