21.そんなドキドキはいりません
考える時間が惜しい、なんて考えている余裕もなかった。
背負える鞄に数枚の着替えを詰めて、今クローゼットに入っている上着の中で一番分厚い上着を引っ張り出す。引きずられていくつか荷物が出てしまったけれど、片付けている場合じゃない。
街用の鞄から財布とポーチとラインハートからもらった……まだ読めていない手紙を出して、リュックに詰めた。
後他に何か持っていくものを考えながら、とりあえず邪魔な髪を乱暴に一つに結ぶ。帽子をかぶれば、みっともなくないこともないと思う。
「クロエ」
「兄さん、わたしちょっとお出かけしてくる」
「ノヴァック領がどれだけ遠いかわかっているの?」
「……ノヴァック領に行くとは、言ってませんけど」
「クロエ」
「……」
辺境、というのは知っている。馬車で行くなら片道3日、慣れた馬でも2日。その上、雪の季節。さらに崩落で混乱しているだろう。
「迷惑になるだけだから」
「でも、」
「情報が足りなさすぎる。地盤が緩んでいるのかもしれない、雪がひどいのかもしれない、そんなところにクロエが行ってどうするの。身体を鍛えているわけでもない、強いのは性格だけのクロエが」
「悪口ですか」
「そうじゃない、事実を教えてあげているんだ」
ひどい、と小声で言ったクロエを無視し、ユーゴはきつい視線で妹を見つめる。
両肩に置かれた兄の手のひらは熱く、普段の穏やかさとはかけ離れていた。
「おじいちゃまが情報は集めてくれる。商人にとって、情報は資産だから」
「わたしが行って、情報を集めてくるわ」
「危ないって言ってるんだよ!」
声を荒げるユーゴの剣幕に、クロエは負けじと睨み返した。
「危ないなら、余計に行かないと!」
心臓の音がうるさい。
危険だ、と自分の行動を制止されるほど、気が急いてどうしようもない。
鞄を握りしめる手が震えて止まらない。これは、怖いからではない。
焦燥感と、憤りだ。
クロエの必死の訴えに、ユーゴは手早く何枚かメモを書き、印を押した。
それから封筒と一緒にクロエの胸に押し付けた。
「持っていきなさい」
「! ありがとう、兄さん!」
「地図はこれ。この道通りに行くこと。絶対に逸れないこと。あとから追いかけるから」
何度も頷くと、困ったようにユーゴは笑った。
「ケガしないこと。クロエに何かあったら……」
「大丈夫! わたし、強いの! ゴドルフィンの孫なのよ!」
言い終わるのを待たずに飛び出した。
門の横に繋いである自分の馬にまたがって、駆けた。
地図の中身は頭に入っている。自分でも驚くほどの集中力で、一目で全て記憶できた。
馬で駆けるのは久しぶりだった。背負った鞄は重くはないが、弾むたびに肩に食い込む。
正直、自分が行ったところでどうなるのよ、とは思う。何の役にも立たないと思う。
けれど、居ても立っても居られない。
さよなら、と言われた。
まるで、今後ずっと、一生、死ぬまで会えないみたいな言い方だと思った。
クロエの屋敷から出るときには、「また」と言ってくれた。しばらく来ない、と手紙には書いてあった。でも、それは彼なりの、角を立てないための言い回しな気がした。
会いに来てくれないなら会いに行けばいい。
クロエには、馬もあるし元気もある。言わなければいけないこともたくさんある。
街に向かう人の流れに逆らうように、馬を速める。
先は長い。でも、兄が指定してきた最初の休憩所よりも一つでも向こうへ行きたかった。
「ごめんね、疲れちゃうよね」
ごわごわした茶色のたてがみを撫でると、ブル、と小さく返事が返ってきた。10歳の誕生日に祖父からもらったこげ茶の馬。
「チョコラ、一緒に頑張ろうね」
ポニーだったころにつけた愛らしい名前は、今の馬体にはあまり似つかわしくないように思う。しかも、雄だったから余計に。
でも、大きな身体のチョコラのしっかりした走りは、クロエに安心感を与えてくれる。触れれば温かい、愛馬。
途中の町で、休憩を取ることにした。
遠乗りは久しぶりで、馬から降りると一瞬ふらつく。気づかない間に、身体に変な力が入っていたようだ。
オープンカフェ、というにはいささか野暮ったい、街道の休憩所。
馬を繋いでシートに座ると、奥から気のよさそうな女性が笑顔で出てきた。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。何か飲む? お腹は空いていないかい?」
「ありがとう。紅……コーヒーと、あればパンを。あと、馬にお水を飲ませたいのですが」
「はいよ!」
女性の息子と思われる少年が、チョコラの前に水桶を持ってきてくれた。そばかすが可愛い。
クロエには、砂糖のかかった白パンとコーヒー。素朴な味に、ほっと息をついた。
まだ、道のりは遠い。あと8割ほどか。
「どこまで行くんだい?」
他に客がいないからか、先ほどの女性が声をかけてきた。少年も、そわそわした様子で女性の後ろからこちらを見ている。
クロエは口の中のパンをコーヒーで流し込んで答えた。
「ノヴァック領まで」
「おや……一人で、かい?」
「はい。……?」
「馬でいくの?」
「うん」
二人はよく似た顔で、うーんと腕を組んで唸った。
何か知っているのか、と訊く前に、女性が口を開いた。
「急ぎでなければ、今は行かない方がいいかもしれないよ」
どきり、と胸が鳴った。




