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君に声はないけれど

作者: 徒然みぞれ

 

 靴ひもを結ぶのは大変面倒くさいが、新品の靴をおろした時はまた別だ。自分の元へとやってきてくれた感謝と、これからの人生の相棒にどんな景色を見せてやろうか考えながら穴の一本一本に靴紐を通していくのは、あまり思索にふけったりしない日比野であってもついつい考え込んでしまうものだった。

 日比野はスニーカー収集が趣味だ。なけなしの給料がある程度貯まったらすぐシューズショップに駆け込んでしまう。勤務中は制服を着てるし、職場への行き帰りと休日のどちらかにしか履かないのに、この間数えたら11足もあった。入局して3年目だから、4ヶ月に一回靴屋に足を運んでいることになる。集めすぎだと反省することもあるが趣味なのでしょうがない。毎日の激務とどうも相性の悪い上司に耐えられていたのはこの趣味のおかげである。それに今はスニーカーに金をかけることを咎めるような彼女もいないので自身の感覚で生きている……といえばかっこいいが、要するに好きなようにやってるだけだ。

 好きなようにやってるから現在、こんなことになってしまったのだが。日比野はもっぱら反省などしていなかった。彼の感覚では自分に非があるとは全く思わなかったからだ。


 *******


 今日の初出勤日に合わせておろしたこのスニーカーは、以前の職場で仲良くしていた後輩からもらったものだ。

「日比野さんにぴったりだとおもうっす!」

「うわまじかこれナ○キの新作じゃん! ゲットするの戦争だったよな、ありがとう!」

「日比野さんに絶対似合うと思ったんすよ〜。いやー、これ履いてる日比野さん見られないのマジ悲しいっす。日比野さん何も悪いことしてねぇのに!」

「オイコラ高山、声大きい! っつたく、変なこと口走って俺みたいになんなよ」

「日比野さんはおかしいところを指摘しただけじゃないっすか! 何も悪いことしてねぇっすよ」

「高山、おまえ……」

 おまえは若いな、と言いかけてやめた。かくいう日比野も高山と3つしか違わないし、若気の至りってやつで上司に意見を申したら、上司の怒りを買って異動する羽目になってしまったのだ。後悔していないところが彼のいいところでもあり悪いところでもある。

   そのあと高山はしばらく泣き止まなかった。社会人にもなって泣くなよお前、ここ職場だぞなどと高山の背中を何度か叩いたが、日比野のために流してくれた涙にふとつられそうになってしまった。

 そんな馬のある高山を置いていくのは後ろ髪を引かれるが、上司は日比野を早く追い出したい様子なのは目に見えてわかっていたし、日比野自身も上司の顔も見たくなかったので割とあっさり安桜山局を後にすることができた。高山とは何も職場で会う必要は無いのだ。どんなに離れた場所にいても、メッセージ一つ送れば会えるのだ。今は別れを必要以上に惜しむ時代では無い。

 というわけで日比野は新人の頃から世話になった安桜山(あざくらやま)局を去らなければならず、今日が羽雀町(うざくまち)分局最初の勤務日なのだった。


「安桜山局から異動して参りました、日比野陸です。よろしくお願い致します」

  「よろしくお願いします」

「よろしくな!」

「私は幸坂文則、ここの局長をしている。よろしく頼むよ日比野くん」

 出迎えてくれたのは事務担当の静という女性と天沢と名乗る男性配達員だった。二人は簡単に挨拶を終えるとそれぞれの業務へと戻っていき、日比野と局長の二人だけが残された。

「君にお願いしたい仕事だけどね、日比野くん」

 幸坂は後ろ手に組んだままゆっくりと振り返った。

「はい」

「君にはタッグを組んで配達をしてほしんだよ」

「タッグ……ですか」

 配達業務なら入社してからずっとやってきたので自信はある。けれどタッグを組んでとは聞いたことがない。研修ということだろうか?

「天沢さんですか?」

「確かに天沢くんは優秀なうちの配達員だが、彼とは別の業務なんだ」

 別の業務……? 少し怪訝な表情を浮かべた日比野の反応を見て、幸坂はさも愉快そうに笑った。

「今からその相手を迎えに行こうと思うんだ。君はまだ羽雀に来たばかりだろう? 案内も兼ねてぜひ一緒に来てくれ」

「はあ……」

 日比野の反応も待たず、幸坂はいそいそと身支度を始めた。机上に置かれたアメ袋から数個つかみ取ると、そのままポケットへ突っ込んだ。

(迎えに行くって、これから俺がすることは結局散歩じゃないか)

 先ほど挨拶した一人で窓口業務を切り盛りしているという静を思い出す。のんきにお散歩をするくらいなら彼女を手伝いたい。以前の局では配達業務がメインだったが手伝い位ならやれるはずだ。一刻も早く新天地で活躍していきたいという気概ならあるのに。

 ――俺には通常業務も任せてもらえないということなのか。

 ふと顔を上げると、ジャンパーを羽織った幸坂が日比野を見つめていた。アメをつかんでいた茶目っ気の色はそこになく、すべてを見透かすような深いまなざしが日比野を射抜く。

「日比野くん」

 先ほどとは異なる、渋く重たい声。日比野は思わずひるんだ。

「人にはそれぞれ役割がある。同じ役割を果たすのみなら、何人も必要ないだろう? この仕事は君にしかできない仕事なんだ。よろしく頼むよ」

 言い終えると幸坂は破顔し、日比野の肩を叩いた。

「さあ行こうか。君のパートナー候補を迎えにね」

 いつの間にか日比野の手にはパイナップルキャンディが握られていた。日比野はアメを口に放り込むと、軽い足取りで幸坂の背中を追いかけた。


 *******


 日比野は隣町のアパートから原付バイクで通勤している。隣町のほうが大手ショッピングモールも複数の鉄道も通っており、何かと便利だったからだ。

 だから気づくのが遅れたが、羽雀町はかなり小さい町だ。最寄りの鉄道駅は隣町との境の位置にあり、町民の脚はもっぱらバスか自家用車だ。大きなショッピングモールはないが、その代わり商店街が栄えていた。カラオケボックス等の娯楽施設は少ないが公園や広場は随所にあり、子供たちの活気に満ち溢れ、町民たちの憩いの場となっていた。

