1.このブスは、夢見るお金持ちです
身なりの整った青年は、あからさまに目の前の女性から視線を逸らし、何度も葛藤するような表情を浮かべた末に絞り出すような声で言った。
「こ、……この縁談は、なかった、ことに……」
「残念ですわ、男爵様」
にぃーと笑った顔をちらりと見て、男爵と呼ばれた青年は青褪めた顔で、礼もそこそこに逃げるように去って行った。
その背中を見送りながら、腰に手を当ててふふんと笑い、
「根性なしね」
と勝ち誇ったように胸を張った。
お見合いを申し込んできた男を撃退した数、今の男で100人目。クロエ=ゴドルフィンはくるりと振り返ると、木の陰に潜んでいる兄に向ってピースを突き出した。
「100人斬り達成!」
「クロエ……」
頭痛がやまない、といった様子で額に手を当てて、兄のユーゴがため息交じりに出てきた。
「100人斬りという言い方は、やめなさい」
「?」
「いや、そもそも、……」
ユーゴは可愛い妹を見つめ、肩を落とす。
浅黒い肌、顔中に散らばったそばかす、ちりちりの髪。ぼさぼさの眉毛ににやにやと笑みの張り付いた口元。
「まだ続けるつもり? その悪趣味メイクを……」
「続けるわ」
ツギハギだらけのポシェットから取り出したコンパクトで顔を確認し、クロエは満足そうに笑った。
「化粧崩れもないなんて、さすがおじいちゃまのおすすめブランドのコスメ。この浅黒いファンデーションの発色の良さ! 細かいそばかすも滲まずに描けるペンシルなんて最高!」
パチン、とコンパクトを閉じると、クロエは兄にゆっくりと告げた。一歩一歩近づいていくと、ユーゴは怯んだようにその場から動けない。
「ゴドルフィン商会の孫娘が16歳になったとたんに、会ったこともない男からお見合いが殺到しているのよ? つまりそれは、おじいちゃまの会社とお金が狙われているってことでしょ? 持参金狙いってことでしょ? そんなの許せる? バカにしてるとは思わない?」
「まぁ、それはそうだけど、でも」
「でももへったくれもないのよ、兄さん! 第一、わたしだって別に断っているわけじゃないわ。断られているだけで」
そう、今まで一度もクロエのほうから断ったことはない。断るように仕向けてはいるけれど。
「お金が欲しいなら、死ぬほど欲しいなら、ドブスの悪女を妻にすることくらい覚悟してきてほしいわね」
祖父、ポール=ゴドルフィンはクロエの実の祖父ではない。クロエもユーゴも、ポールの娘であるポーリーンの養子だからだ。クロエは産みの親を知らない。だが、不幸ではない。溢れるほどの愛情を注がれて、何不自由なく育ててもらっている。
だからこそ、嫌なのだ。自分の夫となる男が、愛する祖父や家族を食い物にするような男であってはいけない。
「でもクロエ、せっかくの美人が……」
「ブスだったら、愛されないの?」
クロエの問いに、ユーゴは答えなかった。ブスでも愛される、といえば100戦100勝のお見合い撃退劇は何なのだ、ということになる。
ユーゴは、ちりちりした人工毛のカツラ頭を優しくなでた。
「本当のクロエを知らない人たちが、クロエのことを悪く言うのが耐えられないんだよ、僕は」
「兄さんは優しいのね」
びっくりした顔でそう言い、クロエは笑って胸を張った。
「そんなの、どうでもいいことだわ! ドブスにすら耐える根性のない男がおじいちゃまの財産に群がるのを阻止する。それだけよ」
発想が子供なんだよなぁ、という兄の言葉を無視してポシェットから読みかけの本を出し、ベンチへ座った。
一昨日発売したばかりの、大好きな作家の新刊。丁寧にページをめくり、視線を本から上げずに独り言のようにつぶやく。
「それに、これを続けていれば、お金や容姿に囚われない素敵な人に会えるかもしれないし」
「そうかなぁ」
「兄さんもこれ読んでよ、読み終わったら貸すから! アナスタシア先生の最新刊、今回も素敵なラブストーリー……。アナスタシア先生は、若いころに一世一代の大恋愛をされて、不幸にもそれは報われず、」
「いいよもう、それは何度も聞いたから」
なぜか兄は、恋愛小説の巨匠アナスタシア先生の話をすると、微妙な顔をする。
「……とにかく、わたしはこれでいいの」
