5.眠れる庭のすっぴんクロエ
来客のない日は、素顔で生活。身体がとても軽く感じて、皮膚呼吸って大事だなぁと思う。
ユーゴは祖父の手伝いに行き、両親は今日も仕事。フィンは学校に行ってしまって、クロエは今家に一人、侍女たちを除けば。
アナスタシア先生の新刊を抱えて、中庭に出た。晴れた日にここで読書をするのは気持ちがいい。静かだし、木陰が濃くて紙面がちらつかない。外で本を読むと目が悪くなると言われたけれど、家の中で読むのとさほど変わらない。
アナスタシア先生の紡ぐ言葉は心地よく、起きているのに夢の中にいるような錯覚を覚える。暖かい陽気と穏やかな空気に包まれて、クロエの瞼はだんだんと重くなっていく。
長椅子に横たわり、指をしおり代わりに本へ挟み、ふ、と息をついて目を閉じた。
さらさらと木の葉の擦れる音がする。瞼の裏には光と影がちらちらと踊り、眠気を誘われる。
うとうとし始めたとき、ふと誰かに見られているような気がして薄く目を開けた。
植込みの向こうに、二つの人影がぼんやりと見える。
「あれ、女の子?」
つい最近聞いた声。イーサンだ。ということは、もうひとりはラインハートか。
今日は来る予定ではなかったはず。というか、昨日来たばかりなのに、どうしたのかな。
忘れ物でもしたのかしら、ととろとろと沈みそうになる意識で考えた。どちらにしても、クロエに声をかけているわけでもなく、こちらに来る様子もない。
気持ちよく眠りに落ちてしまっても問題ないかな、と瞼を閉じた。
「綺麗な子だなー、どこの子かな」
「イーサン、静かに。起こしたら可哀想だよ」
「だな。――」
ふたりの気配が遠のいていくのを感じた。
そしてそのまま、意識を手放した。
くしゅん、とくしゃみと同時にはね起きた。
どのくらい寝てしまっていたのだろう。日は傾きかけていて、風がひんやりとしている。
身体を起こすと、ぱさりと何か布のようなものが滑り落ちた。
本に挟んだままだったせいで痺れた指を撫でながら見下ろすと、見慣れないモスグリーンの上着が落ちていた。
誰かがかけてくれたらしい。拾い上げてあたりを見回したけれど、誰もいない。
広げてみる。襟元に、紋章が刺繍されている。ということは、貴族? ラインハートの?
(さっき見たような気がするけど、服の色まで覚えてない……)
とりあえず持っておけば取りに来るかしら、と服を抱え直すと、指先にメモ用紙が触った。
【風邪をひかないで】
それだけ、綺麗な字で綴られている。二回読んで裏返したけれど、名前は書いていなかった。
「……ありがと」
メモにお礼を呟いて、二つに畳んで本に挟んだ。しばらくはこれをしおり代わりにしよう。
今日は化粧はしていない。だから、ラインハートにもイーサンにも、ここで寝ていたのがクロエだということは分からなかったはず。上着はメイド長にでも預けておこう、誰かが取りに来たら返してくれるように伝えて。
綺麗な子だなー、と言ったイーサンの感心したような声を思い出して、自然と口元が緩んだ。
そんなこと、今まで家族以外に言われたことない。それも至極当たり前なことで、原因はすべてクロエの策略にあるのだけど。素顔なんて、家族以外にさらしたことはほぼないのだから。
ちなみに、屋敷に出入りする業者や商人・社員のみんなには、クロエの容姿については口外しないようにと強く言い含めている。何を訊かれても、「お会いしたことがありません」と答えるように、と。
それにしても、と気付いた。ラインハートは特に顔については何も言っていなかったな。
手にした深緑のジャケットに視線を落とす。
「……帰り、寒くなかったかしら」
ちょっとだけ、と心の中で言い訳しながら、そっと袖を通してみた。指先も出ない、長い袖。
「クロエ、どうしたの?」
「!!」
後ろから声を掛けられて軽く跳ねた。
振り返ると、祖父の手伝いで朝から不在だったユーゴが不思議そうな顔で首を傾げていた。
「それ、誰の?」
「あ、えーと、忘れ物? 多分ラインハート様だと思うけど」
「――そう」
なら僕が預かるね、と手早くジャケットをはぎ取られた。それから、ユーゴは自分のジャケットをサラッと脱いでクロエに差し出した。
「寒かったらこっち着て」
「え、兄さんの? でも、」
「いいから。必要なくなったら僕の部屋に投げておいてね。……忘れ物を勝手に着たらだめだよ」
あれ、ちょっと機嫌が悪い? いつも穏やかな兄の眉が微かに寄っている。
確かに、他人の物を許可もなく着たのはよくなかった。
こくりと頷いたクロエに目元だけで笑って、ユーゴはジャケットを手に、そのまままた玄関から出て行った。多分、祖父の用事でちょっと家に立ち寄っただけなんだろう。
「――寒くないのかしら」
ラインハートもユーゴも、結構暑がり?
家の中にいるクロエには別に必要ないのに、と思いつつ、兄のジャケットをそのままくるりと畳んで抱えた。
「あ、もしかして、邪魔だから部屋に戻しておいて、ってことだったのかな」
ならそう言えばいいのに。
それに、ラインハートのジャケットはどこに持って行ってしまったんだろう。
取りに来られたらどうしよう。でも、クロエに掛けてくれたってことは分かっていないだろうから、いったん知らんぷりしておけばいいか。素顔で二人に会ったことはないし、大丈夫だろう。
没落しかけているとはいっても伯爵家。ジャケットの替えくらいは持っているでしょうし。
袖を通した時の温かさを思い出して、ぎゅっと拳を握った。
次はいつ来るのかしら、と思った自分に少し驚いて、振り払うように兄の部屋へと向かう足を速めた。