 配達員は雨だろうと大雪だろうと関係なく毎日配達する。毎日外へ出ていれば人々の表情で町の様相もわかるものだ。日比野は郵便局に勤め始めてたった二年だが毎日配達していれば多少の感も働く。この町を訪れて間もないが、日比野はハッキリ感じ取ることができた。

(この町の住民たちは幸せそうだ)

 愛想がいいとはまた違う。なんというか、日々を営むことへの豊かさが深層から湧き上がっているのだ。人々の浮かべる表情や所作ももちろん、手入れされた木々や花壇、人々が行き交う道ですらも。表面的に取り繕っていては醸し出せない幸福感が満ち溢れていた。

「美しいだろう」

 幸坂が日比野の心を読み取ったかのようにいう。

「はい、とても」

「郵便業務をしていると人の心の温かさがよく分かるよ」

「ええ、本当ですね」

 日比野が頷くと、幸坂は目を細めた。

「君はこの町でもっとわかるようになるよ」

 もっとわかるようになる。日比野は幸坂の言葉を脳内で反芻した。

 幸坂の言葉の真意を考えているうちに幸坂の足が止まった。目的地に着いたようだ。

 そこは図書館だった。2階建ての白くて四角い建物は古さが否めないものの、正面玄関の花壇の土は水をやったばかりなのかしっとり濡れて、色とりどりの花が光を浴びて水滴を輝かせている。奥にある駐輪場には多くの自転車が停められており、図書館に縁のない人生を送ってきた日比野にとってはこんなに利用者がいることに驚きを覚えた。

「彼女はここによく来るんだよ。……あ、いたいた」

 え? 彼女? まさか女性?

 動揺する日比野をよそに、幸坂は相手を見つけたのか前へ足を踏み出す。

「こんにちは、真奈美」

 幸坂の声と共にこちらに近づいてきた女性は……いや、少女か? 日比野よりも大分幼い。高校生くらいだろうか? 肩につく程度の長さの黒髪に、白いブラウスにベージュのジャンパースカートを合わせている。東京の繁華街の街頭インタビューで声をかけられている女子の姿と重なる、イマドキの女の子といった印象だ。

 真奈美と呼ばれた少女は図書館の入口からゆっくりとした足取りでこちらへ向かってきた。屋根の影から一歩踏み出す時、降り注ぐ日光に目がくらんだのか手のひらで顔を隠した。たどたどしい足取りで何とかこちらに向かってくると、ようやく真奈美の顔を捉えることができた。目の上で切り揃えられた前髪の下の瞳はどこかおびえた色が浮かび、薄桃色の唇は固く結ばれている。先ほど日比野がとらえた第一印象の10代の女の子にしては似つかわしくない表情だ。

「……幸坂さん。隣の人はどなたですか」

 鈴を転がすような声が震えている。懸命に声を振り絞っているようだ。俺、何かおびえさせるようなことをしただろうか……? 日比野は早速不安になった。

 真奈美と日比野双方の気持ちを読んだのか、慌てて幸坂が仲介に入る。

「そうだったな、いきなり会わせてごめんよ、真奈美。日比野くん、何も説明せず申し訳ない。真奈美は、その……」

 幸坂はそこで言い澱んだ。真奈美の前では言いにくいのだろう。

 幸坂の言葉の続きを日比野は何となく察することができた。真奈美は恐らく高校生くらいの年齢だ。そんな彼女が平日の午前に図書館にいる。学校に行っていてもおかしくない時間なのに……。

 そこで日比野は直感的に気づいた。目が合わないなと思っていたが、違う。真奈美は目を合わせられないのだ。目線が合っては離れるのを繰り返している。合ってすらいない。あー、なんとなくわかった。きっと彼女は相手の眉間に見ようとしている。目を真っ直ぐ合わせるのは難しいからか。中々賢しい工夫だ。

 ふと、遠い昔保育園の遠足で動物公園へ行ったことを思い出す。行程の一つでヒヨコを抱っこする機会があった。日比野は動物が苦手で、触れた瞬間雛が暴れだしたので思わず放り出してしまった。そんな日比野を飼育員のお姉さんは叱らずに優しくヒヨコとのふれあい方を教えてくれた。あの時のお姉さんはなんと言っていたか――


 ――まず、怖いと思っちゃだめだよ。ヒヨコさんにも君の怖いって気持ちが伝わってしまうからね。お友達になりたいって気持ちが浮かんで来たら、今度はヒヨコさんの目をじっと見てあげて。「お友達になりたいです」って目で伝えるんだよ。そしたらヒヨコさんにも気持ちが伝わるはずよ。


 日比野は思い切って真奈美をじっと見た。日比野に見つめられた真奈美はビクッと肩を震わせて、日比野に不安と警戒の目を向ける。あの時のヒヨコにそっくりだ。幼い日比野の差し出した手を拒み、小さなくちばしで攻撃してきたあのか弱い雛。


「日比野陸」

 突然の名乗りに真奈美は驚きの目を浮かべる。

「俺は日比野陸。この前羽雀町支局にやってきたばかりの25歳だ」

 真奈美は日比野の突然の自己紹介に怪訝な表情を浮かべながらも、真剣に耳を傾けている。


 ――ヒヨコさんに気持ちが伝わって思ったら、ゆっくり手を差しだしてあげてね。そしたらヒヨコさんのほうから来てくれるから、君は優しく包み込んであげるんだよ。


「俺はまだこの町に来て日が浅いから……というか今日が初日で、その、友達がいないんだ。だから最初の友達になってくれないか。……真奈美」

 そっと手を出す。真奈美は一瞬ひるんだが、差し出された手をまじまじと見つめると日比野の顔を覗き込んだ。上目遣いの瞳に小さなきらめきが映っている。

「……牧瀬真奈美、です」

 真奈美はたどたどしくも一言一句丁寧に言葉を紡ぐ。

「マキナと呼ばれることが多いです。……だから、日比野さんもマキナと呼んでくださるとうれしいです」

「ああ、よろしくな。マキナ」

 日比野の手に白く小さな手が重ねられた。ハンドクリームなどよほどの限りしか用いない日比野の乾燥しかけた赤くぞんざいな手とは異なり、みずみずしくしっとりとしたしなやかな手だった。普段郵便物しか触れない日比野の手には新鮮な感触だ。何となく緊張してしまう。……って、童貞じゃあるまいしこんな緊張してどうする、俺!