それ以上の話はしない、という態度を示すため、クロエは活字を目で追い始めた。
ユーゴはその様子をしばらく見つめていたが、邪魔をしないようにとそっと戻って行った。
◇ ◇ ◇
ほぅ、と惚けたような溜息をもらして表紙を閉じた。
今回のお話もとても素敵だった。特に、身分違いの愛が実を結ぶ裏で暗躍する、従者の献身……。
「アナスタシア先生、……いつか、ご自身の大恋愛も本にされることがあるかしら……」
こんな素敵なお話を書く人だもの、きっとそれはもうドラマティックな経験をしているに違いない。謎に包まれた作家先生の過去の恋愛を、この筆致で読んでみたいと思うのは当然のファン心理だ。
先生の書く女性はみな強くしなやかで魅力的。自分もこの本のヒロインたちのように、自分の人生を楽しんで生きて、それから素敵な人と、……。
「――現実世界に、素敵な人なんているかしら」
少なくとも、最近会った100人の中にはいなかった。どいつもこいつも、金に目がくらんだような媚びへつらった下卑た笑い方でやってきて、ドブスのクロエに怯んで逃げ帰っていく。100人中100人。つまり、千人いたら千人、ということじゃない?
やっぱり、ラブロマンスなんて本の中にしかないのかしら、と頬杖をついたとき、指先に触れた縮れ毛に気付いた。まだメイクも落としていなかった、と見上げた空は日がだいぶ傾いていて、長い時間ここにいたのだと知った。
椅子から立ち上がり、固まってしまった腰を伸ばしてふと見ると、庭の入り口にふたつの人影があった。
「お客様……?」
兄、ユーゴと同じような背格好のふたつの影は、そのままこちらへ来るでもなく、アーチをくぐって去って行った。
まぁいいか、と大きく伸びをしてから自室へと向かう。早くメイクを落とさないと、皮膚呼吸が出来なくて息苦しいのだ。
部屋へ戻ると、2歳下の弟フィンがクロエを待っていた。
手の込んだ化粧を見るとびっくりして軽く跳ね、直視できないというように視線をさまよわせる。
「日に日にブスに磨きがかかってるよ、ねえさま……」
「ありがと、フィン。メイクの腕が爆上がりなの」
「その腕、他に使えばいいのに」
「これが今一番有効な使い方なのよ。フィンだって、わけわからん男に家庭崩壊させられたくはないでしょ?」
「普通に断ればいいじゃないの」
呆れかえったような声に振り返ると、腕を組んだ母がクロエを睨んでいた。
迫力のある美人。この美貌で公爵まで射止めたことがある、と祖父が笑っていた。……公爵を射止めたのになぜ今小さなカフェ店長なのかはよくわからない。
クロエはポーリーンの言葉に大げさにため息をつくと、手を振った。
「普通に断ったって駄目なのは目に見えてるの。手紙での申し込みは全部普通に断ってるのよ? なのに負けじとお見合いしようと乗り込んでくるんだから」
「だからって、せっかくの可愛い顔が台無しじゃないの」
ポーリーンの暖かい手のひらが、クロエの頬を包む。文句を言いながらも、母の目には心配そうな光が見える。
すっと手を外すと、ポーリーンは自分の手のひらをまじまじと見つめ、
「それにしてもすごいわ、色移りしないのね」
「おじいちゃまおすすめのコスメだから」
「……わたくしのところで、全部シャットアウトしてもいいのよ」
お見合いの申し込みについては、すべてクロエは自分とユーゴで何とかする、と両親には言ってあった。当然、父や母が断ればそれ以上しつこくしてこないことも分かっている。
けれど。
「いいの。わたしが自分でやるの。迷惑かけてしまうかしら」
「――万が一の時は、ユーゴとテオが守ってくれるわ」
ぎゅっと抱きしめられるとほっとする。
母の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、「うん」と答えた。
金目当ての男なんて、女を道具としか見ていない男に違いない。
ちょっとくらいおちょくってやってもいいじゃない。
でも、もしもし万が一、ブスでも構わない、と言ってくれる人が現れたら?
財産も容姿も関係ない、クロエだからいいんだよって言ってくれる人が現れたら?
と、そんなロマンスが始まる可能性も捨てきれない、16歳のクロエだった。