10話
大禍なく南陽郡を通過しつつあった王忠らは郡境で足止めを食らっていた。
王忠の目的地は豫州潁川郡許県。漢帝のおわすところだ。しかし、誰もがそれを狙っていた。だから王忠らのような大勢はそう簡単に入れてはくれない。
潁川郡側の境界の県は昆陽県という。無用な争いは避けたく感じていた王忠は昆陽県令のいうことを唯々諾々と聞き入れていた。しかし、らちが明かない。
直談判に行ってやろうかと王忠が考えていたある日、突如として一軍が目の前に現れた。潁川の太守が、難民の大軍が郡境にいるという報告をうけて駆けつけて来たのだった。
王忠は腰が軽い。ひょこりと陣営を尋ねた。簡単には会えない。袖の下などためらいなく使った。難民たちを飢えさせてはならないということだけを、王忠は見つめていた。
「平民の王忠が、参上します」
「お前が王忠か。つとに話は聞いている。早くはいれ」
潁川太守・夏侯淵はせっかちだ。それに相手が難民だというから、あしらいはさらに軽くなる。
前置きもせずに夏侯淵はずばり聞いた。
「飯か」
もはや王忠の顔色は動かなかった。要求が飯であることに間違いもない。が、もっと長久に役立つものを、王忠は欲しがった。
「土地です」
王忠の即答に夏侯淵は小さく感嘆の声を上げる。庶民にしては少しく長い目を持つ男である。ちょうど曹操が屯田をおおやけの政策に移行しようと運動していることは曹操幕下の幹部たちのみなが知るところであった。
それには土地を耕す人民が必要だが、土着の民を引き剥がすのはどうにも難しい。とにかく人手が欲しいと、曹操はいつもぼやいていた。
しかし簡単に受け入れないのにも切実な理由がある。王忠の着た方角だ。
荊州。
まだ袁術の残り香のある南陽郡は常に漢帝を窺う劉表の勢力下にある。南陽から、それも中心地である宛方面からきた大人数。警戒せずにいられようか。
飢民に化けた兵士かもしれない。そうじゃないにしても兵士が混じっている可能性は高く、密偵が潜む可能性はもっと高い。
「王忠、何人だ」
「全部で三千人。戦えるのは、千人」
道中に浮浪を始めた南陽の住民たちは、宛通過の際に張繍の南陽復興計画を聞かされて散っていった。
多分、賈詡の策だろう。賈詡は王忠を無視しても構わないとはいったが、人民はすなわち生産力であり、それを持って移動されるのはどうにも都合が悪い。
だから、王忠に今付き従っているのは三輔以来の飢民たちであった。
夏侯淵のほうは感嘆を深めざるを得ない。『全部で三千、戦士は千』。総数は目算して三千で違いなかろう。そのうちどれだけが戦えるのか、わざわざ言う必要があろうか。
この指導者―――いや武将と言えよう―――は自分の実力を開示し、敵意のないことと敵に回す不利とを一挙に示して見せた。
「助けてくれ、さもなくば奪う」
この浮浪者の頭かしらの目はそう言っているように見えた。
兵士千人は欲しい。しかし曹操にしてみれば、それにも増してにして農耕者三千人は喉から手が出るほど欲しい。
夏侯淵は深い思案があまり得意ではなかった。だが、曹操に伺いを立てるほど悠長な質でもなかった。
「来い、王忠。曹公がお待ちだ」
「お待ちと」
「ああ、早くその三千人が欲しいってよ」
王忠も、夏侯淵の適当がわからぬほど愚かではない。しかし、ここまで来たらどんな藁でも掴むつもりだ。