「いや、よかった。真奈美に友達ができて」

 様子を見守っていた幸坂が口を開いた。眉は下がり、溢れる感慨に耐えんとした目で二人を見つめている。日比野は慌ててマキナから手を放す。マキナも気恥ずかしそうに両手を胸元で合わせた。

「なぜ俺とマキナを引き合わせたんですか?」

 日比野が疑問を投げかけたと同時にそれが愚問であったことを察した。

「まさかマキナが俺のパートナー……?」

 マキナがはっと息をのむ。幸坂は日比野の答えを聞くと大きくうなずいた。

「そうだね、それをこれから話さなければならないな」

 幸坂がゆっくりとまばたきをすると、たちまち目の色が真剣さを帯びた。

「真奈美とバディを組んである特殊な郵便物の配達をしてほしい」

「は?」

「えっ」

 面食らった。出会ったばかりの少女と組む? ある特殊な郵便物? ……どこから突っ込んでいいのかわからない。

 驚いて「は」「ん⁉」「えっ……と⁉」と短い言葉を繰り返す落ち着きのない日比野とは対照的にマキナは目を落としてうつむき、左手は小さな丸い肩をそっと抱いている。

「……場所を変えよう。話は長くなりそうだから」


 *******


 三人は図書館からほど近い小さな喫茶店に入った。昔馴染みの常連客に愛されてきたのだろう、年季を感じるたたずまいだが、そのレトロ調が落ち着きのある雰囲気を演出していた。座り心地のよさそうな椅子と店主の趣味が感じられる本棚とマガジンラックがある。店内に漂う上品なコーヒーの香りが鼻孔をくすぐり、客を一層リラックスさせる。

 通されたボックス席の片側に幸坂に向かい合う形で日比野とマキナが座る。座って間もなく人のよさそうな初老の男性が3人分の御冷をもってやってきた。雰囲気からして店長のようだ。

「注文はいかがなさいますか」

 幸坂がメニューへ目を落とす。端正な筆致の手書きのメニューが味を出している。

「私はブレンドにしようかな。二人はどうする?」

「俺は……」

 俺もブレンドで、と言いたいところだが日比野はコーヒーが苦手だった。苦味がいまだに得意になれない。前の職場の上司は「大人なのにコーヒーが飲めないのか?」と煽ってきたから、その挑発に見事に乗ってしまいコーヒーが飲めるふりをしていたけれど美味しさはわからなかった。ビールもそうだった。男なのに一杯目から果実酒サワーに走るとよく女に笑われたものだった。そんなくだらないことで笑うような女には全く興味が持てないけれど。

「そちらのお嬢さんはいつものウインナーコーヒーでよろしいですか?」

「はい。ザラメもお願いします」

「俺もそれで!」

「ブレンド御一つウインナーコーヒーが御二つですね。かしこまりました」

「よろしくお願いします」

 男性は注文を取ると丁寧に一礼するとカウンターへ戻っていった。マキナも男性と同じくらい深々と頭を下げた。

 幸坂は驚いたようにマキナに尋ねる。

「よくここに来るのか?」

「はい。図書館の帰りによく寄ります」

 マキナが目を細めた。

「美味しいコーヒーを飲みながら借りた本を読むのがわたしの楽しみなんです」

 そう語るマキナの瞳は、朝露に濡れた葉のように穏やかにきらめいていた。今日一番の笑みだった。間近でその美しい横顔をみた日比野は思わず息をのんだ。

「真奈美は本当に本が好きなんだね」

 幸坂が感心の声を上げる。

「ええ」

 マキナは即答した。

「私はあまり本を読まなくてね。読もう読もうと常に思っているんだが、どうも忙しくてね。習慣化できている真奈美がうらやましいよ」

 マキナの表情が曇った。返事に少し詰まる。

「……読書しかすることがありませんから」

 上司だから悪くは言えないが、幸坂さんも案外不器用なんだなと日比野は思った。水を一口含む。結露した水滴がグラスを伝い日比野のシャツの袖を濡らしていく。

「ま、何か一つでもすることがあるっていうのはいいことなんじゃないか」

 何気なく放った一言だが、マキナが黒く深みのあるまなざしでこちらを見ていた。げ、期待されるほどの深い意味は含んでなかったな。しかし本音ではある。マキナにうまく届けばいいのだけど。

「読書のどんなところが好きなんだ?」

 日比野の困惑を察したのか、幸坂がマキナに疑問を投げかけた。助かったものの、その疑問はあまりに唐突すぎた。マキナの表情に日比野の困惑が伝染する。ここで日比野はようやく違和感の正体に気づいた。幸坂とマキナは、まるで会話の乏しい親子だ。幸坂は話をしたいのだけど会話のきっかけをつかみあぐねている。マキナもマキナで話すのが得意ではないからボールを投げ返せていない。幸坂のことが嫌いなわけではなさそうだが……。

 うーん、どうしたものかな。日比野が心の中でため息を漏らした時、先ほど注文したコーヒーが運ばれてきた。深く澄んだコーヒーの上に濃密なクリームがそびえたち、頂にはシナモンの雪が積もっている。コーヒーの芳醇さとシナモンの甘く深い香りは煮詰まった日比野の思考を融解した。

「これは美味しい」

 コーヒーカップを何度も口へと運びながら幸坂が感嘆の声を上げる。マキナもすくったクリームをコーヒーに浸しては口に運んで目を輝かせていた。

 三人がコーヒーの味に舌鼓を打っているさなか、マキナが突然つぶやいた。

「人々の営みを知るのが好きなんです」

 日比野は一瞬何のことかと考えてしまった。先ほどの幸坂の疑問とマキナは真剣に向き合っていたのだ。

 声は小さかったが、マキナの瞳は寒い日のストーブの火のように静かだが確かにきらめいていた。日比野はその温かさに惹かれるようにマキナの話にじっと耳を傾けた。

「本にはいろんな人物が出てくる……。フィクションでもノンフィクションでも、登場する人々には必ず『想い』がある。実際に彼らの声が聞けるわけではないけど、彼らに託された作者の考えを読み取ることならできる。そういった『想い』に思いを馳せるのが、とても、楽しい」

 楽しい、は幸坂の目を見て言いきっていた。自分の意見を言い切ったマキナは力が抜けたのか椅子に深くもたれかかった。

 (おもいにおもいをはせる、か。)

 普段全く読書をしない日比野だが、マキナの懸命な思いに何か惹かれるものを感じた。感心というのには何だか偉そうな気がするが、胸を打たれたのは確かだ。自分はマキナのように好きなものを誰かに伝えたいと思ったことがあっただろうかと、そう自分に問いかけてしまうくらいに。

「真奈美はそんなに『想い』に触れることを大切にしていたのか」

 幸坂は感情の読めない目でマキナを見つめていた。心を動かされたかのようにも見えるし、どこか悲しい色が浮かんでいるようにも見える。

 ごほん。

 幸坂が咳払いをした。日比野とマキナ、双方の背筋が思わず伸びる。

 深呼吸を一つつくと、幸坂は意を決したように話を切り出した。

「人々の考えを知りたいのなら、読書よりも最適な方法がある」

 ここで言葉を一旦切った。躊躇っているのだろうか。日比野とマキナは言葉の続きを待った。

「先ほどの話の続きだ。真奈美、日比野くんと郵便配達をやってくれないか」 

 マキナは「あっ」と歓喜の声を漏らしたが、すぐに難しい顔をして黙り込んでしまった。予想外の提案に驚くのは日比野もだった。

「ちょっと待ってください。何故配達が人々の営みや気持ちを知ることに直接結びつくんです?」

 疑問はたくさんあるが、まず聞きたいのはこの点だった。確かに郵便物は誰かへの贈り物ではあるけれど、でも何故それがマキナを勧誘するのと結びつく?

「日比野くんに説明しないとならないな。この町の特殊な郵便物の話を」

「特殊……?」

 日比野は首を傾げたと同時に、異動前に先輩に言われたある言葉を思い出していた。

(あれは俺が上司に歯向かった結果、羽雀町に異動が決まった時だったか)

 ――日比野、お前サセン先決まったんだってな。

 ――あーあ、おとなしく黙って見逃しとけば局長だって優しくしてくれたのによ。

 ……うるさい。

 ――変にでしゃばるからだよ。若気の至りってやつ? 痛いな~日比野。お前がそこまでガキだったとは思わなかったなあ、残念だよ。

 ……俺は何も間違ってない。間違いを指摘して何が悪いんだよ。

 ――ま、最後まで面白い奴だったよ。サセン先でも頑張んな。で、どこだっけ?

 羽雀。俺がそう告げたとき、笑っていた先輩たちの顔が硬直した。

 ――は、羽雀? あそこはやばいって。

 ――っは、はは。よかったな。お前にお似合いだよ。

 何がどうお似合いなんですか。

 先輩Aは――もう名前を思い出すことさえばかばかしい――目には怯えを宿したまま、唇に精一杯の皮肉を装い言い放った。

 ――羽雀は『出る』らしいぜ。変わり者のお前にぴったりだな。ま、せいぜい頑張れよ。

 その歯切れの悪い返事を日比野は怒りもせずただ冷静に聞き流していた。

 ああ、要するに――

 外部の人間は羽雀町支局のことを誰も知らないんだな。

 得体が知れないということは、人間にただならぬ恐怖を植え付ける。……そうか、だからあのジジイは俺を羽雀町支局に追いやったのか。自分の恐怖を取り除きたいから。

 ならば、やってやろうじゃないか。お前らが打ち勝てずにいる恐怖。知ろうとしないお前たち自身が生み出している恐怖。俺がわからせてやる。

「その郵便物の話、詳しく聞かせてください。……俺は、羽雀町支局の局員ですから」

 そんな不純な動機を胸に秘めながら、日比野はこの町に赴任したのだが。

 やがてこの野心も忘れ去ってしまうほどに、羽雀町支局における業務は純粋無垢そのものだった。

「我が羽雀町支局は私を含め四人が勤務している。日比野君が来てくれたから5人になったね」

 今日はたまたま一人お休みでね、と付け加える。

「四人⁉ そんなわずかな人数で業務をさばいているのですか」

「我が局では保険と貯金業務は行っていないんだ。郵便業務に特化している。便宜上支局とは名乗っているが、規模でいえば分室のようなものだね」

 そこまで説明して幸坂は少し眉をひそめた。

「こちらへ異動するときに説明を受けなかったかい?」

「受けませんでした」

 自分でも驚くくらい即答だった。少しかぶせ気味だったくらいだ。幸坂は日比野の表情から何かを察すると、「そうか……」とだけつぶやいた。きまり悪そうな幸坂を見て、日比野は少し申し訳なくなった。

「前の局の人たちは羽雀町支局のことを何も知らないようだったので、まあ教えられるものもなかったのでしょうね」

 考えるより先に口が動いてしまったな、と日比野は思った。後悔しても遅い。これではただの八つ当たりじゃないか。

 しかし幸坂は日比野の言葉を聞くとはっはっはと豪快に笑った。あまりに大きな笑いだったので、日比野の隣で黙って話を聞いていたマキナが日比野の服の裾をつかんだ。なんだその可愛い仕草は。無意識でやってるとしたら……マキナ、同世代の男にそれをやるのはやめたほうがいいぞ。

「いやあ……そうかそうか。そうだな、知らなくて当然だね」

 笑いが落ち着いていくのにつれて幸坂の目に真剣な色に移り変わっていく。何かが来る予感がして、日比野は緩まっていた表情をきゅっと引き締めた。マキナの指もいつの間にか膝の上でしっかりと揃えられている。

「我が局ではある特殊な郵便物を運んでいるんだ。これは我が局だけだ」

 特殊な郵便物。

「これ、マキナに聞かせていいんですか」

 内部の機密情報なのではないのか? 一般人のマキナに聞かせていいものなのか。

「ああ、大丈夫。真奈美にも大いに関係する話だからね」

 にっこりと微笑む幸坂。いや、幸坂さん。あなたは知らないだろうが若者の間ではそれを『暗黒微笑』と呼んでいるのです。日比野は教えたくなったが、幸坂に一切悪気はなくただの純粋な笑顔だと悟ってしまった。この人絶対マキナと働きたいだけじゃないか⁉

「それに、真奈美の母もこの仕事をしていた。……真奈美、君も少しは聞いているんじゃないのか」

「……はい」

 マキナの表情がこわばった。何かを恐れているようだ。母との間に何かがあったのだろうか。

「我々羽雀町支局に与えられた特別な業務とは、羽雀町の住民の『想いのカタチ』を届けることだ。それを我々は便宜上『ノーツ』と呼んでいる」

「のーつ……」

「ノーツ。Notes。覚書や短い手紙など、『記されたもの』という意味を持つ英単語です」

 すかさずマキナのフォローが入る。大いに助かったが日比野は少し情けなさを感じた。

「それは手紙とは違うんですか?」

「用件を他人に伝えるという意味では同義だ。ただし文書ではない」

 文書ではない……?

「ならばそれは荷物ということでは」

「荷物とも違う」

 それではなんだ……? ノーツとやらの実態をつかみあぐねている日比野の横で、マキナが凛とした声でつぶやいた。

「実際にお見せしたらよいのでは」

 マキナの声が引っ掛かった。お見せする、とは。

「そうか、なるほど。私がノーツを生みだせばいいのか。……うん、できそうだ」

 納得した表情の幸坂はマキナと目を合わせた。マキナはゆっくりと大きくうなずいた。先ほどから置いてけぼりの日比野は少し不服な表情だ。

「ノーツとは思いが形になったもののことです」

 日比野の心を読み取ったかのようにマキナが呟いた。

「手紙との違いは、自分の中から実体として生み出せる点です」

「自分が生み出す……?」

「ええ」

 日比野の頭の中に出産のイメージが浮かんだ時、幸坂が大きく深呼吸をした。息を吸い込む深さで幸坂が相当集中しているのがわかった。まだ聞きたいことは山ほどあったが、日比野は口をつぐみ幸坂の邪魔をしないように配慮した。

「ノーツを生みだすのは久しぶりだからうまくいくか不安だが、やってみよう」

 幸坂がゆっくりとまばたきをしたその瞬間、日比野は耳の後ろを掻き撫でていく風が吹き抜けていくのを感じた。いや、風ではない。テーブルの上の紙ナプキンは静止している。ならばこれは何だ? あえて言葉にするとしたら、幸坂の持つ『気』なのだろう。心地よいような、寒気のするような、感じたことのない『気』の流れの中心に幸坂がいる。あるいはこの空間の全ての『気』が幸坂を中心として集まっているのかもしれない。

 幸坂は目を瞑ったまま規則的な呼吸を続けている。日比野は声が出なかった。出せなかった。自分の余計な一言がこの空気を壊してしまいそうだったからだ。日比野は余計な詮索をやめ、ただただ幸坂の『気』の流れに身を任せた。それは海の凪のように静かな躍動で、これが幸坂の感情の表れなのだと日比野も自然と理解した。

 閃光、陰った太陽が顔をのぞかせた、来光。

「……ッ!」

 日比野は思わず目を閉じた。光が瞬いているわけではない。目にゴミが入ったのではないのだけれど、何かが飛び込んできたかのよう。あるいは、何者かが日比野の瞼を閉じたかのように、目を閉じずにはいられなかった。

 何度かまばたきを繰り返し、ようやく目が開けられるようになると、少し疲れた顔をした幸坂が日比野に向かって微笑んでいた。マキナは無言のままだが、その額には少し汗が浮かんでいる。

「今のは……」

 幸坂は日比野の疑問には答えず、二人の間にあるテーブルへ視線を移した。

「こんな形になって生まれるとは想像つかなかったな。やはりノーツは興味深い」

 生まれた? ノーツ? まさか今のが? 日比野ははっとして幸坂の視線の先を追いかけた。そこには、

「ノート……?」

 テーブルの上には美しい光沢の表紙のノートが置かれていた。まさに店舗で購入したばかりといったそれは、さっきまでここにはなかったはずだ。……幸坂がこれを生みだしたというのか? 

「どうやら日記帳のようですね」

 それまで黙っていたマキナが、日比野が解読を諦めた表紙のオシャレな筆記体を指さした。よーく見ると、『365Days NoteBook』と書いてあった。何だ、意外と簡単だったのか。ちゃんと読めばよかった。またもやマキナに助けられてしまった。

「これが幸坂さんのノーツです」

 マキナが淡々と説明するが、その目はまっすぐ幸坂に向けられている。その視線を受け止めた幸坂は襟を正すと、こほんと一つ咳払いをした。

「誰かに伝えたい、届けたいという想いがカタチになって外へと現れたもの、それがノーツだ。ノーツは多種多様、人や想いの性質によってその姿かたちは異なる。今回の私の場合はたまたま日記帳だったということだね」

 幸坂が慎重に言葉を選びながら日比野を教え諭しているのが伝わってくる。日比野は幸坂の話に耳を傾け懸命についていくが……。

(いや無理だろう⁉)

 日比野は叫びだしたくなるのを必死でこらえた。こらえるだけの理性くらい日比野にもあった。正直馬鹿げた話だが、幸坂もマキナにも冗談の欠片もない。それに日比野自身も感情の胎動を先ほど体感してしまった。あれが夢だとは到底思えない。

 幸坂は何とか飲み込んでほしいと懇願しているような眼だが、マキナはどこかあきらめたような冷めた表情をしている。誰にも期待していない、けれど瞳の奥に寂しさがゆらゆら揺れている。日比野にはこの表情に見覚えがあった。そして今マキナがどんな気持ちでいるのかも――

「そんな能力初めて聞きましたけど」

 混乱のさなか訝しげに日比野が尋ねると、意外にも幸坂は嬉しそうに軽やかに笑った。

「それはそうだろう。羽雀町の町民だけが持っている能力だからね」

「えっ」

 驚きつつも日比野はついに察した。前の職場で先輩たちがやけに羽雀町支局を気味悪がっていたこと。それにしては羽雀町支局のことについて何も知らないこと。赴任した羽雀町支局はわずか4人しか勤務しておらず、郵便業務に専念していること……。

「まさか羽雀町支局の業務ってもしかして」

 幸坂が大きくうなずいた。

「そう、ノーツの配達だよ」

 思わず絶句する日比野を見て、マキナがくっくと腹を抱えて笑い出した。

「な、なんだよ!」

「だって日比野さん、開いた口が塞がってないですよ。驚いた人って本当に文字通りそういう表情をするのですね」

 からかわれているのだろうか? しかし純粋に笑うマキナを見ていると日比野は不思議と悪い気はしなかった。先ほどまでのパニック状態が解け、少しずつ落ち着きを取り戻せてきた。自分の頭の中を整理する。

「ノーツは郵便物扱いなんですね」

「そうだ。先にも言ったがノーツは人の『相手に伝えたい思い』から誕生したものだ。つまり相手に届かないとノーツは意味をなさない。そこで登場するのが我々郵便局員というわけだ」

 誇らしげに胸を張る幸坂に、日比野は率直で残酷な疑問をぶつけた。

「でもそれ、直接渡せばよくないですか」

 幸坂の笑みが一瞬ぴたりと止まった。しまった、と日比野は思った。そんな日比野の表情を読み取って、あくまで幸坂は柔らかく微笑む。

「誰もが自分の気持ちを面と向かって相手に話せるとは限らないだろう?」

 幸坂のあたたかくも重厚な言葉は、日比野の胸深くに響いた。日比野は思わず黙り込んでしまった。

「もちろんこうやって相手に直接渡すこともできるけどね」

 幸坂が先ほど生み出したノーツ――日記帳をマキナに差し出した。

「本当ならラッピングでもしたかったが、そのまま出てきたということは私が恥ずかしがったということかな」

 幸坂は照れくさそうに鼻の下を掻いた。

「真奈美、受け取ってくれるかい」

「もちろんです。ありがとうございます」

「私のノーツに秘めた想いも言葉にしてくれないか」

「……それは、」

 言いかけた言葉はきっと幸坂の期待に反するものだったのだろう、嬉しそうだったマキナの表情が曇った。

 二人の間のわずかな緊張を感じながら、日比野は恐る恐る抱いた疑問を口にする。

「幸坂さん、言葉にするとはいったい」

 幸坂が口を開こうとした瞬間、マキナの唇が静かに動いた。

「わたしの能力なんです」

「能力……?」

 首をかしげる日比野と、うまく言葉が続かないマキナをフォローするように幸坂が口を挟んだ。

「羽雀町民は想いを形にする、つまりノーツを生みだす力を持っているとは先ほど説明したとおりだ。ノーツは実体となって現れるから通常、そこから送り主が込めた気持ちを認識することはできない。この日記帳のようにね。だから気持ちを相手に伝えるためにはメッセージカードを添えるしかない。しかし実は生み出されたノーツから込められた想いを読み取ることもできるんだ。生み出す力とは対となる力だね。ファイルを解凍するのに近い。ただし、この能力を持つ者はごくわずかだ。人口の0.01%と言われている。私もこの町の出身だが、二人しか出会ったことがない」

「そのうちの一人が……」

「真奈美だ。もう一人は真奈美の母親だ」

 001%⁉ マキナお前レアキャラじゃないか! 有名人に遭遇した時のように興奮を覚える日比野に対し、マキナは唇をきゅっと結び何かをこらえているようだった。そんなマキナを見て、日比野は沸き上がった興奮を鎮めると、鼻から息を大きく吸い込んで両腕を組んだ。

「あんまり嬉しそうじゃないんだな」

 マキナがはっと顔を上げて日比野を見た。見上げる琥珀の瞳には動揺の色が滲んでいる。ついそのまま思ったことを口に出してしまった。ばつが悪いな。しかし一度口に出してしまえばもう戻れない。日比野はマキナの様子を見ながら言葉を選んでいった。

「いや、別にお前を責めるとかじゃないんだけど、そんなすごい力があるなら喜んで使いたくなるんじゃないかなって。俺だったらそう思うけど」

「……」

 マキナが黙り込み、日比野から目線をそらす。これは迷っている目だ。きっと言いたくない何かがあるのだろう。だけど――

「あんまり乗り気じゃないところ悪いんだけどさ、幸坂さんの頼みだけは聞いてくれないか。いや、無理してやる必要はもちろんないけど。でも、お前と幸坂さんは昔からの知り合いなんだろう? きっと幸坂さんも事情を知ったうえで何か考えがあって頼んでるだろうしさ」

 ひとつ、大きく深呼吸をする。

「だから、頼む」

 日比野の言葉をマキナはじっと見つめて聞いていた。幸坂ははっと息をのみ、「すまないが、頼む」と不器用につぶやくと頭を下げた。

 しばらく間があった。マキナは自分に向けて下げられている二人の男の頭部を見て、大きく溜息をついた。

「もうわかりましたから……幸坂さんも日比野さんも頭を下げるとかやめてください。大の大人が女子高生に頭を下げるなんて、なんだかこちらが悪い気がしてきます」

「わ、わかった。すまない」

 慌てて顔を上げる幸坂と、眉をひそめたマキナがまるで思春期の親子のようで思わず笑ってしまう。

 マキナは贈られた日記帳を胸に抱き、目を閉じて大きく深呼吸をした。かすかに目を開き、先ほどまでの少し呆れの混じったはにかんだ女子高生の声とは打って変わった、凛とした清流のような声を響かせた。

「では、行きます」

 日比野は思わず息をのんだ。マキナの纏う雰囲気が大きく変化するのを感じた。マキナを起点に周囲の『気』が大きく、静かにうねり始める。

 マキナは再び目を閉じて、ゆっくりと日記帳の表紙を撫でた。それは穏やかな時間だった。音も空気も光もすべてが無に戻るような、時間の流れがゆったりとたゆたう心地の良い『気』の海に三人は包まれた。

(想いを受け止めるってのは、こういう優しさで包みこむことなのかもな)

 春の木漏れ日のような暖かさを全身で感じながら、日比野はふと確信した。

「あなたの想い、受け取りました」

 マキナがにっこりと幸坂に笑いかける。その笑みは十代の少女というよりも春に愛された優美な大人の女性のものだった。正面から受け止めた幸坂は、目を細めてその笑みに応える。二人の間の心と心が通じ合った時にできる桜色の『気』の気配は、日比野が安堵するとともに嫉妬や羨望すら覚えるほどの美しいものだった。

 口を開いたのは幸坂だった。

「自分の思っている言葉を口にするのは大変だな。文書を作成するのは慣れているはずなのに、自分の事になると途端に書けなくなる」

 自嘲気味に笑う幸坂をマキナは目をそらさずに黙って聞いている。

「私の気持ちはちゃんと形になっていたか」

「はい」

「……真奈美、君にちゃんと届いただろうか」

「もちろんです」

 マキナの返事を聞くと、幸坂のこわばった身体の緊張が一気に緩んでいった。気づかぬうちに緊張して震えていたようだった。先ほどの自分の声。自分でも情けないほど弱弱しい声だった。日比野が心配そうな目を向けてきたくらいだ。こんな姿を見せるはずではなかったが、言い換えればそれだけ自分は今本気なのだということだ。

 日比野に言わせるくらい無理して真奈美に能力を発動させるつもりはなかった。文章は苦手だが、直接手紙に認めればよかったのだ。しかし幸坂にはどうしても真奈美に自身の持つ能力の可能性を信じてほしかったのだ。なぜならば――

「私のノーツにはどんな想いが現れていたか、教えてくれないか」

「そんな個人的なもの、いいんですか」

「構わない。これは日比野くんに羽雀町を知ってもらうための実験の一つだからね」

 マキナがちらりと日比野のほうを向いて、何故だか顔を真っ赤にして目をそらした。……なんだよ、いじらしいな!

「俺じゃなくて幸坂さんを見ろよ」

 唇をへの字にして、マキナがムムムとうなる。

「結構恥ずかしいんですよ。言葉にするのって」

「はは、そこのところをどうにか」

「……幸坂さんって結構いじわるですね」

 観念したように大きな溜息を一つこぼすと、背筋を正して言葉を紡いだ。年相応の少女と春の柔らかい日差しのような麗らかな女性、神秘的な能力者の一面、いくつもの人格がマキナの中に存在しているようだ。表情がくるくる変わって、目が離せない。

「想いというより願いでした」

「願い、ね」

「はい。言葉にするなら……そうですね……『このまっさらに日記帳に真奈美はどんな日々を綴るのか。楽しみにしているよ』、こんな感じでしょうか」

「その通りだ。その日記帳に君の未来を記してやってくれ」

「ありがとうございます……!」

 マキナの回答を肯定するように、幸坂が大きくうなずいた。幸坂の首肯を見届けたマキナは、「ほわぁ~~」と気の抜けた溜息を吐き、日記帳を抱えたまま顔を隠すようにその場にうずくまった。先ほどまでの真っ直ぐ背筋を伸ばした美しい佇まいはどこへやら。やっぱり10代の女の子なんだな。へえ、ちょっとからかってやるか。

「幸坂さんよりお前のほうが恥ずかしがってるじゃん」

「しょうがないじゃないですか!だって……」

 むきになって返すところがまだまだ子供だな。日比野はしゃがみ込み、マキナと視線を合わせて彼女の言葉の先を尋ねた。

「だって?」

「だって、わたしは読み取ることはできてもその人が込めた言葉をそのまま一言一句すくいだせるわけではないんです。だからバラバラになっている言葉をつないで再現することしかできない。点と点を線でつなぐといった感じでしょうか」

「私の想いを真奈美が脚色してくれたのか。なかなか美しい表現だね」

 幸坂の率直な褒め言葉に、マキナは再び顔を赤らめた。結構な恥ずかしがり屋だと思っていたが、おそらく彼女は褒められることに慣れていないのだろう。日比野は直感的に察した。

 照れくささが収まらないのか、いまだ顔を押さえたままのマキナを幸坂は笑って見守っていたが、やがて真剣な表情に変わった。

「真奈美」

「もう力は使いませんよ」

「改めて問う。ノーツの配達をやってみないか」

「……」

 相変わらず迷いの表情だが、先ほどとは別の意味を含んでいる。拒絶ではなく、自分の内面から起こる葛藤に囚われているようだ。その葛藤の根源とは何だろう。

「君の能力は人を幸せにすることができる素晴らしいものだ。だからその力を使って、人々の想いを届けてくれないか」

 幸坂がまたも深々と頭を下げた。マキナは無言で立ち上がった。その表情に照れ屋の面影は一切なく、初対面時の冷たく感情のない表情が浮かんでいた。

「……できません」

「……どうして」

「なるべく人と関わりたくないんです」

 幸坂の表情が悲しそうにゆがんだ。マキナは内面の動揺を鎮めるかのように右手の手首を強く握りしめながら続けた。

「この能力は人を幸せにすると幸坂さんは言ってくれましたが、同時に不幸も生み出すのです。言葉は人を傷つける。人の気持ちを勝手に読み取ってわたし自身の言葉に置き換えるなんて身勝手すぎる。ただの傲慢です。わたしは神様にでもなったつもりなんですかね」

 嘲笑うように吐き捨てられた最後の言葉は、きっとマキナが誰かに言われた言葉なのだろう。乾いた笑いを浮かべるマキナの目の奥は、どこか遠くを見ていた。

「母も同じでした。親切心から人の心を届けていたのに結局迷惑がられて、挙句の果てに気持ちが悪いと忌み嫌われて、母は居場所を失ったんです。幸坂さんもご存知でしょう?」

 ……そうだったのか。思わず日比野は幸坂を見る。幸坂は黙ってマキナを見つめていた。ばつの悪そうな顔でも、無理に説得するような様子でもなく、ただ無言でマキナを見守っていた。

 二人の間に立つ日比野は、意外にも冷静にこの状況を判断していた。このようなセンシティブな事情が絡んだ、独特の緊張感を交えた曖昧な駆け引きに日比野は慣れていた。それは前の職場での反省からでもあるし、彼自身にも心当たりのある事情があったからだった。

(幸坂さんは無理にマキナを引き込もうとしたわけではないはずだ)

 マキナの母親の事情を知っているのだとしたら尚更そのような残酷なことを提案するはずがない。親切心のすれ違い。それだけはやってはいけない。幸坂にとってはもちろんだし、マキナが一番恐れていることだというのは先ほどのマキナの言葉が証明している。

(マキナのためを思ってやっているのであれば……)

 マキナの望み。それは何だろう。日比野はマキナをじっと見つめた。今はすっかり悲しみの底に沈んでしまっている彼女が、今日一番生き生きとしていた瞬間はいつだっただろうか。ウインナーコーヒーを前にしたとき? あの顔も輝いていたけれど、もっと印象的な表情があったはずだ。思い出せ、俺……。

 ――彼女はここへよく来るんだよ

 そこで俺はマキナと出逢った。

 なぜそこに彼女はいたのか?


 ――人々の営みを知るのが好きなんです


「……あ」


 突然思い出したように声を上げた日比野に、二人の目が向けられる。緊張するが、沈黙を破ったものには語る責任がある。日比野は大きく息を吸って自身の考えを話し始めた。

「マキナはどうして図書館に通ってる?」

 突然の質問にマキナは戸惑った。質問の意図がつかめないまま恐る恐る言葉を返す。

「本が好きだから……」

「どうして本が好きなんだ?」

「それは、」

 マキナは再度同じ質問を投げかけられていることに気づいた。しんとした教室で先生に指名された生徒のように、緊張に打ち勝ちながら勇気を振り絞って答える。

「登場人物に託された作者の『想い』を読み取るのが楽しいから……」

 話しているうちにマキナも気が付いたようだった。マキナの反応を見て、日比野は大きくうなずいた。

「それがお前の本当の気持ち、そして幸坂さんの願いなんじゃないのか」

 マキナははっと息をのみ、幸坂を見た。幸坂はそんなマキナを少し恥ずかしそうな、しかし寛大なまなざしで彼女の視線に応えた。

「幸坂さんの願い……」

 幸坂はマキナが図書館へ足繁く通っていることを知っていた。きっと、マキナのこの強い欲求の矛先が本だけに向かっていることを危惧していたのだ。

「真奈美、君の能力は本当の望みをかなえるための力でもある。それにどうか気づいてほしい」

 マキナの瞳が一瞬大きく見開かれてキュッと縮み、輝きが見え隠れする。何かを言いかけてすぐに言い澱む。きっと心のどこかでは気づいている。望んでいる。あともう少しだ、頑張れ。

 幸坂は祈るようにマキナを穏やかに見つめている。祈りとは、相手が自身の幸せのために動き出すことを待ち望むことなのだ。だからこそ信頼関係がないと祈ることはできない。幸坂はマキナを信じている。マキナが一歩踏み出すその瞬間をずっと前から祈り続けていたのだ。

 ……しかし日比野は幸坂のように落ち着いてその瞬間を待ち望むことはできなかった。ハラハラして、もどかしくて、耐えきれずに自分から迎えに行ってしまった。これが彼の未熟さでもあり、良いところでもあった。

「まあすぐにやろうとすると疲れるから少しずつやっていこうぜ。俺もこの町にきたばかりだし、配達がてら町案内してくれよ」

 マキナの返答を待たずに話を進めてしまった日比野に、幸坂は少し苦笑いを浮かべながらマキナに尋ねた。

「どうだね真奈美。日比野くんと組んでくれるかな」

 まるで告白をするかのようにもじもじしながらマキナが小さな声で、しかしはっきりと芯のある声で答えた。

「はい、よろしくお願いします」

「ああ、よろしくな! マキナ」

 日比野が右手を差し出した。マキナはその手をまじまじと見つめながら、顔を上げて日比野と目を合わせる。日比野が大きくうなずくと、マキナは晴れやかな笑みを浮かべてその手を強く握り返した。

(END)



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